[14] こんな世界、初めから
森のなだらかな傾斜を下る途中、『彼』は背中をつつく視線に振り返った。
「……おい」
「な、なな、なんじゃ!?」
少女は小さく飛び上がり、長い髪を浮かせた。
ここのところ、様子が変である。特に『彼』に対して警戒心を露わにしているようだった。
「なんぞ、魂の気配でも感じたのかネ?」
「ああ、気配ならずっと感じている」
骨ばった手で少女を指差す。幾度となく変質を繰り返した肌はがさがさに硬く、黒ずんでいる。爪も柔らかい物なら切り裂けるほど鋭くなっていた。
「お前、何か企んでいるのか?」
「わ、ワシが? なーんも! 企んどらんゾ!」
大げさな身振りで否定する少女は、不審そのものだ。
彼女は視線を小動物のように周囲へ巡らせ、慎重に『彼』の隣に並んだ。
「……のう、獲物を探しとるのか?」
「ああ。食事の必要がなければ、こんな風に歩き回ったりはしない」
「おヌシ、考えたことはないのかネ」
少女は自らの平坦な胸に手を当て、じっと見上げる。
「獲物ならここにおる、と」
その言葉に、『彼』は足を止めた。濁り水でも波紋は起きる。鋭い眼光を翳らせ、彼女の挑戦的な視線から目を逸らした。
「〈奈落〉暮らしがイヤになったなら俺が喰ってやる。今、そういう気分なのか?」
「ご生憎じゃナ。ワシはまだ来世に愛想を尽かしとらん。おヌシが変な気を起こそうものなら、こいつでぶっ刺してやろうと思っとったワ」
彼女が後ろ手に隠していたのは短剣だ。
「じゃあ、試すなよ」
肩を竦める一方で、確かに考えたのだ。
こいつも相当な〈エッセンス〉を溜め込んでいる。それを奪えば、力が手に入る。
だが、協定はまだ生きている。
互いを利用し合う関係。
自分が危なくなったときにはこいつを盾にするついでに喰らってしまおう。
そんな目を彼女へ向けたことに、『彼』は些細な違和感を覚えた。
それが何に対する違和感なのかも、分からない。
隣にいるヤツをただのエサだと認識して、何がおかしいんだ?
「……クロ!」
少女に呼び止められ、沈みかけた意識を外の世界へと向ける。
短剣の切っ先はこちら――ではなく、道の先に向けられていた。
「何か落ちとるゾ。んん? どこかで見たような……」
銀色の輝きを放つそれは、一定のリズムを刻んでいた。少女の手のひらに乗るほどの大きさで、鎖がついている。
ガラスに封じられた円盤と、一本の針。
「懐中時計じゃナ」
拾い上げた少女は、周囲に持ち主がいないかどうかを探してから『彼』に放った。
鎖を掴み、眼前に引き寄せた『彼』は、もう、今となっては遠い記憶を蘇らせた。
「ああ、確か〈奈落〉に来たとき、天使に渡されたな」
「うむ。ワシも持っとるゾ。時間が来たら迎えに来ると言っとった。……ぬあ!」
いきなり規制を上げた彼女は、地団駄を踏んで暴れた。
「あやつ、思い出しただけで腹が立つワ! なーにが、『レクチャー!』、じゃ。右も左も分からぬワシを殺しかけおって!」
「俺を案内したのも、多分そいつだ」
懐から時計を取り出す。今まで気にしていなかったが、針は半分ほど進んでいた。
「お前は、後どのくらいだ?」
「ワシは……」
少女が外套の下から出した時計は残り四分の一ほどである。
「ほれ、もうじき迎えが来る」
「そうか、俺よりも先に来ていたんだったな」
「うむ」
と、少女は俯き加減に答える。
「悪く思うでないゾ、クロ」
「何が?」
鼻で笑い飛ばした『彼』は二つの懐中時計を仕舞った。
「迎えが来るまで、戦いは終わらないんだ。気を緩めるんじゃ――」
言葉の途中で、地面から影が飛び出してきた。
魂。何故、感知できなかった。
その理由は、襲撃者が『彼』の足ほどの肉体しか持っていなかったからだ。
ネズミかと思われたが、胴は長く、前足の爪が発達している。
モグラ!
