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[12] かかった獲物がワシらでは

〈奈落〉の森をチョウが舞う。

 とても強靭とはいえない、柔らかな羽からは光り輝く鱗粉が飛び散る。

 警戒心のない魂ならば、その光に誘われて手を伸ばしてしまうかもしれない。

 だが、触れれば最後、体の自由を奪う毒が皮膚から浸透する。

 獲物が倒れ伏せるのを確認したチョウは、喰らいつくのである。小さな口で、長い時間をかけて。

 ゆえに隠れようともせず、むしろ目のつきやすい場所を選んで放浪していたのだった。


 その体に、突如として切り傷が生まれる。

 見えない刃に襲われ、鱗粉も役に立たず、なす術なく落ちていき――

 宙に浮遊した血が、弦の震える音と共に肉片へと滴り落ちた。


   ○


「この森は、アレじゃナ」

 少女がきょろきょろと周囲を探る。

「デカブツが住みついとるようじゃ。のう、クロ。何か、感じるかネ?」


 二人は獣道を歩いていた。

 長い時間をかけてできた道ではない。粉々に砕けた木々は薙ぎ倒されていた。


 少女が問い質すデカブツとは、道を作った者のことではない。

『彼』は無言で頷く。

 先ほどから何者かに観察されているのは確かだ。

 少女も気配を察知しているのであれば、近くに潜んでいるのだろう。


 彼女は足を止め、生成した短剣の刃を指先で摘んだ。

「引き返すべきかもしれんナ」


「何故」


「チョウが死んどる」


 視線で示す先には、一目で虫と判断するには難しい魂の破片が散乱していた。

 美しい羽で、『彼』はそれと認める。すでに肉体は溶けかかっており、消滅する寸前だった。


「どうして放置されているんだ?」


「恐らくは、ほれ、まだ獲物を回収しに来とらんだけじゃろ」


 彼女の示す空間に、『彼』は注意を払う。

 血の滴りを連想させる陽光に、煌めく反射光が眼球に突き刺さった。


「糸……か?」


「チョウはあれに触れたんじゃろナ」

 少女は指先で揺らめかせたナイフを「そやっ」と投擲する。歪な刃はブーメランのように回転し、ぴんと張られた糸を容易く切り裂いた。

「どうする、クロ。このまま進むかネ?」


「そうだな」

 罠がしかけられているなら、森の中を進んだほうが――と、『彼』が言いかけたときだった。


 茂みが大きく揺れ、閃光が少女へと襲いかかる。

「のわっ!?」

 巻きつく糸に足を取られ、彼女は前のめりに転倒する。顔面を地面に打ちつける直前、持ち前の反応で受け身を取った。

「な、なんじゃ、これ!」


「おい、大丈夫か」

 彼女のほうへ一歩踏み出した『彼』に、真横から糸で吊るされた丸太のハンマーがすっ飛んできた。

 咄嗟に大剣を盾にするも、衝撃に後ずさる。と、首に走った冷たい感触に、大剣を地面で突き刺して体を支えた。


「クロ!」


 叫ぶ少女の顔に、『彼』の血飛沫が降りかかる。

 切れ味鋭い糸が皮膚に食い込んだのだ。

 人間だったなら致命傷だっただろう。『彼』の肉体は〈エッセンス〉で形成されているに過ぎない。傷は治せばいい。


「もん、だいない……」

 糸を慎重に引き抜き、おびただしい量の出血を止める。

「どうやら、硬い糸と柔らかい糸の二種類で攻撃されているようだな」


「うむ」

 少女は恐る恐る体を起こそうとしたが、「う」と呻いて硬直した。新たな糸に引っかかったのだろう。

「わ、ワシらは敵の狩場に入ってしもうたようじゃノ」


「チョウが喰われなかったのは、いちいち罠を取り払う必要がなかったからだな。入れ食い状態ってワケだ」


「かかった獲物がワシらでは、洒落にならんゾ」


「いっそ、糸を全て切って罠を叩き潰すか?」


「四方八方から『硬い糸』が来たらどうするつもりじゃ!」


 無茶は承知だ。

 自分たちは身動き取れないが、襲撃者はいつでもとどめを刺せる状態なのである。


 ちっ、と舌打ちは少女のものだ。

「仕方あるまい。ここは一つ、おヌシの案で行こうではないか」


