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散華

作者: 鵜川 龍史

 雨に艶めく路面を滑るように接近してくるライトに気づいていながら、それを無視して通りに下り立った僕を現実に引き戻したのは、星のない夜空に爪を立てるクラクションの音だった。不快を表明するようにエンジンが唸るのが聞こえるが、去りゆく音に僕の心は動かない。コンビニの灯りがかろうじて届く場所にしゃがみ込んで、そこに死んでいる花を見つめた。濡れそぼった花弁は、救いの希望を失ったようにうなだれている。

 今朝、天気予報を無視して、傘を持たずに家を出た。雲ひとつなかったはずの晴天は、昼食の時間からこっち、黒々とした雲に覆われ、帰りの電車に乗る頃には窓に打ち付ける雨粒を睨まなくてはならなくなった。ビニール傘を買うか、三十分待ってバスに乗るか――といっても、バス停は家の近くにあるわけではなく、雨の中歩く時間が十五分から五分に短縮されるに過ぎない。財布を開き小銭入れを揺する。まばたき二つ、迷いを祈りに切り替えると、往来を歩き始めたのだった。

 太腿に張り付いたズボンをつまんでしゃがむと、その花はアスファルトの上でのされ、所々は黒い石に体を刺し貫かれている。雨粒が僕たちの体を打ち据える。空を睨みつけると、目に雨水が入って頭を振った。

 薄暗い光の元でははっきりしないが、花弁は南国の植物のように肉厚で、官能的に見える。手を伸ばそうとすると反対車線でクラクションが鳴る。顔を上げると赤いミニバンが止まり、コンビニから出てきた女子高生が通りを横切った。

 あの日もクラクションは鳴り響いた。僕は傘を持っていなかった。そして、傘が一つ、宙を舞った。

 三月中旬、冬の名残が強く出た、冷たい雨の日だった。三日続いた春の陽気にすっかり気をよくした僕は、天気予報の忠告を無視してコートを着ずに出かけたのだ。震えても震えても体温が失われていく。服の上から体をこするが、水風呂に入っている気分になっただけだった。

 祈りの届かない空を恨みつつ、コンビニで傘を買うか悩みながら、成人雑誌の並びを外から眺めていると、店員が傘立てを店の中に入れながら、水を滴らせた僕を睨みつけた。そんな体で店の中に入るなよという牽制にも、傘立ての傘を盗むなよという警告にも見える。ビニール傘を買うという選択肢は、この瞬間に失われた。この店員に金を渡すぐらいなら、その倍額を払ってでもバスに乗る。

 振り向いて、もう少し道を行ったところにあるバス停を見る。屋根もなく、ベンチもない、小さなバス停だ。どうせ乗るなら駅から乗ればよかったのに、とはその時は思わなかった。そのくせ、そのバス停に人がいることに対しては、駅から乗ればいいのになんでそんなところにいるのだろう、と感じた。きっと、コンビニに用事があったのだろう、などと思いながらバス停に向かおうとした瞬間、エンジン音が右耳を猛スピードで駆け抜け、クラクションが鳴り響いた。

 雨は強かった。そして、コンビニの灯りの他には、何軒かの家の二階の電気がうすぼんやりとともっているだけで、通りは一帯に暗かった。その車にはバス停から人が飛び出してきたのが見えなかったのだろう。咄嗟にナンバーを確認しようとしたが、雨がひどくて読めなかった。

 傘が吹き飛ぶ様子は、車越しに見えた。古い映画のワンシーンみたいに、回転とスローモーションを用いて、その決定的な瞬間をありがちな物語へと演出していく。僕の時間はその時止まった。僕の脇を駆け抜けていったのは、さっきのコンビニの店員だった。車は歩道に寄せられ、運転手が電話をし、店員は店と車の向こうとを往復した。僕は、テレビの向こうの出来事を見るように、半ば感心しつつ、半ばあきれつつ、店員の忙しなさを観察した。

 僕の時間が再び流れ始めたのは、車の下に水たまりが見えたからだ。雨足が強まるにつれて、駅に向かって緩やかな下り坂になっている道路を激しく下っていく雨水の時間に抵抗するような、その重苦しい液体の広がりに、傘に比べるべくもない強い演出を感じた。

