[2] 最も尊ばれるべき価値観は
「試練に際して簡単な説明をさせていただきます」
『彼』はぎこちなく頷く。何をやらされるのだろうか。
賽の河原で石を積む苦行かもしれない。せっせと塔を作る自分と、完成間際になったら邪魔しに来る天使。その光景がありありと目に浮かぶ。
エレベーターが止まる。
到着したのは薄暗い石室だった。
向かい側に、扉がもう一つある。あちらはどこに通じているのだろう。一刻も早く、天使の監視下から離れたくて仕方がなかった。
部屋の中央には、西洋甲冑が佇んでいる。その手には、鈍い光を放つ両刃の剣が握られていた。
博物館の一室、ではなさそうだ。
兜の中からは「んーッ! んーッ!」と不気味な呻き声が漏れている。新たな案内人だろうか。罵倒される心配はないものの、却って意思疎通が難しそうだった。
不穏な気配が立ち込める。
まさか、真剣ではあるまいな。
そっと甲冑男を窺ってみたところで、まともな返事は聞けなかった。「んんッ! ん、んーッ!」と喚くばかりである。
この調子だと、天使が引き続き案内を務めるようだ。
「……何を始めるんだ?」
「そこに武器があるでしょう」
と、天使が壁を指差す。
「手に取ってください。どれを選んだって構いませんから」
構わないと言われても、と『彼』はいぶかしむ。用意されている武器は一つしかない。ならば、その柄を掴むしかなかった。
ずしりとした重みが腕にのしかかる。片手では持ち上がらない。両手ならどうにか引き抜けそうだ。
これは一体、なんなのだろう。
斧か、槍か、はたまた棍棒か。
いいや、剣だ。
それも、甲冑男が持っている物とは似ても似つかない、身の丈ほどの刃を持つ大剣だった。柄となる棒に分厚い鉄板が接合されている、と表現するのが正しいなまくらである。
足元がおぼつかない。剣を振り回す、ではなく、剣に振り回される始末だ。
「それがあなたの武器です。大事に使ってくださいね」
「だ、大事にって……」
使う。剣を? どういうことだ。
天使と甲冑男とを見比べる。
二人の人間が武器を手にして向かい合えば、やることは一つしかない。
予感はとっくに確信へと変わっていた。
「では、早速始めましょう。ステップ・ワン! 試練は常に危険と隣り合わせです。気を引き締めてくださいね!」
天使の手拍子に応じて、甲冑男がギギギと軋みながら腕を持ち上げる。
まるでからくり人形だ。
かと思えば、いきなり俊敏な動きとなって、剣を突き出してきた。
「うわっ!」
咄嗟に身をよじるも、脇腹を浅く割かれてしまう。『彼』の反射神経がもう少し鈍ければ、まともに腹を貫かれるところだった。
甲冑男は自分を殺すつもりだ。
心臓がばくばくと脈打って息苦しい。
脳に酸素が行き届かず、眩暈まで起きていた。
「いいですねェ! あなた、才能がありますよ! ここで消滅する魂がざっと十億はいますからね!」
「……え!?」
「おや、言い忘れてましたか。こりゃ失敬。この世界での死は魂の消滅です。当然、生まれ変わることもできないので、気をつけてくださいね」
天使は悪びれもせずに舌をぺろりと出した。
「さあ、集中して! ステップ・ツー! 振りかかる火の粉は払うべし。危険を排除しましょう! ほら、早く!」
そう急かされても、大剣を構えることすらままならない。
手こずっている間に、甲冑男は容赦なく剣を振り上げて襲いかかってくる。
こうなったら武器を捨てて逃げよう。
頭の中では冷静に考えていたはずだった。
しかし、体が追いついていない。
手も足も震えて動かないのだ。
「あーあ、おしまいか」
天使がつまらなそうにぼやく。
「笑い話にもなりませんね。ま、気に病む必要はありませんよ。無になりますから」
無。
たった一語が『彼』に激しい衝撃を与えていた。
気がついたらあの世に来ていたというのに、その上、ワケも分からないまま殺されてしまうのか。
目の前に白刃が迫ってくる。
その瞬間、少女の笑顔を思い描く――
死にたくない!
