焼けた後宮。宦官ユーシュエンの新たな務め
空を焦がす火の粉は、降りしきる雨にも消えず、焼け焦げた死の匂いを燻らせていた。
朱塗りの柱が爆ぜる音。金糸の帳が煤にまみれ、泥に伏す。幼い頃からユーシュエンにとっての「世界のすべて」であった後宮は、今や無慈悲な瓦礫の山へと成り果てていた。
一歩、また一歩。雨を含んで重くなった裾を引きずり、亡霊のように歩く。
序列、役職、定められた礼節。それらがない外の世界は、あまりに広く、あまりに冷たい。
不意に、背後で巨大な轟音が響いた。
焼け残った梁が、その重みに耐えかねて崩落する。
「あ……」
衝撃と共に、視界が激しく揺れた。下半身を襲う鋭い痛み。熱を帯びた瓦礫が容赦なく彼の足を地面に縫い付けた。這い出そうともがくたび、泥と灰が肺を焼き、指先は血に染まる。
(ここで、終わるのか)
命じられるままに生き、何者にもなれなかった自分の、これがふさわしい最期なのだと諦めかけた、その時だった。
「おい、あんた。生きてるか?」
濁った灰色の視界に、ひとつの影が割り込む。眼の前に差し出されたのは、節くれだった無骨な手。
朦朧とする意識の中で、ただ小さく頷いた。
目を開けたとき、そこには煤けた天井があった。
湿った木の匂いと、安っぽい油の香りが漂う。後宮の香が常に焚かれていた清涼な空気とは程遠い。
そのとき、部屋の奥から気配が近づいてきた。
「気がついたか。体はもう大丈夫か?」
現れたのは、硬質な気配をまとった男だった。
日焼けした肌、強靭な肩幅。まとう衣は上質だが、着こなしにはどこか野性味が混じる。武官だろうか?
ユーシュエンはコクリと頷く。
すると男は優しく微笑み、名乗る。
「俺はホンユー。お前は?」
「……ユーシュエンだ。助けていただき、感謝する」
---
ホンユーは地方のしがない武官の三男。都が敵軍に攻められていると聞いて駆けつけたが、既に遅く、都は既に灰塵に帰していた。
ユーシュエンを見る。衣服は焼け、破れ、白い肌が露わになっている。その格好と所作で分かる。
――宦官だ。
だがなぜか、美しいと思ってしまった。視線を逸らそうとして、逸らせなかった。
こんな連中に入れあげる奴の話を、どこかで聞いたことがある。その話を聞いた時は、何を馬鹿な話を、と思ったものだ。
だが眼の前のそれを見る。
細い首筋、線の薄い体つき。男のはずなのに、妙に目を引く。どうにも心が落ち着かない。
ホンユーは小さく舌打ちし、視線を振り払う。
そして、闇市で買ってきた中古の衣を無造作に放る。
「……ひとまず、それを着ていろ」
ユーシュエンはそれを受け取ると、広げてみて目に困惑の色を浮かべる。
「え、あの、これは……」
「ここはまだ安全ではない。お前の素性はまだバラさないほうがいいだろう」
ホンユーはそう言うと部屋を出ていく。
ユーシュエンは貰った服を呆然と見下ろす。女の衣。私がこんな物を着ても良いのだろうか。
後宮では許されないもの。だが――ここは、もう後宮ではない。
それでも、手が止まる。
(どうすればいい)
正しい振る舞いが分からない。
誰も命じてくれない。
しばらくの沈黙の後、ユーシュエンは静かに元の衣の帯を解き、与えられたものを身にまとった。
それが“正しい”気がしたからだ。
ホンユーは屋台で二人分の食べ物を買うと、安宿に戻ってきた。
扉を叩き、ユーシュエンの返事を待つと、中へ入る。
ユーシュエンは寝台に座りながら、窓を向いて暗くなり始めた外を見ていた。
「腹が減っただろう。これでも食え」
そういって、串焼きを渡す。
「ありがとうございます」
そう言って、小さく、やわらかく笑うユーシュエン。
窓から差し込む夕日が、女の衣をまとった細い体の線を際立たせる。
ホンユーの心は落ち着かなかった。
----------------------------
夜。
明かりを灯した机で書を読むホンユーに声をかける。
「私は床で休みます。ホンユー様は寝台をお使いください」
「いや、まだ本調子ではないだろう。お前が使え」
「そのようなわけには参りません。ホンユー様が寝台を使うべきです」
反射のように言葉が出る。
それ以外の選択肢が、思いつかない。
「ここはもう後宮ではない」
言葉の意味は分かる。だが、どうすればいいのか分からない。
胸の奥が、妙に落ち着かない。
(何か、間違えている気がする)
だが、それが何か分からない。
「そんな……、それではとても眠れません」
沈黙。
ホンユーが顔を上げる。
一瞬だけユーシュエンを見て、すぐに逸らす。
「……じゃあ、俺が隣で寝るか」
「は?」
ユーシュエンは思わずホンユーを見る。
灯りの影でこちらからは顔が見えない。
「……あの?何を、申されているのでしょうか」
「だから、お前が寝れないというのなら、俺が一緒に寝てやろうか、と言ったんだ」
------------------
翌朝。
目が覚めると、すぐ隣に男の体温があった。
規則正しい鼓動、自分よりもひと回り大きな体の重み。
距離の近さに、息が詰まる。
理由もなく、顔が熱くなる。
(……何なのだ、これは)
胸の奥がざわつく。
だが、それが何なのか分からない。
体を起こし、衣が乱れていることに気づいて慌てて整える。
喉が、ひどく乾いていた。男を起こさぬように、ゆっくりと寝台を抜けると、入口横の水瓶の水を柄杓ですくって飲む。
ゆっくりと深呼吸をする。
――落ち着かない。
視界に入ったのは、壁際に立てかけられた古びた箒だった。
ユーシュエンは取り憑かれたようにそれを手に取る。
そして無心で部屋の掃除を始めた。
(……これでいい)
そうしていれば、何も考えなくて済むから。