 記憶の中の光景が、地面に磔にされていた花弁を手に取らせた。杭と化したアスファルトから、五枚の体を引き離していく。敬虔な信者――いや、それは外科医の手つきだ。途中、雨粒に肩を叩かれたような錯覚を覚え、何度も背後をふり返りながらも、救い出されたその花を上着の胸ポケットにしまう。高鳴る胸は、体を内側から揺さぶり、その緊張と昂奮が花に伝わらないか心配だったので、僕は家まで全力疾走した。


     †


 少女は頬を伝う水滴を拭いながらバス停に立っていた。夕方から降り始めた雨は一向にやむ気配がなく、ようやく咲き始めた梅の花は、北風に手ひどい歓迎を受けていた。少女もまた、赤いスプリングコートの前をしっかり合わせ、居座る冬をやり過ごそうとしていた。

 少女は傘を持っていなかった。といっても、この風の中、少女の力では傘を開き続けることはできなかっただろう。線が細いからではない。彼女は幼かった。

 あるいは、こう言うべきかもしれない。彼女にはもう傘がなかったのだと。

 救急隊員が忙しなく動き回る中心で、一人横になっている体がある。その遥か向こうの暗がりに、かろうじて傘の形を保った物が、ゴミのように転がっている。赤色灯に燃え上がるアスファルトの上で、荼毘を待つかのように静かに眠る体は、隊員の呼びかけに応じることもなく、春を先取りした新作のコートをはだけられても、お気に入りのワンピースの前を切り裂かれても、抵抗はおろか身じろぎ一つしない。せめて胸元のコサージュだけは、と少女が祈る中、担架が視界に割って入り、コサージュもコートも消えてしまった。

 隊員が目に入る雨を拭いながら、少女をうかがう。何を聞かれているのか分からない少女は後ろを見ると、そこに大きな男が立っていることに気がついた。隊員とやり取りしていたのがこの男であることを理解すると同時に、この男が自分の父親であり、自分が彼の乗っているバスを待っていたのだということを思い出した。

 父親は何度か首を振り、たまに頷いた。マウンドのピッチャー――それを少女は、父親が見るテレビで知っていた。父親はピッチャーがどんな球を投げても、いつでも首を振った。彼が甲子園を目指す高校球児だったことを母親は度々自慢した。そんな時、母親は自分もまた吹奏楽部でクラリネットを吹いていた時の顔をした。少女は首を振った。

 救急車は二人を置いて去っていった。

 家に着くと父親は、少女に一人で食事ができるか、一人で風呂に入れるか、一人で眠れるか、矢継ぎ早に質問した。少女はわがままを言った。父親はなだめた。少女が本当は、何でも一人でできることを知っていたからだ。少女は父親がそれを知っていることを分かっていた。だから、この機会に思いっきり甘えてやろうと思ったのだ。靴を履いたまま玄関から家に上がろうとしない父親の首に飛びつき、びしょ濡れのワンピースが父親のびしょ濡れのスーツに張り付くのを楽しんだ。背中に回された大きな手の平が二度叩かれると、少女は一層力強く抱きついた。胸元に押し付けた顔に、雨水が広がる。それは、父親が彼女の部屋を去る時の合図だった。もう寝なさい。週に二三度、母親ではなく父親が少女の眠りにつきあう日があった。それがどういう意味を持つのか、少女は知っていた。音を立てないように閉じられた扉に、息をつめて耳を押し当てた。

 もうあの人の体は、使い物にならない。女はおろか、人間ですらないんだよ。

 父親は去り、帰って来た時には若い女を伴っていた。新しいお母さんだよ。前のお母さんはもう使えないので焼いてきたよ。

 若い女の顔は、母親そっくりだった。どこかに保存しておいた十年前のコピーを温め直したみたいだ。少女は新しい母親のすねを蹴り飛ばした。義母は笑顔で少女を抱き締めた。髪の毛にも首筋にも女の匂いが染みついていて、大声で叫んだ。近所の誰かが助けに来てくれることを望んだが、誰も来なかった。

 玄関の新しい靴に、少女は色々なものを入れた。最初の頃はご飯やジャム、死んだカエルやセミの抜け殻といった他愛のない物だったが、義母がそれに慣れるにつれて、針や画鋲やカッターの刃といったものに変わっていった。義母はむしろ機嫌がよくなった。靴が汚れなくなったからだ。義母は食卓で、その変化を嬉々として父親に語った。少女は、母の死以来くすみ続ける銀のフォークを義母に投げつけると、靴に物を入れるのをやめた。

