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焼けた後宮。宦官ユーシュエンの新たな務め

作者: 辻梢絵
掲載日:2026/04/30

空を焦がす火の粉は、降りしきる雨にも消えず、焼け焦げた死の匂いを燻らせていた。

朱塗りの柱が爆ぜる音。金糸の(とばり)が煤にまみれ、泥に伏す。幼い頃からユーシュエンにとっての「世界のすべて」であった後宮は、今や無慈悲な瓦礫の山へと成り果てていた。


一歩、また一歩。雨を含んで重くなった裾を引きずり、亡霊のように歩く。

序列、役職、定められた礼節。それらがない外の世界は、あまりに広く、あまりに冷たい。


不意に、背後で巨大な轟音が響いた。

焼け残った梁が、その重みに耐えかねて崩落する。

「あ……」

衝撃と共に、視界が激しく揺れた。下半身を襲う鋭い痛み。熱を帯びた瓦礫が容赦なく彼の足を地面に縫い付けた。這い出そうともがくたび、泥と灰が肺を焼き、指先は血に染まる。


(ここで、終わるのか)


命じられるままに生き、何者にもなれなかった自分の、これがふさわしい最期なのだと諦めかけた、その時だった。


「おい、あんた。生きてるか?」


濁った灰色の視界に、ひとつの影が割り込む。眼の前に差し出されたのは、節くれだった無骨な手。

朦朧とする意識の中で、ただ小さく頷いた。



目を開けたとき、そこには煤けた天井があった。

湿った木の匂いと、安っぽい油の香りが漂う。後宮の香が常に焚かれていた清涼な空気とは程遠い。


そのとき、部屋の奥から気配が近づいてきた。


「気がついたか。体はもう大丈夫か?」


現れたのは、硬質な気配をまとった男だった。

日焼けした肌、強靭な肩幅。まとう衣は上質だが、着こなしにはどこか野性味が混じる。武官だろうか?


ユーシュエンはコクリと頷く。


すると男は優しく微笑み、名乗る。


「俺はホンユー。お前は?」


「……ユーシュエンだ。助けていただき、感謝する」


---


ホンユーは地方のしがない武官の三男。都が敵軍に攻められていると聞いて駆けつけたが、既に遅く、都は既に灰塵に帰していた。

ユーシュエンを見る。衣服は焼け、破れ、白い肌が露わになっている。その格好と所作で分かる。


――宦官だ。


だがなぜか、美しいと思ってしまった。視線を逸らそうとして、逸らせなかった。

こんな連中に入れあげる奴の話を、どこかで聞いたことがある。その話を聞いた時は、何を馬鹿な話を、と思ったものだ。

だが眼の前のそれを見る。

細い首筋、線の薄い体つき。男のはずなのに、妙に目を引く。どうにも心が落ち着かない。


ホンユーは小さく舌打ちし、視線を振り払う。

そして、闇市で買ってきた中古の衣を無造作に放る。


「……ひとまず、それを着ていろ」


ユーシュエンはそれを受け取ると、広げてみて目に困惑の色を浮かべる。


「え、あの、これは……」


「ここはまだ安全ではない。お前の素性はまだバラさないほうがいいだろう」


ホンユーはそう言うと部屋を出ていく。


ユーシュエンは貰った服を呆然と見下ろす。女の衣。私がこんな物を着ても良いのだろうか。

後宮では許されないもの。だが――ここは、もう後宮ではない。

それでも、手が止まる。


(どうすればいい)


正しい振る舞いが分からない。

誰も命じてくれない。


しばらくの沈黙の後、ユーシュエンは静かに元の衣の帯を解き、与えられたものを身にまとった。

それが“正しい”気がしたからだ。



ホンユーは屋台で二人分の食べ物を買うと、安宿に戻ってきた。

扉を叩き、ユーシュエンの返事を待つと、中へ入る。

ユーシュエンは寝台に座りながら、窓を向いて暗くなり始めた外を見ていた。


「腹が減っただろう。これでも食え」


そういって、串焼きを渡す。


「ありがとうございます」


そう言って、小さく、やわらかく笑うユーシュエン。

窓から差し込む夕日が、女の衣をまとった細い体の線を際立たせる。

ホンユーの心は落ち着かなかった。


----------------------------


夜。

明かりを灯した机で書を読むホンユーに声をかける。


「私は床で休みます。ホンユー様は寝台をお使いください」


「いや、まだ本調子ではないだろう。お前が使え」


「そのようなわけには参りません。ホンユー様が寝台を使うべきです」


反射のように言葉が出る。

それ以外の選択肢が、思いつかない。


「ここはもう後宮ではない」


言葉の意味は分かる。だが、どうすればいいのか分からない。

胸の奥が、妙に落ち着かない。


(何か、間違えている気がする)


だが、それが何か分からない。


「そんな……、それではとても眠れません」


沈黙。


ホンユーが顔を上げる。

一瞬だけユーシュエンを見て、すぐに逸らす。


「……じゃあ、俺が隣で寝るか」


「は?」


ユーシュエンは思わずホンユーを見る。

灯りの影でこちらからは顔が見えない。


「……あの?何を、申されているのでしょうか」


「だから、お前が寝れないというのなら、俺が一緒に寝てやろうか、と言ったんだ」


------------------


翌朝。

目が覚めると、すぐ隣に男の体温があった。

規則正しい鼓動、自分よりもひと回り大きな体の重み。

距離の近さに、息が詰まる。

理由もなく、顔が熱くなる。


(……何なのだ、これは)