---------------------------------
昼下がり、ホンユーが街の露店で買ってきた紙包みを卓に置いた。
中には、蜜をたっぷり塗って揚げた小ぶりな菓子が入っている。
「……あ。ホンユー様、お待ちください」
ユーシュエンがすぐに近寄り、中身を確認する。
そして、ホンユーが手を伸ばすより早く、そのうちのひとつを指先で摘み上げた。
「待て、俺が食べようと――」
ホンユーの言葉が終わる前に、ユーシュエンはそれを口に含んだ。
咀嚼し、ゆっくりと飲み込む。
そのまま一呼吸、二呼吸。自分の脈を測るように目を閉じて静止した後、彼は残りの菓子をホンユーの方へ恭しく差し出した。
「異常はございません。……どうぞ、安心してお召し上がりください」
「…………」
――毒見だ。
後宮での習慣が、彼の体を機械的に動かしている。
だが、ユーシュエンの指先には、まだ銀色の蜜がひとしずく残っていた。彼はそれを無意識に、自らの舌先で小さく舐めとる。
ホンユーは、伸ばしかけた手のやり場に困り、視線を斜め下の床へと逸らした。
「……毒なんて、入ってるわけないだろう。ただの菓子だ」
「万が一、ということもございますので」
ユーシュエンは淡々と答え、ホンユーが菓子を口に運ぶのを、満足げな眼差しで見届けている。
ホンユーは、その視線に耐えられず、少しだけ乱暴に菓子を噛み砕いた。
---------------------------
朝の支度の際、ユーシュエンは鏡もない部屋で、手慣れた手つきで髪をまとめていた。
だが、闇市で買った古い衣の共布ではうまく留まらず、さらりと一房の髪が項にこぼれ落ちる。
「……あ」
それを見ていたホンユーが、荷物の中から予備の丈夫な革紐を差し出した。
「ほら、これを使え。丈夫だぞ」
「ありがとうございます」
ユーシュエンはそれを受け取ると、あろうことか、両手が塞がっていたため、その革紐を一時的に「唇」に挟んだ。
無造作に、だが唇の端でキュッと紐を噛む仕草。
ホンユーは、言葉を失った。
女物の衣から覗く喉、紐を噛む淡い色の唇。その光景から、なぜか目を逸らせなかった。
「……おい、お前……」
「(紐を噛んだまま)ふぇ……? はひか(何か)?」
ユーシュエンが首を傾げると、紐が唇の上で微かに揺れる。
ホンユーはバッと背中を向けた。
「……なんでもない。 早くしろ」
ユーシュエンは紐を外し、不思議そうに瞬きをした。
(……怒らせてしまったでしょうか。結ぶのが、遅すぎたのか)
---------------------------
翌朝、ホンユーが身支度を整えていると、背後に気配がした。
振り返ると、ユーシュエンが漆塗りの古い櫛を両手で捧げ持っている。
「……ホンユー様。髪が、少し跳ねております」
「ああ、後で直す」
「今、整えさせていただきます。……動かないでください」
そう言われると、ホンユーの体は反射的に強張った。
ユーシュエンが背後に回り、至近距離に立つ。湿った朝の空気の中に、石鹸の、かすかな残り香が混じった。
不意に、うなじのあたりに冷たい指先が触れる。
櫛を通すため、ユーシュエンの指がホンユーの首筋を軽く払った。
その瞬間、ホンユーが握っていた腰の剣の鞘が、僅かに軋んだ。
ユーシュエンは無心に櫛を動かしている。髪を一本も零さぬよう、その指先は慎重で、慈しむような丁寧さだ。
「……もういい」
ホンユーは、髪が整い終える前に、逃げるように半歩踏み出した。
そのまま、開いた窓の外へと視線を投げ出す。
ユーシュエンは、空を切った自分の手を不思議そうに見つめてから、静かに櫛を懐へ収めた。
---------------------------
宿の階段を上がる際、慣れない女物の長い裾を、ユーシュエンが踏みそうになった。
それを見たホンユーが、反射的に彼の肘を支える。
「危ない。……慣れないなら、もっと短く端折ってもいいんだぞ」
ホンユーの手が、ユーシュエンの二の腕に触れる。
布越しでもわかる、男にしてはあまりに細い感触。
「あ……大変、申し訳ありません」
ユーシュエンは、支えられた自分の腕と、ホンユーの大きな手を交互に見つめた。
ユーシュエンは、ホンユーの手に自分の手を重ねようとして――ふと思いとどまったように、指先を引っ込めた。
代わりに、彼はホンユーにしか聞こえないような小さな声で、ポツリとこぼす。
「これでは、私は、歩くのが下手になってしまいそうです」
その言葉に、ホンユーは慌てて腕を離した。
「……ほら、行くぞ」
早足で階段を駆け上がるホンユーの背中を、ユーシュエンは不思議そうに見送っていた。
------------------------
ホンユーが外出から戻ると、部屋の中が驚くほど整えられていた。
それどころか、立てかけてあったホンユーの剣まで、白布できれいに磨かれている。
「ユーシュエン、あまり根を詰めるなと言っただろ」
ユーシュエンは、濡れた手拭いを絞りながら、静かに振り返った。
「何かをしていないと、自分がどこにいるのか、分からなくなるのです」
彼はホンユーの足元に歩み寄ると、ごく自然な動作で、ホンユーの外套を預かろうと手を伸ばした。
その際、二人の距離が、ほんの一瞬だけ、吐息が届くほどに近くなる。
「……私を、使ってください。ホンユー様」
ユーシュエンの瞳には、打算も誘惑もない。
だが、その真っ直ぐすぎる視線に射抜かれたホンユーは、視線を泳がせ、わずかに後ずさった。
「……じゃあ、そこに座ってろ」
一拍。
「……それが、今の命令だ」
「はい。仰せのままに」