 いたずらをやめて気づいたことがある。それは、義母が決して靴を揃えないということだ。母はきちんとした人だった。銀の食器を磨くのを怠ったこともないし、食卓の花が絶えたこともない。もちろん、玄関が乱雑になっていることなど許せない人だった。少女の靴が揃っていないことがあると、素足で学校に行かせた。足の裏に怪我をして帰ってくると、血が止まるまで玄関に座って足を上げていなくてはならなかった。

 何してるの。

 靴を揃えるのを忘れたから。

 義母はタオルを濡らして持ってきた。少女の左足を摑む。引き抜こうとするが義母の力は強く、右足を蹴り上げる。爪先が義母の額を捉えたが、握る力は弱まらない。少女はむっとして義母の顔を見てしまう。それは母親の顔そのものだ。似ているとか面影とかそういうことではない。少女が求め続けた優しさと慈しみに満ちた母親がそこにいた。あの女が死ぬまで見せなかった表情が、その顔に張り付いていることに混乱した少女は、その手を引っ搔いて、玄関から逃げ出した。足の裏は痛くはなかった。傷の痛みなど、気にもならなかった。


     †


 部屋の中のガラクタを蹴り飛ばして端に寄せると、中心に花弁を並べた。両手で包み込むようにしてその体を見つめる。傷の中に広がる暗さが、花弁の官能的な厚みを薄っぺらな感傷で侵そうとしている。アスファルトの刺々しい表面とその上を滑るタイヤの野卑な回転が、その命を奪ったことに改めて怒りを覚える。

 貫かれた空隙の縁を指先でほぐし、穴を埋めていく。薄くちぎれそうな破れ目を、静かに静かに延べていく。彼女が痛みを感じることはないと分かっていても、僕の体がそれを感じることは止められない。花弁の代わりに僕の血が流れ、僕の喉がうめく。

 応急処置が終わると、僕はその周りに葉を並べた。花を飾るためではない。花にとって葉は服ではなく口だ。そこから呼吸をするのだ。生物の教科書に載っていた気孔を思い出す。その形に劣情を催さなかった男子はいない。だから、後に園芸部の部長になる彼女は、男を毛嫌いしていた。命を敬えと、男の欲望で矮小化するなと。

 にもかかわらず僕と彼女が親しくなったのは、僕の花に対する愛情のゆえ。いや、二人の間にあったのは親しさとは別の、ましてや恋や愛といったものからは、遥かに遠いところにある結びつきだったと言っておかなくてはならない。心の中で彼女のことをそんな風に考えるだけで、首筋に白刃を感じる。

 僕は公園で花を摘んでいた。彼女は僕にそれをやめるように言った。花を愛するなら、それを育てろと。その方法を教えてあげると言った。園芸部の部員は同じ学年にいなかった。だから、それは単なる勧誘だったのかもしれない。それでも、僕は彼女に従った。花を育てることに興味は持てなかったが、彼女は花よりもずっと魅力的だった。いや、誤解を招く表現だ。彼女は、花の中で最も美しかった、と言えば正しく伝わるだろうか。それは、確信に充ちた美しさだった。自らのあり方を全的に肯定しつつ、それを当たり前のこととして周囲に示す。

 花は、自分が美しいことに疑問を感じたりしない。引け目を覚えたりしない。ただ、美しくあるようにあるだけ。

 だから彼女はいつでも一人だった。体育の時間も、美術の授業も、二人一組のあぶれ者。クラスの人数は偶数だったのに、必ず一人で校庭や美術室の隅に陣取って、先生に向って誰とも組みませんのポーズ。もう一人のあぶれ者である僕は、自分よりも十センチ以上背の高い先生と背中を合わせる。三十歳以上老けた顔を描く。その関係は園芸部に入った後も続いた。

 どうして、自分より醜い人に合わせないといけないの。

 それがクラスメイトを指すのか、僕のことを指すのか、先生のことを指すのか、最後まで分からなかったが、中三になっても同じクラスだった時に、ああ僕はまたこの人に見下されて生きていくのだ、ということに気づき、腹の底に温かい水が溢れるのを感じた。

