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蛇恋シリーズ

祟姫の涙【後編】

作者: ぼたん

【後編】


 青年の話によれば、たたひめが屋敷に出向いてからというもの、おすずの容体は順調に回復していったという。

 それからしばらくの間は、たたひめを「やくたたず」とからかう村の子どもも家に来ず、たたひめはのんびりとした日々を送っていた。

 やがて暑い夏空が陰りを見せはじめた時分――。

「あにさま、あにさま」

 ある日、いつかのように縁側で、月明かりをたよりに着物のほつれを直していた青年の背に、声がかかる。

「ん、しょ」

 縁側の段差に気をつけて下りたたたひめは、青年の隣に腰かけた。

「どうした、たたよ?」

「はい……あの、花が……」

 心なしか気落ちしているたたひめに、ふと青年が見れば、その腕には花びらの枯れた向日葵が抱かれていた。

 もともと切り花で買ってきた向日葵。鉢に植え直しただけで、この時期までよくもった方だと青年は思う。けれどもたたひめは、昼は縁側で一緒に日向ぼっこをして、夜は枕元で一緒に夢を見た。

「いくらお水をあげても、ことばをかけても、元気になりませぬ……」

そんな向日葵もとうとう枯れてしまい、少女は落ち込んでいたのだ。

「あにさまにいただいた、花……たたは、だめにしてしまいました……」

「――ふふっ、たたよ」

 そういえば、彼女はものを育てきるのははじめてだったなと思い返した青年は、着物を脇に置き、たたひめのやわらかな髪を撫でる。

「ものというのはな、いつまでも残ることはないんだ」

「それは、お花もでございますか?」

「ああ。花も、動物も、この着物も、家も、それにたたよ、俺やお前もな。いつかはなくなってしまうものだ」

「……それは、いやでございます」

 慣れ親しんだものたちが消えていく、幼いながらも聡いたたひめは不安に呟く。

「でも、なくなっていいものだってあるんだぞ?」

「? どんなものでございますか?」

「たとえばほら、この間のお前が布団に広げたでっかい水たまりとかな」

「――ッ!? ぅむー、っむうー!! そ、それは言わない約束でございますぞ!!」

 真っ赤になって空いた手でぽかぽかと青年の膝を叩くたたひめ。

「はっはっは、まあな、それだってお天道様のおかげで、きれいさっぱりなくなっているだろう?」

「……それは、そうでございますが……ぅむう……あにさまは、時にいじがわるうございます」

 納得いかないように足をぶらぶらと振り、たたひめは頬を膨らませた。そんな様子に微笑みながら、青年は続ける。

「その向日葵も、同じだ。まあ、前のは育ちきる前に駄目になったが、見てみろ」

 言ってたたひめの抱える向日葵を、そっと指でつつく。

「あ――」

すると、花の顔からぽろぽろと米粒のようなものが、たたひめの手のひらにこぼれ落ちた。

「これは……たね?」

 少女には見覚えがあった。花の前に、青年が買ってきてくれた、向日葵の種。

「そうだ。この向日葵はな、ただなくなるんじゃなくて、こうして種を残した。ものには必ず終わりが来るのが道理だ。でもな、それが必ず何かを残すのも、また道理なんだ」

「なくなるだけでなく、残る……」

 たたひめは手のひらの種を見えるよう、顔のそばでじっと見つめ、やがてやわらかく包みこんだ。

「たたよ。せっかくだ、」

 何かを悟った様子のたたひめに、青年は声をかける。

「また次の夏にでも、綺麗な向日葵を咲かせてくれないか? そうして、その次の夏も、また次の夏も、ずっと笑顔を残していってくれ」

 ――いつまでも、笑顔で。

 それは、向日葵の言葉だった。

「……はい、はい! たたは、頑張ります、あにさま。ずっとずっと、頑張ります!」

 青年の願いに、たたひめは月明かりに映える笑顔で、そう答えた。

 