ユーシュエンは満足そうに頷き、行儀よく寝台の端に腰を下ろした。
それだけのことで、部屋の空気が少しだけ、柔らかい熱を帯びた気がした。
------------------------
「ユーシュエン、今日は移動だ。昼までに引き上げる準備をしておけ」
「はい。仰せのままに」
言いつけると、ホンユーは宿を出ていく。
朝の仕事を済ませたホンユーが宿に戻ると、ユーシュエンがまとめた荷物とともに、跪いて待っていた。
部屋は隅々まで磨き上げられ、もやは安宿とは思えない状態であった。
「……少し、やりすぎではないか?正直、ここまでやるとは思わなかったぞ」
「申し訳ございません。気づいたときには終わっていましたので」
「……いや、謝らなくても良い」
宿の階段を降りると、帳場にいた女将がこちらに気づき、手を止めた。
「あら、あんたの奥さんかい? えらい甲斐甲斐しいじゃない」
「いや、ちが――」
ホンユーが否定しきる前に、ユーシュエンが女将の目を見据えて一歩前に出た。
「違います。私は男です。……それは、ホンユー様に失礼です」
毅然とした、迷いのない声だった。ユーシュエンにとっては、己の性別を偽ることも、主君に不当な関係の疑いがかかることも、後宮の礼節に照らせば万死に値する無礼だったからだ。
「お、お前……っ」
ホンユーの喉が、引きつったように鳴った。
女将は一瞬あっけにとられたように口を開けていたが、やがて、立ち去ろうとするユーシュエンの横顔と、立ち尽くすホンユーを交互に眺め、なぜか深い笑みを浮かべた。
「そう……。お盛んね」
「な……ッ」
ホンユーは、言葉を継ぐ代わりに、出口に向かって背を向けた。
女将の含みのある視線から逃げるように、無造作に荷物を掴む。
荷物を掴んだ指先に、わずかに力が入りすぎていた。
「行こう、ユーシュエン」
「はい。……あの、何か私は、不手際を?」
「…………。いや、いい」
ホンユーは一度も振り返ることなく、宿の暖簾をくぐり、眩しい外の光の中へ飛び出した。
後に続くユーシュエンは、主の歩幅がいつもより少しだけ速いことに気づき、裾を捌きながらその背中を追う。
道を行く人々の喧騒が、二人の間に流れる奇妙な沈黙を埋めていく。
ホンユーは、ただ前だけを向いていた。
「……ホンユー様。お荷物、お持ちしましょうか」
「いい。前を見て歩け」
短く返したホンユーの声は、いつもより少しだけ低く、湿っていた。
--------------------
雨上がりの道を歩く二人。
水たまりを避けようとしたユーシュエンの足元が、石に躓いてわずかに揺れた。
ホンユーが咄嗟に、その細い肩を横から抱えるようにして支える。
女の衣越しに伝わる、驚くほど確かな骨の感触と、拍子抜けするほどの軽さ。
「あ……」
ユーシュエンは、ホンユーの胸元に顔を寄せる形になった。
ホンユーの視界には、ユーシュエンの耳の後ろ、不自然なほどに白い肌が見える。
ホンユーの腕に、わずかに力がこもった。
だが、次の瞬間には、弾かれたようにその手を離していた。
「……しっかり、足元を見て歩け」
ホンユーはそう言い捨てると、歩幅を少しだけ広げて先に歩き出した。
ユーシュエンはその背中を追おうとして、一度立ち止まる。
そして、今しがたホンユーの手が触れていた自分の肩を、上からそっと、確かめるように掌で押さえた。
「はい。……お手を、煩わせました」
前を行くホンユーは、生い茂る葉を払うようにして、ただ黙々と、ぬかるんだ道を進んでいった。
--------------------
歩き始めて、一刻ほど過ぎ、視界が開けた。
そこには、野営のテントを畳む大勢の兵士たち。
野営地を抜ける風が、はためく旗の音を運んでくる。
兵士たちの怒号と馬のいななきが混じる喧騒の中、一人近づいてきた男が、ホンユーの前で足を止め、拳を包むようにして深く頭を下げた。
「ホンユー様。お疲れ様です」
「イーヌォ、ご苦労。まだ掛かりそうか?」
「いえ、もう四半刻もすれば、完了いたします」
「そうか。ではしばし待とう」
促されるまま、ホンユーは用意された長床几に腰を下ろした。
木製の卓の上には、使い込まれた茶器が並べられる。
ユーシュエンは迷いのない手つきで急須を手に取り、立ち上る湯気を瞳に映しながら、静かにお茶を注いだ。
そして、当然の儀式として、その器を一度自分の唇へと運ぼうとする。
器が唇に触れかけた、そのとき――
「ユーシュエン。毒見は良い。お前も座れ」
ホンユーがその手首を軽く制し、自分のすぐ隣、空いている席の端を掌で叩いた。
「いえ、それはできません」
ユーシュエンは器を卓に戻すと、一歩、また一歩と後退り、ホンユーの影に重なるようにして直立した。
背筋を伸ばし、両手を前で重ね、周囲の喧騒を遮断するように視線を伏せる。
その姿は、主君の威厳を汚さぬよう配慮された、完璧な静止であった。
まるで最初からそこにいなかったかのように。
その一連のやり取りを、イーヌォは興味深げに、あるいは値踏みするように眺めていた。
やがて、彼は口元に微かな笑みを浮かべ、独り言のように呟く。
「随分と、その者を大事にされておりますね」
「……そういうわけではない」
ホンユーは、卓に置かれた茶碗を手に取った。
熱い茶を一気に喉に流し込む。
視線は、作業を続ける兵士たちの背中に向けたまま。
少し、後ろが気になったが、振り返るのを躊躇った。
---------------------
移動中、軍の先頭が、にわかに殺気立った。
兵士たちの歩みが止まり、数騎の屈強な男たちが馬を踏み込ませてくる。中央にいるのは、上位武官の男だった。
男の濁った視線が、ホンユーの背後に乗るユーシュエンで止まる。