胸の奥がざわつく。

だが、それが何なのか分からない。


体を起こし、衣が乱れていることに気づいて慌てて整える。

喉が、ひどく乾いていた。男を起こさぬように、ゆっくりと寝台を抜けると、入口横の水瓶(みずがめ)の水を柄杓ですくって飲む。


ゆっくりと深呼吸をする。


――落ち着かない。


視界に入ったのは、壁際に立てかけられた古びた箒だった。

ユーシュエンは取り憑かれたようにそれを手に取る。

そして無心で部屋の掃除を始めた。


(……これでいい)


そうしていれば、何も考えなくて済むから。


---------------------------------


昼下がり、ホンユーが街の露店で買ってきた紙包みを卓に置いた。

中には、蜜をたっぷり塗って揚げた小ぶりな菓子が入っている。


「……あ。ホンユー様、お待ちください」


ユーシュエンがすぐに近寄り、中身を確認する。

そして、ホンユーが手を伸ばすより早く、そのうちのひとつを指先で摘み上げた。


「待て、俺が食べようと――」


ホンユーの言葉が終わる前に、ユーシュエンはそれを口に含んだ。

咀嚼し、ゆっくりと飲み込む。

そのまま一呼吸、二呼吸。自分の脈を測るように目を閉じて静止した後、彼は残りの菓子をホンユーの方へ恭しく差し出した。


「異常はございません。……どうぞ、安心してお召し上がりください」


「…………」


――毒見だ。


後宮での習慣が、彼の体を機械的に動かしている。

だが、ユーシュエンの指先には、まだ銀色の蜜がひとしずく残っていた。彼はそれを無意識に、自らの舌先で小さく舐めとる。


ホンユーは、伸ばしかけた手のやり場に困り、視線を斜め下の床へと逸らした。


「……毒なんて、入ってるわけないだろう。ただの菓子だ」

「万が一、ということもございますので」


ユーシュエンは淡々と答え、ホンユーが菓子を口に運ぶのを、満足げな眼差しで見届けている。

ホンユーは、その視線に耐えられず、少しだけ乱暴に菓子を噛み砕いた。


---------------------------


朝の支度の際、ユーシュエンは鏡もない部屋で、手慣れた手つきで髪をまとめていた。

だが、闇市で買った古い衣の共布ではうまく留まらず、さらりと一房の髪がうなじにこぼれ落ちる。


「……あ」


それを見ていたホンユーが、荷物の中から予備の丈夫な革紐を差し出した。


「ほら、これを使え。丈夫だぞ」


「ありがとうございます」


ユーシュエンはそれを受け取ると、あろうことか、両手が塞がっていたため、その革紐を一時的に「唇」に挟んだ。

無造作に、だが唇の端でキュッと紐を噛む仕草。


ホンユーは、言葉を失った。

女物の衣から覗く喉、紐を噛む淡い色の唇。その光景から、なぜか目を逸らせなかった。


「……おい、お前……」

「(紐を噛んだまま)ふぇ……? はひか(何か)?」


ユーシュエンが首を傾げると、紐が唇の上で微かに揺れる。

ホンユーはバッと背中を向けた。


「……なんでもない。 早くしろ」


ユーシュエンは紐を外し、不思議そうに瞬きをした。


(……怒らせてしまったでしょうか。結ぶのが、遅すぎたのか)


