[6] 少女は無垢に刃を振るう (下)
館は食料庫に隣接していた。
資材には〈奈落〉の木を使ったのだろう。犠牲者の血を吸いに吸ったか、異臭を漂わせている。
竜には到底及ばないにしても、肌をじりじりと焼く気配を感じる。それなりの大物であることは察しがついた。
裏口の扉の前に立った少女が振り向く。
「用意はできとるかネ?」
「ああ」
大剣を構え直す。いつの間にか、なまくらだった刃が研ぎ澄まされていた。自分の魂を削って生み出したときはこうではなかったはずだ。
さらに『彼』自身、得物の重量をさほど気にしなくなるほど、全身に力を漲らせていた。
恐らく、捕食の効果だろう。
この状態なら、館の主人と対等に渡り合えるのだろうか。
それは分からない。
力量差を明確に調べる物差しがあればいいのだが、気配を察知した上、実戦の中で把握するしかない。
こんな作戦も思いつく。少女に館の主人と戯れてもらい、自分はその間に周りの雑魚を片づける。それで無理そうなら撤退すればいい。卑怯者の謗りを受けようとも、知ったことではなかった。
横目でちらりと窺うと、視線が合った。
「ん? どうしたのじゃ」
「考え事だ」
「ははん、緊張しとるのか? ま、この〈閃耀の短剣使い〉に万事任せておくんじゃナ。ちょちょいのちょいヨ」
「…………」
力を持つがゆえの余裕なのか、あるいはただの――
「自分で名乗るか?」
「べ、別にいいじゃろ」
「分かった。頼りにさせてもらおう、〈閃耀の短剣使い〉さん」
「……やっぱ、ナシ」
「どうした、〈閃耀の短剣使い〉さん」
「ええい、やめんか! 思ったよりカッコよくなかったのじゃ!」
――ただの、子供かもしれない。
『彼』は深い溜息をついた。これ以上のやり取りを続けると戦意を失いそうである。敵地へ乗り込むべく、気を取り直す。
「そろそろ、行くぞ」
「……うむ!」
その返事を受けて、扉を開け放った。
まず、少女が身を滑り込ませるように突入し、敵を見つけ次第に飛びかかる。離れた位置に対しては惜しみなく短剣を投擲し、新たな一振りを生成した。
その後から『彼』は続く。少女の背後を襲いかかろうとする敵を始末するついでに、テーブルやイスまで刃の餌食に巻き込んでしまう。武器が武器だけに、狭い空間での戦闘は苦手なのかもしれない。
注意を払おうとした『彼』の目に、奇妙なオブジェが映った。
拘束器具のついたテーブルに突き立てられた包丁。
水車のような歯車と、皮でできたベルトコンベア。
脂のへばりついた木製の注射筒。
ぐつぐつと湯の煮えた釜。
放り出されたワゴンの上には皿が用意されている。
出来立てほやほやなのだろう、湯気の立つソーセージに――こんがりと焼けたシカの頭。
なるほど、食料庫ね。笑おうとしても、顔の筋肉が引きつってしまう。
唖然としている場合ではない。
ワゴンの陰から飛び出した女が包丁を掴み取って、『彼』に向かってくる。
しかし、ゆっくりとした動きだ。
間合いに入ってくるまで十分に引きつけて、大剣を振り抜く。壁の古い赤ペンキに新しい色が塗りたくられた。
館の使用人たちは労働の報酬を受け取っていないらしい。
鼻をひくつかせながら横に立つのは少女だった。敵は粗方片づいていた。
「妙な匂いがするのう」
「ここはソーセージ工場みたいだな」
「……ほう!」
少女は料理を目ざとく発見し、ワゴンに歩み寄る。何をするかと思えば、指先でソーセージをつまみ、ひょいと口の中に放り込むのだった。まだ熱いのだろう、はふ、はふ、と何度も息を吹きかけている。
「ふぁふいファ。ほふひほふうはヘ?」