 二人は互いに視線を交わすと、ほぼ同時に行動を開始した。

 体にまとわりついた糸が次々と罠を作動させる。木槌、鋼糸、岩の弾丸。

 役割分担はすでに決まっていた。小さい凶器は少女が、大きい凶器は『彼』が、それぞれの得物を振るって食い止める。


「よし、行け!」


 少女の小さな体を庇うように大剣を振るう『彼』の指示に、彼女は笑みで応じた。

 その表情が凍りつく。

 地面に隠されていた糸が跳ね上がり、再び少女の足へと絡みついた。今度は転ばせるためではなく、

「しもうたワ――」

 少女の呻きが空へと浮き上がる。逆さに吊るされたのだ。


「……くそ!」


 攻撃はさらに続く。今度は挟み撃ちで糸の光が迫ってきた。

 片方は大剣で止めるとしても、もう片方は――


「クロ! これを使うんじゃ!」

 少女が短剣を放り投げる。


 その柄を掴むなり、『彼』は間一髪で糸の軌道を阻む。二種類の金属音が左右の鼓膜を震わせた。


「助かった」

 笑みを向けた先に、少女はすでにいなかった。

「おい!」

 驚きのあまり、大声を上げる。

「……どこ行った!?」


 返事はない。

 あの一瞬で彼女の魂を消滅させるほどの敵は接近していないはずだ。恐らく、糸で森の奥へと連れ去られたのだろう。

 その証拠に、彼女が生成した短剣は手の中に残っている。

 いつか出会ったオオカミの剣士から、再戦のためにタグを渡された。

 それと同じことが少女の短剣でも可能なはずだ。


 微かな感覚を頼りに、木と木の間をすり抜けて突き進むと、いきなり開けた場所へと飛び出した。


「なるほど、狩場、か」


〈奈落〉の木が絡んだ糸に捻じ曲げられ、森の中にドームを作り出している。

 今まで攻撃的に使っていた糸を、防御に転じた構造物だろうか。繭というよりは、網を覆い被せたような……。


「巣に招かれたみたいだな」


『彼』の呻き声に応じて、ドームが大きく揺れた。

 天井に張りつく者が八本の足を動かしたのである。

 オレンジ色の腹を持つ、巨大なクモだ。

 一対の鋏角を開き、侵入者を威嚇する。息を吐く音か、甲高い音が糸の一本一本を小刻みに震わせた。


「クロ!」

 苦しげに名を呼ぶ少女は、壁に手足を拘束されてもがいている。

「何故、来た! おヌシだけでも逃げるんじゃ!」


「何故って、決まってるだろ」

『彼』は大剣を構えてみせる。

「好き放題やられて逃げ出したんじゃ、風の噂とやらで笑われるからな」

 糸の対処法は未だ思いつかないが、戦意を失ってはいなかった。

 それに、とちらりと少女のほうを見る。


「そ、そこは嘘でもワシを助けに来たと言うところじゃろうが!」


「はいはい」

 もちろん、旅の同行者をいともあっさりと喰われるのは見過ごせない。

「今すぐ助けて――」


 クモが天井から離れ、腹を下に向けながら着地した。

 間近で顔を突き合わせると、さすがに『彼』の心にも恐怖を芽生えさせる。口は容易く人間の頭を丸かじりにできるだろう。


 後方へ飛び退り、

「今すぐは無理そうだ。少し、待っていろ」

 大剣を引きずりながら走り出す。死角に回って叩き斬るつもりだった。


 そうはさせまいとクモの八つ目が追いかける。

 八本足を巧みに動かして体の向きを変えると、鋭く尖った前足を『彼』の進路方向へと振り下ろした。


『彼』はすんでのところで刺突を掻い潜り、クモの懐へと飛び込む。

「ここなら、足も届かねえだろッ!」

 人間が扱うには大きすぎる剣を、全身の力を使って振り切った。

 研ぎ澄まされた刃がクモの体にめり込む。

 しかし、一刀両断するには至らない。吹き出した緑色の体液を顔に浴びながらも、『彼』は即座に剣を引いた。

 二の太刀を浴びせようと、今度は腹を狙って振り上げる。


 手応えはなかった。

 クモが巨体と思えぬ跳躍力で天井に戻ったのだ。

 逃げたのか――いや、巣を作る糸が『彼』の胴を狙って飛んでくる。


 本体から離れると、これだ。

『彼』は跳躍しながら、思考を巡らせる。

 どうやって、あいつを叩き落とせばいいんだ?


