[11] 大したことのないヤツ
木の葉がはらりと水面に落ちて、波紋を広げた。
鬱蒼とした森に足を踏み入れた『彼』と少女はかすかな光に導かれるようにして、この池を発見したのだった。
かといって、魂の身には飲み水も水浴びも必要ない。
この場に留まる理由は何もない。『彼』は無言のまま去ろうとした。
ところが、浮かんだ葉がくるくると回る様子を眺めていた少女は、おもむろにブーツを脱いだ。
「おい――」
「よいではないか。ちょいとした息抜きじゃヨ」
止める間もなく片足を突っ込んだ状態で、少女はにやりと口の端を吊り上げる。
「おヌシもどうだ? ひんやりして、いい気持ちじゃゾ」
「……俺はいい」
『彼』の素っ気ない態度に、少女は、
「なんじゃ、つまらんの」
と、口を尖らせた。
大剣を地面に突き刺す。ずぶりと柔らかい感触があった。
腰を下ろすと、葉の硬い雑草がちくちくと『彼』の尻を刺す。
そこへ、少女の外套が投げつけられた。
「持っとれ」
「あん?」
視線を上げた『彼』は、少女の珍しい姿に少なからず驚く。
いつも外套を着込み、その中に手を隠しながら歩いている。まるで傘の妖怪が歩いているような印象だった。迂闊に近づくと、ばっと傘が開いて短剣が飛び出す――実際、少女が敵に襲いかかるときはそうだった。
当然、外套の下には衣服を着ている。『彼』のごわごわな革の衣服と違って、柔らかそうな布の服である。
少女が背向けに池へ倒れ込むと、服は濡れながらも膨らむように浮いた。
「あー……」
少女の口から漏れたのは、ぼんやりとした呟きだった。
「全部、夢じゃったら、いいのに」
弱音だろうか。あまりの珍しさに、『彼』は僅かに目を見開く。
「なんだ。俺より〈奈落〉に馴染んでいると思っていたのに」
「ワシは目の前に現れた敵を倒しとるだけじゃヨ。馴染んでなど……」
物憂げな表情で、夜へ移り変わろうとする赤黒い空を見つめる。まるで、血の海だ。
「もしも前世が獣じゃったなら、〈奈落〉は自然にも等しく感じるんじゃろか」
「どうかな。獣は獣で、変に思うんじゃないか」
「そうかのう」
「なんだったら、次は獣に生まれ変わってみるか?」
「とんでもない!」
少女は水を叩いて跳ね起きた。
「ワシは、絶対に人間に生まれ変わるんじゃ!」
髪を頬に、服を肌に張りつかせ、『彼』をきつく睨みつける。
少女にとっては、譲れない願いなのだろう。
気まずい雰囲気から一転、少女のほうからふっと表情を和らげた。
「……といって、きっと来世もまた、前世が獣じゃったら、と思うんじゃろナ」
「たちの悪いループだな」
「まったくじゃ」
けらけらと笑い声を上げてから、改めて『彼』を見た。今度は、やや遠慮がちに。
「のう、クロ。おヌシは自分の死に様を知っとるのか?」
「さあ。天使は事故とか言ってたけど、あの感じだと本当かどうか分からないな。ちゃんと俺たちの一生を管理しているとは思えないし」
「じゃろナ。ワシも、ほとんど知らん。……が、早死にしたことは推測できる。人生に待ち受ける喜びも悲しみもろくに噛み締めることなく、あっさりと」
「それで、人間に生まれ変わりたいのか?」
「よく分かったのう」
「俺も、そうだからだ」
『彼』はほんの少しだけ間を置いて、続けた。
「さあ、池から出るんだ。何かいるかもしれないぞ」
「何かって、なんじゃ?」
「……ヒルとか」
「あれは特に危険のない生物じゃろ?」
「〈奈落〉じゃ、分からないだろ。危険じゃない生き物が危険な武器を持たないと、生き残れない世界だ。たとえばだな、血を吸われたら、永遠に出血し続けるとか」
「うげ」
顔をしかめて、立ち上がる。心配そうにそろそろと手足を調べるが、白い素肌は無事である。かといって、まだ水浴びに興ずるほど無神経でもないようだ。
「息抜きは終わりじゃ。来世のために、行くとするかの」
そう言って、足を一歩前に踏み出そうとしたときだった。
「きゃっ」
少女が悲鳴を上げながら倒れる。
敵の襲撃か。
『彼』は大剣を引き抜き、池に飛び込む。膝下まで沈むほどの深さだ。水に前進を邪魔されて、苛立ちが募った。
助けなければ――
しかし、少女は自力で「ぷはっ」と起き上がるのだった。
「すまんすまん、コケで滑ってしまっての」
「なんだよ、驚かせやがって」
「いやはや、この感覚、久しぶりすぎてまともに受け身が取れん――うひゃあっ!」
と、再び叫んで、慌ただしく立ち上がった。
「み、見たか、クロ!」
「何を?」
「腕にぬるっとしたもんが触れたんじゃ! この池、何か潜んどる!」
「……あのな」
この少女はどうして異変が起きた後になって、危機感を抱くのだろう。
『彼』は半ば呆れながらも、大剣を担ごうとした。
それを、少女は手を突き出して止める。
「クロ、待て」
もう片方の手には、すでに短剣が握られている。
ふと水面を見れば、少女の足から波紋が一定のリズムで広がる。小さな体から放たれた気が走っているのか。
