表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/19

[11] 大したことのないヤツ


 木の葉がはらりと水面に落ちて、波紋を広げた。

 鬱蒼とした森に足を踏み入れた『彼』と少女はかすかな光に導かれるようにして、この池を発見したのだった。

 かといって、魂の身には飲み水も水浴びも必要ない。

 この場に留まる理由は何もない。『彼』は無言のまま去ろうとした。

 ところが、浮かんだ葉がくるくると回る様子を眺めていた少女は、おもむろにブーツを脱いだ。


「おい――」


「よいではないか。ちょいとした息抜きじゃヨ」

 止める間もなく片足を突っ込んだ状態で、少女はにやりと口の端を吊り上げる。

「おヌシもどうだ? ひんやりして、いい気持ちじゃゾ」


「……俺はいい」


『彼』の素っ気ない態度に、少女は、

「なんじゃ、つまらんの」

 と、口を尖らせた。


 大剣を地面に突き刺す。ずぶりと柔らかい感触があった。

 腰を下ろすと、葉の硬い雑草がちくちくと『彼』の尻を刺す。

 そこへ、少女の外套が投げつけられた。


「持っとれ」


「あん?」


 視線を上げた『彼』は、少女の珍しい姿に少なからず驚く。

 いつも外套を着込み、その中に手を隠しながら歩いている。まるで傘の妖怪が歩いているような印象だった。迂闊に近づくと、ばっと傘が開いて短剣が飛び出す――実際、少女が敵に襲いかかるときはそうだった。

