[13] 目的は一つ
「むう……」
少女が眉間に皺を寄せ、掌の上の方位磁石を睨む。短剣に似て歪な形の針が、滅茶苦茶に回転して定まらない。
「多分、こっちで合っとると思うんじゃが」
ついに頭痛を抑えきれず、『彼』は彼女の肩に手をかけた。
「そもそも、〈奈落〉に方角なんてもんがあるのか?」
「わっはっは、クロはバカじゃノ。この世に方角がなかったら、ワシらはいつまでも同じ場所で足踏みしとることになるゾ」
「いや、だから、それ」
『彼』は方位磁石を指差す。
「お前が作ったのは、生きていた頃に見たコンパスを生成したんだろ?」
「うむ」
「〈奈落〉は地球みたいに丸い星で、北極と南極があるのか?」
「……ふむ」
二人はしばし見つめ合い、口を閉ざした。
先に動き出したのは少女である。
「てやっ」
と、方位磁石を茂みへと投げ捨ててしまったのだ。
「さあ、クロ。ここからは、おヌシが先導するがよい」
「遭難した後で人に投げるヤツがいるか!」
「ここにおるではないか!」
誇らしげに胸を張られても、溜息しか出てこない。
まったく……。
『彼』は周囲を見回し、進むべき方向を探した。少女が「任せるのじゃ!」と言うのに任せていたら、森を彷徨う羽目になったのである。
「あっち――いや、待て。こっちだな」
「……アテにしていいんじゃろナ?」
「誰かさんよりは、な」
言いつつも、『彼』は地面を見下ろした。
「足跡がある。新しいぞ」
「む」
少女も外套の裾を摘まみ、その場に屈んだ。
「人の素足に似た足跡じゃナ。巨人か何かかノ」
「さあな。後を追ってみれば分かる」
「こやつに追いついたら、喰うつもりかネ?」
少女の質問に、『彼』は「当たり前だろ」と返した。
「どうしたんだ、いきなり」
「あ、いや……」
少女は懸念に顔を曇らせながらも、両手を軽く振った。
「強そうな魂ならば、避けたほうが得策じゃと思うてナ」
「勝ち目のなさそうな相手ではなさそうだし、狙う価値があると思うがな」
「そ、そうじゃナ。〈エッセンス〉は稼げるときに稼ぐべきじゃし……」
少女のはっきりしない態度を観察してから、『彼』は足跡を辿って歩き出した。
いつだったか、他者を喰えるか喰えないかで判断する、と少女は言った。ならば、この足跡の主は前者である。
他に何か、気になるのだろうか。
後頭部に当たる視線が煩わしくなって、『彼』は後ろからついてくる少女に振り向いた。
「さっきから、なんだ? 言いたいことがあるなら言えばいい」
「……初めて会ってから、ずっと不思議に思うていたのじゃ」
少女は俯き加減に問い質す。
「おヌシ、戦いの最中、我を失っとるじゃろ」
「我を失う?」
「自覚がないんじゃナ。人間離れしとるというか――〈奈落〉で何を言うとるかと思われるかもしれんが――」
少女は言葉を探すように視線を彷徨わせた。
「おヌシを見とると、竜の存在を思い出すんじゃ」
「〈対話者〉と呼ばれていたのも、昔に思えるな」
『彼』は「それで?」と先を促した。
「俺のどこが竜を連想させるんだ」
「竜は〈奈落〉に君臨してもなお、獲物を選んで狩ると聞く。来世を約束されているはずのあやつは何故、魂を喰らい続けるのじゃろうナ」
「自分の力を誇示したいんじゃないのか」
「ワシには理解できん」
少女は心なしか怯えたように、『彼』の目を見て繰り返した。
「……理解できんゾ」
俺に訊かれても、と『彼』は黙り込む。
弱肉強食の世界で、力を求めないほうが理解できなかった。
何を今さら迷っているのだろう。
と、彼女の言葉を理解するつもりなど初めから持っていなかったことに、自分では気づいていなかったのである。
沈黙の中を歩き続けると、急に森が開けた。
上の空だった少女の腕を咄嗟に掴む。
「な、なんじゃ!?」
「崖だよ」
視界一杯に赤い空が広がっている。
足元の小石がぱらぱらと転げ落ち、どんよりと広がる緑色の大地に吸い込まれて見えなくなってしまう。
「俺より、自分に気を遣えよ」
「……むう」