「……ほう。見ない顔だが、随分と上等なのを連れているな」
男は笑みを浮かべ、馬を寄せた。無遠慮に身を乗り出し、ユーシュエンの顔を覗き込む。
「地方武官の三男坊には、いささか分不相応な品だ」
ユーシュエンは視線を逸らさぬまま、抵抗ひとつ見せなかった。
(私は、この者に従うべきか)
後宮の秩序では、より上位の者が現れれば、前の主は意味をなさない。ユーシュエンの指先が、衣の裾を小さく握りしめる。
「おい、それをこちらへ寄こせ。俺が直々に“教育”してやる」
男がユーシュエンの腕を掴み、強引に引き寄せようとした、そのとき。
「……その手を、離せ」
低く、地を這うような声が響いた。
ホンユーは鞍の上でわずかに身を乗り出していた。剣はまだ抜いていない。だが、その一言だけで、周囲の空気が凍りつく。
「何だと? 貴様、俺に逆らう気か」
男が鼻で笑い、さらにユーシュエンへ手を伸ばす。
「俺の、連れだ」
ホンユーは手綱を引き、馬をわずかに寄せた。次の瞬間、男の腕を掴み取る。
骨の軋むような圧に、男の顔から余裕が消えた。
「……死にたくなければ、二度とその指で触れるな」
男の手が腰の剣にかかる。刃がわずかに覗き、その冷気が場を張り詰めさせた。
「……三男坊が、身の程を知らんな。その端正な面、二度と笑えぬようにしてやろうか」
男が踏み込もうとした、その刹那。
薄桃色の衣が、ふわりと視界を遮った。
ユーシュエンだった。鞍の上で体を滑らせるように前へ出て、ホンユーを背に庇う位置に入る。
「……退け、ユーシュエン」
ホンユーの声に、ユーシュエンは振り返らない。
「私は、ホンユー様の持ち物です。あの方の気が済むまで、私を好きにさせれば、ホンユー様の身は守られます」
淡々とした口調だった。
男が歪んだ笑みを深くする。
「ほう、健気なことだ。主の代わりに、その白い肌を刻まれたいか」
「構いません。検分が必要であれば、応じます」
ユーシュエンの手が、自らの襟元にかかる。
その瞬間、ホンユーの理性が弾けた。
「ふざけるな!」
ホンユーはユーシュエンの肩を掴み、力任せに引き戻した。体を引き寄せ、そのまま自分の後ろへ押しやる。
「……ホンユー様? 何を――?」
「黙れ!」
ユーシュエンを背に庇ったまま、ホンユーは馬を一歩踏み出させた。振り下ろされかけた男の剣の柄頭を、掌で叩き伏せる。
甲高い金属音が弾け、男の腕が痺れで跳ね上がった。
ホンユーの視線は、男を射抜いたまま動かない。
「勝手に決めるな」
低く押し殺した声だった。
「……この者は、俺が連れていく。文句があるなら、俺の首を獲ってからにしろ」
張り詰めた沈黙の中、男は舌打ちし、手綱を引いて距離を取った。
やがて、その一団は何事もなかったかのように隊列へと戻っていく。
再び動き出した馬上で、ユーシュエンは呆然としていた。
自分を庇うように前にある、ホンユーの背。
後宮では、主を守って死ぬことは美徳であり、主が身を挺して下僕を守るなど、あってはならないことだった。
「……何故、ですか」
ぽつりと問う。
ホンユーは振り返らなかった。肩で息をつきながら、握りしめた拳をゆっくりと解くだけだった。
「…………命令だ。二度と、あんな真似はするな」
「…………はい」
ユーシュエンは深く頭を下げる。
その視線の先で、自分の指先が、見慣れない震えを帯びていることに、彼はまだ気づいていなかった。
---------------------------
空が暗くなる前、軍は少し開けた草原に野営地を築いた。
天幕の片隅、卓に置かれた行灯の火が、爆ぜて小さく揺れた。
ホンユーは開いたままの木簡に視線を落としているが、ここ半刻、頁を進める手は動いていない。
「明朝の準備はすべて整えました。お召し物も、火に当てて湿り気を抜いてあります」
背後で衣が擦れる音がした。
ユーシュエンが、ホンユーが脱ぎ捨てた上着を拾い上げ、丁寧に皺を伸ばしている。
「……ホンユー様」
一拍。
「先程の、あの対応は――――非効率ではなかったでしょうか」
ユーシュエンは、ホンユーの背中から三歩下がった位置で、音もなく膝をつく。そのまま、両手を膝の上で重ね、床の一点を見つめて動かなくなった。
ホンユーは、握っていた木簡を置いた。
「……ユーシュエン」
「はい」
「こっちへ来い」
ユーシュエンは迷いなく立ち上がり、ホンユーの傍らへ歩み寄った。
ホンユーが顔を上げると、そこには中古の女衣の襟元から覗く、細い喉仏がかすかに上下するのが見えた。
ホンユーの手が、ゆっくりと空中で動く。
指先が、ユーシュエンの頬のすぐ近く、乱れて垂れ下がった一房の髪に触れようとして――止まった。
ユーシュエンは、逃げもせず、瞬きもせず、ただじっと待っている。
ホンユーの指が、ピクリと震えた。
結局、その指先は髪に触れることなく、机の端を強く叩いて握りしめられた。
「……っ、もういい。下がれ」
ユーシュエンは、わずかに首を傾げた。
しかしすぐに、深く、優雅に一礼した。
「はい。……おやすみなさいませ、ホンユー様」
ユーシュエンが寝床へ向かう足音は、驚くほど静かだった。
一人残されたホンユーは、拳を握りしめる。その指は、力を込めすぎて白くなっていた。
-----------------------
天幕の外では、篝火がパチパチと爆ぜる音と、時折聞こえる兵士たちの低い話し声が夜の静寂をなぞっていた。
寝台の上、ユーシュエンは薄い毛布に包まり、暗闇の中で目を開けていた。
少し離れた寝台には、ホンユーが横たわっている。毛布がはだけている。
ユーシュエンは、寝台から音を立てぬよう滑り降りた。