 ある時、部室に木の枝を大量に持ってきたことがあった。それを学校中の木に接ぎ木するのだという。本で見たやり方とは随分違ったが、彼女の目的は単なる繁殖ではなかったのだから、気にする必要のないことだった。夕方、校庭に響き渡る野球部の気合の入った声に毒づきながら、作業は全体で一週間にも及んだ。それが何の木かは最後まで教えてもらえなかったが、数年後に得体の知れない虫が大量発生したという顛末は、園芸部の後輩から耳に入った。

 他人の根を借りるなんて、不誠実に感じる? そんなことないのよ。私たちは、命を個体ごとに分けて考えるけど、本当は違うの。命は互いに混じり合ってるの。

 そんなことは言われるまでもなかった。彼女の存在が、僕の命に深く食い込んでいたから。そこから逃れるためには、僕の命の一部を切り離すしかない。

 右手の先に繫がっていたはずの命が、遥か昔に失われていたことに気がつくと、既に公園の中だった。傷ついた花弁のためには、もっと葉っぱが必要だ。彼女の確信に満ちた表情が僕の背中を押す。雨が上がったばかりなのに、何組かのカップルが見える。外灯の下で、見せつけるように濃密なキスを交わしている奴もいる。木立の中では何が行われているか、想像したくもない。ベンチの二人の目が、ビニール袋をガサガサ言わせながら近づいてくる僕に対して警戒の色を滲ませたが、僕はただ葉っぱをちぎっているだけで、覗きや盗撮をしに来たわけではない。仮に警察が来て我々の行為を咎めるとして、言い訳を考えなくてはならないのは君たちの方だ。

 僕の葉を摘む手つきには確信が宿っているだろうか。彼女の迷いなさが――美しさを前にした全ての命が奴隷として跪くことを、当たり前のこととして受け入れる信念が、一部員に過ぎない僕にも身についているとすれば、それは彼女の一つの功績と呼ぶことができるだろう。


     †


 朝、食卓にピンクのガーベラが飾られているのを見た少女は、吐いた。それが鉢植えだったからだ。あからさまに顔をしかめる父を尻目に、義母は少女の背中をさすり、肩を貸し、洗面所へと導きながら、ごめんねと言った。食卓が暗くなったのは、花がなくなったからだ、なんてお父さんから聞いたから。だとすれば、謝るべきではない。確信もなく、美に奉仕しようとしてはならない。少女は自らがガーベラに従事すべきだと、この胸の不快を恭順の意志へと変えるべきだと、口をすすぎながら考えていた。

 中学に上がって園芸部に入っていた彼女は、花の扱いに喜びを覚え始めていた。それは、母の上っ面だけをコピーした義母よりも先に、母にたどり着く実感を与えてくれた。同級生に部員はいなかったが、先輩は皆おとなしく、少女がほとんど口をひらかなくても、気まずさはなかった。事故のことが噂として巡っていたことも彼女にとっては有利に感じられた。無口、陰気、内向的――何考えてるか分かんない、と攻撃の対象になりそうな要素も、あんなことがあったんだから、の一言で理解可能なものとなる。

 気分が悪いので、早退していいですか。あ、でも、お義母さんには連絡しないで。いや、言いたくありません。

 と、目を潤ませれば担任は何も言えない。入学時に提出した家庭調査書の「母」の欄に、明らかに子どもの文字と分かる程度にバランスを崩した文字で「義」を入れておいたこともプラスに働いただろう。すべて隙なく、単一の思想を中心にコントロールすれば、新しい目的が出てきた時にも、過去の自分が助けてくれる。それは母の生き方であり、少女を形成する土台でもあった。

 担任はおそらく、父に電話するだろう。それでいい。父親は娘の具合が悪いぐらいで、仕事を切り上げて帰ってきたりはしない。不仲を承知で義母に連絡するなど、もっと考えられない。校門を出た少女の足取りは、確信に満ちている。

 午前十時の街並みは、まどろみの中にいるように見えた。朝方の靄のかかったようなそれではなく、家事に追われる憂鬱なまどろみ。母は、主婦を嫌悪していた。一方で、キャリアウーマンも嫌っていた。どちらも奉仕すべき対象が醜い。生前の母親が日中何をしていたのか、少女は知らない。ただ、朝の準備をする少女の横で、母親もまた綺麗に身づくろいをし、夕飯まで帰ってこない日が週の半分を占めていた。父親はその日を避けて誘いを掛けた。少女の妄想はリビングに置きっぱなしになっていたファッション誌によって搔き立てられた。義母はファッション誌を読まない。義母の読む本は小説ばかりで、少女にとっては気味の悪いものでしかなかった。物語に飾り立てられた人生なんて、造花ほどの価値もない。

