[8] 我が名ヨ、轟け!
「――逃げ込んだ先は洞窟の入り口じゃった。うむ、光も差し込まぬ真っ暗闇じゃヨ。しかし、すぐそこまで猛獣が迫ってきておる。窮地に立たされ悩みに悩むのも僅かな時間、勇気あるワシは猛然と突き進んだんじゃ」
「へえ」
「じめっとした洞窟じゃ。粘りつく空気の異臭にしばらく堪えると、目が慣れてきおってノ。物陰に潜むことにしたんじゃ。冷静沈着に、虎視眈々と。そして、ついにあやつは追ってきた!」
「ふむ」
「ぺたぺたと響く足音がだんだんと近づいてきた。きっと順応しとらんかったんじゃナ。時折、岩にぶつかっては毒づいておったヨ。それに、異臭で鼻も利いとらんようじゃ。これ以上の好機はなかろ?」
「そうだな」
「ワシは隠れていた場所から飛び出し、あやつの背中に襲いかかった! じゃが、まだまだひよっこのときじゃ。一撃では仕留められんかった。あやつは激しく暴れ出した。まずい――ワシは願ったんじゃ。もう一振り、短剣があれば、とナ。すると、もう片手には得物がすっぽりと握られておるではないか!」
「〈エッセンス〉の使い道に気が付くなんて、運がよかったな」
「いやいや、ワシの底力じゃヨ。何を言うとるか。……とにかく、こうしてワシは何を切り抜けたんじゃが、さて、気になることが一つあってナ。洞窟には奥があるようじゃ。好奇心に駆られたワシは、探検してみたのじゃ。よくあるじゃろ、古代遺跡が眠っておったり、魔剣が眠っておったり――」
「よくあるのか?」
「あ・る・ん・じゃ! おっほん。しばらく進んでみると、異様な気配を感じるようになった。何かいる。この〈奈落〉で何かいるとすれば、ワシなど比べ物にならんくらいに強い魂じゃ。慌てて踵を返し、出口を目指した。すると! そやつが追いかけてくるではないか!」
「忙しないな」
「暗闇に光る赤い目! 巨体を這わせる音! 命からがら洞窟の外に出たワシは後ろを振り返ったが、結局、そやつが何者かは分からんかった。どうも光に弱いヤツらしくてノ。また奥に引っ込んでしまいおった。どうじゃ、恐ろしいじゃろ。そして、このワシのしぶとさを褒め称えるがよい!」
夜の風が二人を包む。日は落ちても、月が明るい。
荒野は白く照らし出されていた。
話のきっかけはなんだったか、『彼』には思い出すこともできなかった。
とにかく、こんな調子で少女が喋っているのである。
一区切りついたところで、今後のためを思って指摘するのだ。
「……『なあ』、前から思っていたんだが、『お前』、警戒心がなさすぎるんじゃないのか? 館での戦いだって、迂闊にドアの前に立って気絶しただろ」
横顔を窺おうとすると、並んで歩いていたはずのパートナーの姿がない。不審に思って後ろを振り返ると、少女はぽつんと立ち止まっていた。
様子が変だ。
足元をじっと見つめ、握り締めた手をぷるぷると震わせている。
かと思えば、いきなり『彼』に歩み寄り、背伸びして胸倉を掴んだ。
「も、もう限界じゃ!」
少女は顔を真っ赤にし、こう叫ぶのだった。
「『なあ』とか『お前』とか……もっとこう、何か別の呼び方はないのかネ!」
「そう言われても、お前だって俺を『おヌシ』って呼ぶだろ」
「ほら! また、『お前』って!」
「分かった、分かった」
会話のループに辟易しつつ、『彼』は少女を引き剥がした。
「お互いの呼び方を決めればいいんだな」
「うむ」
と、強く頷かれても、である。
生前の名前を覚えているはずもない。
〈奈落〉に来てから使われた呼称といえば――
「じゃ、〈閃耀の短剣使い〉で」
「それはやめんか! まったく、おヌシもしつこいヤツじゃノ」
少女はむすっと頬を膨らませ、羨ましそうに『彼』を見上げた。
「〈竜の対話者〉の名が廃るゾ。なんじゃったら、〈暴風〉と呼んでやってもいいがナ」
「……お前のネーミングセンスって――いや、いい」
これを口にしてはまずい気がして、慌てて誤魔化す。
「どっちも、自称するには抵抗があるな。もっとこう、普通に呼べないか?」
「たとえば、どんな」