寝台に転がっているホンユーの肩に、毛布を掛け直そうとした、その時。
「……何をしている」
暗闇の中で、ホンユーの低い声が響いた。
ユーシュエンの手首が、寝転んだままのホンユーの手によって、がっしりと掴まれる。
「毛布を。……夜は、冷え込みます」
「もう寝ろ、と言ったはずだ」
「ですが……」
「命令だ」
また、その言葉だった。
ユーシュエンは掴まれた手首を見つめた。昼間とは違う温度が、肌に残る。
ユーシュエンは抵抗せず、そのままホンユーの枕元に膝をついた。
「……ホンユー様は、不思議なお方です」
「何がだ」
「私のような者を……何故、それほどまでに案ずるのですか。後宮では、欠ければ補充されるだけの存在でした」
暗闇の中、至近距離で視線がぶつかる。
握られた手首に、さらに力がこもる。
「……そんなもので、済むか」
吐き捨てるような、ひどく掠れた声だった。
ホンユーは、弾かれたようにユーシュエンの手首を放すと、背を向けて寝返りを打った。
「……もう寝ろ。これ以上喋るのも、禁止だ」
「…………はい」
取り残されたユーシュエンの指先が、行き場をなくしたように止まる。
彼は、放されたばかりの手首を、もう片方の手でそっと覆った。
手首に残るその輪郭は、なかなか消えなかった。
-----------------------------
翌朝、軍が動き出す準備を始める中、ユーシュエンはいつものようにホンユーの身支度を整えていた。
天幕に差し込む朝日は白く、昨夜の暗闇が嘘のように明るい。
ユーシュエンは、ホンユーの背後に立ち、外套の紐を結び合わせる。
指先はいつも通り、迷いなく動くはずだった。
だが、紐を引こうとした瞬間、昨夜掴まれた手首のあたりに、じわりと輪郭が蘇る。
『……そんなもので、済むか』
不意に、その声が耳元で響いた気がした。
ユーシュエンの指が、ほんのわずかに、跳ねるように止まる。
「……? どうした」
ホンユーが振り返ろうとする。
ユーシュエンは慌てて指を動かしたが、結び目はいつもより少しだけ歪な形になった。
「いえ。……少々、手元が狂いました」
「お前がそんなことを言うのは珍しいな」
ホンユーは特に気にする様子もなく、鏡も見ずに馬の方へと歩き出した。
ユーシュエンは自分の指先をじっと見つめる。
昨日までは、ただ結ぶべき紐があっただけだ。なのに今は、指先がどこか馴染まない。
-----------------------------
行軍の途中、馬を休めている時のことだった。
ユーシュエンは、水筒を持ってホンユーの元へ歩み寄る。
「ホンユー様、お水を」
受け取ろうとしたホンユーの指が、ユーシュエンの掌に触れる。
いつも通りの、無造作な接触。
だがその瞬間、ユーシュエンの肩がわずかに強張った。
「…………」
ホンユーが水を飲む間、ユーシュエンは自分の手を見つめていた。
「……ユーシュエン、顔色が悪いぞ。どこか痛むのか」
ホンユーが水筒を離して覗き込む。
その距離に、ユーシュエンは一歩、後ずさった。
「……いえ。ただ、少し」
「少し、なんだ」
「……正しい距離が、分からなくなりました」
ユーシュエンはすぐに伏せ目になり、いつもの無表情を取り繕う。
ホンユーは何かを言いかけ、結局、水筒を握りしめたまま言葉を飲み込んだ。
「……もう行くぞ」
「はい。……仰せのままに」
--------------------------
「俺は少し離れる。待機していろ」
彼はいつものように、天幕の整理を始める。
昨夜、ホンユーが使った茶碗を洗おうとして、手が止まる。
無意識にその縁をなぞる。
(……おかしい)
手足が、わずかに遅れる。
どこへ動けばいいのか、一瞬だけ分からなくなる。
不意に、背後から声をかけられた。
「おい、あんた」
振り返ると、見知らぬ武官が数人、薄笑いを浮かべて立っていた。
「暇そうだな。手が空いてるなら、こっちに来て俺達の酌でもしろ」
ユーシュエンの体は、反射のように動こうとした。
「……はい。仰せのまま――」
一歩、踏み出しかけて。
その足が、止まる。
「なんだ? 来ねえのか」
(違う)
その一言だけが、はっきりと浮かぶ。
(……違う)
踏み出した足を、元の場所へ戻した。
「……申し訳ございません。私は、ここで待つようにと命じられております」
「あ? なんだよ、融通の利かねえやつだな」
男たちは去っていった。
ユーシュエンは、自分の掌を見つめた。
(なぜ、断った)
答えは出ないまま、再び作業に戻る。
手つきは、どこかぎこちなかった。
「……ユーシュエン」
ふと、聞き慣れた声がした。
振り向いた瞬間、張り詰めていたものが、不意にほどける。
「……ずっと、そこにいたのか」
「はい。……お帰りなさいませ、ホンユー様」
深く一礼する。
その指先は、わずかに震えていた。
--------------------------------------
野営地の朝は早い。
周囲では兵士たちが天幕を叩き、杭を抜く乾いた音が響いている。
埃が舞う朝日の中で、ユーシュエンはホンユーの前に立った。
「ホンユー様」
「どうした?」
「……申し上げにくいのですが」
「私は現在、命令への反応に遅延が生じております。昨日の不在時も、判断に齟齬が見られました。……このままでは、ホンユー様の運用に支障をきたす恐れがございます」
ユーシュエンは、主の足元に視線を落としたまま言った。
「ですので、より適切な者へ交換いただくか。あるいは、ここでお見限りいただくのが最善かと」
わずかな沈黙。
ホンユーの指が、ぎしりと音を立てるほど強く握られた。