---------------------------


翌朝、ホンユーが身支度を整えていると、背後に気配がした。

振り返ると、ユーシュエンが漆塗りの古い櫛を両手で捧げ持っている。


「……ホンユー様。髪が、少し跳ねております」


「ああ、後で直す」


「今、整えさせていただきます。……動かないでください」


そう言われると、ホンユーの体は反射的に強張った。

ユーシュエンが背後に回り、至近距離に立つ。湿った朝の空気の中に、石鹸の、かすかな残り香が混じった。


不意に、うなじのあたりに冷たい指先が触れる。

櫛を通すため、ユーシュエンの指がホンユーの首筋を軽く払った。

その瞬間、ホンユーが握っていた腰の剣の鞘が、僅かに軋んだ。


ユーシュエンは無心に櫛を動かしている。髪を一本も零さぬよう、その指先は慎重で、慈しむような丁寧さだ。


「……もういい」


ホンユーは、髪が整い終える前に、逃げるように半歩踏み出した。

そのまま、開いた窓の外へと視線を投げ出す。

ユーシュエンは、空を切った自分の手を不思議そうに見つめてから、静かに櫛を懐へ収めた。


---------------------------


宿の階段を上がる際、慣れない女物の長い裾を、ユーシュエンが踏みそうになった。

それを見たホンユーが、反射的に彼の肘を支える。


「危ない。……慣れないなら、もっと短く端折(はしょ)ってもいいんだぞ」


ホンユーの手が、ユーシュエンの二の腕に触れる。

布越しでもわかる、男にしてはあまりに細い感触。


「あ……大変、申し訳ありません」


ユーシュエンは、支えられた自分の腕と、ホンユーの大きな手を交互に見つめた。


ユーシュエンは、ホンユーの手に自分の手を重ねようとして――ふと思いとどまったように、指先を引っ込めた。

代わりに、彼はホンユーにしか聞こえないような小さな声で、ポツリとこぼす。


「これでは、私は、歩くのが下手になってしまいそうです」


その言葉に、ホンユーは慌てて腕を離した。


「……ほら、行くぞ」


早足で階段を駆け上がるホンユーの背中を、ユーシュエンは不思議そうに見送っていた。


------------------------


ホンユーが外出から戻ると、部屋の中が驚くほど整えられていた。

それどころか、立てかけてあったホンユーの剣まで、白布できれいに磨かれている。


「ユーシュエン、あまり根を詰めるなと言っただろ」


ユーシュエンは、濡れた手拭いを絞りながら、静かに振り返った。


「何かをしていないと、自分がどこにいるのか、分からなくなるのです」


彼はホンユーの足元に歩み寄ると、ごく自然な動作で、ホンユーの外套(がいとう)を預かろうと手を伸ばした。

その際、二人の距離が、ほんの一瞬だけ、吐息が届くほどに近くなる。


「……私を、使ってください。ホンユー様」


ユーシュエンの瞳には、打算も誘惑もない。

だが、その真っ直ぐすぎる視線に射抜かれたホンユーは、視線を泳がせ、わずかに後ずさった。


「……じゃあ、そこに座ってろ」


一拍。


「……それが、今の命令だ」


「はい。仰せのままに」


ユーシュエンは満足そうに頷き、行儀よく寝台の端に腰を下ろした。

それだけのことで、部屋の空気が少しだけ、柔らかい熱を帯びた気がした。


------------------------


「ユーシュエン、今日は移動だ。昼までに引き上げる準備をしておけ」


「はい。仰せのままに」


言いつけると、ホンユーは宿を出ていく。


朝の仕事を済ませたホンユーが宿に戻ると、ユーシュエンがまとめた荷物とともに、跪いて待っていた。

部屋は隅々まで磨き上げられ、もやは安宿とは思えない状態であった。


「……少し、やりすぎではないか?正直、ここまでやるとは思わなかったぞ」


「申し訳ございません。気づいたときには終わっていましたので」


「……いや、謝らなくても良い」


宿の階段を降りると、帳場にいた女将がこちらに気づき、手を止めた。


「あら、あんたの奥さんかい? えらい甲斐甲斐しいじゃない」


「いや、ちが――」


ホンユーが否定しきる前に、ユーシュエンが女将の目を見据えて一歩前に出た。


「違います。私は男です。……それは、ホンユー様に失礼です」


毅然とした、迷いのない声だった。ユーシュエンにとっては、己の性別を偽ることも、主君に不当な関係の疑いがかかることも、後宮の礼節に照らせば万死に値する無礼だったからだ。