少女はばつが悪そうに手を振り払った。
「足跡を辿っておったのではなかったのかネ。飛び下りたというのではあるまいナ」
「いや、崖の手前で途切れている」
二人は同時に頭上を仰いだ。
木に登ったのだろうか。ならば、わざわざ痕跡を残して歩く理由は――
それぞれ、握り締めた武器を振り向きざまに薙ぐ、あるいは投擲した。
悲鳴は一つではなかった。
少女と同じ背の影が大量に蠢いているのである。
返り血に閉じていた複数の瞼が一斉に開く。
「クロ!」
少女は引きつり気味に笑う。
「おヌシの求めていた餌じゃゾ!」
「人をケダモノ扱いするな!」
『彼』もまた犬歯を剥き出しに応じる。
崖を背にした二人へと、影は一斉に押し寄せてきた。
その姿が赤い陽光に晒される。
「サルの群れだと――」
突撃に、『彼』は崖から足を滑らせた。体が無重力に襲われる寸前、
「クロ!」
少女が宙へ身を躍らせ、追いかけてきた。
下手に留まろうとするよりも、崖下へ逃れたほうが得策と考えたらしい。
少女を片腕で抱き寄せながら、大剣を絶壁に突き立てて転落を防ぐ。この方法なら崖を下りられるかもしれない。
しかし、この場所に誘い込まれた以上、敵は二人を逃さないはずだ。
「動きを封じられたら、〈閃耀〉も形なしだな」
「ワシを侮るでない」
少女は手の中に錨のような短剣を生成した。
「いくらでも動く方法はあるワ」
「そいつは頼もしい」
ふっと顔にかかった影に、『彼』は「くそッ」と吐き捨てる。
「なら、放り投げるぞ!」
「……なんじゃ、とぅ!?」
言葉の途中だったが、お構いなしに少女を放り投げる。
代わりに、自分は崖へと押し潰されて――
○
「あ、アホおぉう!」
錨型短剣を崖に投擲し、極細のワイヤーで体を引き寄せた少女は半泣きで怒鳴った。
「ワシを殺す気――」
その声が半ばで喉に詰まる。
『彼』が降ってきたゴリラの拳に押し潰される瞬間を目撃してしまったからだ。
そのまま、崖下へと引きずられていく。
少女は咄嗟に新たに生成した短剣を投げた。赤い陽光を反射する刃はゴリラの腕に突き刺さる。しかし、『彼』を助け出すには至らない。
「クロ!」
バカめ、と崖を殴る。
人を助けるよりも、自分の身を守るほうが先決じゃろうに。
いや、嘆くのはまだ早い。『彼』の大剣は崖に残されたままだ。使い手が消滅するときは、生成した物も消える。ならば、まだ助けられる。
そこへ、孤立した彼女を狙って、サルの群れが頭上から襲いかかってくる。
その種類はてんでばらばらだ。
ゴリラが群れのリーダー的役割を担い、そこにサルたちが集まってきたのだろう。
『彼』の元へ向かうには、この大群を先に片づけねばなるまい。
少女は、せめて、と大剣に短剣の鋼糸を巻きつけ、ぶら下がることで刃を抜いて落とす。
自らは再び崖にしがみつき、群れを十分に引きつけると、
「さあて」
崖を蹴り、宙へと身を躍らせた。
一見すると自殺行為である。サルたちも戸惑った表情で彼女の軌道を追いかける。だが、太陽に姿が重なった瞬間、全員の目が少女の狙い通りに眩んだ。
「餌食にしてくれるワ!」
風にはためく外套の下から、無数の錨型短剣が飛び出して敵に襲いかかる。
切っ先は皮や骨をやすやすと貫いて磔にする。そして、少女は糸を手繰り寄せて元の位置に戻ると、生き残りを睨みつけた。
幼い少女から発せられる威圧感に、サルたちはたじろぐ。
その内の一匹が言葉を発した。
「お、オイラたちの群れに加わらないか!?」
誘いに、少女は不機嫌顔で返す。
「ワシがおヌシらと同じサルに見えるというのかネ」
「違うのか?」
「この可憐な女子になんと無礼な!」
と、少女は叫ぶ。
ふと、いつもならすぐに返ってくるはずの『誰が可憐だって?』という呆れ声がないことに、苛立ちを募らせる。
「第一、おヌシらと組んでなんの得があるというんじゃ」
「この〈奈落〉を支配できるじゃないか」
「……たわけめ」
少女は手に片刃の短剣を生成し、
「支配なんぞ、興味ないワ!」