 涼やかな秋風が、紅く染まった葉を揺らしはじめた、ある朝のこと。

「あにさま、今日もお気をつけて」

 いつものように、そう言って送りだすたたひめ。

「…………」

 しかし、青年はどこか深刻な面持ちで彼女を見つめ、黙っている。

「? あにさま、いかがされましたか?」

 たたひめはきょとんとしながらも、思い返す。そういえば昨晩、青年が家に戻ってきてからというもの、どこか上の空で、時折考え込む仕草をしていた。

「あにさま、お身体のぐあいでもよろしくないのですか?」

「……いや」

 心配になって覗きこむたたひめを、青年は慈しむような笑顔を向けた後、首を振る。

「すまんな、たたよ。今日は……少し帰りが遅くなる」

「はあ、いかほどでございますか?」

 本当に稀だが、村の大人たちの宴に青年も呼ばれることがあり、その時は月が高くなる頃にしか帰ってこない日もあった。

「先に、夕食をとっていてくれ。明日の朝までには、戻る」

 時を告げず、それだけを答える青年。

「……、わかりました。お気をつけて、あにさま」

 理由を問い詰めることもなく、素直に応じるたたひめ。

「ああ……。では、行ってくる」

 一瞬だけ躊躇ったように言葉を濁したが、青年はそのまま踵を返す。

「はい。お気をつけて、あにさま」

 ――けれども、彼女は青年の帰りが遅い時はいつも、いつまでも待っていた。どんなに遅くなろうとも、月が傾こうとも、暗い家の中で一人膝を抱えて、青年と一緒に夕食をとるのを、待っていた。

 だから今日も、待っている。

 たたひめが、その健気な意気込みを小さな胸中でした時――、踏み出した青年が振り返った。

「あにさま? 何か、おわすれものが――ぅむっ」

 彼女の言葉を遮って、青年はたたひめの小さな身体を抱きしめた。

「あ、あにさま? 一体、いかがされましたか?」

 突然の抱擁に、たたひめはびっくりするやら、どぎまぎするやら。

 顔を赤くする少女を、かえがたい宝物のように抱きしめていた青年は、その耳元で静かに呟く。

「たたよ、お前は、何も心配しなくていい。――俺が、必ず守る」

「……え? あにさま?」

 何の事か分からないたたひめは、そう問いかけるも、おもむろに青年は身体を放して口を開いた。

「いや、すまんな。……もう大丈夫だ、行ってくるぞ」

 そう言っていつものニッとした笑顔を残し、青年は立ち上がる。

「……あにさま」

 やがて歩き去る青年の姿がぼやけて見えなくなるまで、見送るたたひめ。


 ――彼女が、青年の言葉の意味を理解するまで、それほど長くはなかった。



 その晩のこと。

 日が沈み、月が昇りはじめた時分。

 ほのかに揺らめくろうそくの明かりに照らされた家の中で、たたひめは静かに青年の帰りを待っていた。

 膝の上に置いた小皿に、前に採った向日葵の種を並べ、夏風に揺れる黄金色の花を夢見ながら、指でつつく。

 ――そして、ついにその時は来た。

「たたよっ、いるか!?」

「ひうっ、あ、あにさま?」

 突然家の戸が開けられ、びくりとするたたひめ。

 そこに立っていたのは、荒い息をつく青年だった。

 遅くなると言っていたが、まだ日が沈んでからそれほど時は経っていない。

「お、お帰りなさいませ、あにさま」

「ああ……ああ。いや……、たたよ、すまん」

「? 何をでございますか?」

 急に謝られてもたたひめは困ってしまう。

 けれども青年は、どこか焦るように部屋に上がり、周囲を見渡して、一度大きく息を吐いてから、静かに告げた。

「――逃げるぞ、たた」

 少女には、その言葉の意味がよくわからなかった。

 逃げる――。それは知っている。けれど、誰が? 何から? 