「お、お前……っ」


ホンユーの喉が、引きつったように鳴った。

女将は一瞬あっけにとられたように口を開けていたが、やがて、立ち去ろうとするユーシュエンの横顔と、立ち尽くすホンユーを交互に眺め、なぜか深い笑みを浮かべた。


「そう……。お盛んね」


「な……ッ」


ホンユーは、言葉を継ぐ代わりに、出口に向かって背を向けた。

女将の含みのある視線から逃げるように、無造作に荷物を掴む。

荷物を掴んだ指先に、わずかに力が入りすぎていた。


「行こう、ユーシュエン」


「はい。……あの、何か私は、不手際を?」


「…………。いや、いい」


ホンユーは一度も振り返ることなく、宿の暖簾をくぐり、眩しい外の光の中へ飛び出した。

後に続くユーシュエンは、主の歩幅がいつもより少しだけ速いことに気づき、裾を捌きながらその背中を追う。


道を行く人々の喧騒が、二人の間に流れる奇妙な沈黙を埋めていく。

ホンユーは、ただ前だけを向いていた。


「……ホンユー様。お荷物、お持ちしましょうか」


「いい。前を見て歩け」


短く返したホンユーの声は、いつもより少しだけ低く、湿っていた。


--------------------


雨上がりの道を歩く二人。

水たまりを避けようとしたユーシュエンの足元が、石に躓いてわずかに揺れた。


ホンユーが咄嗟に、その細い肩を横から抱えるようにして支える。

女の衣越しに伝わる、驚くほど確かな骨の感触と、拍子抜けするほどの軽さ。


「あ……」


ユーシュエンは、ホンユーの胸元に顔を寄せる形になった。

ホンユーの視界には、ユーシュエンの耳の後ろ、不自然なほどに白い肌が見える。


ホンユーの腕に、わずかに力がこもった。

だが、次の瞬間には、弾かれたようにその手を離していた。


「……しっかり、足元を見て歩け」


ホンユーはそう言い捨てると、歩幅を少しだけ広げて先に歩き出した。

ユーシュエンはその背中を追おうとして、一度立ち止まる。

そして、今しがたホンユーの手が触れていた自分の肩を、上からそっと、確かめるように掌で押さえた。


「はい。……お手を、煩わせました」


前を行くホンユーは、生い茂る葉を払うようにして、ただ黙々と、ぬかるんだ道を進んでいった。


--------------------


歩き始めて、一刻ほど過ぎ、視界が開けた。

そこには、野営のテントを畳む大勢の兵士たち。


野営地を抜ける風が、はためく旗の音を運んでくる。

兵士たちの怒号と馬のいななきが混じる喧騒の中、一人近づいてきた男が、ホンユーの前で足を止め、拳を包むようにして深く頭を下げた。


「ホンユー様。お疲れ様です」


「イーヌォ、ご苦労。まだ掛かりそうか?」


「いえ、もう四半刻もすれば、完了いたします」


「そうか。ではしばし待とう」


促されるまま、ホンユーは用意された長床几(ながしょうぎ)に腰を下ろした。

木製の卓の上には、使い込まれた茶器が並べられる。

ユーシュエンは迷いのない手つきで急須を手に取り、立ち上る湯気を瞳に映しながら、静かにお茶を注いだ。

そして、当然の儀式として、その器を一度自分の唇へと運ぼうとする。

器が唇に触れかけた、そのとき――


「ユーシュエン。毒見は良い。お前も座れ」


ホンユーがその手首を軽く制し、自分のすぐ隣、空いている席の端を掌で叩いた。


「いえ、それはできません」


ユーシュエンは器を卓に戻すと、一歩、また一歩と後退り、ホンユーの影に重なるようにして直立した。

背筋を伸ばし、両手を前で重ね、周囲の喧騒を遮断するように視線を伏せる。

その姿は、主君の威厳を汚さぬよう配慮された、完璧な静止であった。

まるで最初からそこにいなかったかのように。


その一連のやり取りを、イーヌォは興味深げに、あるいは値踏みするように眺めていた。

やがて、彼は口元に微かな笑みを浮かべ、独り言のように呟く。


「随分と、その者を大事にされておりますね」


「……そういうわけではない」


ホンユーは、卓に置かれた茶碗を手に取った。

熱い茶を一気に喉に流し込む。

視線は、作業を続ける兵士たちの背中に向けたまま。

少し、後ろが気になったが、振り返るのを躊躇った。


---------------------


移動中、軍の先頭が、にわかに殺気立った。

兵士たちの歩みが止まり、数騎の屈強な男たちが馬を踏み込ませてくる。中央にいるのは、上位武官の男だった。


男の濁った視線が、ホンユーの背後に乗るユーシュエンで止まる。


「……ほう。見ない顔だが、随分と上等なのを連れているな」


男は笑みを浮かべ、馬を寄せた。無遠慮に身を乗り出し、ユーシュエンの顔を覗き込む。


「地方武官の三男坊には、いささか分不相応な品だ」


ユーシュエンは視線を逸らさぬまま、抵抗ひとつ見せなかった。


(私は、この者に従うべきか)