 当然、外套の下には衣服を着ている。『彼』のごわごわな革の衣服と違って、柔らかそうな布の服である。

 少女が背向けに池へ倒れ込むと、服は濡れながらも膨らむように浮いた。


「あー……」

 少女の口から漏れたのは、ぼんやりとした呟きだった。

「全部、夢じゃったら、いいのに」


 弱音だろうか。あまりの珍しさに、『彼』は僅かに目を見開く。

「なんだ。俺より〈奈落〉に馴染んでいると思っていたのに」


「ワシは目の前に現れた敵を倒しとるだけじゃヨ。馴染んでなど……」

 物憂げな表情で、夜へ移り変わろうとする赤黒い空を見つめる。まるで、血の海だ。

「もしも前世が獣じゃったなら、〈奈落〉は自然にも等しく感じるんじゃろか」


「どうかな。獣は獣で、変に思うんじゃないか」


「そうかのう」


「なんだったら、次は獣に生まれ変わってみるか?」


「とんでもない!」

 少女は水を叩いて跳ね起きた。

「ワシは、絶対に人間に生まれ変わるんじゃ!」


 髪を頬に、服を肌に張りつかせ、『彼』をきつく睨みつける。

 少女にとっては、譲れない願いなのだろう。

 気まずい雰囲気から一転、少女のほうからふっと表情を和らげた。


「……といって、きっと来世もまた、前世が獣じゃったら、と思うんじゃろナ」


「たちの悪いループだな」


「まったくじゃ」

 けらけらと笑い声を上げてから、改めて『彼』を見た。今度は、やや遠慮がちに。

「のう、クロ。おヌシは自分の死に様を知っとるのか?」


「さあ。天使は事故とか言ってたけど、あの感じだと本当かどうか分からないな。ちゃんと俺たちの一生を管理しているとは思えないし」


「じゃろナ。ワシも、ほとんど知らん。……が、早死にしたことは推測できる。人生に待ち受ける喜びも悲しみもろくに噛み締めることなく、あっさりと」


「それで、人間に生まれ変わりたいのか?」


「よく分かったのう」


「俺も、そうだからだ」

『彼』はほんの少しだけ間を置いて、続けた。

「さあ、池から出るんだ。何かいるかもしれないぞ」


「何かって、なんじゃ?」


「……ヒルとか」


「あれは特に危険のない生物じゃろ?」


「〈奈落〉じゃ、分からないだろ。危険じゃない生き物が危険な武器を持たないと、生き残れない世界だ。たとえばだな、血を吸われたら、永遠に出血し続けるとか」


「うげ」

 顔をしかめて、立ち上がる。心配そうにそろそろと手足を調べるが、白い素肌は無事である。かといって、まだ水浴びに興ずるほど無神経でもないようだ。

「息抜きは終わりじゃ。来世のために、行くとするかの」


 そう言って、足を一歩前に踏み出そうとしたときだった。


「きゃっ」


 少女が悲鳴を上げながら倒れる。

 敵の襲撃か。

『彼』は大剣を引き抜き、池に飛び込む。膝下まで沈むほどの深さだ。水に前進を邪魔されて、苛立ちが募った。

 助けなければ――

 しかし、少女は自力で「ぷはっ」と起き上がるのだった。


「すまんすまん、コケで滑ってしまっての」


「なんだよ、驚かせやがって」


「いやはや、この感覚、久しぶりすぎてまともに受け身が取れん――うひゃあっ!」

 と、再び叫んで、慌ただしく立ち上がった。

「み、見たか、クロ!」


「何を?」


「腕にぬるっとしたもんが触れたんじゃ! この池、何か潜んどる!」


「……あのな」


 この少女はどうして異変が起きた後になって、危機感を抱くのだろう。

『彼』は半ば呆れながらも、大剣を担ごうとした。

 それを、少女は手を突き出して止める。


「クロ、待て」


 もう片方の手には、すでに短剣が握られている。

 ふと水面を見れば、少女の足から波紋が一定のリズムで広がる。小さな体から放たれた気が走っているのか。

 風で木々の揺れる音が騒ぎ立てる。

 少女の背後で、水底から影が浮かび上がる。

 小動物なら呑み込んでしまえそうな、大きさだ。

『彼』は注意を促そうとしたが――すっかり忘れていた。少女とて、伊達に生き残っているのではないことを。


「そこじゃ!」


 少女は水の中でも俊敏に振り向く。

 敵は魚だ。オレンジ色に輝くのは太陽の光を反射しているからではない。鱗そのものが見事な色なのだ。

 口ヒゲが水を引きながら、勢いよく飛び上がる。

 大きく開かれた口の奥には、ずらりと鋸のような歯が並んでいた。

 細い首を噛み千切ろうとしている。

 が、対する少女の動きは、『彼』の目にも映らないほど速かった。

 宙に眩い光が一閃した、次の瞬間には魚の眉間に短剣が突き刺さっている。得物を投擲したのだ。

 たった一撃により魚は絶命し、そのままばしゃりと池に落ちた。


「大したことのないヤツじゃったナ」


「…………」


 少女は自分を見つめる視線に気が付いて、にやにやと笑う。

「ん、なんじゃ? ワシの美技に見惚れおったかネ?」


「さすが、〈閃耀〉だな」


「そうじゃろう、そうじゃろう」

 えっへん、と胸を張る。心なしか頬が赤らんでいるのは、『彼』が珍しく皮肉なしに称賛したからだろう。

「それにしても、綺麗な魚じゃナ」


「コイだよ」


「こ、コイ!?」


 異常な驚き様である。

 死体を引き上げていた『彼』は「あん?」と動きを止めた。

 少女は大げさに頭を抱え、唇を震わせるのである。


「ば、バカな……。ワシが魚ごときにコイするなんぞ、ありえぬ。ありえぬゾ!」


「おい」


「ああ、そのような蔑む目を向けるでない! わ、ワシはきっと前々世くらいで人魚じゃったに違いない!」


『彼』はコイの目を見つめ、心の中で話しかける。

 お前が可哀想だよ。あんなヤツの手にかかって、死ぬなんて。だけど、〈奈落〉は弱肉強食の世界だからな。諦めて消滅してくれ。

 どんよりと溜息をついて、少女の勘違いを指摘する。


「あのな、コイってのは魚の名前だぞ」


「へ?」

 しばらく目を瞬かせた少女は『彼』の言葉を理解して、ようやく明るい笑顔を見せた。

「な、名前ということくらい、知っとるワ!」


「…………」


「じゃから、蔑む目を向けるでない! ふんふん、平均的なコイじゃの」


「こいつは、十分でかいと思うけどな」


「何はともあれ!」

 もはや手遅れだったが、外面を諦めきれない少女は強引にはぐらかす。

「焚火の用意じゃ! 服を乾かしながら、魚を焼こうではないか!」


『彼』は機嫌を損ねないように、はいはい、と従ったのは、少女の早とちりなど今さらだったからだ。ついでにいえば、あれこれと指示されるのにも慣れてしまっていた。

 どうして俺が、と不満を抱くよりも先に、どうやって火を、と考えていた。

 キャンプの経験はない。まあ、物は試しである。生前の知識を駆使するときだ。

 ここは一つ、少女を感動させてやろう。




 ……そう意気込んでから、どのくらいの時間が経ったのか。

 少女が火打石を生成する羽目になったのは、『彼』の知識が誤っていたからだ。


「まったく、ワシがいないとどうにもならんナ、クロは」


 少女の顔が火に照らされて、悪魔のような笑みに見える。生贄として捧げられたコイはすっかり身を齧られた後で、骨しか残っていない。

 本日は引き分けだ。

『彼』はそう割り切り、火事に注意を払っていた。


「それにしても、妙じゃナ」


「ん?」


「そこの池には、コイ一匹しか住んでおらんのかネ」


「正確には、『今は』コイ一匹なんじゃないか」


「うむ?」


「他の生き物を喰らいに喰らって、絶滅させてしまったんだと思うぞ。おかげで、これ以上の成長はできなかったってワケだ」


「ははあん、こやつは池の主じゃったのか。水の中でしか生きられぬ、魚に生まれたのが不運じゃナ」


「そうだな」

『彼』は控えめに笑って、火を見つめた。魚は足を生やそうと考えなかったのだろうか。魚人として大地に踏み出せば、まだ生き残っていたかもしれない。

 それとも、足、という概念すら持っていなかったか。

 もし、この池がもっと広がっていたらどうなっていただろう。

 湖――海――


「海!?」


『彼』が突然叫んだものだから、少女はぎょっとして腰を持ち上げかけた。


「ど、どうしたんじゃ、急に」


「〈奈落〉にも海はあるのか?」


「ある、とは聞いておる。ワシは一度も見とらんナ。折角じゃし、海も一度は行ってみたいのう」


「ダメだ! 絶対に!」


「……なんでじゃ?」


「コイは池にいたから成長するにも限界だったが、海にいたらどうなるんだ?」


「竜と化す、か」

 少女はげんなりとぼやく。

「あるいは、それ以上に危険なヤツが泳いどるかもしれんナ。ワシゃ、何がなんでも魚にだけは生まれ変わらんゾ」


「同感だ」


「やっぱり、人間が一番じゃヨ」


 池の主を喰らった魂たちは焚火を囲む。

 その光を包み込むように、森の奥には暗闇が広がっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