美しく楽な自殺とは
鬱々としているモノ。
それはきっと、生い茂る木々と、ふさぐ僕の心。
暗澹としているモノ。
それは多分、夜気の深くたちこめる雑木林と、沈む僕の心。
撓んでいるモノ。
それはおそらく、縄がくくられている枝と、気力の失せた僕の心。
ぶつり。
今、絶たれたのは、何?
僕の首を絞めつけた縄か、それとも僕の命そのものか。
それを判じかねたまま、僕の心はゆっくりと下降する。穏やかな眠りに誘われる。
ああ、土が冷たい。縄は僕の身体を支えきれなかったのか。しばらくして切れ、僕を地へ叩きつけたようだ。
でも、僕を殺すには充分な時間だったのかな? 酷く怠い。痛みもない。
醒めるかどうか判らない夢へ、落ちた――。
&&&
「起きて」
声。
「起きてって」
誰だろう?
「起きてってって」
起きなきゃ……。
「起きてってってって」
何だか……、ノリノリじゃないか? 声の主よ。
自殺未遂の少年を目前にしている割に。
――そうだ。そうだった。
僕は失敗したんだ、この世から逃げるのに。人の声が聞こえるのがその証左だろう。
重い目蓋を持ち上げた僕は、そこに少女を見た。
美しい。
僕の目は未だにしっかりと光をとらえることができていないようだが、彼女の姿だけは克明に視界に浮かび上がる。その頬にたたえられた笑みは天使を思わせた。
「――君、は?」
名を訊いてみた。僕の喉は辛うじて言葉を発するが、果たして届くか。
「私? さあ、ね。誰でもいいでしょ」
僕は頭を振った。
誰でもいい? そんなことはない。些か場に緊迫感が欠けているが、おそらくこの子は倒れている僕を見つけて呼び起こしてくれたのだろう。
呼び戻して、くれたのだろう。
彼女には感謝せねばなるまい。誰でもいいはずがない。
「そう。じゃあ、後で教えたげる。それより――」
確かに今はそれどころではない。でも、やはり知りたかった。
こちらの希望など知るはずもない彼女は、語りかけてきた。
「何でこんなことしたの」
「何でだっけ……。思い出せないや。とにかく、この世から逃げ出して、楽になりたかった」
救急車はすでに呼んでいるのだろうか。連絡をする素振りを見せない。察するにこの問答は、僕の意識を保つためなのかも知れない。
彼女は質問を重ねた。
「“死ぬ”ってそういうことなの? 楽になれるものなの?」
「決まってるじゃないか。楽園は花畑。天国なんてものがなかったとしても、僕は“無”に解放される。こんな世界にいるよりはよっぽどマシさ」
興奮したからか、僕は滔々と死生観を語った。自殺未遂直後の衰弱した人間が発する音の羅列とはとても思えないほどに淀みない弁舌である。
「天国がある、ない。死後の世界ってその二つしか可能性がないのかしら」
しかし彼女は反駁した。
「……? どういう――」
「こんなことも有り得るんじゃない? 死後には、死に際に感じた痛みを死の瞬間から永遠に感じ続ける……、とか。死んだら何も感じなくなるなんて誰が言ったの? 精神にはそのまま感覚が固定されるって可能性も、あるだろうに」
それはゾッとするような推論だった。死とは楽。僕はそれを信じて疑ったことがない。安楽を求めた結果、苦悩に身を投じるのではあまりに救いがない。
故に、彼女の言葉は僕の胸の奥を鋭く衝いたのだった。
「まだあるわよ。死後にはどこか別の世界に転生するかも知れないって可能性。でも、そこがこの世よりも楽しく幸せで素晴らしい、なあんて保証はどこにあるの? 探せばあるかも知れないけれど、この世の愉しみを見つけることの方が遥かに簡単だと思う」
なんだろう、この少女は? 見ず知らずの僕が死のうが生きようが、彼女の関知するところではないことだろうに、必死になって僕に考えを改めさせようとする。
心に星が灯り始めたけれど、僕はまだ、暗闇から離れようとしなかった。その中にあるかどうかも定かでない桃源郷に、執着し続けていたいのだ。
「逆に言えば、来世が幸せだという可能性もあるってことだろ」
「そうね」
彼女は理想郷を否定しなかった。存在することを証明することは容易くとも、存在しないことを証明するのは難しい。大方、そういうことなのだろう。
「でも、この世での幸福を満喫してからでも、それを探すのは遅くないんじゃないかしら」
そう思わない? と彼女。だが、そんなもので僕を論破したと感じたのならそれは思い違いだ。
「それがもう見つからなくなったから、僕は首を吊ったんだ」
彼女は笑みを消した。
それは唐突で、だから僕は面食らった。彼女に論議で勝った? と思ったとき、僕の心はまたも鬱々と、暗澹と、撓んでいった。
しかし、
「宝探しは終わってなかったわよ」
彼女は呟いた。
「くさい台詞を吐くのなら、『人生はその楽しみを見つけていく時間』ってところかしら。生まれてたったのニ、三十年で、四、五十年で、人生の最終目標を達成できるなんて思ったら大間違いよ」