 その間も、クモは足を屈伸させて巣を揺らしている。その動きは段々と激しくなり――


 まずい、と大剣を構える。

 クモが揺れの反動を利用し、一直線に突撃してくる。

 ただの体当たりではない。こちらの防御などお構いなしの一撃である。

 鋭い前足の刺突は『彼』の大剣を粉々に打ち砕き、胸を刺し貫いた。


「かはッ」

 喉の奥から逆流してきた血を吐き出す。それでも、『彼』は大剣を手放さない。


「クロ!」

 視界の片隅で少女が必死に暴れているが、手足を動かせば動かすほど糸は絡みついて解けない。

 今度は彼女の助けを期待できない。

 自分一人でなんとかしなければならないのだ。


 クモが鋏角を打ち鳴らしながら、『彼』を持ち上げる。

 喰うつもりなら、折れた大剣を突っ込んで――

 八つ目がなお戦意を失わない獲物の気配を察知したか、クモは壁へと投げつけた。

 体内を異物がずるりと滑る感触と、背中を柔らかく受け止める網の感触。

 ただ捕らえられただけではない。

 大量の糸が『彼』の体を覆い尽くし、一切の抵抗を封印する。


 まだだ。

 勝負は決していない。

 足を引き抜いてもらったおかげで、再生は済ませられた。

 次は、この糸をどうにかしなければならない。

 新たな剣が必要だ。

『彼』は甲冑に覆われた右手を通じ、刃のない柄へとイメージを伝える。


 あの、食糧庫の主人、ウシを肉塊に変えた歯車のように強力な――骨を磨り潰す異音と立ち込める血煙が刺激する感覚を、もう一度――


 巣に、鼓膜をつんざく甲高い音が轟く。

 少女とクモがそれぞれ目にしたのは、火花を散らして断ち切れる糸だった。


 中から現れたのは、異様に眼光を輝かせる『彼』と、新たに変異した大剣である。

 刃の部分がいくつもの歯車で構成され、使用者の意志に同調して高速で回転する。そのたびに剣自体が一匹の獣であるかのように唸り声を上げた。

 クモは再び巣から糸を切り離し、『彼』を襲わせる。

 だが、無造作に振るわれた回転のこぎり刃は糸を容易く切断するに留まらず、突風をも巻き起こす。


「〈暴風あかしまかぜ〉……」


 少女は呟きは『彼』の耳に入らない。

 片手で大剣を引きずり、土と植物の混ざった粉塵を立てながら走り出す。

 対峙するクモも、前足による刺突の狙いを定める。

 そして、見てしまった。

『彼』の悪鬼じみた笑みを。


 足と大剣が交差する――


 額に突きつけられた前足を見据え、にぃ、と『彼』は笑みをさらに歪めた。

 体内を見えないあぎとに破壊し尽くされ、クモの巨体が両断される。

 二つに分かれた体は互いに折り重なって崩れ落ち、大量の血飛沫を『彼』に浴びせる。

 ドームを形成していた白銀の糸は張りを失い、はらはらと地面に舞い落ちた。


「どうにか……」

『彼』は大剣を薙ぎ、滴り落ちる血を振り払った。

「倒せた、ようだな……」

 一息ついて初めて、昂ぶっていた意識が鎮まる。

 手が震えているのは勝者の安堵だろう、と『彼』は思い込んでいた。無我夢中だったのである。敵を斬殺する歓喜に包まれていた自覚などなかった。


「クロ」


 背後からかけられた声の主に、驚いて剣を向ける。


「のわっ! わ、ワシじゃ!」

 拘束から解放された少女が慌てて両手を振った。頭上から降ってくる糸が髪に引っかかって鬱陶しそうだ。


『彼』は歯車の回転を止め、肩から力を抜いた。

「忍び寄るなよ」


「すまぬ。ちと、恐ろしかったのじゃ……」


「怖い? 何が」


「おヌシが、じゃヨ」


 俺のどこが――と、自分を見下ろした『彼』は、足に何かがしがみついているのを発見した。陽光に透けて赤く輝く無数の点が、もぞもぞと這い上がってくる。


「な、なんだ、これ!?」


「む?」