本能の命じるままに大剣の柄を掲げ、剣身の陰に隠れたのが功を奏した。
防がれるとは思っていなかったのか、一撃を弾かれた甲冑男は大きく仰け反ってよろめく。
今だ。
「わあああッ!」
全身全霊の力を振り絞って大剣をぶん回す。叩きつけた刃から、繊維状の何かをぶちぶちと断ち切る感触が柄を持つ手に伝わった。
得物の重みを制御できずに甲冑男と衝突し、二人は揉みくちゃになって転ぶ。
金属の奏でる騒音がけたたましく反響した。
床を滑るように倒れた『彼』は、強かに腰を打って悶絶する。
すぐに起き上がらなければ。
近くに転がっている大剣を引き寄せようとして――柄がぬるっと滑った。
温かかった。
手に赤い液体がべったりと付着している。
血だ。
『彼』はしかめっ面を上げ、はっと息を呑んだ。
甲冑男からおびただしい量の血飛沫が上がっている。
体は一文字に分断されていた。
ぴくぴくと痙攣していた手が、やがて力なく指を開く。
死んだのか?
……俺が殺した!
罪悪感が芽生えるよりも先に、熱した鉄を押しつけられる苦痛に顔を歪めた。『彼』の脇腹からもまた、血が止め処なく溢れているのだ。
異様な静けさの中、拍手が鳴り響く。
静観していた天使だった。
「おめでとうございます! あなたは逸材ですよ!」
能天気な称賛が不可視なハンマーとなって『彼』の後頭部を叩きのめす。
「散々けなして、すみませんでした。見かけで判断してはいけませんね。えへへっ」
「……なんなんだ、これは!」
「習うより慣れよ、です。何をすべきか、これでようく分かったでしょう?」
「試練って――まさか殺し合いなのか!?」
「殺し合いだなんて恩知らずな物言いだなあ」
天使は笑顔を崩さずに、冷たい目で這いつくばる者を見下ろすのである。
「みなさんが勝手に来世を選んでは混乱が起きる。かと言って、こちらで決めるにしても、魂に貴賎はありません。そこで、神々は平等にチャンスを分け与えることにしたのです」
「う、生まれ変わるまで、こんなことを繰り返さなきゃいけないのか……」
「いえ、今後は逃げ続けてもいいんですよ。試練は期限つきです。私たちが迎えに来るまでうまく生き延びれば、ドブネズミくらいには生まれ変われるかもしれません。まあ、観戦している側にとってはクソつまんないオチですけどね」
「……悪趣味なヤツめ!」
「けッ、てめえでも来世の夢が見れるんだ! ありがたく思え!」
ずかずかと歩み寄った天使が『彼』の脇腹を爪先をめり込ませた。
衝撃が内臓にまで浸透する。
「ぐう……っ」
「さて、ステップ・スリー! そいつを喰らいなさい」
うずくまっていた『彼』がびくりと肩を震わせる。
今、こいつはなんて言った?
聞き間違いを祈るが、その言葉は平然と繰り返された。
「魂たちの頂点に立つには、他者を喰らって〈エッセンス〉を集めるのです」
「〈エッセンス〉?」
「その肉体や武器を形成する元素ですよ。あなたという魂が保有する量がそのまま力になりまして――まあ、実際に喰らってみてくださいな。傷も治りますよ」
天使はヒトをただの肉の塊としか観ていないのだろうか。
野生の獣なら分かる。
飢えを凌ぐために、同類を喰らうこともあるかもしれない。
だが、『彼』はヒトである以上に人間だ。
倫理観を持っている。
だから、記憶の彼女に思いを馳せ、天使の侮蔑に苛立ちを覚える。
甲冑男の死を目前にして、未来の自分を想像するのだ。
恐る恐る甲冑男へ手を伸ばし、面甲を開けた。
三十代くらいの男だ。
顔は恐怖で醜く歪み、まともに見れたものではない。
その口にボールギャグが噛まされていた。だから、あんな獣じみた声を上げていたのだ。何を喋ろうとしていたのか。
『死ね』? それとも『助けて』?
