[4] 少女は無垢に刃を振るう (上)
なんだか騒がしい。
ずきずきと痛む頭を持ち上げて、『彼』は周囲を探る。
木造の小屋だ。床は地面が剥き出しのままで、壁には格子戸がついている。そこから外の様子が窺えた。
外は薄暗い。空には白く輝く球体が浮かんでいる。でこぼこがはっきりと見て取れる近さだった。
〈奈落〉の月である。
そこから降り注ぐ光が、他の同じような建物を照らした。
ヒトではない他の生物の手が檻を掴んで揺らしている。声も多種多様だ。
「オレ、どうなっちまうんだ……」
「ねえ、地面が熱くて座ることもできないの。ねえ、誰か……」
「くそッ、あいつら、寄ってたかってボコボコにしやがって!」
「助けて! どうしてこんな凶暴なヤツとボクを同じ部屋に……ああ! 喰われる!」
凄惨たるものだ。『彼』が連れてこられたのはろくでもない場所らしい。さしずめ、動物園といったところだろう。つまり、人間の感覚でいえば、牢屋である。
そんな中、向かいの檻からこちらの様子を見守っていた双眸が叫んだ。
「あんた、〈竜の対話者〉だろ! とぼけた顔をすんなって! あんただよ、あんた!」
視線は『彼』に釘づけだ。
なんのことかと不安を覚えながらも、そっと格子に顔を近づける。
「……俺か?」
「そうだ! 兵士たちがあんたを〈竜の対話者〉だって話していた! ここから出られないのか?」
試しに格子へ手をかけるが、押しても引いてもびくともしない。
「無理みたいだな」
「そうか……あんたでもダメか……」
声の主はあからさまに落胆を示し、牢屋の奥へと引っ込んでしまった。
随分な態度である。勝手に期待しておいて――と、『彼』は肩を竦めた。とにもかくにも、一刻も早く脱出したくなるくらいに危険な状況らしい。
手元に自分の剣はない。竜にへし折られて、失ってしまったのだ。
「いやはや――」
と、背後で幼さを残した声が発せられた。場違いなほどに明るい。
「よく眠っておったナ、〈対話者〉」
「だ、誰だ!?」
「そう身構えるでない。ワシゃ、襲ったりせんゾ」
月の明かりも届かない暗闇で、何者かがけらけらと笑っている。
目を凝らしてみれば、人間の少女が部屋の隅に座っていた。長い髪の毛先が土に触れているが、全く気にしていない。
『彼』とは違い、ちゃんとした身なりだ。小柄な体にポンチョを纏い、すらりと伸びる足の先にはブーツを履いていた。
端整な顔立ちである。人懐っこそうな大きな深緑の瞳が『彼』を見つめる。
しかし、だからといって気を許すのは浅はかというものだ。容姿だけで判断するなら、あの小憎たらしい天使だって人畜無害そうな子供だった。ここは〈奈落〉。警戒するに越したことはない。
それに、十代半ばにも達していないであろう年齢にしては、奇妙な口調だった。
「見ての通り、ワシは束の間の同居人じゃ。ま、ここで会ったのも何かの縁じゃろ」
「あまり嬉しくはない縁だな」
「つっけんどんじゃノ」
少女はにこりと微笑む。他の魂たちとは違って、余裕が感じられた。
「それで、夢は見たのかネ?」
「……いいや?」
「ふむ。やはりダメか。――なに、ちょっとした興味じゃヨ。おヌシも睡眠を満喫できたのだから、不幸中の幸いじゃったナ」
「気絶していただけだぞ」
「それが幸運なんじゃ。普通は死んどるヨ」
溜息交じりに呟きかけた少女がこちらをじろじろと眺め回した。
「おヌシ、〈奈落〉に来てから日が浅いのか?」
「一日目だ」
「なんと! 面白い巡り合わせじゃのう!」
再び、少女が声を上げて笑った。嘲笑ではない、さっぱりとした感情表現である。
「たった一日で、竜と遭遇し、この食料庫にやって来たというワケか!」
「……食料庫?」
「そうとも。ワシらは間もなくここの主の糧となるんじゃヨ。ほれ――」
少女の視線を辿る。
見覚えのある男たちが現れて、向かいの牢屋を囲んだ。数人が檻に踏み込むと、間もなく肉を打つ鈍い音とくぐもった悲鳴が響き渡る。
それが静かになったかと思うと、男たちはよろめく囚人と共に外へ出てきた。
囚人はシカだ。
後ろ足の二足歩行で、パンツだけを吐いている。体毛がびっしりと上半身を覆うが、今は血に濡れて肌に張りついていた。
頭に立派なツノを生やしているので、恐らくはオスだろう。檻の出入り口に一度引っかかるが、笑い事ではなさそうだ。
手首――あるいは、前足首――には枷が嵌められているものの、もはや抵抗の意志は見られない。
ところが、『彼』と目が合った途端に、男たちの腕を払いのけようと暴れ出した。
「〈竜の対話者〉! 頼むよ、助けてくれ! 生まれ変わって、もう一度あの草原を駆けたいんだ! なあ、次は、あんただぞ!」
