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[3] 空腹を満たすには足りぬ


 切り立つ崖から大地を見下ろす影がある。

 襲撃者に怯えることなく、全身を日の光に晒している。

 天敵はもはや存在しない。

 ありとあらゆる者たちを喰らってきたからだ。

 今となっては、誰もがその影を恐れ、決して狙われぬように身を低くする。

 ヒエラルキーの頂点。即ち、〈奈落〉の王である。

 その目が一人の魂を見つけ出す。

 魂は視線に気が付きもせず、弱々しい足取りで放浪していた。

 退屈な悠久の時を紛らわせる戯れにはちょうどいい。

 影が猛然と飛び立つ。

 気まぐれは王の特権だ。




 黒ずんだ土埃を吸い込んで、『彼』は咳き込んだ。

 初めが石室だったので、そこを出た先もコロシアムのような閉ざされた空間かと思っていたのだ。しかし、想像に反して視界に映るのは、果てしなく続く荒野である。

 空に昇った血色の太陽が燦々と輝き、吹き抜けた風には錆の臭いが混じっている。

 加えて、地表を走る高熱が悩ましい。魂を焙る自然の拷問だった。


 そんなところへ放り出すには、いささか所持品が足りないのではなかろうか。そんな文句をここにはいない天使に向けて念じる。

 身に纏った衣服は、ぼろぼろの布切れだ。靴もない。とっくに足の裏には数えきれないほどの擦り傷ができていた。

 それよりも頭を悩ませたのが、大剣だった。

『彼』が監獄に幽閉された囚人なら、剣は鎖に繋がれた鉄球といったところだろう。

 いっそ手放そうかと考えるたびに、石室での戦いを思い出す。身を守るためには必要不可欠だ。

 もちろん、いざとなったら大剣を捨てて逃げればいい。

 命に比べたら、固執する理由もないはずだった。


 見渡す限り、人影は一つもない。

 一万年待ちの列ができるほどの死者数だ。亡者のひしめく地獄絵図だとしてもおかしくはないのだが、あまりに静かすぎる。

 却って、不気味なくらいだ。


 心当たりがあるとすれば、石室を後にしてから感じている震えだ。

 地震、ではない。大気が振動しているのである。

 いつまでも消えないので、突発的な現象ではないだろう。〈奈落〉特有の環境かと思っていたのだが――


 違う。

 鳴動が一気に強まって、『彼』の身を竦ませた。

 何かがこちらへ近づいてきているのだ。

 何か、ってなんだ?

 分からない。

 無意識に握り締めた剣の柄も小刻みに震えている。それとも、自分が動揺しているだけなのか。

 そんな判断すら付かなくなっていた。

 注意深く周囲を探る。

 特に不審な物体は――


 ふっ、と。

 巨大な影が『彼』を呑み込んだ後に、突風が押し寄せた。

 太陽が雲に隠れたのではない。暗くなっているのは、周りだけだ。

 ……空か!

 頭上を仰いだ『彼』は、そこに浮遊する者を目の当たりにして愕然とした。


 一目では全貌を把握できない。

 腕のつけ根から、数本の骨が放射線状に突き出す。その間には分厚い皮膜がぴんと張られていた。翼だ。それで空を羽ばたいているのだ。

 筋肉の束が隆起する足に踏み潰されたら、ひとたまりもない。

 最初の衝撃から解き放たれた『彼』は、影の下から走って逃れる。


 不要な贅肉を排除した体は赤褐色の鱗に覆われている。

 尾を優雅にたなびかせ、頭は地べたを這いずり回る者へ向けられた。――うねる長い首、口から覗く鋭い牙、獲物を捉えて細まる瞳、荒々しい息遣いに合わせて膨らむ鼻。


 実際に姿を見たところで、正体がすぐに分かるはずもない。

 何度も振り向きながら、異形の姿に相応しい呼称を探す。

 翼を持ち、爬虫類を連想させる、巨大生物。

 そう、竜だ。

〈奈落〉にはこんな化け物まで住み着いているのか!?


 叫ぶ余裕もありはしない。

 竜が旋回しながら高度を下げる。

 この荒野で逃げ隠れは無理だ。『彼』ほど不運な魂は他にいないに違いない。よりにもよって、最初の遭遇でこれとは!