「持ち物はどうだ? 俺はでかい剣を持ってて、お前は短剣を持ってる。そこからインスピレーションを受けてだな……」
「安直じゃゾ。ブレードとダガー、なんて呼び合いたいのかネ?」
「……なんか、それ、どこかで聞き覚えがあるな。やめておこう」
「ようし、閃いたゾ。身体的特徴じゃ。おヌシは真っ黒けな髪をしとるじゃろ? というワケで、おヌシは今日からクロじゃ!」
「どっちが安直なんだ。それを言ったら、お前は――」
「悪鬼も道を譲る美少女」
少女は胸を張って、きっぱりと答えるのだった。
「もしくは、〈奈落〉に咲いた一輪の儚い花、と呼んでもいいゾ」
「どうして、俺がクロでお前が〈奈落〉に咲いた一輪の儚い花なんだ! 呼びにくいったらありゃしないぞ! そもそも、花ってガラか!?」
「死人じゃから分からんのじゃ。セーヨクを失っとるんじゃゾ。まともな感性なんぞしとらん」
少女の何気ない言葉に、『彼』はぎょっとする。
「お前……性欲って何か知ってるのか?」
「もちろん、知っとるに決まっとろうに! 人を好きになることじゃ!」
バカにするでない、と少女は憤慨するのである。
察するに、そういう知識に触れる以前に死んでしまったのだろう。
『彼』はそっと視線を逸らす。
憐れみを抱かずにはいられない。
とはいえ、『彼』もまた、同じ身の上だ。不幸はお互い様である。
「な、なんじゃ、急に黙りおって。違ったか?」
「……大体、合ってるよ」
ゆっくりと笑顔を取り繕ったつもりが、少女にはそう見えなかったらしい。
「む。含みのある顔じゃノ」
「笑うのが苦手なだけだ」
我ながら苦しい言い訳だ、と『彼』は内心げんなりする。
それにしても、こうも知識に差が生まれるのは何故なのか。
もしかすると、自分が持っている判断基準や倫理観は、生前に培ったものなのかもしれない。
だが、それがどこでどう学んだものかは思い出せない。つまり、自分自身に関わる記憶は封印されている状態なのだ。
封印されている。誰によって?
それに、たった一つだけ記憶を持っているのは変だ。
自分だけではなく、少女も生前の記憶があるのだろうか。
そう、尋ねてみようとした矢先だった。
遠くから、こちらに向かってくる複数の影がある。
目を凝らして探るに、五人からなるヒトの集団だ。
『彼』が警告するまでもなく、少女は短剣を両手に構えていた。
「〈エッセンス〉は山分けでどうじゃ」
「あいよ」
『彼』はいつでも大剣を振り抜けるように腰を落とす。
その姿を捉えた、敵の一人が「ああっ!」と声を上げた。
「あ、あの剣見てみろよ! あいつ、まさか〈牛殺し〉じゃねえのか!?」
隣の男が「マジかよ!」と後ずさる。
「か、風の噂で聞いたことあるぜ! あいつは獲物を剣でぶん殴って、ミンチにするんだとよ! しかも、剣の上に肉を乗せて、ハンバーグを作るんだってさ!」
「……『巷』の次は『風の噂』かよ」
歪んだ人物像を作られつつある『彼』は、がっくりと脱力する。訂正の必要はないだろう。全員、逃がしはしない。
話を黙って聞いていた少女が、にやりと笑みを浮かべて一歩進み出た。
「ふふん。どうじゃ、恐れをなしたか! ワシらに近づくとは迂闊な者たちヨ!」
本人としては相手を威圧するつもりだったのかもしれない。
ところが、敵は一様に顔を見合わせ、少女を指差すのだった。
「お前、誰だ?」
「……んなっ! このワシを知らんだと?」
「よし、まずはあいつを狙おう。聞いたこともないヤツだし、弱そうだし。それから全員で〈牛殺し〉を狙うぞ。いいな!」
おう、と一同は頷いて、それぞれの武器を掲げた。
あんまりな扱いに肩を震わせていた少女は、突如として右手を天に掲げて名乗りを上げた。
「我が名ヨ、轟け! ワシは〈閃耀〉であるゾ!」
「おい、それ、短くしただけ――」
「ええい、やかましいワ、クロ! こやつらに容赦は要らぬゾ!」
「……了解」
結局、『クロ』で通すつもりらしい。
まあ、いいさ、と『彼』は安堵するのだ。
〈対話者〉や〈牛殺し〉よりかは、親しみの込められた呼称である。
少女はというと、憤怒の赴くままに敵へ襲いかかっているところだった。