 たたひめは、青年の異様な様子に、じわりじわりと不安が湧きあがっていく。そうこうしている間に、青年は風呂敷に、数少ないたたひめの着物を包み、荷造りを始めていた。

「あ……あの、あにさま……なに、が」

 たたひめが尋ねようとした、その時――

「――たたひめはァー、いるかァ――ッ!?」

「っ!?」

 家の外から、誰とも知れぬ怒声が聞こえてきた。

「チッ、まずいな。たたよ、裏から山へ出るぞ」

「えっ、あ……う、あっ!」

 戸惑うたたひめの手を引いた時、彼女の膝に置いてあった皿が落ち、向日葵の種が畳にばらまかれる。

「あにさま、たねが、」

「それは後だ、今は一刻も早く、山に――」

「でも、大切なたねが、」

「――たたひめはァー、ここかァ――!!」

 戸のすぐ前で、また声が聞こえた。

「くっ、仕方がない!」

「あ、あうっ」

 焦る青年は、這いつくばるたたひめを脇に抱えた。少女はかろうじて掴んだ一粒の種を握りしめる。

 青年はそのまま縁側から庭に飛び出し、裏の畑から山へと逃げようとして……、しかし時は遅かった。

「いたぞ! たたひめだ!!」

「皆の衆、ここじゃ、ここじゃああ!」

 既に家の周りは取り囲まれ、二人に逃げ場はなかった。

「あ……あに、さま。これは、一体……」

 不安と混乱で震えるたたひめの目には、ぼやけた暗闇の中に蠢く、無数の赤い光が見えていた。

「くっ、まずいな……」

 彼女を脇に抱える青年が、ぐっと唇を噛む。

 そしてその眼前には、夜の闇を赤々と照らす松明を携えた――、麓の村人が大勢立ちふさがっていた。

「おめぇがたたひめか!」

「この畜生が、おら達をだましやがって!!」

「さっさとその正体をあらわしやがれってんだ!」

 人々の間から、口々に飛び交う怒声。

「ぅ……、ひ……ぅ」

 それは全て、小さなたたひめに向けられていた。

「あ……あにさま、」

 助けを求めるように、たたひめは抱える腕を手繰る。

「――本当に、すまん」

 そう言ってゆっくりと青年は、たたひめを下ろした。そして彼女を自分の背に隠す。しかし警戒する視線は、ずっと囲む村人に向けたまま。

「いい加減、祟り蛇になったらどうだぃ、この物の怪が!」

「――っ!」

 その言葉に、たたひめはハッと息を呑んだ。

 正体が、ばれている。

 でも、一体、何故?

「おめえさ屋敷の娘に祟りをかけたのは、みーんな分かってんだぞ!」

「ンだ、ンだ。まさかとは思っていたが、おすずが言うにはこんな小さなナリで、でっけえ蛇になるでよ!」

「おすず……さんが」

 あの時、自分がかけた祟りで苦しんでいた彼女の顔が蘇る。けれども、彼女は――?

「……たたよ、おすずはな、」

 少女の身体を引きよせながら、青年が小さな声で教える。

 おすずは、祟りがはれ、もとの身体に戻った。

 ――しかし、その心は病んだままだった。

 たたひめが屋敷を訪れてからというもの、おすずはおぼろげながらにも見た、たたひめの正体に、恐怖を抱き、眠れぬ日々を過ごしていた。

 そして、恐れるあまりやがてそれが狂気となり、矛先が、たたひめに向いた。

 もともと村の中では一番の屋敷で、その発言力は強い。

 半ば狂乱と化したおすずの言動でも、村の人間は動いた。

 何より、彼らを突き動かしたのは、異形の物の怪に対する恐怖があったからこそ。

 青年が屋敷に雇われていたのも、もとはいつ襲い来るかもしれない物の怪を退治するためであった。

 しかし、その青年が、実は――、

「おいおめえさ、さてはその物の怪に憑かれておったな!」

「いんやもしかすっと、そいつも人の皮を被ったバケモンかもしれねえぞ?」

「ンだ、現にたたひめも童の格好をしてるでよ!」

「そうに違ェねえ! このっ、食らいやがれ!」

 村人の中の一人が、言うなり足元にあった手ごろな石を投げつけた。

「きゃっ!」

「――ぐ」

 容赦なくたたひめに向いた拳大の石を、青年は叩き落とす。しかし、それをきっかけに次々と村人は石を拾い、投げはじめる。

「ぐっ、が!」

 最初は払い落していた青年だったが、いくら彼の体格がよくとも、雨のように降り注ぐ石には太刀打ちできようもない。やがてたたひめを抱きかかえ、その身をもって石から守るしかすべはなくなっていた。

