[9] いざ、尋常に
闇夜に銀光が走り抜けた。
満月の下で、イノシシがじっと立ち尽くす。手には牙を思わせる片刃の剣が握られていた。
恐らく、何人もの魂を喰らってきたのだろう。泥まみれの体、醜く歪んだ顔、剥き出しの牙、ぎらつく目、硬化した体毛。
〈奈落〉ではそれなりに名の通った猛者だったはずだ。
それが今、膝を折って倒れ伏せる。
入れ替わるように、戦いの勝者が立ち上がった。
得物を振るい、付着した血と脂を落とす。
荒野に赤黒い体液の斑点が飛び散るが、すぐに蒸発してしまった。魂が死んで、液体という状態を保てなくなるためである。
死体も早く処理しなければならない。灼熱に対する抵抗を失って、こんがりと焼け焦げつつあった。もうしばらく放っておけば、ゼラチン状に溶けて消滅するだろう。
しかし、勝者は月を仰いで、敵を斬り伏せた手応えを噛み締めていた。〈奈落〉で己の力を証明し続ければ、来世への道が切り拓かれるはずだ。歓喜が胸を震わせる。
感慨に浸り終えて、颯爽と踵を返す。
さっさと肉を喰らってしまおう。
神へ祈りを捧げる習慣も、敗者を悼む思いもない。ただの栄養源、〈エッセンス〉の塊に過ぎない。いつもどおりに牙を突き立てる――
寸前で、ぴたりと動きを止める。
嗅覚が何者かの気配を感じ取ったのだ。
イノシシの血では誤魔化しきれないほどの強烈な匂いが、この近くからふらふらと漂ってくる。
避けるべき魂ではなさそうだ。十分な狙い所ではある。
が、先に食事を済ませてから追跡を始めるとしよう。腹が減っては戦ができぬ、とは至言である。
狩人はあっという間に屍を平らげ、猛然と駆け出した。
○
その夜、『彼』は独り、荒野を彷徨っていた。
右腕に癒着した鎧、革の衣服、幅広の両手剣。食料庫を発った後の出で立ちである。その足取りは軽い。
つい先日までは剣の重量に苦しんでいたが、今はもう、すっかり手に馴染んでいた。
〈エッセンス〉を吸収することで、自分の体が強化されたからだろうか。と、確信を持てないのは、『彼』自身、無意識に使っているためだった。
欠点を補う形で成長しているのだとしたら、右腕だけ鎧が付くのも妙だ。それに、装備よりは硬質化した皮膚と表現したほうが近い。触覚が通っているのだ。
我ながら、気味が悪い。
剣を作り出すのは簡単だが、肉体の変化は未だ解明できていない。
〈奈落〉で生き残るためにも早くコツを掴みたいところである。
周囲は起伏の激しい地形で、岩肌の露出も多い。隠れる場所はいくらでも見つけられそうだが、それは自分にとって有利、という意味ではない。逆に、奇襲をしかけられる可能性もある。用心は欠いてはならない。
接近する者が竜ならば、隠しきれない威圧感にすぐ気が付くだろう。却って、センサーに引っかからない小物のほうが危険だ。
自分がウシを殺してみせたように、背後からぐさり! なんてことが起きないとは言い切れない。
常に敵を意識する――神経も擦り減るはずである。
だが、その獣は忍び寄るのではなく、『彼』の行く手から現れた。
オオカミだ。
ブラウンの瞳がこちらをじっと睨みつけ、ぴんと立たせた耳は小さな物音にぴくりと反応する。一挙一動を捕捉しているのだ。
牙を剥いて威嚇する顔には、深く刻まれた皺が見て取れた。
年老いた魂なのだろうか。
とはいえ、立派な体躯の持ち主だ。白銀色の毛に覆われた肉体が痩せ細っていながらにして、四肢には針の束のような筋肉が浮き出ている。
後ろ足の四本指がどっしりと土を踏み、前足の五本指は物が掴みやすいように長く発達していた。
その手に携えるのは、刀である。
反り返った鋭い刃が月明かりを受けて輝く。一体何人の魂が倒されてきたのか、『彼』には知る由もないが、心血を注いで形成された業物であるのは一目瞭然だ。
紫色の糸が巻かれた柄は、刀身と同じ長さが特徴的である。いわゆる、長巻と呼ばれる武器だった。
胴と腰に鎧を装着し、飾りとして前掛けを垂らしているのみ。軽装備だ。
視線を交わし終えた二人は同時に腰を落とした。
〈奈落〉で遭遇したからには、することはただ一つ。
オオカミが低い声で言葉を紡いだ。
「いざ、尋常に――」
その体が尾のごとく揺らめいて見えた。
はっとしたときには、刀を薙ぐ構えで肉薄している。
……速い!