『彼』が大剣を振るうよりも素早く、モグラは少女の手を引っ掻いた。
「いたっ……」
それも白い肌に浅い傷をつけたに過ぎない。
だが、彼女が自分の時計を手放してしまうには十分な攻撃だった。
モグラは鎖を咥え、再び地面を潜っていってしまう。
「と、時計が狙いじゃと!?」
「……言わんこっちゃない!」
『彼』は天使の言葉を想起したままに叫んだ。
「針が一周したときに、懐中時計の位置情報が発信される! お前に迎えが来なくなるぞ!」
それを聞いた少女は顔を真っ青にして短剣で地面を掘るも、時は既に遅し。彼女の手ではモグラの尻尾を掴めない。
彼女の手なら、だ。
「どけ!」
『彼』の声に、少女は素早く道の脇へ転がった。
天高く振り上げられた大剣をモグラの消えた穴に叩きつける。
もはや『掘る』ではなく『抉る』だ。深々とめり込んだ刃が土を捲り上げた。
再び日の下に引きずり出されたのはモグラだけではない。いくつもの懐中時計が宙を舞い、鎖のカーテンが『彼』の視界を妨げる。
少女の手元から銀閃が放たれる。短剣は衝撃に暴れる鎖の隙間を掻い潜り、モグラの腹を貫く。それでもなお勢いは止まらず、木の幹に縫いつけた。
雑音が木々を震わせた後でモグラの口が弛緩し、懐中時計を草の上に落とした。
「待ち伏せか。運がなかったな」
『彼』は大剣を地面に突き刺し、時計の一つを拾い上げた。
「……コレクターなのか? こんな物、〈奈落〉じゃ価値なんてありもしないのにな」
「いや、価値はあるゾ」
少女は地面にできた穴を跳び越えた。時計を取り戻した手が震えていることに、『彼』は気がつかない。
「おヌシには分からんか」
「ああ、さっぱり」
「じゃろうナ」
何かしら思うところでもあるのだろうか、少女は小さな肉体を再生するほどの〈エッセンス〉も持たないモグラを見つめて呟いた。
「こやつなりの、〈奈落〉から出るための作戦だったんじゃヨ。よう考えたもんじゃ。時計を見つけた旅人が自分の物と見比べる。その隙を狙うとは……初めはきっと、自分の時計を使ったんじゃろ」
「だから、時計を狙う理由はなんなんだ」
「おヌシが言ったではないか。針が一周したときに発信されるのは、ワシらの位置ではなく時計の位置じゃとナ。自分の時計よりも針が進んでいる物を確保すれば、より早く脱出できるじゃろ」
「そういう手もあったか」
『彼』は「はん」と鼻で笑った。
「だが、そんなやり方じゃ〈エッセンス〉は集まらない。臆病者にまともな来世は用意されないんじゃ――」
「なら!」
今まで聞いたことのない、少女の叫び声が『彼』を黙らせる。彼女はこちらに背を向けたまま、両拳を赤くなるほど強く握り締めていた。
「どのくらい〈エッセンス〉を溜め込めば、ワシは人間に生まれ変わるんじゃ!?」
今まで考えもしなかった疑問だ。
天使は何も教えずじまいだ。教えられたことはただ一つである。
殺して、喰って、生き延びる。
『彼』はその教えを忠実に守り、目の前にいるエサを貪ってきた。
しかし、なんのために戦っているのだろう。
「ワたシだって、本当は……」
少女は木の幹から短剣を引き抜き、モグラを静かに地面へ下ろす。
その肉体は早くも融解を始め、風に消えてしまった。
「〈奈落〉暮らしがイヤになったら? こんな世界、初めから――それでも戦わねばならん! ……あの外道め! いっそ生前の記憶も奪ってくれれば、来世の夢なんぞ見もせんのに!」
「生前の、記憶……」
『彼』はどうしようもなく息苦しくなって、衝動的に大剣の柄を掴んだ。
彼女との付き合いは長い。〈奈落〉での時間間隔は狂っているが、それでも長らく行動を共にしていると断言できる。
少女は来世を強く望んでいる。ゆえに、危険も顧みないときがある。短剣捌きだって芸術的で容赦がない。
だからこそ、モグラの戦い方に共感する彼女は、『彼』の知らない一面でもあった。
本当は――何を言いかけたのだろう。
声をかけようかと迷っている間に、少女は短剣を鞘に戻して振り向いた。
「すまん。残り時間を見たせいかノ、気を緩めてしまったワ」
「……ああ。焦るのも分かるさ」
「分かる? おヌシが、か」
少女は含みのある笑みを浮かべたが、すぐにかぶりを振った。
「やめじゃ。いかんナ、あの部屋が頭から離れないんじゃヨ」
部屋、とは初めて手を血に染めた石室のことだろうか、と『彼』は思い込んだ。
「なんにせよ、安心するのは生まれ変わってからにしろよ。ここでのことは覚えていないだろうけどな」
「……じゃナ」
気まずそうに俯いた少女は「あ」と声を上げた。突然、散乱した懐中時計の一つ一つを確かめ始めたのだ。
「あったゾ、ほれ!」
と、差し出されたのは彼女の残り時間よりも短い時計だった。
「持っとれば役に立つかもしれん」
「お前のと交換しろよ」
「いや、おヌシが持つんじゃ」
少女は真剣な顔で続けた。
「ワシが〈奈落〉を発つ直前、おヌシに喰われるとも限らん」
「そんな――」
ことをするワケがない、という言葉が喉に引っかかって出てこない。
少女は後ずさる『彼』を睨んだかと思うと、にいっと白い歯を見せた。
「冗談じゃ。初めて会ったときからずっと、ワシはおヌシに助けられっぱなしじゃしナ。信用しとるゾ」
「初めて会ったとき――あ、ああ」
誤魔化すにはちょうどいい。『彼』は思い出したままに頷いた。
「確か、館に引きずられてきたよな。色々と隠していそうなのに、無抵抗だった。だから怪しいと感じたんだ」
「え」
少女は僅かに目を見開き、こちらに伸ばした手をびくんと跳ねさせた。
「初めて会ったのは牢屋の中じゃろ。おヌシ、あの場におったのか?」
「あれ……記憶違いか……?」
「まったく、けしからんヤツめ」
少女は膨れ面で時計を押しつけると、
「とにかく、ワシがいなくなった後でクロに死なれては目覚めが悪いんじゃヨ」
と、一人で先に歩いていってしまった。
ほら、また誰かに襲われるぞ、と追いかけようとするのだが、足が動かない。
再び違和感が『彼』を襲っていた。
何かがおかしいんだ。
『彼』は苦痛で顔を歪ませながら、少女の背中を見守っていた。