「あ、あにさま! あにさまっ!」

 ゴッ、ゴッと石が青年の背に当たる嫌な音と衝撃を、彼の身体越しに感じるたたひめは、叫ぶように青年を呼ぶ。

「すっ、すまん、な、たた……よ」

 しかし青年は、石を投げる村人に反撃することをせず、ただ、たたひめに謝る。

「どうして、どうしてあにさまがあやまるのでございますか! あにさまは何もわるくありませぬっ、あにさまは、何もわるくありませぬ!」

「ふ……たたよ、お前は、本当に、優しいな」

「悪くは……ありませぬのに……あにさま、あにさまぁ……」

 ぎゅっと抱きしめられるたたひめは、青年に守られ何もできない自分が歯がゆかった。

「やれェ!」「物の怪を退治しろォ!!」

 石の雨は激しさを増す。それは恐怖が生んだ狂気のつぶてだった。

「あにさま、あにさま!」

「…………」

 悲鳴にも似た呼びかけに、たたひめを抱きしめる青年は答えない。

「あにさまっ、あに――え?」

 ぽたり、ぽたり……、呼びかける少女の頬に、何かあたたかいものがこぼれ落ちた。

「あにさ……ま?」

 たたひめは顔をあげる。すぐ傍にある青年の顔。

力なく目を閉じたその額から、真っ赤な血が、ぽたり、ぽたりと、こぼれ落ちていた……。

「――ァ、」

 少女の中で、何かが切れた。

「こンのバケモ……ん、おい?」

 熱に浮かされたように石を投げていた村人が、気づく。

『ア……ア、』

「お、おい、何だ、様子が――」

 その波は派生し、やがて石の雨が止む。

『アア……アアア、』

 月明かりの中、不気味な静寂に満ちた暗闇に響く、唸り声。

「なん……だ、こいつぁ……」

 誰かが、膨れ上がる恐怖をかき消すように呟いた、その時、


『ジャアアアアア――ッッ!!』


 蛇が、吼えた。

『――アアアア、ジャアアアアアッ!』

 闇を斬り裂き、空気を断ち、木々の葉を打ち散らすほどの咆哮。

 村人が皆、耳をふさぎ、そして畏怖に腰を抜かして、見上げるその先には――。

『ユるさぬゾ――』

 背後にある家をゆうに超える肢体、爛々と光り村人達を睨みつける金色の蛇眼。

『あニさマを……、タたのあにサまヲ、ジャアアーー、アアアアッ!!』

 人間など一噛みで貫いてしまう牙を生やした真っ赤な口から、人間の言葉を吐きだす――白き蛇、たたひめがいた。

「ヒっ、で、でたぁあああ!」

「蛇じゃあ、祟り蛇が出たぞおお!」

「たたた助けてくれぇぇ!!」

 その恐怖の象徴たる姿を見た村の人間は慌てて逃げ出そうとする。しかし、抜けた腰と、足元の土が妙なわだちをつくっており、うまく歩くことができない。

 ――そこは、かつてたたひめが一生懸命に作った、畑だった。

『アア、ヒとリ、のコらず……』

 蛇は、もたげた首を揺らし、はっきりとした視界で人間を睥睨する。そしてジャアアと口を大きく開けた。

『この、きバで……、コろ――』

「……だめだ。やめろ、たたひめ」

『――ッ!?』

 飛びかかろうとした大蛇。しかし、その矛先と村人の間に立ちふさがった影があった。

『――あニ、さま』

「だめだ。たたよ、殺しては、だめだ」

 そこには、額から痛々しく血を流しながらも、手を広げて向かう、青年がいた。

『アニさマ……なぜで、ゴざイますか? あのニンげンたちハ、たタの、あニさまヲきズつけた――』

「心配するな。これぐらいの怪我、どうってことはない」

『でモ!』

 戸惑う蛇の問いかけに、しかし頑なに首を振る青年。

『どうシて! いタくはなかったのデスカ、つラくハなかったノですか? そのムクいヲ、なゼあにさマは、かエそうとしナイのでござイますか!?』

「……それをやって、お前は、苦しくなかったのか?」

『――ッ!?』

 青年の問いかけに、たたひめは気づく。

 おすずを祟ったあの時の感情を。晴れぬ思いを。苦しかった胸中を。

『たたは……たタは……』

 それまでの溢れるほどに立ちのぼっていた大蛇の怒気が、少しずつおさまっていく。

『た……た、は』

「俺はな、たたよ。お前が『それ』をしてしまったら、俺だって、苦しいさ」

『あに……さまも?』

「ああ。お前が苦しい時は、俺も苦しい。お前が辛い時には、俺だって辛い。だからな、俺は大好きなたたに、そんなことをしてほしくはない」

『あ……あにさま』

「それにな、お前が楽しい時には、俺も楽しい。お前が嬉しい時には、俺だって嬉しい。――お前が、いつまでも笑っていてくれるなら、俺だって笑える」

『――いつまでも、笑顔で」

「ああ、そうだ。俺の可愛い、たたひめよ」

 青年は歩み寄り、その髪を優しく撫でる。

「あにさま――、あにさまぁ!」

 そこに立っていたのは、祟り蛇と呼ばれた物の怪ではなく、少女の姿をした、たたひめだった。

「もうしわけありませぬ……あにさま、たたは、たたは……うぐ、ぐしゅっ……」

 ぽろぽろと大粒の涙をこぼすたたひめ。青年は慰めるように彼女を抱き寄せ、一つ、息を吐いた。

「い、今なら……」

「ああ、退治、できっか?」

 その背後で、村人が立ちあがる。

 中には、家から持ち出してきた刀や弓を携える者もいた。

「こいつで、一息にしとめてやる」

 きりきりと、つがえた矢を引き絞り、青年の背を狙う村人。

「――くたばれッ!」

 ヒュッ、手を放した瞬間、風を切る音とともに矢が放たれる。

 鋭いやじりが青年の背を貫こうとした、その瞬間――。

 ――パァン!!