身を守るのに精一杯である。
大剣と長巻が互いに噛み合い、火花をぱっと散らした。
冷や汗が吹き出す。力量差は絶望的というほどではない。ただ、相性の悪さは一合目で感じ取れた。
オオカミは側面へ回りながら、さらなる斬撃で襲いかかる。右から、左から。勢いが止まらない。反撃に転じる隙も見出せなかった。
いつだったか、自分の戦いぶりを〈暴風〉と評されたが、その名はオオカミにこそ相応しい。
――などと、畏怖を抱いている場合ではない!
手元の動きが変わる。
上半身に襲いかかる刃に意識を傾けさせておいて、本命は足だ。
すんでのところで感づいた『彼』は短いステップで後退する。切っ先は衣服を裂き、うっすらと切り傷を負わせたのみで、重傷には至らなかった。
「ちッ!」
オオカミが舌打ちする。
防戦一方ではいつか殺される。『彼』はお返しとばかりに、大剣を横から叩きつけようとした。
しかし、白刃の閃きに比べれば欠伸が出るほどに遅すぎる。
大地を蹴って跳躍したオオカミは、無防備な『彼』の頭を踏み台にする。攻撃と回避が一体となった動きだ。
敵の姿を見失った『彼』はひたすら勘に任せて、あえて前方によろめく。
ふっと、冷たい感触が背を走った。
今度こそ斬られたのだ。激痛に顔を歪ませながらも、振り返って次の襲撃に備える。
まずい。非常にまずいぞ。
向こうは明らかに戦い慣れている。
どうすれば生き残れるのか。『彼』の思考は後ろ向きになっていた。
食料庫で大剣を手にしたときのように、自分の記憶にはないヴィジョンが蘇ってはくれないだろうか。
推測が正しければ、あれは喰らった魂のものだ。石室の甲冑男に、食料庫の兵士たち。次は館の主から引き出すことさえできれば、打開策を思いつけるかもしれない。
そう念じたところで無駄である。
館の主は他者を働かせてばかりの、肥え太ったウシだったではないか。
戦いに関してはズブの素人だ!
それは『彼』とて同じである。敗者の魂に頼りきりでは、遠からずして自身も餌食となるだろう。
ならば、己の魂にかけて、敵を凌駕するしかない。
〈エッセンス〉による身体能力の増幅を実戦で試す。
もしも失敗したら――
そのときは、無へ帰るだけだ。
『彼』は全身の神経を研ぎ澄ませる。
「……む」
何かを感じ取ったか、オオカミはすっと目を細めた。
手負いの獣ほど用心しなければならない。
オオカミにとっては、ヒトも獣に過ぎなかった。命を賭して戦う両者のどこに、違いがあろうか!
油断は一片たりとも抱くまい。確実に追い詰めて殺す。
全身から発する気に殺意を込めて、再び地面を縫うように『彼』へ迫る。
狙いは、逆袈裟斬りだ。
三日月を描くように長巻を振り上げる。
その刃が『彼』の脇腹に噛みつく――はずだった。
だが、手応えがない。
必殺の確信から振り切ったオオカミの前から、『彼』が忽然と消えてしまったのだ。
どこへ行った?
匂いは……上だ!
月を背にして、『彼』が急降下してくる。
オオカミは咄嗟に真横へ身を投げ出した。もう少し遅ければ、大剣の直撃を受けて粉砕されていただろう。
剣身は深々と岩盤を抉り、蜘蛛の巣状に亀裂を走らせる。それでもなお、衝撃は吸収されずに、破片を散弾のごとく吹き飛ばした。
致命傷になる物だけを弾くのは容易い。だが、岩つぶての向こうでは『彼』が次の攻撃態勢に入っている。その一撃を防ぐことはできるのか。
危険は冒せない。
冷静な判断を下したオオカミは柄を口に咥え、四つ足で一気に離脱する。避けきれなかった破片が鎧を突き抜けて体に食い込んだ。
お互いに傷を負った状態で、最初の立ち位置へと戻る。
オオカミは長巻を手に持ち直して、『彼』をじっと見据える。牙を剥くのは、敵を認める笑みであった。
獣、と見誤ったようだ。
あれは羅刹の類だ。
吐き出された息が白い。肩を緩やかに上下させながら、ぎらつかせた眼光で隙を窺っている。
果たして『彼』に声が届くかどうか、ゆっくりと口を開く。
「若きヒトの剣士よ。執念の込められた、よい太刀筋だ。キサマにも、生を欲す理由があるのだろう。が、今は問わん」
刀ではなく、言葉を交えるという経験は初めてだった。
『彼』も距離を詰めてはこない。構えは解かずに、耳を傾けている。それともまだ、オオカミが距離を詰めるのを待っているのか。
「キサマを圧倒するには、力が足りん。出直すとしよう」
ぐっと手を握り締めて、冷たい感触をイメージする。一秒ほど後に指を開くと、小さな金属プレートが生成されていた。