風で木々の揺れる音が騒ぎ立てる。
少女の背後で、水底から影が浮かび上がる。
小動物なら呑み込んでしまえそうな、大きさだ。
『彼』は注意を促そうとしたが――すっかり忘れていた。少女とて、伊達に生き残っているのではないことを。
「そこじゃ!」
少女は水の中でも俊敏に振り向く。
敵は魚だ。オレンジ色に輝くのは太陽の光を反射しているからではない。鱗そのものが見事な色なのだ。
口ヒゲが水を引きながら、勢いよく飛び上がる。
大きく開かれた口の奥には、ずらりと鋸のような歯が並んでいた。
細い首を噛み千切ろうとしている。
が、対する少女の動きは、『彼』の目にも映らないほど速かった。
宙に眩い光が一閃した、次の瞬間には魚の眉間に短剣が突き刺さっている。得物を投擲したのだ。
たった一撃により魚は絶命し、そのままばしゃりと池に落ちた。
「大したことのないヤツじゃったナ」
「…………」
少女は自分を見つめる視線に気が付いて、にやにやと笑う。
「ん、なんじゃ? ワシの美技に見惚れおったかネ?」
「さすが、〈閃耀〉だな」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
えっへん、と胸を張る。心なしか頬が赤らんでいるのは、『彼』が珍しく皮肉なしに称賛したからだろう。
「それにしても、綺麗な魚じゃナ」
「コイだよ」
「こ、コイ!?」
異常な驚き様である。
死体を引き上げていた『彼』は「あん?」と動きを止めた。
少女は大げさに頭を抱え、唇を震わせるのである。
「ば、バカな……。ワシが魚ごときにコイするなんぞ、ありえぬ。ありえぬゾ!」
「おい」
「ああ、そのような蔑む目を向けるでない! わ、ワシはきっと前々世くらいで人魚じゃったに違いない!」
『彼』はコイの目を見つめ、心の中で話しかける。
お前が可哀想だよ。あんなヤツの手にかかって、死ぬなんて。だけど、〈奈落〉は弱肉強食の世界だからな。諦めて消滅してくれ。
どんよりと溜息をついて、少女の勘違いを指摘する。
「あのな、コイってのは魚の名前だぞ」
「へ?」
しばらく目を瞬かせた少女は『彼』の言葉を理解して、ようやく明るい笑顔を見せた。
「な、名前ということくらい、知っとるワ!」
「…………」
「じゃから、蔑む目を向けるでない! ふんふん、平均的なコイじゃの」
「こいつは、十分でかいと思うけどな」
「何はともあれ!」
もはや手遅れだったが、外面を諦めきれない少女は強引にはぐらかす。
「焚火の用意じゃ! 服を乾かしながら、魚を焼こうではないか!」
『彼』は機嫌を損ねないように、はいはい、と従ったのは、少女の早とちりなど今さらだったからだ。ついでにいえば、あれこれと指示されるのにも慣れてしまっていた。
どうして俺が、と不満を抱くよりも先に、どうやって火を、と考えていた。
キャンプの経験はない。まあ、物は試しである。生前の知識を駆使するときだ。
ここは一つ、少女を感動させてやろう。
……そう意気込んでから、どのくらいの時間が経ったのか。
少女が火打石を生成する羽目になったのは、『彼』の知識が誤っていたからだ。
「まったく、ワシがいないとどうにもならんナ、クロは」
少女の顔が火に照らされて、悪魔のような笑みに見える。生贄として捧げられたコイはすっかり身を齧られた後で、骨しか残っていない。
本日は引き分けだ。
『彼』はそう割り切り、火事に注意を払っていた。
「それにしても、妙じゃナ」
「ん?」
「そこの池には、コイ一匹しか住んでおらんのかネ」
「正確には、『今は』コイ一匹なんじゃないか」
「うむ?」
「他の生き物を喰らいに喰らって、絶滅させてしまったんだと思うぞ。おかげで、これ以上の成長はできなかったってワケだ」
「ははあん、こやつは池の主じゃったのか。水の中でしか生きられぬ、魚に生まれたのが不運じゃナ」
「そうだな」
『彼』は控えめに笑って、火を見つめた。魚は足を生やそうと考えなかったのだろうか。魚人として大地に踏み出せば、まだ生き残っていたかもしれない。
それとも、足、という概念すら持っていなかったか。
もし、この池がもっと広がっていたらどうなっていただろう。
湖――海――
「海!?」
『彼』が突然叫んだものだから、少女はぎょっとして腰を持ち上げかけた。
「ど、どうしたんじゃ、急に」
「〈奈落〉にも海はあるのか?」
「ある、とは聞いておる。ワシは一度も見とらんナ。折角じゃし、海も一度は行ってみたいのう」
「ダメだ! 絶対に!」
「……なんでじゃ?」
「コイは池にいたから成長するにも限界だったが、海にいたらどうなるんだ?」
「竜と化す、か」
少女はげんなりとぼやく。
「あるいは、それ以上に危険なヤツが泳いどるかもしれんナ。ワシゃ、何がなんでも魚にだけは生まれ変わらんゾ」
「同感だ」
「やっぱり、人間が一番じゃヨ」
池の主を喰らった魂たちは焚火を囲む。
その光を包み込むように、森の奥には暗闇が広がっていた。