 矢は、破竹の音を立てて真っ二つに叩き斬られた。

「なっ、なして!?」

 その光景に、驚愕に目を見開く村人たち。


「――たった一本か?」


 静かな声を発したのは、青年。

 手には、いつの間に抜いたのか、一振りの刀が握られていた。

「教えてやる。戦場ではな、こういう致死の矢が、雨のように降り注ぐんだ」

「く、っ撃ェ! 矢を放てェ!!」

 慌てた村人の声に呼応して、周囲からきりきりと音がして、次々に矢が飛んでくる。

「……それを、こんな程度の数でやられてたらな、命がいくつあっても足りない」

 しかし青年は避けるどころか、持っていた刀を無尽に振るい、超速の矢を叩き斬っていく。

「あ、あにさま……すごい」

 背に匿われているたたひめは、目の前で起こる青年の絶技に驚きを隠せない。

 やがて、青年はその手をとめる。矢が飛んでくる気配はない。青年の足もとには、真っ二つに斬られた矢が幾本も転がっていた。それは、村人の矢が尽きた証拠だった。

 そして青年は、たたひめを背に、一歩、無数の松明の前に出る。それだけでざわめきが起こった。

「俺は、たたの手を汚させたくはない。それに、世話になった村の皆を、傷つけたくはない」

……だがな、と、青年は静かに告げる。

「それでも、俺のたたひめを傷つけようとする馬鹿野郎は、容赦なく斬る」

 じゃり、と足元に転がる真っ二つの矢が音を立てる。

「ひっ、ひい!」

「駄目だ、一本も当たらねえ……」

 それだけで、村人の戦意を削ぐには充分であった。

「さあ、誰がかかってくる?」

 その問いかけに、誰ひとり、動く者はいない。

 青年の放つ殺気に、誰ひとり、動ける者はいなかった。

「――鬼じゃ」

 その時、誰かが呟いた。

「鬼じゃ、そこな居るのは、まことの鬼じゃ……」

「――たたひめの鬼さまが、出おった……」

 それは村の子ども達が青年を揶揄する言葉だった。普段は馬鹿にしながら子どもの話を聞いていた大人達も、今は、誰ひとりとして笑う者はいなかった。


 しばらく、青年と村人のにらみ合いが続く。

「……あにさま」

 たたひめは、ぎゅっと胸をおさえる。青年に、同じ人間を斬る事をしてほしくはなかった。

 自分はただ、大好きなあにさまと、のんびりとした毎日を過ごしていたかっただけ。縁側に座り、ぽかぽか陽気を浴びながら日向ぼっこをして、次の夏には畑に種を植えて、黄金色の向日葵を咲かせて。夜にはあにさまと、その日あったことを、互いに笑い合いながら話す。

