表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
因業のカラス  作者:
CASE01:御郷寺 丈
2/2

4/4 正午過ぎ 銘塚探偵事務所にて

 眩き日輪が雲を別つ。空は晴れ模様、葵京の地は時刻にして正午過ぎ。

 市井の隅に矩形の穴を穿つ、煤けた小型ビル。

 その二階、『銘塚探偵事務所』の看板を提げた扉の内側で、胡散らしい男が一人揺れている。バネの死んだメトロノームよろしく、無力に、不体裁に。

 壁際の姿見が男の体を捉える。虚ろな目色に粗末な身振り、足腰はボロ屋の柱と見紛う頼りのなさで不健全な肉をやっとこ支えている始末。誰だ、このみっともない男は。白昼堂々と夢の中を彷徨い歩き、それでも飽き足らず、今も尚大脳皮質をぬるま湯に浸して口端を溶かしているろくでなしは。


 私だ。


 全く恨めしい事に、今生この後二人と出会う機会もないであろう、目の前で抜群に腑抜けた面を晒している亡霊じみた男こそ、偽りなき自身の姿であった。


 ああ、何とも情けない。

 こんな男は見た目に従って一刻も早く埋葬されるべきであろう。いっそ生き埋めでいい。


 血色が悪く、寝覚めも悪く、朝はひたすらに眠い。世間ではこうした輩を症状の名もそのままに低血圧と呼んだりする。かく言う私も例に漏れずその一員であり、何なら医学書の一ページに参考写真として掲載されてもおかしくない程の模範的低血圧であった。

 起き抜けに力を込めようにも血が廻らない。目蓋をこじ開けようにも血が廻らない。

 低血圧の模範生ともなれば、無気力感を背負い込むのは寝覚めの一時に定まらない。朝夕を通して寝不足、無気力の軌条を走っている。一日二十四時間慢性的な倦怠感が付き纏い、姿の見えぬ何者かがじわじわと意識を底なしの生暖かい泥土に誘うのを肌身に感じる。


 はっきりと言ってしまおう。こんな人間は常人足り得ぬ。睡眠欲に絆された廃人であると!


 無論、恥はある。再三に渡り症状の改善を試みた経歴だってある。が、持って生まれた性質に手の施しようがなかったのもまた事実である。これは病であり、ある種の呪いなのだ。


 紆余曲折を経て導き出された結論。

 眠いものは眠い。生理現象に敵う道理はない。人これを諦観と呼ぶ。


 そう思い至って幾星霜を眠ったものか。

 一連の自虐を反芻して数分、酷く後ろ向きな努力の甲斐あって、ようやっと頭部に血液が届く。歪んだ骨が思い出したように整列し、健常者の骨格を形成する。地の底から辛うじて這い上がった心地だ。半開きの目が八分程まで開かれる。桜で言えば満開寸前、人としては半分目覚めた頃合いに見えようか。起床間もない低血圧にしては上等である。

 徐々に生者の色を取り戻しつつある肢体を手近な革張り椅子に押し付ける。傍らには年季の入った木目調のシステムデスク。利便性はさておき、浪漫的情調は申し分ない。


 半死半生の顔色でデスクに向き直ると、卓上で湯気を立てる洋食器の存在に気付いた。

 これは、ウェッジウッドの格調高くも情調慎ましいコーヒーカップ……加えてこの芳しい香気は、豆の焙煎法に始まり水質に至るまで徹頭徹尾拘り抜かれた我が珠玉のマンデリンのそれではないか。有難い。重度の睡眠廃人にとって高濃度のカフェインはカンフルに等しい。気怠い朝の眠気覚ましは、やはり苦味を際立たせたブラックコーヒーに限る。今が既に昼であるとか、そういう細かい点を気にしてはいけない。


 散々惰眠を貪って瑞々しさを失った下唇に、熱気を孕んだカップが触れる。

 蕩けた脳を独特の苦味が引き締める。豆が極端な深煎りの為、酸味は皆無だ。舌の根を滑る液は甚だ熱かった。煮え湯をポットから直に飲んでいる気分だ。熱い、実に熱い、酷く熱い。