 少女も『彼』の視線を追うも、反応は特に示さなかった。

「どうかしたのかネ」


「どうかしたって……」

 膝まで登ったそれを手で払い落とそうと叩いたのは逆効果だった。今度は指先に移ってしまう。

 正体を見極めようと、目を細める。

 八本の足を持つ虫、クモの子供だ。

「いつの間にくっついていたんだ!?」


「な、何を驚いているのじゃ。違う意味で恐ろしいゾ」

 少女は真剣に、まじまじと『彼』の顔を見つめている。


 こいつらは彼女に見えないのか?

 どうして、という疑問は、四肢を蝕む激痛に掻き消された。

「う……がぁッ!」

 子グモたちが一斉に『彼』の服を噛み千切り、皮膚へ牙を立てたのだ。

 手足に力が入らず、膝から崩れ落ちる。そのまま前のめりに倒れる寸前、少女に肩を揺さぶられた。


「傷が深いのかネ!?」


「離れろ……お前まで……喰われるぞ……」


 自力では思うように体を支えられず、少女にもたれかかる。

 子グモに貪られる痛みよりも、彼女の温もりのほうが強く感じる。それも束の間、手足を痙攣させながら、なんてことはない、と『彼』は思い至った。

 これでいいのだ。

 自分の体を子供たちのエサにする。

 もう一度、生を受けれたなら、この身を捧げる喜びを――


「毒じゃナ!?」

 少女の毅然とした呼びかけが遠のく意識を引き留めた。

「待っとれヨ、今、おヌシを救ってやる!」


 むごっ、と口を柔らかい何かで塞がれたかと思うと、喉に生温かい液体を流し込まれた。

 味は感じないが、魂の渇きを癒すには十分すぎる〈エッセンス〉量だ。

 もっと欲しい、と『彼』は噛みついた。


「あいたぁ!」


「……え?」

 悲鳴で我に返り、体を起こす。子グモは影も形もなく、喰われた傷も見当たらない。


 代わりに、少女が涙目で手首をさすっていた。

「わ、ワシの血が美味だからというて、噛むことはなかろうに!」


「す、すまん……って、血?」


 少女の腕には歯型の他に、短剣による切り傷があった。彼女自身が舌で舐めると、二つの傷は再生された。

「解毒剤を生成したんじゃ。おヌシにその余裕はなさそうじゃったからナ」


「毒なんていつ飲まされたんだ?」


「クモの血じゃろ。おヌシは幻覚を見ていたというワケじゃ」


「幻覚……」

 子グモに全身を喰われるのは、死のイメージだったのだろうか。

 あの光景は、死よりも生の歓喜を呼び覚ました。もしかすると、クモが〈奈落〉に持ち込んだ唯一の記憶かもしれない。

「なんて、まさかな」

 自分の意識が他者と混ざり合ったなどと、ぞっとしない話はこれ以上考えたくもなかった。

『彼』はふらつきながらも立ち上がり、大剣を拾った。

「すまん。また、助けられたな」


「お互い様じゃ」

 安堵した少女が、けらけらと笑う。

「それに、この程度の〈エッセンス〉ならば、こやつを喰って補給するからノ」


「……毒、持っているんじゃないのか」


「ワシもおヌシも解毒薬を摂取したままじゃろ? いわば、抗体じゃ。よって、平気じゃと思うゾ」


「だといいが」


『彼』は自らの手で斬った魂の残骸を見下ろす。

 このクモは生まれ変わるたびに我が身を子供に食べさせるつもりだったのか。

 いや、あんな強烈な記憶を魂に刻みつけていたら、他の生き方はできまい。


「何をぼうっとしとるんじゃ? 功労者が手をつけねば、ワシも遠慮してしまうゾ」


「ああ、そうだな」

 と、『彼』は笑みを作る途中で真顔に戻る。

「……お前、俺を毒見役にするつもりじゃないだろうな?」


「んな、ワケ、なかろうに」


「こっちを見て答えろ!」

『彼』の怒声に、もはや力を持たない糸が風に吹かれて消え去った。

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