「……俺は、“代わりが利くもの”なんて連れてきた覚えはない」
低く、抑えられた声。
ホンユーはユーシュエンの顎を指先で掬い上げた。
「ですが、事実として私は――」
「黙れ」
その一言で、言葉が断ち切られる。
ホンユーの指先が、わずかに震えていた。
「遅延も齟齬も、知ったことか。……お前が動けないなら、俺がやればいいだけの話だ」
「……そのような、主従の理に反するようなことは」
「俺が命令だと言っているんだ!」
掴んでいた顎を放し、ホンユーは背を向けた。
荒い足取りで馬へ向かい、鞍を締め直す。
「……行くぞ。遅れるな」
「…………はい」
ユーシュエンは、その場に跪いた。
馬上の背中を見上げる。
胸の奥が、わずかに乱れていた。
-----------------------------------
軍は他の兵団と合流し、大平原に巨大な駐屯地を築いた。
いくつもの軍旗が風にはためき、天幕の内に居ても、慌ただしく鳴る蹄の音や規則的な足音が聞こえてくる。
水桶を天秤に下げ、水場へ向かうと、他の小姓や若い兵士達が水を汲んでいた。
順番を待つ間、いくつもの視線がこちらに向けられている。
ユーシュエンは何も言わず、水を汲んで天幕へ戻った。
「ホンユー様。私の衣を、この場にふさわしいものへ変えていただけませんでしょうか」
ホンユーが顔を上げる。
「……急にどうした」
「先ほど、水場にて。他の者の視線が、必要以上に集まっておりました」
「この装いでは、無用な注意を引きます。……結果として、ホンユー様の行動にも影響が出るかと」
「ですので、より目立たぬ形に調整すべきと判断いたしました」
「……不必要に見られることは、避けるべきかと」
ホンユーは手にしていた地図を卓に置いた。
指先が、紙の端を強く押さえる。
「……何と言われた」
「いえ。言葉を交わしたわけではありません。ただ、その……」
「視線が集まること自体、私の隠密性を損なわせます。……兵卒の衣であれば、誰の目にも留まらないかと」
「…………」
ホンユーは、ようやく顔を上げた。
「……着替えたところで、お前が目立たなくなるわけがないだろう」
「……? ですが、この装いよりはマシかと」
ホンユーは立ち上がり、距離を詰めた。
一歩。
「……俺の傍を離れるな。水場へも、一人で行くなと言ったはずだ」
「それは、ホンユー様のお手を煩わせることになります」
「煩わしいかどうかは、俺が決めることだ」
ホンユーの声が、わずかに低い。
伸ばしかけた手が、宙で止まる。
「衣の件は、追って考える。……今は、そのままでいろ」
「……はい」
ユーシュエンは頭を下げた。
「今日はしばらくここを離れる。何もしなくて良い。お前はこの天幕の中に居ろ」
「…………はい」
ユーシュエンを残し天幕を出る。
外へ出たホンユーは、足を止めた。
握ったままの掌に、爪が食い込んでいた。
-------------------------------
ホンユーが天幕を出ていき、すでに半日が過ぎていた。
ユーシュエンは、主のいない天幕で茶器を磨いていた。
だが、その動作に精密さはない。
同じ場所を何度も擦り続け、気づけば茶碗の縁が小さく欠けていた。
(……なにが)
指が、震えている。
「……ッ」
遠くで銅鑼が鳴る。
兵士たちの足音が、一斉に地を打った。
ユーシュエンはその場に膝をついた。気づけば、動けなくなっていた。
どれほど経ったのか分からない。やがて、外の気配が変わる。
ざわめきが、重く沈む。
「……ホンユー様?」
反射的に立ち上がり、入口へ向かう。
布をめくって入ってきたのは、血と泥にまみれたイーヌォだった。
「……ホンユー様が負傷なされた。医官の天幕にいる。貴様も来い」
ユーシュエンは、言葉を返さなかった。
一歩、踏み出す。
足が、もつれる。
それでも、そのまま外へ出た。
人の流れに逆らうように、走る。裾が絡み、地に叩きつけられる。
立ち上がる。
また走る。
掌が裂け、血が滲む。
それでも、止まらない。
医官の天幕に飛び込む。
視界の奥、寝台の上に横たわる影があった。
血と泥に塗れた、見慣れた姿。
「ホンユー様……!」
天幕の中は、鉄錆のような血の匂いと、煮え立つ薬草の香りが濃く立ち込めていた。
何をすべきか、一瞬分からなくなる。
ユーシュエンは、寝台の傍らへ崩れ落ちるように膝をついた。
泥にまみれた手で、ホンユーの無事な方の手を、壊れ物を扱うように包み込む。
浅い呼吸と共に、ホンユーがわずかに目を開けた。
顔の半分を血が覆っているが、その瞳は、飛び込んできたユーシュエンの姿を捉えた瞬間、驚きに微かに揺れた。
「……っ、ユーシュエン、か」
「……はい」
ユーシュエンの声は、ひどく平坦だった。
だが、その指先はホンユーの泥にまみれた手を包んだまま、小刻みに震えている。
「……状態を、確認いたします」
「出血量……多。処置が必要です。医官が――」
そこで、言葉が途切れた。
「……私の、処理が……追いつきません」
ユーシュエンは、ゆっくりと首を振る。
「……あなたが、損なわれるのは」
息が詰まる。
「……困ります」
ホンユーは、自分を見下ろすユーシュエンの顔を見つめた。
泥の混じった涙が、一滴、また一滴と落ちる。
「……ユーシュエン」
だが、ユーシュエンは答えない。ただ、ホンユーの手の甲に額を押し当てた。
「……困るのです」
「……あなたがいない朝に、何をすればいいのか、分かりません」
指先に、力がこもる。
「……ですから。死なないでください」
ホンユーの指が、わずかに動いた。ユーシュエンの髪を、かすかになぞる。
「…………ああ。善処、する」