それを『彼』へ放り投げると、赤黒く変色した甲冑の右腕が恐るべき速度でキャッチした。
「オレの魂を削って作り出した。再戦を挑もうにも、この広大な〈奈落〉では探し回るのも一苦労だ。時が来たなら、それを辿る。キサマが臆病者なら、捨ててしまうがよい」
やはり、返事はない。しかし、受け取ったプレートを捨てようとはしない。それで十分だった。
不思議な心持ちである。
自分以外の魂は全員敵だとは思っていたが、まさか『倒すべき』敵を見定めるとは。これほどの剣の使い手だ。次に出会ったときは、さらに実力を付けているだろう。
楽しみだ。
必ず、殺して喰らってやる。
オオカミはぱっと翻り、尾を揺らめかせてその場から走り去った。
○
「ん? なんじゃ、それ」
『彼』の眺めるプレートを目に留めて、少女が腕と腕を触れされるほどの距離に密着してくる。深緑の瞳が、好奇心に輝いていた。
「オオカミに渡された物だ。お前と別れていた間に襲われたんだ」
「ほう! オオカミとナ!」
「かなり手強いヤツだったよ。向こうが退いてくれなかったら、危なかったかもしれないな」
「ふむ、心当たりがあるゾ」
しかし、ちょっと信じられないという顔で、少女はオオカミの特徴を言い当てる。
「そやつ、えらく長い刀を持ってはおらんかネ?」
「出くわしたことがあるのか?」
「んなワケなかろ。したら、今頃はクロとも出会うこともないワ。『心当たり』と言ったじゃろ」
「……『巷』とか『風の噂』とかの類か」
「うむ。あやつの呼び名は多いゾ。〈辻斬り〉、〈魂切丸〉、あるいはもっと単純に〈銀狼〉辺りで知られとる。そして、その名に付いて回る備考はこうじゃ。『選択肢は二つ。戦って死ぬか、逃げきれずに死ぬか』」
眉をひそめて語ったかと思えば、一転、ぱっと笑みを浮かべる。
「生き残るとは流石じゃのう!」
「決着が先延ばしになっただけだ。このプレートは追跡装置らしい」
「じゃったら、捨ててしまえばよいではないか。今度こそ、死んでしまうゾ!」
少女の警告はもっともである。
迫りくる白刃の鋭さを、今でも鮮明に思い出せる。あのオオカミに付き合う義理もないはずだ。ここで手放せば、二度と遭遇することもあるまい。
だが、『彼』は強がってみせるのだ。
「あいつからは逃げられるってだけじゃないか。〈奈落〉には竜を始めとして、やばい連中が大勢いるだろ。あいつはその一人に過ぎない。……どっちみち、生き残るにはあいつを超えるしかないんだ」
「ワシには理解できんがの」
やれやれ、と少女は肩を竦めてみせた。
「ま、死なん程度に頑張るんじゃナ」
「サンキュー。そんなに心配してくれるとは意外だよ」
何気ない『彼』の一言に、見る見る顔が赤くなっていく。
「だ、誰が……ッ!」
ぷいっと視線を逸らして、胸の前で腕を組んだ。
「ワシゃ、クロの戦闘力をアテにして生き残るつもりなんじゃ! 勝手にくたばってもらっては困るんじゃヨ!」
「そういうことを、本人に聞かせていいのか?」
「し、しまった! 忘れろ、忘れるのじゃ!」
なんて、背中を叩かれたところで、痛くもなんともない。
この少女相手には、ついつい気を緩めてしまうのだ。
元々、お互いに利用し合う関係だ。価値を見限られれば、そこで二人の旅はおしまいである。味方でないなら、敵だ。
にもかかわらず、パートナーとして認めてもらうだけで、無性に安心するのである。
自分も少女の力を頼りにしているから?
それだけではない、ような気もした。
「しっかし、それ……」
自身で掘り広げた墓穴をせっせと埋め立てるつもりか、少女は金属プレートへ話題を戻した。
「ドッグタグみたいじゃの」
「タグ?」
「知らんのか。イヌの首輪にぶら下げるんじゃヨ。そこに飼い主の連絡先や住所を記しておけば、迷子になったときも安心じゃろ」
「認識票か」
プレートには文字も何も刻まれていないが、確かに形としては近かった。
それにしても――
「オオカミは、こんな物と無縁のはずだよな」
「なんでじゃ?」
「野生の動物だろ」
「クロの認識では、イヌは野獣なのかネ?」
「いや、イヌはペットだ」
「え?」
どうも、すれ違いが生じているようだ。『彼』はどんよりと溜息をついて呟く。
「……オオカミとイヌは違うからな」
「んなっ!」
まずは、そこから共通認識を持たなければならないらしい。
どこかでイヌかオオカミか、遠吠えが響いた。
しかし、ああだこうだと言い合う二人の耳には届かない。