後宮の秩序では、より上位の者が現れれば、前の主は意味をなさない。ユーシュエンの指先が、衣の裾を小さく握りしめる。


「おい、それをこちらへ寄こせ。俺が直々に“教育”してやる」


男がユーシュエンの腕を掴み、強引に引き寄せようとした、そのとき。


「……その手を、離せ」


低く、地を這うような声が響いた。

ホンユーは鞍の上でわずかに身を乗り出していた。剣はまだ抜いていない。だが、その一言だけで、周囲の空気が凍りつく。


「何だと? 貴様、俺に逆らう気か」


男が鼻で笑い、さらにユーシュエンへ手を伸ばす。


「俺の、連れだ」


ホンユーは手綱を引き、馬をわずかに寄せた。次の瞬間、男の腕を掴み取る。

骨の軋むような圧に、男の顔から余裕が消えた。


「……死にたくなければ、二度とその指で触れるな」


男の手が腰の剣にかかる。刃がわずかに覗き、その冷気が場を張り詰めさせた。


「……三男坊が、身の程を知らんな。その端正な面、二度と笑えぬようにしてやろうか」


男が踏み込もうとした、その刹那。

薄桃色の衣が、ふわりと視界を遮った。


ユーシュエンだった。鞍の上で体を滑らせるように前へ出て、ホンユーを背に庇う位置に入る。


「……退け、ユーシュエン」


ホンユーの声に、ユーシュエンは振り返らない。


「私は、ホンユー様の持ち物です。あの方の気が済むまで、私を好きにさせれば、ホンユー様の身は守られます」


淡々とした口調だった。

男が歪んだ笑みを深くする。


「ほう、健気なことだ。主の代わりに、その白い肌を刻まれたいか」


「構いません。検分が必要であれば、応じます」


ユーシュエンの手が、自らの襟元にかかる。

その瞬間、ホンユーの理性が弾けた。


「ふざけるな!」


ホンユーはユーシュエンの肩を掴み、力任せに引き戻した。体を引き寄せ、そのまま自分の後ろへ押しやる。


「……ホンユー様? 何を――?」


「黙れ!」


ユーシュエンを背に庇ったまま、ホンユーは馬を一歩踏み出させた。振り下ろされかけた男の剣の柄頭を、掌で叩き伏せる。

甲高い金属音が弾け、男の腕が痺れで跳ね上がった。

ホンユーの視線は、男を射抜いたまま動かない。


「勝手に決めるな」


低く押し殺した声だった。


「……この者は、俺が連れていく。文句があるなら、俺の首を獲ってからにしろ」


張り詰めた沈黙の中、男は舌打ちし、手綱を引いて距離を取った。

やがて、その一団は何事もなかったかのように隊列へと戻っていく。


再び動き出した馬上で、ユーシュエンは呆然としていた。

自分を庇うように前にある、ホンユーの背。


後宮では、主を守って死ぬことは美徳であり、主が身を挺して下僕を守るなど、あってはならないことだった。


「……何故、ですか」


ぽつりと問う。

ホンユーは振り返らなかった。肩で息をつきながら、握りしめた拳をゆっくりと解くだけだった。


「…………命令だ。二度と、あんな真似はするな」


「…………はい」


ユーシュエンは深く頭を下げる。

その視線の先で、自分の指先が、見慣れない震えを帯びていることに、彼はまだ気づいていなかった。


---------------------------


空が暗くなる前、軍は少し開けた草原に野営地を築いた。


天幕の片隅、卓に置かれた行灯(あんどん)の火が、爆ぜて小さく揺れた。

ホンユーは開いたままの木簡に視線を落としているが、ここ半刻、頁を進める手は動いていない。


「明朝の準備はすべて整えました。お召し物も、火に当てて湿り気を抜いてあります」


背後で衣が擦れる音がした。

ユーシュエンが、ホンユーが脱ぎ捨てた上着を拾い上げ、丁寧に皺を伸ばしている。


「……ホンユー様」


一拍。


「先程の、あの対応は――――非効率ではなかったでしょうか」


ユーシュエンは、ホンユーの背中から三歩下がった位置で、音もなく膝をつく。そのまま、両手を膝の上で重ね、床の一点を見つめて動かなくなった。


ホンユーは、握っていた木簡を置いた。


「……ユーシュエン」


「はい」


「こっちへ来い」


ユーシュエンは迷いなく立ち上がり、ホンユーの傍らへ歩み寄った。

ホンユーが顔を上げると、そこには中古の女衣の襟元から覗く、細い喉仏がかすかに上下するのが見えた。


ホンユーの手が、ゆっくりと空中で動く。

指先が、ユーシュエンの頬のすぐ近く、乱れて垂れ下がった一房の髪に触れようとして――止まった。


ユーシュエンは、逃げもせず、瞬きもせず、ただじっと待っている。


ホンユーの指が、ピクリと震えた。

結局、その指先は髪に触れることなく、机の端を強く叩いて握りしめられた。


「……っ、もういい。下がれ」


ユーシュエンは、わずかに首を傾げた。

しかしすぐに、深く、優雅に一礼した。


「はい。……おやすみなさいませ、ホンユー様」


ユーシュエンが寝床へ向かう足音は、驚くほど静かだった。

一人残されたホンユーは、拳を握りしめる。その指は、力を込めすぎて白くなっていた。


-----------------------


天幕の外では、篝火かがりびがパチパチと爆ぜる音と、時折聞こえる兵士たちの低い話し声が夜の静寂をなぞっていた。


寝台の上、ユーシュエンは薄い毛布に包まり、暗闇の中で目を開けていた。

少し離れた寝台には、ホンユーが横たわっている。毛布がはだけている。


ユーシュエンは、寝台から音を立てぬよう滑り降りた。

寝台に転がっているホンユーの肩に、毛布を掛け直そうとした、その時。


「……何をしている」


暗闇の中で、ホンユーの低い声が響いた。

ユーシュエンの手首が、寝転んだままのホンユーの手によって、がっしりと掴まれる。


「毛布を。……夜は、冷え込みます」


「もう寝ろ、と言ったはずだ」


「ですが……」


「命令だ」


また、その言葉だった。

ユーシュエンは掴まれた手首を見つめた。昼間とは違う温度が、肌に残る。


ユーシュエンは抵抗せず、そのままホンユーの枕元に膝をついた。


「……ホンユー様は、不思議なお方です」


「何がだ」


「私のような者を……何故、それほどまでに案ずるのですか。後宮では、欠ければ補充されるだけの存在でした」


暗闇の中、至近距離で視線がぶつかる。

握られた手首に、さらに力がこもる。


「……そんなもので、済むか」


吐き捨てるような、ひどく掠れた声だった。

ホンユーは、弾かれたようにユーシュエンの手首を放すと、背を向けて寝返りを打った。


「……もう寝ろ。これ以上喋るのも、禁止だ」


「…………はい」


取り残されたユーシュエンの指先が、行き場をなくしたように止まる。

彼は、放されたばかりの手首を、もう片方の手でそっと覆った。

手首に残るその輪郭は、なかなか消えなかった。


-----------------------------


翌朝、軍が動き出す準備を始める中、ユーシュエンはいつものようにホンユーの身支度を整えていた。

天幕に差し込む朝日は白く、昨夜の暗闇が嘘のように明るい。


ユーシュエンは、ホンユーの背後に立ち、外套の紐を結び合わせる。

指先はいつも通り、迷いなく動くはずだった。


だが、紐を引こうとした瞬間、昨夜掴まれた手首のあたりに、じわりと輪郭が蘇る。


『……そんなもので、済むか』


不意に、その声が耳元で響いた気がした。

ユーシュエンの指が、ほんのわずかに、跳ねるように止まる。


「……? どうした」


ホンユーが振り返ろうとする。

ユーシュエンは慌てて指を動かしたが、結び目はいつもより少しだけ(いびつ)な形になった。


「いえ。……少々、手元が狂いました」


「お前がそんなことを言うのは珍しいな」


ホンユーは特に気にする様子もなく、鏡も見ずに馬の方へと歩き出した。

ユーシュエンは自分の指先をじっと見つめる。

昨日までは、ただ結ぶべき紐があっただけだ。なのに今は、指先がどこか馴染まない。


-----------------------------


行軍の途中、馬を休めている時のことだった。

ユーシュエンは、水筒を持ってホンユーの元へ歩み寄る。


「ホンユー様、お水を」


受け取ろうとしたホンユーの指が、ユーシュエンの掌に触れる。

いつも通りの、無造作な接触。

だがその瞬間、ユーシュエンの肩がわずかに強張った。


「…………」


ホンユーが水を飲む間、ユーシュエンは自分の手を見つめていた。


「……ユーシュエン、顔色が悪いぞ。どこか痛むのか」


ホンユーが水筒を離して覗き込む。

その距離に、ユーシュエンは一歩、後ずさった。


「……いえ。ただ、少し」


「少し、なんだ」


「……正しい距離が、分からなくなりました」


ユーシュエンはすぐに伏せ目になり、いつもの無表情を取り繕う。


ホンユーは何かを言いかけ、結局、水筒を握りしめたまま言葉を飲み込んだ。


「……もう行くぞ」


「はい。……仰せのままに」


--------------------------


「俺は少し離れる。待機していろ」


彼はいつものように、天幕の整理を始める。

昨夜、ホンユーが使った茶碗を洗おうとして、手が止まる。

無意識にその縁をなぞる。


(……おかしい)