 そんな、人間の毎日を、過ごしていたかっただけ。

「あ、あにさま」

 たたひめは、どうにかして止めてもらおうと青年に声をかける。

「――大丈夫だ」

しかし、思いがけず返ってきたのは、鬼のようなものではなく、普段の穏やかな声だった。

「大丈夫だ、たたよ。心配は、いらない」

「あにさま……」

 それだけで、たたひめにはわかった。彼には、村人を斬る気はないと。

 やがて青年は、静まり返る村人に向け言葉を発した。

「……俺は、別にあんたらを恨んでいるわけじゃない」

 群衆にどよめきが生まれる。嘘だ、いやでも――、そんな声を聞き流しながら、青年は続ける。

「俺と、たたは、ただ静かに暮らしていたいだけだ。もし、あんたらが良いというのであれば、こちらから危害を加えるつもりはないし、奉公だってする」

 思わぬ提案。そして青年はたたひめを招き寄せ、その髪を撫でながら言う。

「このたただって、これまで人を喰ったこともなければ、村を襲ったこともない。あんたらのガキどもから、こいつの事を聞いてないのか? それが、人を襲う物の怪か?」

 静まり返る親達。

「屋敷の娘を祟り病にしたのも、それを悔やんで祓いに行っただろう? そんなの知らないとは言わせねえぞ」

 ぐ、と唸り声が聞こえる。それは、以前にたたひめが村を訪れた時に挨拶をしてくれた者達だった。

「俺からも、人は襲わないと約束させる。それにあの蛇のナリだ、やがて俺と一緒に、村を守ってくれるだろう、な、たたよ?」

「――はい、あにさま」

 青年のその申し出は、たたひめにとって願ってもないものだった。いつも憧れていた彼と同じ場所にいられる、それだけで、たたひめは満足だった。

 そして、村人達のどよめきがざわめきにかわる。皆、ここに来た当初こそ恐怖すれ、青年の提案に心動かされていた。

「ま、まあな、おら達も、別にたたひめが憎くて来たわけじゃ……」

「おう、確かに蛇はおっかねえが、それが味方になるんならな」

「けどよ……まあ、な」

 彼らのたたひめに向けられた怒気は、やおら和らいでいた。しかし、誰もがどこか歯切れ悪く、目を逸らす。

「まあ、皆の言いたいことも分からんでもない」

 その時、彼らの気持ちを代弁する声が聞こえた。群衆が分かれ、前に進み出たのは――。

「……爺さん」

「おう、――カァッ、このクソガキが!! こんな年寄りに刀を向けるとは何事じゃい!」

「へっ……年寄りはこんな遅くに布団から出ちゃいけねえよ」

「減らず口を。まあよい。……あんな、たたひめさまよ」

「――っひゃい!?」

 急に言葉を向けられ、ろれつの回らない口で答えるたたひめ。

「かっかっか、たたひめさまはいつも可愛いのぅ」

「いつもって、まだ二回しか会ってねえだろうが」

 青年の突っ込みを遠い耳で受け流し、老人は続ける。

「あんな、たたひめさまよ。ワシらとて、お主が嫌いなのではない。できることなら、一緒に暮らしていきたいと、思っている」

「は……い」

「でもな、皆、どうしても怖いのじゃよ。それはお主が強い物の怪で、ワシらが弱い人間だからじゃ」

「…………」

「弱いワシらは、いくら群れようとも、お主には到底かなわぬ。たたひめさまがその気になれば、ワシらの村なんぞあっちゅうまに更地になるでの」

「た、たたは、そんなことは……」

 否定しようとするたたひめに、老人は近づき、いつかの深いシワを寄せた笑顔で頷く。

「知っておる。お主は、優しいたたひめさまじゃ。それはそこなクソガキから、耳にタコができるほど聞いておるわい」

「爺さんが聞かせろって言ってんだろうが」

「かっかっか。……だがのう、人里に住む物の怪は、物の怪を呼び寄せる。たたひめさまがワシらの村にいるだけで、ワシらにも、もしかするとたたひめさまにも敵わぬ物の怪達が、押し寄せてくるかもしれん」

