[5] 少女は無垢に刃を振るう (中)
開かれた牢屋の格子戸が、甲高い鳴き声を上げる。
『彼』は素早く敵を確認した。
ずかずかと入り込んできたのは二人。外で待機しているのが三人。それぞれ武器を所持しているが、防具の類は身に着けていない。
「手を出せ」
命令には大人しく従う。抵抗したところで、暴行を加えられるのがオチだ。
やけに従順な捕虜に、人攫いは肩透かしを食らったようだ。同僚たちの間で顔を見合わせながら『彼』の手首に枷を嵌める。
「ついてこい、〈対話者〉」
「了解」
視界の片隅には、あくまで様子見を貫く少女が立っていた。
怯える素振りは少しも見せない。
むしろ、他人事のようにけろりとしていた。
その身を案じる必要はないだろう。『彼』よりもずっと立派な〈奈落〉の住人だ。自衛手段を持っているはずである。
だから、今は自分のことだけ考えればよかった。
外に出ると、他の捕虜たちの視線が一斉に集まる。まだ生きていられるという安堵と、自分の番はまだかという恐怖がこの場に渦巻いた。
一対五、か。
荷は重そうだが、やらずには生き延びられない。平穏無事に済まそうなんて甘えも捨て去らなければならなかった。
今さらである。
既に一人殺しているのだ。罪を重ねたところで、裁く者もいない。そもそも、〈奈落〉における罪はなんなのか。
問いの答えは、既に与えられているはずだった。
弱者であること。
『彼』の前を歩くのは女だった。
歩調を速めて先頭に追いつくと、まるで大欠伸でもするように口を開け――無防備な首に歯を突き立てる。
「ぎっ……!」
短い悲鳴が途切れると、空気の抜ける余韻が残った。
喉笛を容赦なく引き千切ったからだ。
薄い皮に、筋張った肉。それに臭みもきつい。最悪な歯応えだった。加えて、口を潤す血液はどろどろに濁っていて、喉越しのへったくれもない。
だが、補給には十分だった。
本能の赴くままに女を引き倒し、なおも覆い被さって貪る。
うまかろうともまずかろうともお構いなしである。
もはや、獣だ。
仲間たちがようやく状況を理解して、武器を構える。
その気配に『彼』は食事を中断し、月明かりの下に立ち上がった。煌々と輝く目が新たな獲物を見つけると、赤く染まった両手を差し伸べる。
呼び出そうとしているのだ。
イメージ――剣を――石室で掴んだように――今、ここに!
体から靄となって抜け出した魂の一部が、宙で形を成す。質量を得た物体は落下し、手枷を断ち切りながら地面に突き刺さった。
身の丈ほどもある巨大な剣だ。
柄の感触に手を馴染ませていると、頭の中にヴィジョンの濁流が押し寄せる。
見覚えのある石室である。
顔のぼやけたヒトが何かを喚いている。
叫び返そうとしても、塞がれた口からは「んーッ! んーッ!」という呻き声しか出てこない。
もうやめてくれ、と訴えたかったのだ。
しかし、見えない糸で操られて、ヒトへ斬りかかる。こうすれば相手を仕留められる。いつしか、そんな動きが魂に染みついていた。
こうして惨殺は繰り返されてきたし、これからも犠牲者は増えるだろう。
誰か早く、解放してくれ――
五感が現実に引き戻される。
槍の穂先を突き出してきた敵に対し、素人であるはずの『彼』は反射的に動いていた。
独楽のように体を一回転させたのは、刺突を避けるためだけではない。剣に遠心力を乗せるためだ。
一刀両断、である。
振り上げられた切っ先はそのまま半月を描き、背中側に倒れて土煙を噴き上げる。
乾いた大地に降り注ぐ血の雨が、囚人たちの歓喜を誘った。
その声も『彼』の耳には遠い。
意識は依然として立ちはだかる三人に傾けられていた。
不意打ちによる狼狽はもう見られない。一対一だとしても、力量差は明らかだった。
無理につきあうこともないか。