「……口に物を入れたまま喋るんじゃない!」
「ふぁいふぁい」
生返事をしてから、喉を蠢かせる。呑み込んだのだ。
「まずいナ。味がない、というか、ごく普通の魂の味じゃ。砂を噛んでるようじゃヨ」
「調味料も入ってないみたいだしな」
「なんじゃって、館の主人はこんなもんを作ったんじゃろナ」
「生きていた頃にソーセージ作りを営んでいたんじゃないか?」
「さあてナ。館の主人はどこにいるんじゃろか……」
「お前の目の前にある、ドアの奥だろ」
「そうかのう――」
ノブに手を伸ばそうとした少女が、ぴたりと動きを止めた。
「おヌシ、なんで知っとるんじゃ?」
「……この場にいないってことは、どこかにいるってことだ」
「ドアなら、他にもあるゾ」
「ど真ん中にあって、いかにもな感じだしな」
嘘である。実際のところ、『彼』にはその奥に主人がいると、初めから知っていた、ような気がしたのだ。
大剣を手にしたときと同じである。自分のものではないヴィジョンがスライドショーのごとく視覚情報に挟まれる。
この感覚、少女には覚えがないのだろうか。
追及を嫌がった『彼』が「当てずっぽうだ――」とはぐらかそうとした。
そのときだった。
耳をつんざく爆発音が館をみしみしと震わせた。
吹き飛ばされた扉が砲弾と化し、疑念に気を取られていた少女に直撃してしまう。
「あうっ……!」
か弱い悲鳴が聞こえた。
ピンボールのように弾かれた少女は壁に背中を打ちつける。ずるずると崩れ落ち、うなだれたきり手足を動かさない。
死んだのか? まさか! 『彼』は祈りながら駆けつける。……大丈夫、息はある。気を失っているだけだ。すぐに起き上がるだろう。
ずん、と重々しい足踏みが床を軋ませた。
「あら、モォ、やだァ」
野太い声なのに、妙に語尾を強調した言葉遣い。
「騒がしいと思ったらァ、モォ、大変なことになってるじゃなァい?」
館の主人は『彼』よりも一回り、いや、二回り大きな体躯の持ち主だった。黒い体毛が全身びっしりである。
そう、全身。
すっぽんぽんなのだ。
考えようによっては、少女が気絶してくれてよかったかもしれない。下半身にぶらつかせた汚物は……あまりにもインパクトが強すぎる。
手足はそれぞれ二本指。爪先立ちの姿勢で、右手に握った巨大な斧を引きずっていた。
口を前に突き出した顔で、下顎をこねくり回している。ぴんと立つ耳、左右に離れた目。それに、二本の大きな角を生やしていた。
ウシである。
「これ全部、アナタがやったのォ? 奴隷を集めるのに、モォ、大変だったんだからァ」
「そいつは悪かったな」
「アタシに刃向かうなんて、モォ、許さないわよォ」
間延びした喋り方のくせに、主人は軽々と斧を振り上げた。
『彼』は一瞬、判断に迷った。剣で受け止めるべきか、避けるべきか。いや、ここは無難に避け――
真後ろに、少女が、いる。
「……ッ!」
斧が襲いかかる直前に、間一髪、剣を掲げる。
刃と刃が噛み合い、火花を散らす。『彼』は、息を吐き出すこともできず、ただひたすらにその一撃に耐えていた。
まるで岩で殴りつけられたような衝撃に、剣が悲鳴を上げていた。
「あァら、さすが、〈竜の対話者〉ね! モォ、すごいわァ!」
主人がにやりと口を歪ませ、再び斧を振りかざす。何度も叩きつけるつもりらしい。
その隙に位置を変える。これで少女が危険に晒されることはないはずだ。
――どうして自分は逃げないのだろうか。
そんな疑問も、押し寄せる突風にかき消される。
落ち着け。
動作は大きい。よく見ていれば、避けるタイミングは分かる。ほら、今だ!