 誰の靴もない玄関は安心する。自分の靴を整えるだけで、家中が背筋を改めるような気がするから。掃除も半端なリビングを横切って、親の寝室のクローゼットの奥にある段ボールを目指す。母の数少ない遺品がそこに詰め込まれていることを知っている。中から染み一つないベージュのエプロンを引っぱり出し、首から掛けて腰ひもを結ぶ。背中に視線を感じる。見張られているのか見守られているのか。朝の鉢植えはベランダに追いやられている。その上には、風に揺れる洗濯物の中に紫の下着が混じっていて、少女の苛立ちを煽る。不在のプランターの脇に置かれた物入れから母親の愛用した園芸鋏を取り出し、ブラジャーの紐を一瞥する。それを行動に移さない自分の冷静さに満足すると、ピンクのガーベラの前にしゃがみこんだ。

 それは母親の愛用したワンピースにそっくりな色をしていた。ピンクに少しオレンジが混じった、明るくて暖かい春の色。入学式の時の義母は、あのワンピースを着ていた。父親と腕を組んで、たいして大きくもない胸を必要以上に押しつけながら、本当に喜ばしそうな顔で、晴れの場に違和感なく忍び込む。紺のブレザーでは義母に対抗することができない。制服初日にして、全身に巻き付けられた鎖を実感することになるなんて。

 バケツをひっつかんで風呂場に急ぐ。思い切り蛇口をひねって、水のはねる無粋な音をことさらに大きくする。再びバケツを持って、リビングに水の滴るのも気にせず、ベランダに急ぐ。ガーベラの前だ。右手に鋏を持つ。刃を確かめる。美しい切り花のためには、鋭く研ぎあげられていなくてはならない。空にかざすと、母が死んで既に五年以上経つにもかかわらず、錆もなく、銀鼠色に輝いている。

 まず、根元を切る。甲高い叫び声が聞こえる。切り落とされた足が土の中に埋もれている。手早く葉を払う。裸の体をバケツに突っ込まれても、抵抗しない。花が潤んだ目を向ける。少女の肩が震えた。これが、園芸部で知った快感だ。そして、おそらく母を支配していた感覚だ。義母の顔に母の遺影が重なる。今度は私が支配する。茎の上三分の一の辺りに、斜めに刃を当てる。水の中で体をよじる。切断面からピンクの筋雲が流れ出す。美しい。そうやってたぶらかしたのだ。許せない。余計なものは切り払ってあげる。そうすれば、あなたはただ美しいだけの存在になれる。

 その日、少女は初潮を迎えた。


     †


 葉が多く花が少なければ、それだけ花には栄養が行くのよ。

 中心に五枚の赤い花弁を配した曼荼羅は、花に美しさを取り戻すための魔法陣だ。背後に彼女を感じる。園芸鋏を持ったまま仁王立ちで、僕の手並みを監視するのだ。手順を誤ると首に刃が当てられる。僕はそれを求めて、少しだけ手順を間違ってみる。茎の切り方、葉の取り方、花の間引き方――花を摘んでしまった時には、その刃がしっかりと押し当てられた。少しでも動けば、皮膚が音を立ててはち切れ、中から赤い実がこぼれ出したことだろう。

 しかし、彼女はいない。わざわざ間違った手順を踏む意味はない。だが、どうすればいいのだろう。緑の織物を見ながら、とりあえず栄養剤を振りかけてはみたものの、葉が時間を追うごとにしぼんでいく以外の変化はない。花はその身を縮め始めている。ひび割れのように入る皺は、磔刑の後遺症にも見えた。悠長なことはしていられない。

 冷蔵庫を開ける。何か栄養になりそうなもの。ジュース、酒、栄養ドリンク、あるいは、肉、卵、チーズ――片っ端から葉っぱに与えてみるが、曼荼羅が生ゴミの山になっただけだ。苛立ち始めた僕は死肉をかき集めて、ゴミ箱に突っ込んだ。痛い。瞬間、手を引っ込める。右手の甲がざっくりと切れて、血が流れ出している。ゴミの中に、なぜか開いたままの鋏が見える。一緒に搔き集めて放りこんでしまったのか。様子を確認している間にも血は滴り、床を汚していく。右手首を握ったままシンクの前に立った僕は、そうではないということに思い至った。