 ……いくら何でも熱過ぎやしないか。食道が爛れる。臓物が煮える。

 思えば、そもそもこのコーヒーは何処から湧いて出たのだ。


「――ヴッフォ!」


 錯乱した結果、口から出たのは無駄にウエスタンスタイルな噴出音のみであった。


「所長。和やかなお昼にコーヒー暴発は些か見苦しいと思いますよ?」


「失敬……菖蒲くん」顎やらソーサーやらに飛散した見苦しい水滴を拭いつつ、声のした方へ視線を移す。「君か、これを淹れたのは」


 デスクを隔てた対面の空間に、コの字型に配置された接客用ソファ。声の主はその内の一脚にゆったりと腰掛けていた。何時からこの場に居たのやら、思えば部屋の扉を潜ってこの方、今の今まで意識朦朧としていたのだから、彼女の気配を感じ取れなかったのも無理はない。


「ええ、確かに所長がゾンビの物真似に勤しんでいる隙に淹れましたが」菖蒲嬢は首肯するも、やや狼狽気味な様子で、「もしや、淹れ方に問題がありましたか?」


「淹れ方に問題はない。ただ」一拍おいて、「熱さが常軌を逸している」


「おや、所長は猫舌でしたか」


「沸点スレスレの湯は猫舌でなくとも飲めないものだ、菖蒲くん」


 猫舌である事は否定しない。


 しかし、唇、舌先、食道の壁まで含めた始終尽くを焼き払い、現在も堂々腹の底に鎮座しているこの煮え湯はおおよそ人類が口にしていい代物ではなかっただろう。喉元過ぎれば熱さを忘れる、とは医学的にも正しいと何処かで医学者らしき人物が話していた。果てしなく益体もない雑学だ。度を越した熱エネルギーは胃に到達しても情け容赦なく猛威を振るう、と後世の者達は心得るべきである。


「そんな所長に明日使える豆知識を一つ」粘膜の火傷に悶える無残な男の訴えも度外視に、菖蒲嬢の口角がやんわりと緩む。「通常、カップと対になっているソーサーには、カップの内容物を移し替えて冷ます、という用途があるのです。単なるお洒落って訳じゃあないのですよ。これで煮え湯も怖くありません。やりましたね、所長」


「そういう事はせめて煮え湯を口にする前に教えてくれたまえ……」


 明日使える、とは皮肉なものだ。お陰で益体もない知識が一層嵩む。無念だ。


 口腔の疼痛に不条理を覚えながらも、愚痴は詮ない事と割り切り、改めてカップの把手を取る。件の菖蒲嬢はと言えば、無益な知識の披露をもって己の役目は終えた、とでも言わんばかりに外方を向いて、こちらへの関心などは端からなかったかのような素振りを見せる。哀れな男は既に意識の埒外へ蹴られており、彼女の視線は今や室内に置かれた液晶モニタが映す昼下がりのニュースに独占されている。薄情な。見てくれはいかにも人畜無害な令嬢といった風情なのに、中々侮れない曲者である。


 祇條菖蒲。齢、十八と数カ月。栗色の髪に、老いも渇きも存ぜぬ肢体。若年の肌は色白ながらも瑞々しく保たれ、心身の健全を物語る。見目麗しく落ち着きのある娘である。

 黴臭く不衛生な場末の古ビルとはどう足掻いても吊り合いの取れない風体と言えよう。

 春花匂い立ち、学徒の色めく当節には似合いの風体である。


 はて。

 ならば、どうして彼女は屋外に出歩きもせず、こんな場所に居合わせているのか。


 全く厄介な事に、彼女と対面している自分にも理由が分からない。

 記憶障害とまで深刻な症状ではないものの、起き抜けの睡眠廃人にはこうした暫時の健忘が付きものである。しばし黙考を尽くせば記憶の糸も手繰れようが、当人を目前にして数十分と無言を貫くのも如何なものか。