 予感はあったはずだ。竜と知っていたら、回避もできただろう。

 だから、今まで誰とも出会わなかったのか。

 自分の間抜けっぷりに歯噛みする。

 後悔するときはいつだって手遅れなのだ。


 竜が降り立つと同時に、大気を伝う威圧がどっと激しさを増す。

 万物が恐れをなしている。

『彼』とて例外ではない。

 不可視の手によって心臓を締め上げられるようだった。


〈奈落〉は強き者が生き残り、弱き者は滅びる世界である。

 どちらが弱き者か、第三者の視点からすれば明白だろう。

 だからといって、黙って丸呑みにされるほど『彼』は投げやりではない。

 かろうじて残っていた気力と祈りを込めて、大剣を振り回す。

 だが、奇跡が起きるはずもない。

 竜は右手の人差し指をちょいと立てただけで、分厚い刃を受け止めるどころか叩き折ってしまった。


 無用の長物を手放す。

 ほら、身軽になったぞ。

 まだできることがあるとすれば、背を向けて走るくらいだ。

 そう、さっきから体に命令しているのに、ぴくりとも反応してくれない。

 竜は棒立ちになった『彼』を鷲掴みにして引き寄せた。もう少し強く握れば、レモンのように血を絞れるだろう。

 そうせずにじろじろと観察しているのは、どこから齧ろうかと吟味しているのか。

 絶体絶命だ。

 いよいよ、口がぬらりと唾液を引きながら開かれる――

『彼』は消滅の恐怖に屈して、目を閉じた。


「ふむ」

 しゃがれ声が鼓膜を震わせた。

「我に刃向かう、その意気やよし」


 幻聴、だろうか。

 恐る恐るまぶたを開けてみても、近くに『彼』以外のヒトはいない。

 とすると、言葉を操っているのは――


「汝に語りかけておるのは、この我よ」


 竜以外に考えられない。

『彼』は悔し紛れに睨みつける。


「……人の言葉が分かるのか?」


「汝が言霊を紡ぐのであれば、我が紡ぐのもまた言霊よ。意思の伝達など容易いことだ」


「なら、俺の質問に答えられるよな? お前はなんなんだ! 〈奈落〉に居着く化け物なのか!?」


 竜は、くわ、と口を大きく開いてみせた。笑ったのかもしれない。

 ずらりと並んだ歯が鋭く輝く。口腔の奥は洞窟のように深い。生きて体内を探検できる者はほとんどいないだろう。

 何度か息を吐き出すたびに、唾が撒き散らされる。

 慌てて顔を背けるも、頭から体液を浴びる。熱と痛みが肌を刺激する。酸だ。幸いにも致命傷を負うほどではないが、平気でもなかった。


「消滅するまで我に屈さぬか。それもよいだろう」

 竜はにやりと頬を吊り上げた。

「かつての我も、汝と同じく脆弱な魂であった。だが、力を欲し、血肉を喰らうこと幾万、この身を手に入れたのだ」


「同じ魂だって?」


「左様!」


 激昂と共に腕を空高く持ち上げると、『彼』を真下に投げつけた。たったそれだけの動作が凄まじい破壊力を生んで、大地にクレーターを作り出す。

『彼』は無力にも受け身を取れないまま、地面をバウンドしながら転がった。全身が砕け散る寸前で、意識だけはどうにか繋ぎ止める。

 息を確かめに来たか、竜が顔を覗き込んできた。


「汝ごとき塵芥では、我が空腹を満たすには足りぬわ! 喰うか喰われるか、〈奈落〉の摂理の末に再び相見えようではないか、未熟者よ」


「く、そっ……」


「汝が捕食者であり続けられるのなら――」

 大きな影が『彼』を包む。翼を広げたのだ。

「いつか『化け物』という言霊が汝に返ってくるだろう。心得ておくのだな」


 どういう意味だ。

 問いが言葉になる前に、竜は大きく羽ばたいた。

 巻き起こった砂塵が『彼』の呼吸を妨げる。しかし、自分の体にのしかかるプレッシャーからは徐々に解放されつつあった。

 見逃してもらったのだ、今は。

 やがて影は、身動きできない『彼』をその場に残して消えた。



 彼方から、ヒトの集団が駆け寄ってくる。

 それぞれ、武器を手にしていた。食べ残しを横取りしようとするつもりか。

 まずい――早く回復を――このままでは――……


「よし、このまま食料庫に運ぶぞ」


 竜と比べたら威圧感の欠片もない男の声を最後に、『彼』は気を失った。

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