空を切った斧が、『彼』の代わりに床を粉砕する。
にもかかわらず、主人は頭をシェイクさせて、涎の滝を垂れ流した。
「んモォ! アナタ、どんな味がするのかしらァ! 新鮮なお肉に、竜と会ったって記憶の下味がついて――想像しただけでお腹ぺこぺこよォ!」
「俺なんかより、〈エッセンス〉の豊富な魂は大勢いるぞ」
「〈エッセンス〉ゥ?」
主人はぼんやりと天井を見上げた。
「ああ、肥えた魂はダメよォ。色んなものが混ざっちゃって、モォ、ピュアじゃないものォ。ワタシはアナタのままのアナタが、た・べ・た・い・の」
あまりの気味の悪さに、『彼』は閉口した。
このウシは〈奈落〉に順応するどころか、他者を喰らう行為に快楽を覚えるようになっている。
自分もいつかはこうなるのだろうか。
魂を満たすことに心を奪われて――
いや、本当はもうなっているのではないか?
認めたくないだけで、立派な狂人なのではなかろうか。
否定したい一心で、剣を構える。『彼』の目は、これまで出会った何者よりもはっきりとした敵を見据えていた。
だが、どうやって仕留める?
モーションは見切れるが、決してスローではない。それに破壊力もある。紙一重といわずに余裕を持って避けなければ、空気の刃が『彼』の体を削り取るだろう。となると、こちらの回避も大げさになりがちだ。
主人が猛攻を繰り広げる。縦に、次は横に。勢い余った斧は居城であるはずの館を壊し尽くす。挙句、自ら悪化させた足場にバランスを崩しかけていた。
――それを、『彼』は見逃さなかった。
そうか、ウシは……。
「モォ、観念してェ!」
大木を伐採するような斬撃が棒立ちの『彼』に襲いかかる。咄嗟に剣を床に突き刺し、盾代わりにしたところで、無駄な足掻きだ。威力に耐えられず、得物は限界を迎えて砕け散った。
主人はその影にいる肉の手応えを確信し、ふんっ、と鼻息を噴き出す。
フルスイングだった。
しかし、断末魔の叫びは聞こえない。
血飛沫も上がらなかった。
「……んモ?」
不審に思った主人が辺りを見回すが、どこにも『彼』の姿はない。忽然と消えてしまったのだ。勝ち目がないと悟って逃げたか。少女は放置されたままである。
すばしっこい魂だ。
主人は苛立たしげに首を振り――
「逃げたって諦めな……ぶモおッ!?」
激痛に絶叫を上げた。
見下ろせば、『彼』が再生成した大剣を腹に突き刺していた。
滴り落ちる唾液を浴びても、全く薄れない殺意が放出されている。
「お前の目玉は左右についてるから、足元が見えないんだよなあッ!」
ヒトの声とは思えない咆哮だった。
大剣を引き抜かれて、巨体はぐらりと後ろのめりに倒れる。――歯車装置のベルトコンベア上に。
主人にはまだ息があった。
が、まだ、というだけのことだ。
歯車がゆっくりと回転を始め、徐々に加速していく。
「あ、アナタ、生意気よォ! モォ、ゆるさな……え、ちょ、何してるの?」
『彼』がスイッチを入れたのだ。
もはや装置は歯の一つ一つを目で追えないほどのスピードを得て、今か今かと獲物を待ち受けていた。
異様な駆動音だった。
まるで主人の狂気が乗り移ったかのように、ベルトが『さあ、さあ!』と破滅へ引きずり込もうとする。
「モおおおおおォッ!」
主人は錯乱しながらも、歯車を両手で挟んで食い止めた。つくづく驚異的な膂力である。
「いやァ! もっと食べたいィ! でも草を食べた記憶しかなかったからァ! 今度はお肉を食べたかったのよォ!」
喚けば喚くほど、傷口から勢いよく血が噴き上がる。
ついに歯車が均衡を破り、腕を押し返していった。
「んぬぎぎ……」
主人は最後の力を振り絞って口を開く。
「ねえェ、お願いィ! 助けてくれたらアナタの家畜になるからァ!」
だが、その目に映ったのは一人の悪魔だった。
『彼』は苦しむ姿を見下ろして口の端を三日月に吊り上げている。
それが命乞いに対する答えだというのか。
「ひっ、ひどいわ、モォ、人でなし――ぶべらっ!」
ごっ、ごっ、と肉と骨と魂を砕く音が歯車の下から響く。
処理を見届けた『彼』はスイッチを切った。
装置が停止してしまうと、ぞっとするような静けさが館全体を支配する。
勝ったのか?