「過去にはあったさ! 僕にだって……、申し訳程度の僅かな幸福はあった。でも、時が過ぎた今、僕にはもうそれが……見当たらないんだ……」
「宝が一個しかないなんて、誰が言ったの? 天寿のぎりぎりまで、あなたはいくつ隠されてるかも判らない宝を探し続けるべきだったのよ。それを途中で投げ出して……。まだ時間はあったのよ?」
僕は再び言葉に詰まった。
「仮に見つけられなかったとしても、それはあなたの眼が節穴だった、というだけのお話。幸福なんて、幸福を探す権利を持ってるってだけで既に見つけているようなものよ。だって、それこそが幸せなんだから」
ぐうの音も出なかった。
しかし、折れたくない。僕だって、苦しんで、悩んで、考えに考え抜いた結果、自らを殺すことを選んだんだ。それをものの十数分で覆されてしまうのには耐えきれなかった。
「なら……、なら! 無に帰ることに僕は賭ける! それなら、後悔にも苦しみにも、何にも縛られないから」
「後悔……? あなた今、後悔と言ったわ。命を捨てれば後に後悔するかも知れない、だから無に帰りたい――ということかしら」
「ち、違」
「そういうこと、ね」
言の葉を被せられ、断定された。僕の視界は未だに明瞭としていないようだが、有無を言わさぬ隠然とした視線の圧力だけは感じる。
ただ、僕が押し黙ったのはそれだけが理由ではないように思え、それが余計に悔しかった。
「そうよね。自ら死ねば後悔するわ。例え無に帰るのが真実だとしても、自分の死に悲しむ人の姿を天から見られないのは、その姿に自責の念を抱けないのは、やはり苦しいと思う。無の中にぽつんとその苦しみがあれば、白紙に落とした墨のように、目立つことこの上ない」
「……っ。無なら、その苦しみもないでしょ」
やっと反駁の機会が巡ってきた。
「――――。確かに、ないわ……。でも、その苦しみは死の直前に、人生の最期に、深い傷を残すでしょうね。その後に無へ帰ろうとも、その瞬間に苦痛に苛まれることは変わらないのだから。まあそれ以前に、今もまた、あなたの心を蝕んでるし」
図星だった。彼女の言葉を受けているうちに、再度自殺を決行する勇気が霧散してしまいそうになっていたのだ。
「あともうひとつ。死に方は? あなたは首吊りで、本当によかったの?」
&&&
「あともうひとつ。死に方は? あなたは首吊りで、本当によかったの」
彼女は尋ねた。
「よかった……って」
「こんな話、聞いたことない? 首吊ったあとの遺体って、眼が半分飛び出て舌も出て、顔は紫色に染まって。それはそれは酷い有様になるって。そんな姿を進んで葬式で晒そうというのは、私にはやっぱり解んないわ」
初耳だ。それが本当なら危なかった。死に際はやはり、できるだけきれいでありたい。
公務員をしていた叔父はある仕事に愚痴をこぼしていたことがある。電車へ身投げした人の肉片を一つ一つ広い集めるのだそうだ。飛び降りもおそらく同じようなことになるだろう。僕の死で他人に迷惑を掛けたくなかった――自分の肉片を広い集められるのが厭なのもあったのは否めない――僕は、だから首吊りを選んだのだ。
他人への迷惑はもちろん、自分の遺体を汚すのもやはり、忍びなかった。
「じゃあ、薬で」
「楽に、確実に死ねる薬なんてこの世には存在しないわ。最高に苦しんでもいいのならどうぞ。まあ……」
「僕は楽になりたいんだ。死ぬ過程で苦しむんじゃ本末転倒だよ。君も言ったじゃないか。もしかしたら、死に際の苦しみに永遠に溺れ続けることになるかも知れない」
言ったわ、と彼女。
僕
助けを求めるかのように自分の殺し方を詰問する。
「じゃあ……、じゃあどうすれば?!」
「うーん、それに答える前に一ついい?」
「ああ。いいから、早く教えてくれ」
もったいつける彼女に対し苛つきを隠せない僕は、早口で質問を促した。
「首を吊ったときさ……、勇気が要った?」
何を当然なことを。
「それはそうだよ。要った。要ったさ。怖いなんてものじゃなかった。死のうとしてるのに死にそうなほど怖かった。何度躊躇ったことだか」
そう……、と彼女は満足気に頷く。
「その恐怖を振り払って、あなたは決行することができたのね」
「そうだ。……それがどうかしたのかっ」
「いえ……。生物が最も畏れる“死”に自分から飛び込む勇気が、気概が、根性があるくらいなら、世の中、大抵のことは成し遂げられるんじゃないか、と思って。皮肉なもんね。自ら死を選ぶような人間の方が、よっぽど世を動かす気力を持っているんだから。そんな人間が何故死にたがるのか、私には理解できないわ」
僕が彼女の言葉を理解したのは数十秒後のことだった。
――確かに、そうかも知れない。死の恐怖を一度克服した今の僕なら、かつての僕を追い詰めたあのことなど苦ではない。“死ぬ気”で頑張れば――!