手足が、わずかに遅れる。

どこへ動けばいいのか、一瞬だけ分からなくなる。


不意に、背後から声をかけられた。


「おい、あんた」


振り返ると、見知らぬ武官が数人、薄笑いを浮かべて立っていた。


「暇そうだな。手が空いてるなら、こっちに来て俺達の酌でもしろ」


ユーシュエンの体は、反射のように動こうとした。


「……はい。仰せのまま――」


一歩、踏み出しかけて。

その足が、止まる。


「なんだ? 来ねえのか」


(違う)


その一言だけが、はっきりと浮かぶ。


(……違う)


踏み出した足を、元の場所へ戻した。


「……申し訳ございません。私は、ここで待つようにと命じられております」


「あ? なんだよ、融通の利かねえやつだな」


男たちは去っていった。

ユーシュエンは、自分の掌を見つめた。


(なぜ、断った)


答えは出ないまま、再び作業に戻る。

手つきは、どこかぎこちなかった。


「……ユーシュエン」


ふと、聞き慣れた声がした。


振り向いた瞬間、張り詰めていたものが、不意にほどける。


「……ずっと、そこにいたのか」


「はい。……お帰りなさいませ、ホンユー様」


深く一礼する。

その指先は、わずかに震えていた。


--------------------------------------


野営地の朝は早い。

周囲では兵士たちが天幕を叩き、杭を抜く乾いた音が響いている。

埃が舞う朝日の中で、ユーシュエンはホンユーの前に立った。


「ホンユー様」


「どうした?」


「……申し上げにくいのですが」


「私は現在、命令への反応に遅延が生じております。昨日の不在時も、判断に齟齬が見られました。……このままでは、ホンユー様の運用に支障をきたす恐れがございます」


ユーシュエンは、主の足元に視線を落としたまま言った。


「ですので、より適切な者へ交換いただくか。あるいは、ここでお見限りいただくのが最善かと」


わずかな沈黙。


ホンユーの指が、ぎしりと音を立てるほど強く握られた。


「……俺は、“代わりが利くもの”なんて連れてきた覚えはない」


低く、抑えられた声。

ホンユーはユーシュエンの顎を指先で掬い上げた。


「ですが、事実として私は――」


「黙れ」


その一言で、言葉が断ち切られる。

ホンユーの指先が、わずかに震えていた。


「遅延も齟齬も、知ったことか。……お前が動けないなら、俺がやればいいだけの話だ」


「……そのような、主従の理に反するようなことは」


「俺が命令だと言っているんだ!」


掴んでいた顎を放し、ホンユーは背を向けた。

荒い足取りで馬へ向かい、鞍を締め直す。


「……行くぞ。遅れるな」


「…………はい」


ユーシュエンは、その場に跪いた。

馬上の背中を見上げる。

胸の奥が、わずかに乱れていた。


-----------------------------------


軍は他の兵団と合流し、大平原に巨大な駐屯地を築いた。

いくつもの軍旗が風にはためき、天幕の内に居ても、慌ただしく鳴る蹄の音や規則的な足音が聞こえてくる。


水桶を天秤に下げ、水場へ向かうと、他の小姓や若い兵士達が水を汲んでいた。

順番を待つ間、いくつもの視線がこちらに向けられている。

ユーシュエンは何も言わず、水を汲んで天幕へ戻った。


「ホンユー様。私の衣を、この場にふさわしいものへ変えていただけませんでしょうか」


ホンユーが顔を上げる。


「……急にどうした」


「先ほど、水場にて。他の者の視線が、必要以上に集まっておりました」


「この装いでは、無用な注意を引きます。……結果として、ホンユー様の行動にも影響が出るかと」


「ですので、より目立たぬ形に調整すべきと判断いたしました」


「……不必要に見られることは、避けるべきかと」


ホンユーは手にしていた地図を卓に置いた。

指先が、紙の端を強く押さえる。


「……何と言われた」


「いえ。言葉を交わしたわけではありません。ただ、その……」


「視線が集まること自体、私の隠密性を損なわせます。……兵卒の衣であれば、誰の目にも留まらないかと」


「…………」


ホンユーは、ようやく顔を上げた。


「……着替えたところで、お前が目立たなくなるわけがないだろう」


「……? ですが、この装いよりはマシかと」


ホンユーは立ち上がり、距離を詰めた。


一歩。


「……俺の傍を離れるな。水場へも、一人で行くなと言ったはずだ」


「それは、ホンユー様のお手を煩わせることになります」


「煩わしいかどうかは、俺が決めることだ」


ホンユーの声が、わずかに低い。

伸ばしかけた手が、宙で止まる。


「衣の件は、追って考える。……今は、そのままでいろ」


「……はい」


ユーシュエンは頭を下げた。


「今日はしばらくここを離れる。何もしなくて良い。お前はこの天幕の中に居ろ」


「…………はい」


ユーシュエンを残し天幕を出る。


外へ出たホンユーは、足を止めた。

握ったままの掌に、爪が食い込んでいた。


-------------------------------


ホンユーが天幕を出ていき、すでに半日が過ぎていた。


ユーシュエンは、主のいない天幕で茶器を磨いていた。

だが、その動作に精密さはない。

同じ場所を何度も擦り続け、気づけば茶碗の縁が小さく欠けていた。


(……なにが)