歪んだ形相に、『彼』はじりじりと後ずさる。動物の顔に表情などないと思っていたのに、シカからは必死さが伝わってくる。言葉が通じているのだ。心情も理解できてしまうはずだった。
「お、俺は……」
助けてやりたいのはやまやまだが、『彼』とて脱出する術を知らなければ力もない。成り行きを傍観するしかなかった。
「構うでない」
傍らに少女がそっと立って、感情のない瞳でシカを見据える。
「〈奈落〉は弱肉強食の世界。こやつは弱き者だっただけのことヨ」
「おい、偉そうに、ヒトの小娘め! あんただって狭苦しい牢屋に閉じ込められているじゃないか!」
「ふふ、違いない。のんびりと迎えを待つとしようかノ。のう、〈対話者〉」
「あんたら……祟ってやるからな!」
シカが空しく吠えるも、力ずくで暗闇へと連れ去られてしまう。残響がいつまでも耳の奥に木霊した。
曇る顔色を、少女が興味深そうに覗き込んでくる。
「ふふん、おヌシが気に病むこともなかろう」
「助けたいって思うのは当然だろ」
「実にうまそうな肉じゃったしナ」
「そうじゃない!」
「なんじゃ、断食を貫き通して、アリにでも生まれ変わるつもりかネ」
「それは……」
「他者など所詮、喰えるか喰えないか、でしかないゾ、〈対話者〉」
反論できずに、『彼』は口を噤む。
恐らくは少女が正しいのだろう。天使も言っていたはずだ。魂に貴賎はない。だから、力で順番を決めるのだ、と。
誰もが生まれ変わりたいと願っているはずなのに――と嘆いたところで、神が決めたシステムならどうしようもない。恨むなら天を恨んでくれ、である。
ごちゃ混ぜとなった感情を溜息と共に吐き出してから、少女に問い質す。
「さっきから、その、〈対話者〉っていうのはなんなんだ?」
「おヌシのことじゃヨ。竜と出くわしたんじゃろ?」
「ああ」
「あやつから生き延びた者は一人としていない、というのが巷で囁かれている噂じゃ」
「巷?」
「ほれ、言霊は千里を駆ける、じゃ」
「それを言うなら、悪事千里を走る、だ」
少女はむっと眉をひそめる。
「なんでもいいじゃろ。つまり、そういうことなんじゃから」
「〈奈落〉ってのは、狭い世間なんだな」
「うむ。ここの主もおヌシに関心を持っとるようじゃゾ」
「食料庫、だったか?」
文字通りなら、牢屋に閉じ込められている魂たち全員が、いずれは喰われる運命にあるのだろう。
どうにかして脱出しなければ。
しかし、敵は組織である。数人で徒党を組み、魂を集めてくる――確かに、独りで戦うよりも安全で効率的だ。
自分が敵うのだろうか。得物だって奪われたままだ。
ふと視線を向けると、少女がにやりと微笑んでいる。
「おヌシの考えを当ててやろうか」
「武器がないってのは困ったもんだ」
「……ワシが当てると言うとるに!」
「で、何か手があるのか?」
頭に血を上らせて食いかかろうとしていた少女は「む」と唸り、腕を広げてみせた。
「わ、ワシはご覧の通り、しがない魂じゃ」
「その割には余裕がある。覚悟を決めたという感じでもないしな」
「ぼんやりしとるかと思えば、案外、鋭いではないか」
小声で呟くと、ぴしゃりと手を打ち合わせる。
「よかろう! 教えてやるから、ありがたく思えヨ。武器なんぞ、いくらでも作り出すことができるのじゃ。〈奈落〉を訪れる前に、〈エッセンス〉がどうのこうのと教えられてはおらんかノ?」
「聞いた覚えがあるな」
他者を喰らって〈エッセンス〉を集める。肉体や武器を形成する元素。あなたという魂が保有する――天使の言葉だ。
「どうやって作るんだ?」
「……それは説明できん。何せ、感覚によるところが大きいからナ。それにじゃ。おヌシ、まだ魂を喰らってないんじゃろ?」
「石室で一人、喰ったぞ」
「そいつの分は肉体に使ったはずじゃヨ。おヌシ、自分の顔を知ったのはいつじゃ?」
思い出してみると、石室を出るとき、剣に映った顔を見たのが初めてである。それまでは自分の姿が漠然とした人間でしかなかった。今なら鏡の前に立たなくても、当然のように思い描けるだろう。
「なあに、〈エッセンス〉が足りんなら補給すればいいだけじゃ」
少女は声を低めて、檻から下がった。
「エサなら向こうからやってきたゾ」
耳を澄ませば、足音が聞こえる。再び、男たちが食料庫へとやってきたのだ。
怯える囚人たちが一斉に騒ぎ出す。
〈奈落〉は弱肉強食の世界。生き延びるためには、聖人君子ではいられない。そうとも、やるべきことは石室のときと同じだ。
その一、気を引き締める。その二、危険を排除する。その三、連中を喰らう。
……よし。
男が牢屋の前に立ったとき、『彼』の目は暗闇の中で静かに瞬いていた。