 自身の過失である手前不用意に追い立てる訳にもいかず、いよいよ対処に困る。第一、自分が彼女を呼び付けた所為でこの光景が展開されているのだとしたら、退散をせっつくなど支離滅裂この上なく、極めて失礼に当たる行為である。


 さて、どうする。


 と、逡巡しかけて、やめる。

 無駄だ。どの道、煩悶は徒労に終わる。


 聞くは一旦の恥聞かぬは末代の恥、とは故事の示す真理である。哀しいかな、私の生涯はきっと、遍く世人を押し退けて最も強く恥と結びついている。己の恥の経歴を鑑みれば、今回と似たようなケースは枚挙に暇がない。最早考えるまでもなく、取るべき対応は定型化されているのだ。思い至るが早いか、「菖蒲くん」


「煮え湯のおかわりはセルフサービスです、所長」


「違う……と言うか確信犯なのか、君は」


「熱いブラックコーヒーは一流の紳士の嗜みなのだそうです」


 適当な珍説を流してくれるな、名も知らぬ紳士。


「ご高説痛み入るが、私はさほど紳士を自負していないし、一流を志してもいない」咳払いして困惑を逃

し、「それはさておき、この度は自身の厚顔無恥の無作法を大変申し訳なく思う。要件に先立って手短ではあるが、しかと謝罪しておきたい」


「はあ……これは随分ご丁寧に」彼女まで畏まった物言いになって、小首を傾げる。「して、その要件とは?」


「誠に恐縮だが」


「はい」


「君が何故ここにいるのか、まるで分からない」


「……はい?」


 当然の反応と見え、言葉を変えてもう一度。


「どうして君が平日の真昼間から私の事務所で寛いでいるのか、とんと見当がつかないのだ」


「は……いえ」


 菖蒲嬢が再三聞き返しそうになるも、何やら胸に蟠るものがあったのか、いいや、と言葉を喉の奥へと押し戻す。しばし訝しげに目を泳がせて俯き、やがて疑念確信双方半々に達するなり、面を上げて、「あれだけコーヒーを堪能しておいてそんな事を仰いますか、所長」


「重ね重ね申し訳ない。恥ずかしながら、過去にも幾度も働いた事のある無礼だ。低血圧故に、時折記憶が抜けてしまう。物忘れと言うには度が過ぎているのは私も承知の上、何卒容赦願いたい」己を戒め、頭を垂れる。「後、別にコーヒーは関係がないように思う」


「はあ、なるほど……」少し考える仕草を見せ、「いや、これはこちらも失礼しました。物忘れは私だってしますから、構いませんとも」


 幾分か得心のゆく結論を得られたのか、菖蒲嬢の表情が穏やかに立ち返る。が、それも束の間。


「でも、低血圧と物忘れって、関連性はあるんですかね?」忙しなく訝しげな面持ちを取り戻して、「ああ、後、コーヒーは関係ありますよ」


「……? まさか、コーヒーに物忘れを促進するような効能などある筈は……」


「そんな事は言ってません、所長」


「………………ふむ」


 互いに硬直する。

 どうしてこうなった。


「すまないな菖蒲くん。コーヒーに執着するあまり可笑しな問答になってしまった」


「所長は根に持つタイプですね?」


「何故だか君にだけは言われたくない気がするぞ、菖蒲くん」


 カップに口を付ける。面妖なやり取りは煮え湯を冷ますに十分な間となったらしい。改めて舌に強い苦味を覚えさせながら、己の五感を占拠していた茫々たる霞の薄らぐ様を自覚する。ああ。これが煮え滾るコーヒーのもたらしたる恩恵なのだとすれば、なるほど、彼女は善意が表出しづらいだけで、実際は花も実もある人物だという見解も持てよう。