 ビニール袋に残っていた葉を乱暴にばらまくと、花弁の周囲に集めた。その上に血を垂らす。一滴、二滴、小さなつぼみが開くように、葉っぱの間に生気が宿っていく。その命は、緑の山から中心の花へ向けて、光となって流れ込む。にわかに一枚の花弁が輝く。皺は消え、艶を帯び、その厚みのある赤に官能が回帰する。堪えきれず、僕はそこに唇を寄せる。

 足りない。

 聞こえた。耳元で懇願するような、掠れた声。右手を見ると、血は光る膜に覆われ、琥珀のように傷口を包み始めていた。血が足りない。

 あの夜のクラクションを思い出す。車の下の血だまりを。雨の中でも洗い流されず、アスファルトにしがみつくようにして、生き続けようとした執念。あの血ならば、この五枚の花弁に再び輝きをもたらしてくれるに違いない。

 まだ、残っているだろうか。コンビニの店員は掃除していないだろうか。


     †


 母親は料理をしているところを少女に見せなかった。それでいて、いつでも温かくて美味しいものが食卓を彩った。義母は逆だった。少女が学校から帰ると、それが何時であったとしても、常にキッチンに立っていた。夕飯まで一時間のこともあるし、三時間以上あることもあった。それでいて、食卓に上る皿は、品数も色味も少なく、少女が生き永らえさせているガーベラが浮いて見えるほどだ。

 少女は背後に立ってみた。いつも愛想だけはいい義母は、義理の娘の存在に気がついていないようだった。それどころか、義母の体のどの部分にも、他者が入り込む隙も、少女の影響の痕跡もない。少女は不安になった。自らの実在が脅かされたからではない。それが、母親の身にまとってきた空気だからだ。少女がいつか手にしようとしている衣装だからだ。

 まな板の上の規律だった行進が、包丁の後ろに野菜の列を成していく。コンロには既に大きな鍋がかけられており、中からはグツグツと煮立った音が聞こえた。

 ねえ、おかあさん。

 危ない。

 どっちの声だったか。見る間に床に血だまりができていく。少女はお腹を押さえてうずくまる。義母は、シンクに包丁を置き、水を流す。シンクが赤く染まり、指輪の根元に白い骨が見えた。

 非難の目がゆっくりと少女に向けて移動してくる。しゃがみこんだまま、動けない。サーモンピンクのエプロン。母の愛した色。父の手が愛撫した色。義母の袖まくりした腕と同じ色。少女は、自分の腕が黒く染まっていくのを感じた。未来永劫、向き合わなくてはならない呪いが、そこには刻まれている。見上げると、義母の目には非難の色はなく、けがはなかった、という口の動きに追い立てられた少女は、裸足で家から飛び出した。

 公園に着くと、突然の雷とともに雨が降り出した。両手を広げて口を開け、天を仰ぐ。薄手の白いワンピースは、火照った少女の体を透かし見せ、点り始めた外灯が体をピンク色に輝かせていた。


     †


 降り出した雨に、傘を取りに戻るか迷ったが、バスが見えたので諦めることにした。このバスを逃せば、次は三十分後。事態は一刻を争う。

 バスの客が僕を見ている。睨み返すが、うまく顔が作れないせいか、憐れむような視線を追い払えない。傘を持っていないからか。よく見ると、全ての乗客が傘を持っている。天気予報で言っていたのだろう。僕はそれどころではなかった。天気予報より、傘より、服が濡れることより、ずっと大切なものがある。あんたらにそんな存在がいるか。一番後ろに足を開いて偉そうに座っていたガクランが立ちあがる。こめかみが小刻みに震えている。覚悟はできているが、周りに迷惑を掛けるのは忍びない。外に出て好きなだけやり合おうじゃないか。