話しかけてきたサルの額を狙ってブーメランのごとく投擲した。悲鳴を発する間もなく落ちていく死体を一瞥もせず、続けて宣言する。
「ワシの目的は一つ、 再びヒトとして生を受けることじゃ! 生まれ変わる気を失いおった輩なんぞ、全員喰ろうて糧にしてくれようゾ!」
残りを殲滅すべく、少女は短剣を死体から抜いては新たな獲物へと無慈悲に振るうのであった。
○
『彼』は意識を取り戻し、自分の体を潰そうとするゴリラの拳を両手で掴んだ。
余力を握力に集約し、指を肉に食い込ませる。それでも緩まない拳に、親指と小指に繋がるそれぞれの骨を引き千切る。
今度こそ、ゴリラの野太い悲鳴が上がって、『彼』を圧迫から解放した。
しかし、そこまでが限界だった。
『彼』はまともに地面に激突し、肉体を激しく損壊させる。
一方、ゴリラは二本足で着地した衝撃で土を捲り上げる。その上で気にしているのは傷ついた拳のみで、それもすぐに再生させてしまった。
どれほどの〈エッセンス〉を注ぎ込んで肉体を作り上げたのか。
ゴリラはにたりと唇を歪ませると、空を薙いだ手に棍棒を生成した。
とどめを刺すつもりだ。
一歩、また一歩と距離を詰め――
行く手を遮るように落下してきた大剣に飛び退る。
それが新たに呼び出した武器と考えたか、ゴリラは身動きの取れない『彼』を慎重に観察する。
意外と冷静だな。
『彼』は武器を寄越してくれたであろう少女に感謝しつつ再生を急ぐ。
相手は小細工なしの、単純に強い魂だ。
立ち向かうには、こちらも強靭な肉体を作り出さなければならない。
砕けた骨、裂けた筋肉、途切れた神経、ひび割れた肌が、極細の繊維から構築され、あっという間に元の肉体を取り戻す。
ゴリラは猶予を与えたことに焦って棍棒を振り下ろした。
だが、柄頭は空しく空を切る。
クモの動きからイメージして組成した体は、『彼』本人をも驚かせるほどの瞬発力を獲得していたのだ。
『彼』は既に大剣を手に取り、ゴリラの脇をすり抜けるように前進している。
それだけではない。
刃ががら空きのゴリラの腹を捉える。
直感に任せて歯車を高速回転させると、血肉を巻き込む感触が手に伝わった。
森に響き渡る獣の絶叫に、『彼』は小刻みに肩を震わせる。
「く、くくっ」
笑いの衝動を抑えられず、さらにゴリラを斬り刻む。
顔にはねた返り血を舐めながら、なおも剣を振り回す。やがて再生も止まるが、気づいているのか気づいていないのか、手を止めない。
どころか、低く呟くのである。
「――い――のほうが強い――俺のほうが強い――」
この手応えだ。
強者が弱者を見下ろす愉悦。
ありとあらゆる邪魔者を排除する清々しさ。
「ははっ、ははは!」
『彼』の笑いは、もはや獣の咆哮も同然だった。
○
崖を半ば滑り落ちるように、少女は地面へと下りてきた。
追う者はいない。
戦意を喪失した群れの一部はさっさと逃げてしまったのだ。
少女には残党を追いかけるつもりはなかった。それよりも、瀕死のはずの協力者を助け出すほうを優先したのである。
「クロ!」
群れに手間取っている最中、一時的に『彼』の気配が消えたのを感じた。
自分の知らない場所で消滅してしまったのかもしれない。
それを思うと、少女は狼狽を隠すことができなくなっていた。
「どこにいったんじゃ、クロ!」
血の匂いが漂ってくるほうへと進むと、肉塊にうずくまる影があった。
あのゴリラだろうか。
とすると、喰われているのはまさか――
少女が短剣を構えた瞬間、影は異常な速さで肉塊から離れ、棍棒ではなく大剣へと跳びついた。
その切っ先が向こう側には、
「……なんだ、お前か」
『彼』の薄暗い眼差しが覗いていた。
おかしい。
少女は安堵の笑みを浮かべようとして、引きつらせてしまった。
全身から異臭を漂わせる黒い人影は、彼女の知っている『クロ』とは何かが違う。
「少し待ってろ。すぐに喰い終わるから」
そう言って、『彼』は再び肉塊へとうずくまった。
少女には構わずに。