----------------------------------
ホンユーは幸いにも、落馬の際の腕と肋骨の骨折、そして額の切り傷で済んだ。致命傷には至らなかった。
ユーシュエンは、付ききりで看病を続けた。
水を替え、薬を煎じ、夜半に目を覚ませばすぐに駆け寄る。
その甲斐あってか、ホンユーの顔色は日ごとに戻っていった。
ある朝。
目を覚ましたホンユーが、何気なく「水を」と口にするよりも先に、すでに杯が差し出されていた。
「……お前、寝ているのか」
「問題ありません」
即答だった。
ユーシュエンはそのまま、次の用事を探すように視線を巡らせる。
だが、ふと動きを止めた。
何もすることがない。
ほんの一瞬、立ち尽くす。
――すぐに、首を振った。
何事もなかったかのように、空になった茶碗を手に取り、静かに洗いに向かう。
-----------------------------------
ホンユーは近くの宿場町に入り治療することになった。
薬師が定期的に宿を訪れるようになった。
その助手として付き従うのが、シャオイェンという若い女だった。
「シャオイェン。わしは他の患者を診てくる後は頼む」
「はい。先生」
手際は良い。
傷口の洗浄も、薬の調合も、無駄がない。
ホンユーの腕に触れるその指先を、ユーシュエンは少し離れた場所から見ていた。
「……そこ、もう少し強く縛った方がいい」
気づけば、口を挟んでいた。
シャオイェンがちらりと視線を寄越す。
「詳しいじゃない。あんたもやるの?」
「……必要であれば」
ユーシュエンは、すぐにそばへ寄る。
その動きは、わずかに速かった。
二人の指が、一瞬だけ同じ場所に触れる。
「……あ、ごめん」
シャオイェンが手を引く。
「別に。取ったりしないから、そんなに睨まなくても」
軽い調子だった。
ユーシュエンは、わずかに首を傾げる。
「……? 何のことでしょうか」
少し力が入りすぎたのか、ホンユーの肩が跳ねる。
「……痛っ、何をやっている?」
「申し訳ありません。ホンユー様」
そう言いながらも、ユーシュエンの指は迷いなく動いている。
ただ、必要以上に、強く。
シャオイェンは一瞬だけ黙って、ふっと笑った。
「自覚がないのが一番厄介ね」
「……?」
「ほら、これ持って。こっち押さえてて」
渡された布を、ユーシュエンは受け取る。
次に必要な布が、言われる前に差し出される。
シャオイェンが一瞬だけ、手を止めた。
数日後には、手順はすべて頭に入っていた。
同じ動作を、より正確に、より早く。
シャオイェンが何も言わなくても、次の道具が差し出される。
「……すごいね、あんた」
「当然です」
ユーシュエンは淡々と答える。
だが、その視線は、ほんのわずかだけ、ホンユーの方へ向いていた。
--------------------------
宿の部屋。
ホンユーは半裸のまま起き上がり、肩を回し、腕を上げ、軽く跳ねてみせる。
傷の具合を確かめる、ただそれだけの動き。
だが、そのたびに筋肉がわずかに軋み、皮膚の下で確かな力が戻っているのが見て取れた。
「うむ。もうだいぶ良いな」
ユーシュエンは、血の滲んだ布を水に浸し、静かに絞る。
その視線は逸らされることなく、ホンユーの体の動きを追っていた。
――状態確認。それだけのはずだった。
「久しぶりに外に出たい。ユーシュエン、付いてきてくれるか」
「はい」
即答だった。
わずかに緩んだ口元は、すぐにいつもの無表情に戻る。
「ユーシュエン、服を買ってやろう」
「え?」
初めて、反応が遅れた。
「その服も大分着古している。それに替えの服もあったほうが良いだろう?」
「そのように気を使っていただかなくても――」
「俺がそうしたいだけだ」
それで話は終わった。
宿場町は、昼の光と人の熱気で満ちていた。
呼び込みの声、布の擦れる音、行き交う人々のざわめき。
ユーシュエンは、差し出される衣を一つずつ受け取り、袖を通す。
動作は正確で、無駄がない。
その様子を、ホンユーは黙って見ていた。
一着、また一着。
どれも似合うかどうかではなく、「どう見えるか」を確かめるような視線。
やがて、ホンユーの手が別の棚へ伸びた。
「簪もあったほうが良いか。これなんかどうだ?」
差し出されたのは、細工の繊細な女物の簪だった。
「その簪は女物です。私はこちらのほうで――」
ユーシュエンは、より簡素な簪を取ろうとする。
「服に合わんだろう。それに今更だ」
ぶっきらぼうに言い捨て、ホンユーはそのまま代金を払ってしまう。
ユーシュエンは言葉を失ったまま、簪を受け取った。
店を出たホンユーは、そのまま人混みの中へ歩き出す。
振り返らない。
ユーシュエンは慌てて後を追いながら、手の中の簪を見下ろした。
壊さぬよう、懐へ仕舞おうとして――
「ここで差せ」
足が止まった。
「え……?」
人の流れの中で、ホンユーだけがこちらを見ている。
「せっかく買ったんだ。俺が、今見たい」
まっすぐな視線だった。
逃げ場がない。
ユーシュエンの指が、わずかに止まる。
命令であれば従う。それは揺るがないはずだった。
だが――
ほんの一瞬、動き方を見失う。
「……承知、しました」
わずかに遅れて、指が動いた。
髪をすくい上げ、まとめる。
簪を差し込む。その動作は正確で、乱れはない。
だが、差し終えたあとも、指先がすぐには離れなかった。
ホンユーは何も言わない。
ただ、じっと見ている。
ユーシュエンは視線を落としたまま、静かに手を下ろした。
「……これで、よろしいでしょうか」
返事は、すぐには返らなかった。
人のざわめきだけが、二人の間を流れていく。