 すみません、降りたいんですけど。

 僕の眼力に、ガクランはひるんだらしく、たまたま停まったバス停で下車した。命拾いをしたな。僕は今、苛立っている。手加減できそうにない。視線を戻すと、車内の眼差しは等しく窓の外を見ていた。雨が強まったのだ。雷鳴も聞こえる。反対車線の先にコンビニが見えてきたが誰も降りる素振りを見せない。ボタンを押す。手垢にまみれたプラスチックなど触りたくなかった。不吉な予感がする。稲光、そして雷鳴。降り口の横に座った母子の子どもの方が小さな叫び声を上げ、母は子どもの肩を抱く。その前を傘も持っていない僕が降りる。髪の長い女の子は、なかなか可愛い。こんな雨なのに、傘を持っていないなんて。この傘をどうぞ。その傘は、赤とピンクのチェックで、キャラクター化された猫だか熊だかの絵が、折り目の向こうに潜んでいる。

 お客さん、降りるなら早くしてください。

 マイクを通した事務的な勧告。上着を羽織りなおして母子に目をやるが、僕の方を見ることはなかった。肩をすくめて、雨に同情する。嫌われ者はお互い様。去るバスに心の中で手を振り、通りの反対側を見ると、バス停にはさっき見たような母子が立っていた。傘は二本。母が大きな傘を娘の上に広げ、手には黒っぽい色の男物。父親の帰宅でも待っているのか。娘が母親に何か言い、父親の傘を受け取ると、それを広げてコンビニに向かう。店の光を浴びたワンピースは、オレンジがかったピンク色だ。園芸部の彼女と、一度だけ休みの日に出掛けたことがある。公園から川沿いまでの往復三時間を歩きながら、道端や家々に咲く花のことを話した。彼女はひたすら、それぞれの花がいかに美しいのかということを力説した。その美しさのために、どれだけの命が犠牲になるのかを語り、全ての生命は美に接続されることで、存在した意味を持つのだと、締めくくった。

 君がどれだけ醜いとしても、その美に奉仕することができるなら、生きている価値があるということ。それが、誇りと確信に繫がるの。

 どちらの車線にもライトが見えないので、悠然と車道を横断する。雨が更に強まる。コンビニで傘を買うか悩んでいると、先程の少女が出てきた。手には何も持っていない。トイレでも借りたのだろうか。店員が傘立てを店内に入れる。そこには、少女の父親の物らしき傘が置きっぱなしだ。店員が僕を睨みつけている。なるほど、傘泥棒だと思われたのだ。その瞬間、ビニール傘を買うという選択肢は失われた。この店員に金を渡すくらいなら――。

 背後で、タイヤのスリップする甲高い音と、重くて鈍い衝突音が響いた。赤い傘が宙に舞い、スローモーションで落下していった。


     †


 容疑者は四十歳男性、無職。

 被害者は三十二歳女性。娘と共に父親の帰りをバス停で待っていた所、背後から忍び寄った男に突き飛ばされ、乗用車にはねられた。時間は午後十時十分頃、雷雨が激しく、乗用車の運転手からは女性の姿が見えず、直前で急ブレーキを踏むも、路面状況が悪く、事故は避けられなかった模様。

 中学一年の娘は、事件直前に尿意を催し、近くのコンビニにトイレを借りに行っており、戻ってきた時には既に事件の後だった。コンビニの傘立てに、娘の利用した父親の傘が置きっぱなしになっていたことからも、娘が焦ってコンビニを飛びだしたことがうかがえる。

 被害者は後妻だった。娘の実母は五年前に同じ場所で亡くなっている。当時は事故として処理されたが、今回の調べで、容疑者の男が、亡くなった女性と中学時代の同級生だったことが分かった。男の自宅からは、この女性に対する恋慕の情が切々と書き連ねられたノートが三十冊以上見つかっており、五年前の事故も殺人事件に切り替えて再捜査が行わる見込みだ。

 二人の女性の生前の写真は、見比べるほどに似ており、男性がこの女性への思いを募らせて犯行に至ったと考える十分な理由となるようにも思えるが、二度目の事件はあくまで他人の空似に過ぎない女性に対する行動としては常軌を逸していると言わざるを得ない。場合によっては精神鑑定を要求することになるかもしれない。

 娘は、二度にわたって、自分の目の前で母親を亡くすという惨状に遭っている割に、落ち着いて見える。警察の聴取に対しても、始終冷静に答えていたとのことだ。実際に、彼女と対面した刑事は「確信」という言葉でその様子を形容した。

 私は、容疑者の男よりも、この娘の方に恐怖を覚える。


皆川博子「有翼日輪」をモチーフにしています。

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