朝が来た。靄が晴れ、遠くが見えてくる。曙光が林の入り口の方から道を走ってきて、その道は、僕の足元へと繋がった。
自分を楽に殺す方法など、もはやどうでもよくなった。彼女の『質問』は、道に迷い道を踏み外した僕を引き戻してくれたのだ。後は自分の力で、自分の判断で、自分の道を切り拓くだけである。
僕の心境、その変化を鋭敏に感じ取ったらしい彼女は、駄目押しとばかりにこう告げた。
「世の中、モテる人とモテない人がいるわ。異性に関してはもちろんのこと、富、名声、金銭を持てる人と持てない人がいる」
彼女は一呼吸おいて、
「生命も、同じ」
と言った。
「生命を持てる人と持てない人。生命を捨てるのはいつも、持てる人。それって失礼でしょ? 生きたくても生きられない人がいるのに、無造作に投げ捨てるなんて非情すぎるわ」
今の僕にこの言葉を否定する権利など、あろうはずもない。一言一句聞き漏らさず、一言一句違えることなく、過ちを犯しかけた僕の脳裏に焼きつけた。
そして、礼とともに意思表示をする。
「……ありがとう。本当に。まだ、僕は生きるべきなのかも知れない。死後の世界がどうであろうが、幸福を求め続ける……。いつか来る天寿まで」
彼女は黙って相槌を打つ。
「どうせいつか死ぬんだ。なら、たっぷり人生を満喫して、それから時間に殺してもらうことにするよ。この世で最も美しく楽な自殺ってのは、縄でも、薬でも、火でも、水でも、落下や電車、車でもない。――時に身を委ねること、なのかな……。そうして、満足のうちにこときれる。――――これなら、死後どうなろうと構いやしない」
結論。
自殺はやめだ。
自分を殺すほどのことをやってのける勇気を胸に、今日この日を生き延びる。
僕は、そう決めたのだった。
そして。
彼女は僕を嘲笑した。
&&&
彼女が笑った。
出会ったときの、天使を思わせる微笑みではない。
そこには慈愛の色はなく、あるのはただ、僕に対する嘲りだった。
彼女の笑みは、まるで悪魔のようだった。
「走馬灯って……、知ってる?」
あまりの豹変振りに呆気にとられた僕は、質問に対し首を縦に振ることしかできなかった。
彼女は語る。
「走馬灯っていうのはね、一つの生存本能なのよ。生きてきて経験してきたことを思い返し、生への執着を強めようとする。まあ、強まったところで結局為す術なんて皆無、てことの方が多そうだけど」
「な、……にを言いたいの」
「つまり、ね。生への執着が強まるなら、想い出じゃなくても用は足りるってこと。別に、『自殺なんてやめて』って説得されることでもいいのよ。あなたの走馬灯はそれってだけの話ね」
「っ! ってことは、君は……」
「そう……。今までのお喋りはぜーんぶ、あなたが死に際に見た走馬灯。私はそれに登場した、語り手にすぎないわ」
僕の推論は的を射ていたけれど、自分でも呑み込めない。
そんな僕を置き去りにして、彼女は最後通牒を突き付けた。
「そして、結局は手遅れになった。縄は勝手に切れたけど、人が死ぬには充分な役目を最低限果たしたみたいね。お疲れさま。あなた、今『死んだ』わよ」
死後のことが分かるわよ、よかったわね、と。
人の絶望を何よりの娯楽と考える悪魔である彼女は、そんなことには興味なさそうに、僕の顔を見て楽しそうに、告げたのだった。
&&&
自殺など、せねばよかった。
これから僕の心がどこに行こうともこの後悔が消え去ることはないだろう。
そのとき僕は、悟ったのだ。
もうやり直せぬ、と……。
拙作「僕が居なくなっても、この世は廻り続ける」もどうぞ。
もともとはこの作品のあとがきとして書いたものです。