「そんな……」

「ほんに、すまんのぅ。じゃが、これがワシらが胸の奥で恐れていることの正体じゃ。それを、わかってはくれまいか、たたひめさま」

「おじい……さん」

「――もし、どうしてもというのであれば、この老いぼれの体でよければ、供物として捧げてもよい」

「えっ、ええ!」

「おい爺さん、あんた……」

「カーッ、うるさいのうクソガキ。ワシは今、たたひめさまと話をしているんじゃ。部外者は口を挟む出ない」

「部外者ってなあー」

「さて、どうしてくれるか、たたひめさま?」

 たたひめは、自分を見つめる老人のもとへ、歩み寄る。一瞬だけ村人がどよめいたが、老人は黙って彼女の答えを待つ。

「――たたは、」

 一度、たたひめは青年を振り返った。その距離ではぼやけて見えないはずの視界で、彼の顔を見つめてから、決心するように頷いた。

「たたは、たたでございます。おじいさんをたべるなんて、いたしませぬ。――たたは、人間のたたで、ございますから」

 以前は俯いてしまって最後まで見ていられなかった老人の顔を見据え、たたひめははっきりと告げた。

「……そうかぃ、ほんに、すまんのう」

「その代わり――」

「? なにかの、たたひめさま」

 尋ねる老人に、たたひめは、笑顔で答えた。

「――笑ってくだされ。たたにも見えるように、いつまでも、笑ってくだされ」

 老人は、そのお願いに言葉が出なかった。

 ただ、愛しげにシワを深め、荒れた手でたたひめの頭を撫でた。

 まるで、自分の孫にそうするように――。


「……もう、行きますね」

 やがてたたひめはくすぐったそうに老人の手を離れ、青年のもとへと戻る。青年は既に刀を鞘に納めていた。

 ここに、村人の敵意はなかった。

「あにさま……」

「ああ、行こうか」

 しかし、もうこの村には、青年とたたひめの居場所はない。

 まるで今の夜闇のように、一寸先は見えない旅路が、二人を待っている。

「…………」

「なあ、たたよ」

 その不安に押し黙るたたひめに、青年が声をかけた。

「今度は、畑仕事を一緒にやろうな」

「え……?」

「すぐに、また良い場所が見つかるさ。そうしたら今度は、俺も一緒に畑を耕して、種を植えて、花を咲かせたい」

「あにさま――」

 たたひめは、ずっと握りしめていた手のひらを開く。

 そこには、一粒だけの向日葵の種が握られていた。

「はい、たたも頑張ります。いっぱい、いっぱいがんばりますぞ」

「いいぞ、その意気だ」

 明るくなった少女の手を、青年が握り返した――その時、

「――待って!」

 二人の足を、叫び声が止めた。

 振り返ると、割れるように避けた村人達の前に、一人の少女が立っていた。

「待って、お願いだから、行かないで!」

 その声に、たたひめは聞きおぼえがあった。

「……お、すず、さん?」

 この騒動の元凶ともなった彼女が、何故ここに。何故、自分達を呼び止めるのか。

「私は、私はっ――」

 二人のもとへ駆け寄るおすず。

「わたしは……あなたが、すき」

 そして青年の目の前で、何かにつまづいたように、彼に寄りかかった。

 咄嗟に彼女を受け止めようとした青年は、

 

 ――トス。


 そんな、軽い音を聞いた。

「……え?」

 青年の怪訝な、くぐもった声。

「あにさま?」

 問いかけるたたひめの手からするりと青年の手が離れ、彼はおすずと共に倒れる。

 時の流れがゆっくりになったように、たたひめの悪いはずの目には鮮明に映った。

 受け身もとらず、地に頭を打ち付けて倒れる青年。

 にいぃと笑い、抱きつくおすず。

 ――そしてその間に見えた、月を鈍く映す閃き。

 たたひめには、それはまるで、刃物のように思えた。

 たたひめには、それはまるで、あにさまの胸に突き刺さっているように思えた。

 鮮明なたたひめの視界に映るおすずが、いつかのようにくすくすと笑う。

「あなたがすき。だから、だから。やくたたずのもののけなんかと、いっちゃいやなの」

「おす……ず、おま、え」

 青年が凶刃に気づき、彼女の腕を押しのけようとする。するとおすずは彼の胸に刺さっていた包丁を、ずぶりと抜いた。

「だから、だから。わ、わわたしきめたの。あのときみたいに、あなたがけがをすれば、またわたしのところにきてくれるって。またわたしといっしょにいてくれるって。だいすきなわたしにいつまでもだいすきっていってくれるって。だからね――」

 狂気に満ちたその言葉。ギラリと掲げられた包丁は、べったりと血で汚れていた。

「いたいの、ちょっとだけ、がまんしてね?」

 そしておすずは笑い、青年の胸に、包丁を深々と突き立てた。

「――がっ、ぐ」

 痛みに呻く青年。矢を断ち斬る腕に、力は入らなかった。

「ねえもういい? もういい? もうそろそろきてくれる? わたしのところにきてくれる?」

「誰、がっ……このッ!!」

「きゃっ!」

 再び突き刺さっている包丁に手を伸ばそうとしたおすずを、青年は渾身の力を振り絞って押しのけた。おすずは力なく地面に尻もちをつく。そしてすぐに駆け寄った大人達に取り押さええられた。