指が、震えている。


「……ッ」


遠くで銅鑼が鳴る。

兵士たちの足音が、一斉に地を打った。


ユーシュエンはその場に膝をついた。気づけば、動けなくなっていた。


どれほど経ったのか分からない。やがて、外の気配が変わる。

ざわめきが、重く沈む。


「……ホンユー様?」


反射的に立ち上がり、入口へ向かう。

布をめくって入ってきたのは、血と泥にまみれたイーヌォだった。


「……ホンユー様が負傷なされた。医官の天幕にいる。貴様も来い」


ユーシュエンは、言葉を返さなかった。


一歩、踏み出す。


足が、もつれる。


それでも、そのまま外へ出た。


人の流れに逆らうように、走る。裾が絡み、地に叩きつけられる。


立ち上がる。


また走る。


掌が裂け、血が滲む。


それでも、止まらない。


医官の天幕に飛び込む。


視界の奥、寝台の上に横たわる影があった。


血と泥に塗れた、見慣れた姿。


「ホンユー様……!」


天幕の中は、鉄錆のような血の匂いと、煮え立つ薬草の香りが濃く立ち込めていた。


何をすべきか、一瞬分からなくなる。


ユーシュエンは、寝台の傍らへ崩れ落ちるように膝をついた。

泥にまみれた手で、ホンユーの無事な方の手を、壊れ物を扱うように包み込む。


浅い呼吸と共に、ホンユーがわずかに目を開けた。

顔の半分を血が覆っているが、その瞳は、飛び込んできたユーシュエンの姿を捉えた瞬間、驚きに微かに揺れた。


「……っ、ユーシュエン、か」


「……はい」


ユーシュエンの声は、ひどく平坦だった。

だが、その指先はホンユーの泥にまみれた手を包んだまま、小刻みに震えている。


「……状態を、確認いたします」


「出血量……多。処置が必要です。医官が――」


そこで、言葉が途切れた。


「……私の、処理が……追いつきません」


ユーシュエンは、ゆっくりと首を振る。


「……あなたが、損なわれるのは」


息が詰まる。


「……困ります」


ホンユーは、自分を見下ろすユーシュエンの顔を見つめた。

泥の混じった涙が、一滴、また一滴と落ちる。


「……ユーシュエン」


だが、ユーシュエンは答えない。ただ、ホンユーの手の甲に額を押し当てた。


「……困るのです」


「……あなたがいない朝に、何をすればいいのか、分かりません」


指先に、力がこもる。


「……ですから。死なないでください」


ホンユーの指が、わずかに動いた。ユーシュエンの髪を、かすかになぞる。


「…………ああ。善処、する」


----------------------------------


ホンユーは幸いにも、落馬の際の腕と肋骨の骨折、そして額の切り傷で済んだ。致命傷には至らなかった。


ユーシュエンは、付ききりで看病を続けた。

水を替え、薬を煎じ、夜半に目を覚ませばすぐに駆け寄る。


その甲斐あってか、ホンユーの顔色は日ごとに戻っていった。


ある朝。

目を覚ましたホンユーが、何気なく「水を」と口にするよりも先に、すでに杯が差し出されていた。


「……お前、寝ているのか」


「問題ありません」


即答だった。


ユーシュエンはそのまま、次の用事を探すように視線を巡らせる。

だが、ふと動きを止めた。


何もすることがない。


ほんの一瞬、立ち尽くす。


――すぐに、首を振った。


何事もなかったかのように、空になった茶碗を手に取り、静かに洗いに向かう。


-----------------------------------


ホンユーは近くの宿場町に入り治療することになった。

薬師が定期的に宿を訪れるようになった。


その助手として付き従うのが、シャオイェンという若い女だった。


「シャオイェン。わしは他の患者を診てくる後は頼む」


「はい。先生」


手際は良い。

傷口の洗浄も、薬の調合も、無駄がない。


ホンユーの腕に触れるその指先を、ユーシュエンは少し離れた場所から見ていた。


「……そこ、もう少し強く縛った方がいい」


気づけば、口を挟んでいた。

シャオイェンがちらりと視線を寄越す。


「詳しいじゃない。あんたもやるの?」


「……必要であれば」


ユーシュエンは、すぐにそばへ寄る。

その動きは、わずかに速かった。


二人の指が、一瞬だけ同じ場所に触れる。


「……あ、ごめん」


シャオイェンが手を引く。


「別に。取ったりしないから、そんなに睨まなくても」


軽い調子だった。


ユーシュエンは、わずかに首を傾げる。


「……? 何のことでしょうか」


少し力が入りすぎたのか、ホンユーの肩が跳ねる。


「……痛っ、何をやっている?」


「申し訳ありません。ホンユー様」


そう言いながらも、ユーシュエンの指は迷いなく動いている。

ただ、必要以上に、強く。


シャオイェンは一瞬だけ黙って、ふっと笑った。


「自覚がないのが一番厄介ね」


「……?」


「ほら、これ持って。こっち押さえてて」


渡された布を、ユーシュエンは受け取る。

次に必要な布が、言われる前に差し出される。

シャオイェンが一瞬だけ、手を止めた。


数日後には、手順はすべて頭に入っていた。


同じ動作を、より正確に、より早く。


シャオイェンが何も言わなくても、次の道具が差し出される。


「……すごいね、あんた」


「当然です」


ユーシュエンは淡々と答える。

だが、その視線は、ほんのわずかだけ、ホンユーの方へ向いていた。


--------------------------


宿の部屋。

ホンユーは半裸のまま起き上がり、肩を回し、腕を上げ、軽く跳ねてみせる。


傷の具合を確かめる、ただそれだけの動き。


だが、そのたびに筋肉がわずかに軋み、皮膚の下で確かな力が戻っているのが見て取れた。


「うむ。もうだいぶ良いな」


ユーシュエンは、血の滲んだ布を水に浸し、静かに絞る。

その視線は逸らされることなく、ホンユーの体の動きを追っていた。

――状態確認。それだけのはずだった。