敵を倒すのではなく、自分が生き延びる選択肢を考慮したときだった。
突如として最後列の男が肩を震わせ、口からごぼごぼと血の泡を吐き出しながら崩れ落ちる。
背後に潜んでいたのは、小さな影。
「予定とはちと違うが……よしとするかノ」
少女が不敵な笑みを浮かべている。
手に握り締めた短剣は歪な形状の刃で、小型の斧にも見える。切れ味は抜群らしく、男の背中はざっくりと切り裂かれていた。
乱入者に、敵の注意が『彼』から逸れる。
その隙を見逃しはしない。
間合いを詰め、大剣を横薙ぎに叩きつける。刃の向こうで悲痛な顔を見た気がした。しかし、次の瞬間には上半身ごと吹き飛んでいたので、『彼』が銘記するには至らなかった。
最後の生き残りには、少女が襲いかかっていた。懐に飛び込んで短剣を埋める。躊躇いも無駄もない動きで、あっという間に屠ってしまう。
心強い――と『彼』は素直に思えなかった。むしろ、恐ろしさすら覚える。もしも少女がこちらに得物を向ければ、何が起きたかも分からぬまま命を断たれるだろう。万が一もある。すぐに戦闘態勢を解くことはできなかった。
ところが、少女のほうは短剣についた血糊をぺろりと舐めて、「うえ、まず」などとぼやいている。それから視線に気がついて、にっこりと微笑むのだ。
「初日とは思えん動きじゃナ。さながら〈暴風〉のような戦いぶりじゃったゾ」
「あ? ああ……」
「おヌシの腕っ節を見込んで、提案じゃ」
と、短剣を外套の内側に仕舞い込む。腰に鞘を吊るしているようだ。
こちらの気を緩ませる一手か、とも思われたが、『彼』には自信がなかった。
少なくとも、少女の肩からは力が抜けている。
「ここの主はそりゃもうたらふく魂を喰らっとると聞く。そこで、じゃ。ワシとおヌシで、そやつを喰ってしまわんか? ほれ、よく言うじゃろ。えーと、墓穴に入らずんば――」
「虎穴に入らずんば虎子を得ず、だろ」
「そうそう、それじゃヨ」
「つまり――お前はこいつらのボスを狙って、食料庫の中でチャンスを窺っていたのか?」
「ご理解いただけたかノ」
少女はこくりと頷く。
「で、どうする。話に乗るかネ?」
「……一つ、答えてくれ」
「うむ」
「もし俺が失敗していたら、見捨てていたのか?」
「当然じゃ」
あっさりとした返事だった。少しも悪びれる様子はなく、堂々としている。
「逆に、ワシが危機に陥ったときも遠慮なく見捨てて構わん。提案しているのはそういう関係じゃヨ」
協力というより、利用し合うようなものだった。
とはいえ、この〈奈落〉においては単純明快な人間関係なのかもしれない。
申し出を検討してみる。
食料庫を運営する主人からごっそり〈エッセンス〉を奪うことができれば、今とは段違いの力を手に入れられるかもしれない。
生き残るためには力が必要だ。
ならば、この機を逃すのはもったいない。
思索に費やした時間は短かった。
「乗るよ、提案に」
その答えを聞いた少女はぱあっと表情を明るくする。
「ようし! 主以外の輩どもを喰らう権利は仕留めた者にある、という契約でどうじゃ。異論はあるかネ」
「それは構わないが……殺した数でも覚えておくのか?」
「一目瞭然じゃヨ」
足元に転がる死体をぐるりと眺め回す。原形を留めている物と、ミンチと化した物が混ざっている。
「ワシのやり方はスマートで、おヌシのは乱暴じゃ」
「……なるほど」
「さ、話はまとまったようじゃし、主の館へ殴り込もうではないか」
「誰のやり方がスマートだって?」
溜息をつきながらも、『彼』は息絶えた魂に歩み寄る。戦いに備えるべく、食事を再開したかったのだ。
「すぐに済ませる」
「よかろう」
嫌悪の欠片もない快諾だ。
一方で、解放を求める捕虜たちに、少女は短剣を突きつけて黙らせる。
『彼』に対する態度とは大違いだった。