今となってはどうして男が襲いかかってきたのかも分からない。
虚ろな目に責められている気がして、『彼』は弱々しく首を横に振った。
「そんな、許されるはずが……」
「まあ、いい子ぶるのも分かるんですけどね、私に言わせてもらえば、くだらねェ! ですよ。この世で最も尊ばれるべき価値観は、弱肉強食なんです」
「俺にはできない!」
「では、一万年、ここでお待ちになってください、タマなし野郎。いや、私のよしみで、なんと! 一年減らして! 九九九九年にしましょう! 出血大サービスです。もっとも、血を流したのはあなたとそこのゴミクズですけどね――ひひひッ」
天使が嘲笑いながらエレベーターへと戻る。
自分を捨てていくつもりか。
捕まえようと伸ばした手が空を切る。
「ま、待て!」
「すみませんねェ。私も次の人の案内でお忙しいもので、てめえごときに構っていられねェんだよッ!」
そんな罵倒を最後に、天使は石室から去った。
ここから逃げ出す術はないのか。
『彼』もエレベーターへ飛びついたが、引き戸は固く閉ざされている。操作パネルを乱暴に殴っても無反応だ。
もう一つの扉もダメだ。体当たりをしてもびくともしない。
無駄な抵抗をするたびに、腹から血が流れ落ちる。
……刻一刻と『彼』の意識が薄れゆく。
不意に足から力が抜け、血溜まりに倒れ込んでしまった。
痛みは感じなかった。麻痺しているのだ。
九九九九年だって? こんな状態では十分だって耐えられないぞ。
天使の声が再生される。
もちろん、慈悲の言葉ではない。
地獄に突き落とす囁きだ。
実際に喰らってみてくださいな。傷も治りますよ。傷も治りますよ。傷も――
心の天秤が大きく傾き始めていた。
よく考えてみろ、この男は死んでいる。いくら義理立てたところで蘇りはしないし、自分も助からない。
罪悪感に苛まされてチャンスを放棄するくらいなら、あのとき何故、反撃なんてしてしまったのだろう。
死にたくない、と願ったはずだ。
今再び、獣の本能が囁いている。
喰わねば死ぬ。
迷いは捨てろ。
「――……」
口を床につけて血をすする。
渇いた喉に染み渡る味だった。
「まったく、チキンの次はノロマとはツいてねェな。掃除する身にもなれって――」
毒づきながら石室に戻ってきた天使が動きを凍りつかせる。退屈そうだった表情が見る見る満面の笑みに変わっていった。
「もう、やればできるじゃないですか。呑み込みが早いですよ、あなた。あ、大食いって意味じゃないですからね」
『彼』は暗い眼差しで天使を睨みつける。脇腹の傷は綺麗に塞がっていた。
部屋の隅には甲冑が放られている。身を残らず取り尽くされたカニのように。
それは間違いなく第一歩だった。
新しい世界に歓迎されるために、通過儀礼はつきものだ。
「これにて入門編は終わりです。後はこれを持っていってください」
と、天使から手渡されたのは銀の懐中時計である。
文字盤に数字は記されておらず、針も一本しかない。
「これは我々が迎えに来るまでの時間です。針が一周したとき、懐中時計の位置情報をこちらに発信する仕組みなので、紛失しないように気をつけてくださいね」
「分かった」
石室を旅立つときが近づいていた。
持ち上げた大剣の刃に、十代後半の東洋人が映り込む。
記憶にも残っていない自分の顔と相見えるのは不思議な気分だった。しかし、魂では知っていた。これが俺なのだ、と。
天使はもう一つの扉を押し開けると、埃っぽい風が吹き込んできた。
外だ。
慎重に一歩を踏み出す『彼』の背中に、吐き気がするほど爽やかな声がかけられた。
「〈奈落〉へようこそ、暴食の申し子さん。健闘を祈っていますよ」
当分会うこともないなら、憎まれ口の一つでも叩き返してやろう。
そう意気込んで振り向いた『彼』は、鬱憤を晴らせずに肩を落とした。
今しがた通ってきた石室の、影も形も消え失せていたのだ。
視線の先には果てしない大地が広がっているだけである。
そして『彼』は悟る。
後戻りは、もうできない。