[1] てめえはあの世にいるんだよ!
「儚い命でしたね」
幼児がにたにたと笑っている。可愛らしい顔に、他者を見下す目つき。身に着けた純白の袈裟からは、高潔さではなく傲慢さが滲み出ていた。
ここはどこだ。
眩しさに目が慣れたばかりの『彼』は周囲を見渡した。
荘厳な廊下である。壁、天井、柱。何もかもに大理石が使われているだけでなく、繊細な彫刻まで施されている。高名な芸術家による意匠だろうか。
シャンデリアに灯った青白い火をぼんやりと眺めていると、心の奥底からざわめきが這い上がってくる。
恐怖、あるいは興奮。
今から何が始まるのか。
そもそも、今まで何をしていたのか。
自分自身が何者かも分からない。
だが、記憶の糸を手繰り寄せてみれば、ある光景が脳裏に蘇る――
大勢の人が行き交う中、『彼』は少女と共に銃を構える。
銃口にはコルク栓。祭りの射的だ。
どちらがより大きな景品を撃ち落とすか、そんな勝負をしていた。
お互いにぬいぐるみを狙うものの、コルク栓ごときではびくともしない。
奮闘空しく弾が尽きると、彼女は悔しそうに微笑むのだ。
――笑顔。それが再生可能な唯一の思い出だ。
不思議と胸が温かくなるのは何故だろう。
活力を得た心臓が動き出し、全身に血を巡らせる。手足の指先まで神経を通わせることで、肉体を認識した。
ヒトの男だ。
では、今の今まで自分をなんだと思っていたのか。
はっきりとした形を持たない、あやふやな煙――
とにかく、あらかじめ情報を刷り込まれて生まれた赤ん坊のように、『彼』は実感を取り戻しつつあった。
それでも現状はまだ把握できない。
考える時間すら与えられなかった。
「さ、こちらですよ」
幼児が廊下の奥へすたすたと歩いていく。後ろがちゃんとついてきているか、確かめもしない。
ぼうっとしている間にはぐれたら一大事だ。『彼』は慌てて後を追いかけ、自分の腰ほどもない背中に声をかける。
「おい」
「はい?」
幼児の声は気だるそうだ。
必要以上の会話を嫌っているようである。それも事務的なのではなく、あからさまに面倒臭がっているのだ。
ぞんざいな態度に、『彼』は眉間にむっと皺を寄せて問い質す。
「俺はどうしてこんなところにいるんだ?」
「どうして、ですって!?」
何が気に障ったのか、幼児は大げさに振り返って「はん」と顎をしゃくった。
「あなた、生肉を放置しておいても腐らない、なんて勘違いしていないでしょうね」
「いや、ただ――」
「本当に分からないとしたら、とんだお間抜けさんですよ。肉体を授かった以上、死は必定です。そんな当たり前のことも知らずにのうのうと一生分を使い果たしたんですか?」
「……死は必定?」
「ああ、そのアホ面、もしかして事故でイっちゃった方ですか。そいつはご愁傷様。気休めにもならない慰めでしょうが、あなたみたいなボンクラは多いんですよ。『あれ、あれ、ここどこ?』って――」
どんよりと溜息をついた幼児は、突然人が変わったように『彼』を睨みつけ、口汚く罵った。
「グズが! てめえはあの世にいるんだよ!」
死、事故、あの世。
単語を結びつければ、自分の身に起きた災難を推測できる。
ショックは受けなかった。生前のことはほとんど思い出せなかったとしても、こうしてちゃんと意識が働いている。ああ、成仏しない幽霊とはこういう気分なのかもしれない、と納得までしてしまうのだ。
むしろ、この妙にガラの悪い案内人のほうが『彼』にとっては衝撃的である。あの世の住人の割に、言動には神秘性の欠片も感じさせない。
懐疑的な『彼』の視線に、幼児は「あァん?」とドスの利いた声で威嚇する。
「彷徨える魂の分際で、その目はなんだァ!?」
「す、すまん」