 とんでもない暴論である。ポジティブシンキングも極まれば劇物に等しい。


「そうですねえ。私がここにいる理由ですか」菖蒲嬢が独り言のようにぼそっと口にして、「えっと。でしたら、所長はどの程度まで憶えているんです?」


「現状では君の名前、年齢、知り合う経緯まで」


「コンプリートまであと一歩じゃないですか」


「何を言っているんだ、君は」


「ともあれ、そこまで憶えているのなら話は簡単」


 菖蒲嬢がおもむろに腰を上げて一言。


「秘書です」


「秘書?」


「そうです。秘書なのです」


 つかつかとこちらへ歩を進める菖蒲嬢を注視しながら、一考。

 秘書。秘書とは大雑把に言ってアシスタント、八方に手妻利く高水準のお手伝いさん、という認識で良いのだろうか。粗朴たる身には縁もゆかりもない役職故に、その実態を推測するにも雲を掴むような心地がする。

 そして、彼女の口ぶりから糸を手繰るに、つまり、事の真相は――。


「……雇っただろうか?」


 案の定、記憶になかった。


「雇ったのです」


「困った事に、秘書に任せる仕事が思い当たらないのだが」


「全く問題ありませんとも。それに、既にコーヒーを一杯淹れています」


「………………確かに」


 その程度で納得するのも如何なものかと呻吟するが、反論の形なす利剣も手元にない。

 何より、彼女の双肩より匂い立つ気炎の波紋が否定の言葉を躊躇わせる。ただならぬ眼光から視線を逸らし、心の隅にちらつく『篭絡』なる文言を振り払って、ひたすら無様に平伏するくらいしか今の私に出来る事はないのであった。


「まあ、私が所長にとっての秘書である事実はこれで理解して頂けたと思いますが。実のところ、今日に限ってもう一件、大事な用件があるのですよ」


 腰を折ってこちらの造作をじろりと覗き込んだ彼女の振る舞いに呼応し、己の体温が上昇し始めたのを感取する。これが思春期を漂泊する少年の話であれば、青臭い恋物語の発端を示す証拠物とでもなったのであろうが、哀しいかな、私にとってこの熱は、腑抜けた面を熟視された衝撃から来る恥辱の熱に他ならない。頬は紅潮するどころか、凹んで蒼白の溝でも拵えてやろうかと萎びだす。何とも風情のない話である。


「その様子だと、そっちの方も憶えてなさそうですね?」


 菖蒲嬢が悟った風に姿勢を戻すと、熱も直ちに鳴りを潜めた。

 心身のべつ幕なし熱されたり冷まされたり。彼女の一挙手一投足を頭の体操を促すものと割り切って考えたとして、しかし、やはり些か乱暴に過ぎる手法である。

 が、それでも多少の恩恵はあったらしい。


「いやはや面目ない――」頭を下げる素振りだけ見せ、「と、君の計略に従えばそう応ずる場面なのであろうが、吉報だ、菖蒲くん。たった今、奇跡的に当の用件とやらを思い出した」


 虚勢ではない。一から十までとは言わずとも、記憶の海原から目当ての品を都合よく掬い上げたのは確かである。いよいよ私は反抗の切っ先を対手へ向け、翻弄されるばかりのうだつが上がらない人格と決別し得る機会を得たのだ。

 内心にて大仰に宣ったは良いが、どうも一人芝居の色が強くていけない。

 私はさっきから一体何と戦っているのだ。


「何だか、私がとんでもない悪玉のように扱われている気がするのですが……まあ、少しでも記憶が戻ったのでしたらなによりですね」


「………………ふむ」


 寒い。私は屑である。

 目蓋を閉じ、余ったコーヒーを一息に呷る。

 余計な思考は打ち切ろう。ひとまずの懸念は払われたのだから、後は追々、日の移ろいが彼女の素性を暴いてくれる事を祈る他ない。


 方針が妥当な線に落着すれば、本日の活動如何の測定は容易く済んだ。


 陽気春めく折。

 我々の差し当たっての目標は、葵京警察署への出頭であった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