「かっ、ふ……げふっ」

 青年は苦しそうに咳き込む。その傷口や口からは血がとめどなく滴り落ちていた。

「く……そ、こんな、とこ、ろで」

 仰向けに倒れている青年。彼の目には、頭上に浮かぶ月が赤く見えていた。

 そしてふいに、その視界が陰る。

「……あにさま?」

 ぽたり、ぽたり。天から降ってきた雫が、青年の頬についた血をにじませる。

「どうされたのですか、あにさま?」

「…………たた、か」

「そんなところで寝ていては、おかぜをひいてしまいますよ?」

 頬にこぼれ落ちる雫は止まない。

「た、たよ。どこ……だ?」

 赤い視界に、手を向けようとする青年。既に腕の感覚はほとんどない。しかし、最後の気力を振り絞って無理やり伸ばした腕の先に――少女のやわらかな顔があった。

「たた、お前……泣いているのか?」

 もう目は見えない。ただ、その感覚のないはずの指先が、いつも見ていた彼女の涙を感じていた。

「いいえ。たたは、泣いておりませぬ」

「ふ……、嘘をつけ。お前はごふっ、……泣き虫だろう?」

「泣き虫などではありませぬ。泣いてなどおりませぬ。あまりひどい事を口にされ……、口に、されますと、たたは、たたは――、泣いて……しまい、っひぐ……、ます、ぞ?」

「そうか、それ……は、すまん」

「さあ、あにさま。起きてくださいませ。これから、いっしょに畑をやるのでございましょう?」

「…………ああ、そうだったな。……なあ、たたよ、笑って、ごふっ、……いるか?」

「あぅ、あ、あにさまっ、たたは、ひぐ……笑えてなど……」

「わらって、くれ。いつま、でも……」

 そう呟いて、震える唇で、青年はニッと笑った。

「あにさま、あにさまっ!」

 そして、彼は血にまみれた指を、たたひめの頬に静かに当てる。

「すま……ん、な、おれは、これ……しか、やくに、たてな――」

 ゆっくりと涙を拭う仕草をした彼の腕は、たたひめの頬に赤い線をなぞり、ぱたりと落ちた。

「あにさま?」

「…………」

「あにさま?」

「…………」

 もう、青年は何も答えない。

 たたひめを慰めてくれることも。

 たたひめの手を握り返してくれることも。

 たたひめを抱きしめてくれることも。

 たたひめに笑いかけてくれることも。

 

「あにさま?」


 もう、たたひめのあにさまは、いなかった。

 


「……あにさま、たたは、よく見えませぬ」

 ふいに、たたひめは口を開く。

 青年の亡きがらに手を添えて、顔を近づける。

「あにさまの顔が、よく見えませぬ。こんなに近うございますのに、よく見えませぬ」

 青年の頬に、大粒の涙がこぼれる。

「あにさま? あにさま? 笑っておられますか? たたには、よく見えませぬ」

 ぺたぺたと、小さな手で、次第に冷たくなっていく彼の顔を撫でるたたひめ。

「見てくださいませ。たたは、泣いてなどおりませぬぞ?」

 地に伏した青年の腕を持ち上げ、たたひめは自分の頬に当てる。

「ほら……たたは、……笑って、おります。あにさまの言いつけどおり、笑っておりますぞ」

 冷たい青年の腕に、涙の線が流れる。

「ですから、あにさま……」

 たたひめは、赤く染まった彼の胸に、額をあててささやいた。

「……もう一度だけ、たたのなみだを、とめてくださいませ」



 その光景を見つめる誰もが口を閉ざしていた。

 木々のざわめきと、松明の爆ぜる音だけが響く。

 やがて、少女は立ち上がった。


 ――たたひめのたたは、やくたたずのたた。

 小さな体のどこにそんな力があるのか、青年の腕を首に回し、おぶって歩きはじめる。

 ――はたけもできない。はたおりもできない。

 彼女の通ったあとには、青年の足を引きずった跡が二つ、残っている。

 ――やくたたずの、たた。

 静かに唄を歌いながら、闇の中に去っていく少女。

 村人の一人が、追いすがろうと声をかけようとした時、彼女は続きを唄いはじめた。

 ――けれども、ひとつ、とてもじょうずなことがある。

 それは、彼女が夜闇に消えてからも、ずっと響いていた。


 たたひめのたたは、やくたたずのたた。

 はたけもできない。はたおりもできない。

 やくたたずの、たた。

 けれども、ひとつ、とてもじょうずなことがある。

 たたひめのたたは、祟りのたた。

 はじめは、刃を突き立てた者。

 次は、つぶてを投げた者。

 次は、矢を放った者。

 そして誰も、祟られる。

 たたひめのたたは、祟りのたた――。



 たたひめが消えてからというもの、村では毎日のように葬式が続いた。

 はじまりは、屋敷の娘だった。

 夜ごと何かにうなされ、狂乱の果てに、自らの胸に刃物を突き立てて死んだ。

 さらに、石を投げた村人が次々と不慮の事故で死んでいった。

 それが誰も居なくなると、次は矢を放った村人が……。

 次に、次に、次に――。

 やがて、その村ではいつしか人の声は聞こえなくなっていた。

 それが祟りかどうかは、定かではない。



 ――ある地方の伝承によれば、人里離れた、誰も立ちよる事のない山の奥に、きれいに耕された畑があるという。

 そこでは毎年のように、見事なまでに白い向日葵が、その花を開かせている。

 しかし向日葵が散る頃になると、ぽたり、ぽたりと、まるで泣いているように花は種をこぼすという。

 いつしか、その真白な向日葵は、こう呼ばれるようになった。

 ――祟姫の涙、と。



『祟姫の涙』了

 『祟姫の涙』読了ありがとうございます。本作は「やくたたず」をキーワードに描かせていただきました。悲恋というコンセプトの蛇恋シリーズ。終わり方は賛否両論あるかと思われますが、いかがだったでしょうか。よろしければ、今後ともお付き合いいただけると幸いです。それでは、次の蛇恋にてお会いしましょう。

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