「『すまん』じゃなくて、『申し訳ございません』だろうがァ! てめえが虚無を漂わずに済んでいるのは誰のおかげだ? この天使様が気に入らねェなら、ここで放り出してやろうかァ!」
嘘をつけ。死者を恫喝する天使がいてたまるか。
そう叫びたい衝動をどうにか抑える。迂闊に逆らえば、どんな目に遭うか分かったものではない。
いっそ、どうも悪魔です、と自己紹介してくれたほうがまだすっきりするだろう。
天国は慈愛と安寧に満ち溢れている、というのは幻想だったらしい。
下っ端でこれなら、上に立つ者はどんなにねじくれた性格なのだろう。
つまり、神の話だ。
想像すると、憂鬱にならずにはいられない。
険しい形相だった天使は一転、元の子供らしい笑みを浮かべた。
「ウソウソ、冗談ですよ。職務を放棄するワケないじゃないですか。上司に怒られちゃいますからね」
「お前の都合かよ」
「なんか言ったかァ?」
「天使様の慈悲深さに触れて泣きたくなってきた」
「いえいえ、そんな、慈悲深いなんてとんでもありません。私は純粋な使命感によって、あなた方に新しい命の可能性を提供しているのです! ――ひひひッ」
皮肉と分かった上でか、気味の悪い笑い声を上げる。
この腐れ天使はどこへ自分を案内しているのだろうか――そんな不安を覚えた矢先、廊下の突き当たりに辿り着く。
扉が『彼』を待ち受ける。
そこには屍の山を登る男の絵が描かれていた。
一体何を意味しているのか、今の『彼』には知る由もない。
「さてさて、あなたには再び肉体を授かるための試練に挑んでもらいます。ま、サルでもできるので、気を楽にしてくださいね」
「その……試練を受けない限り、生まれ変われないのか?」
「別にそんなことありませんけど」
「先に言ってくれ! 俺は受けないぞ」
それを聞いた天使は半眼で凄むのだった。
「はッ、かしこまりました、脳タリンめ。そこまで楽したいってェんなら、一万年後、ミジンコ以下の命として生まれ変わらせてやらァ!」
「い、一万年後!?」
「こちとら慈善事業をやっているんじゃねェんだよ! 順番待ちはごまんといるんだ。その最前列に割り込ませてやろうって親切心を無駄にするたァ、つくづく愚かな魂だな!」
「最前列……」
「ええ!」
ころころと変わる人格である。
「あなたの頑張り次第ではすぐにでも転生できますよ。さらに、勝ち組の人生まで約束しましょう! おいしい話だと思いません?」
「う……」
試練を拒否したとして。
果たして、一万年も辛抱強く待っていられるだろうか。無理に決まっている。想像しただけでも頭がおかしくなってしまいそうだ。
仮に気が遠くなりそうな悠久に耐えられても、ミジンコ以下の命だって?
『彼』は力なく首を縦に振った。
「分かった、やるよ」
「素晴らしい! あなたは賢明な方だと思っていましたよ。私の見込んだとおりです!」
白々しいセリフにも、嫌気が差してくる頃だった。
見込みも何も、ほとんど脅迫ではないか。
結局、『大人しく従う』か『罵詈雑言を浴びせられる』かを選ぶしかないのだ。それならば前者のほうがマシだ、と思ったのである。
天使が壁のパネルに触れると、扉は音も立てずにスライドして開いた。
「さあ、乗った乗った」
強引に押し込まれたのは、腕も広げられないくらいの狭苦しい部屋だ。そこに天使まで入ってくると、気まずさで息が詰まる。
ごくりと喉を鳴らした『彼』の目の前で、扉がぴしゃりと閉じてしまう。
本当に自分の判断は正しかったのだろうか。
考え直そうとしたところで、もはや手遅れだ。
体がふわりと持ち上がる錯覚に、一瞬どきりとする。
壁が動いている――いや、床が降りているのか。
エレベーターだ。
天使が口の端を吊り上げた。
「下へ、参ります」