やがて、ホンユーは小さく息を吐いた。
「……ああ」
それだけだった。
だが、その一言が落ちたあとも、ユーシュエンの指先には、まだ微かな震えが残っていた。
-----------------------------
次の日、ユーシュエンは新しい衣に簪を差し、市場へ買い出しに出ていた。
宿場町は昼の熱気に満ち、行き交う人々の声と荷車の軋む音が絶え間なく重なっている。
「あれ? ユーシュエン」
ふいに背後から声がかかった。
「……シャオイェン、こんにちは」
振り返ったユーシュエンの姿を、シャオイェンはしばらく無言で眺める。
足先から、衣の合わせ、そして簪へと、視線がゆっくりと上がっていく。
一拍。
「あんたって、……結構大事にされてるよね」
「……どういう、意味でしょうか?」
「その衣。側仕えに着せるには上等過ぎるし――」
指先が、簪を軽く示す。
「それ、殿方が恋人に贈る型でしょ。……“手を出すな”って言ってるのと同じよ」
「……そのような、筈は……」
言葉は否定の形をとりながら、最後まで強く結ばれなかった。
---------
宿へ戻るなり、ユーシュエンは荷を置いた。
そして間を置かず、室内にいるホンユーのもとへ歩み寄る。
「ホンユー様」
「なんだ」
「……私の扱いが、不適切かと存じます」
ホンユーの手が、わずかに止まる。
「……は?」
「私は男です。ですので、このような装いは、本来不要です」
一拍。
「……任務にも支障が出ております」
空気が、わずかに張り詰めた。
「支障?」
「はい。……距離の取り方が、分からなくなりました」
ユーシュエンは視線を落としたまま続ける。
「これは、明らかに不具合です。是正が必要かと」
沈黙が落ちる。
ホンユーは、ゆっくりと息を吐いた。
「ユーシュエン。俺が最初に言った通り、お前は男としては目立つ。……だからその衣は、目立たないようにするための偽装だ。是正の必要はない」
「しかし、それは矛盾しております」
ユーシュエンの声は、わずかに低くなる。
「先日お求めになった簪は、むしろ目を引きます。隠蔽を目的とするならば、適切ではありません」
一拍。
「……それとも、別の意図がございますか」
「……お前はよくやっている。……だが、お前のようなものを、どう労えばいいのか分からん。それだけだ」
硬い返答。
「……シャオイェンに、“恋人に贈るものだ”と指摘されました」
「……馬鹿なことを言うな」
「事実です」
間を置かずに返る声。
「ですので、是正を求めます。衣装の変更、または距離の再設定を」
「……断る」
即答だった。
ユーシュエンの指先が、わずかに止まる。
「……理由を、お聞きしても」
「必要ない」
短い。
「俺がそう決めた。それで十分だろう」
「しかし、それでは――」
「くどい」
言葉が、途中で断ち切られる。
空気が、ぴたりと止まった。
ホンユーは視線を逸らしたまま、低く続ける。
「……お前は、そのままでいろ」
その言葉の意味を、ユーシュエンはすぐには受け取れなかった。
わずかな遅延のあと、理解が追いつく。
「……ホンユー様」
「何だ」
「……ではせめて、その『恋人』という言葉の意味を、詳しく教えていただけないでしょうか」
静かな声だった。
ホンユーがゆっくりと振り返る。
その動きには、わずかな躊躇が混じっている。
「……なぜそんなことを聞く」
「あの方の指摘が、私の不具合の原因であるならば。……理解しなければ、任務に支障が出ます」
「……必要ない」
即答。
「ですが」
「お前が知る必要はない」
遮るように。
ユーシュエンの瞳が、わずかに揺れる。
「……理解できなければ、偽装もできません」
ほんの一歩、踏み込む。
「恋人とは何ですか。……私の装いがそれを想起させるというのなら、私はその役割を演じるべきなのですか」
「……演じるだと?」
声が、低く沈む。
「はい。任務の完遂に必要であれば――」
「やめろ」
短く、被せるように。
言葉が途切れる。
「……それ以上、言うな」
怒鳴ってはいない。
だが、その一言で空気が固まった。
「……なぜでしょうか」
「それは、任務じゃない」
即答だった。
ユーシュエンの呼吸が、わずかに乱れる。
「……では、何ですか」
沈黙。
ホンユーの喉が、かすかに上下する。
だが、言葉は出ない。
「……お前が考える必要はない」
突き放すようでいて、どこか揺れている声。
視線は、ユーシュエンの顔を避けたまま、定まらない。
「……承知いたしました」
ユーシュエンは、それ以上踏み込まなかった。
一歩だけ、後ろへ下がる。
「……では、考えません」
静かに視線を落とす。
その指先が、わずかに自分の衣を握る。
「ただ、理解できずとも、現象は発生しております」
「……何の話だ」
「……先ほどから、指先の温度が安定せず、脈動も一定ではありません」
言葉を選ぶように、わずかに間が空く。
「……放置しても、よろしいのでしょうか」
胸元に手を当てる。
呼吸が、ほんの少し浅い。
「……このままでは、正しい距離が――分からなくなります」
言葉が、途中でほどける。
ユーシュエンは、自分の肩を抱くようにして、わずかに身を竦めた。
「……あなたの隣に立っていても、よろしいのですか」
問いというより、確かめるような声。
崩れかけた足場に、そっと重心を置くような。
沈黙。
ホンユーは、答えられなかった。
肯定も、否定も。
しばらくして、ようやく絞り出す。
「……そのままでいろと言ったはずだ」
かすかに掠れた声。
「……はい」
ユーシュエンは、それだけを返した。
それ以上、何も問わなかった。