自分でも信じられずに、じっと主人のなれの果てを眺める。
そうだ、まだ生きている。
手は動くし足も動く。五感だって働いていた。
「人でなしはどっちだよ」
独り言を呟くのだって、生きている者の特権である。
主人に罵られる筋合いはない。自分はただ生存闘争に勝利しただけだ、と『彼』は思っていた。敗者の死に様を嘲笑っていた、という自覚もなかった。
立ち尽くす『彼』の後ろで、
「ん、んんっ……」
可愛らしい声が発せられた。
目覚めた少女がぼんやりと顔を上げる。まず、自分の手のひらを見つめ、館の惨状に絶句し、そして、『彼』の背に声をかけた。
「き、騎士様ですか?」
「なんだって?」
振り向いた血まみれの顔に、少女は現実を認識したようだった。
「なんじゃ、おヌシか!」
「…………」
「妙な目をこっちに向けるでない!」
「いや、今……」
「ワシとしたことが不覚を取ってしもうた」
何もかもをなかったことにしたいらしい。少女はふるふると首を振って、立ち上がった。館の隅から隅を睨みつけ、怒りをぶつけるのに持ってこいの相手を探そうとしていた。
「主はどこじゃ! ぼっこぼこの、ぎたんぎったんにしてやらねば気が済まん!」
「そいつならそこだ」
「ん?」
少女は新しくできたばかりのミンチ肉の山を見つけ、あんぐりと口を開けた。
「あ、あれが主なのかネ?」
「ああ」
「おヌシが一人で――」
「やった」
「……とんでもないヤツじゃナ」
バツが悪そうに呟いて、『彼』の手を掴んだ。
握手である。
「助かった。おヌシがいなければ、今頃ワシはあやつの腹の中じゃった」
突然のことで、『彼』はぎょっとしていた。
数多くの罵詈雑言は浴びれど、感謝など初めてである。
気の利いた言葉も思いつかない。
「……夢は見たのか?」
初めて会ったときの質問を、そっくりそのまま、『彼』は返した。
少女が外見年齢相応にはにかむ。
「残念ながら。じゃが、これでワシも〈奈落〉で眠りこけた者の二人目じゃナ」
そして、『彼』から手を離そうとした。
その幼い顔が凍りつく。
ねっとりと、粘液が糸を引いた。ウシの涎である。
「あ、すまん」
「なんなら、あの茹で釜に浸かるかネ?」
「やめとくよ」
「なら、顔と手だけでもさっさと拭うがよい。……そうじゃ! 茹で釜じゃ!」
少女は突如として自分の太ももを叩いた。
「あの挽肉、ソーセージにして喰ってしまおう。いくらワシでも、あの中に手を突っ込みたくはないゾ」
「同感だな」
「……あー、ほんのちょっとでいいから、ワシにも分けてもらえるとありがたいんじゃが」
「当たり前だ。戦い方を教えてくれたんだから」
「ふむ。おヌシ、人間ができておるのう」
それはどうだろうか。
本当に人間ができているのか。
このまま力をつけていって、あのウシのようにならないと?
自信はない。
第一に、だ。
「ふんふん、ここで袋に詰めて――」
少女が楽しげに装置を回っている。
その姿は、ウシと何が違うのだろう。
『彼』は何気なく尋ねてみるのだ。
「なあ、魂を喰ったとき、幸せに感じることってあるか?」
「……何を言っとるか」
無垢な笑顔がこちらに振り向く。
「食事は手段に過ぎん。さっさと生まれ変わりたいくらいじゃヨ。おヌシもそうじゃろ?」
当たり前の答えを聞いて、『彼』は肩の力を抜く。
そう思ったからこそ、こんなろくでもない世界にいるのだった。
目的を忘れてはならない。
決して。