「久しぶりに外に出たい。ユーシュエン、付いてきてくれるか」


「はい」


即答だった。

わずかに緩んだ口元は、すぐにいつもの無表情に戻る。


「ユーシュエン、服を買ってやろう」


「え?」


初めて、反応が遅れた。


「その服も大分着古している。それに替えの服もあったほうが良いだろう?」


「そのように気を使っていただかなくても――」


「俺がそうしたいだけだ」


それで話は終わった。




宿場町は、昼の光と人の熱気で満ちていた。

呼び込みの声、布の擦れる音、行き交う人々のざわめき。


ユーシュエンは、差し出される衣を一つずつ受け取り、袖を通す。

動作は正確で、無駄がない。


その様子を、ホンユーは黙って見ていた。


一着、また一着。

どれも似合うかどうかではなく、「どう見えるか」を確かめるような視線。


やがて、ホンユーの手が別の棚へ伸びた。


「簪もあったほうが良いか。これなんかどうだ?」


差し出されたのは、細工の繊細な女物の簪だった。


「その簪は女物です。私はこちらのほうで――」


ユーシュエンは、より簡素な簪を取ろうとする。


「服に合わんだろう。それに今更だ」


ぶっきらぼうに言い捨て、ホンユーはそのまま代金を払ってしまう。


ユーシュエンは言葉を失ったまま、簪を受け取った。


店を出たホンユーは、そのまま人混みの中へ歩き出す。

振り返らない。


ユーシュエンは慌てて後を追いながら、手の中の簪を見下ろした。


壊さぬよう、懐へ仕舞おうとして――


「ここで差せ」


足が止まった。


「え……?」


人の流れの中で、ホンユーだけがこちらを見ている。


「せっかく買ったんだ。俺が、今見たい」


まっすぐな視線だった。


逃げ場がない。


ユーシュエンの指が、わずかに止まる。

命令であれば従う。それは揺るがないはずだった。


だが――


ほんの一瞬、動き方を見失う。


「……承知、しました」


わずかに遅れて、指が動いた。


髪をすくい上げ、まとめる。

簪を差し込む。その動作は正確で、乱れはない。


だが、差し終えたあとも、指先がすぐには離れなかった。


ホンユーは何も言わない。


ただ、じっと見ている。


ユーシュエンは視線を落としたまま、静かに手を下ろした。


「……これで、よろしいでしょうか」


返事は、すぐには返らなかった。


人のざわめきだけが、二人の間を流れていく。


やがて、ホンユーは小さく息を吐いた。


「……ああ」


それだけだった。


だが、その一言が落ちたあとも、ユーシュエンの指先には、まだ微かな震えが残っていた。


-----------------------------


次の日、ユーシュエンは新しい衣に簪を差し、市場へ買い出しに出ていた。

宿場町は昼の熱気に満ち、行き交う人々の声と荷車の軋む音が絶え間なく重なっている。


「あれ? ユーシュエン」


ふいに背後から声がかかった。


「……シャオイェン、こんにちは」


振り返ったユーシュエンの姿を、シャオイェンはしばらく無言で眺める。

足先から、衣の合わせ、そして簪へと、視線がゆっくりと上がっていく。


一拍。


「あんたって、……結構大事にされてるよね」


「……どういう、意味でしょうか?」


「その衣。側仕えに着せるには上等過ぎるし――」


指先が、簪を軽く示す。


「それ、殿方が恋人に贈る型でしょ。……“手を出すな”って言ってるのと同じよ」


「……そのような、筈は……」


言葉は否定の形をとりながら、最後まで強く結ばれなかった。


---------


宿へ戻るなり、ユーシュエンは荷を置いた。

そして間を置かず、室内にいるホンユーのもとへ歩み寄る。


「ホンユー様」


「なんだ」


「……私の扱いが、不適切かと存じます」


ホンユーの手が、わずかに止まる。


「……は?」


「私は男です。ですので、このような装いは、本来不要です」


一拍。


「……任務にも支障が出ております」


空気が、わずかに張り詰めた。


「支障?」


「はい。……距離の取り方が、分からなくなりました」


ユーシュエンは視線を落としたまま続ける。


「これは、明らかに不具合です。是正が必要かと」


沈黙が落ちる。

ホンユーは、ゆっくりと息を吐いた。


「ユーシュエン。俺が最初に言った通り、お前は男としては目立つ。……だからその衣は、目立たないようにするための偽装だ。是正の必要はない」


「しかし、それは矛盾しております」


ユーシュエンの声は、わずかに低くなる。


「先日お求めになった簪は、むしろ目を引きます。隠蔽を目的とするならば、適切ではありません」


一拍。


「……それとも、別の意図がございますか」


「……お前はよくやっている。……だが、お前のようなものを、どう労えばいいのか分からん。それだけだ」


硬い返答。


「……シャオイェンに、“恋人に贈るものだ”と指摘されました」


「……馬鹿なことを言うな」


「事実です」


間を置かずに返る声。


「ですので、是正を求めます。衣装の変更、または距離の再設定を」


「……断る」


即答だった。


ユーシュエンの指先が、わずかに止まる。


「……理由を、お聞きしても」


「必要ない」


短い。


「俺がそう決めた。それで十分だろう」


「しかし、それでは――」


「くどい」


言葉が、途中で断ち切られる。

空気が、ぴたりと止まった。


ホンユーは視線を逸らしたまま、低く続ける。


「……お前は、そのままでいろ」


その言葉の意味を、ユーシュエンはすぐには受け取れなかった。

わずかな遅延のあと、理解が追いつく。


「……ホンユー様」


「何だ」


「……ではせめて、その『恋人』という言葉の意味を、詳しく教えていただけないでしょうか」


静かな声だった。


ホンユーがゆっくりと振り返る。

その動きには、わずかな躊躇が混じっている。


「……なぜそんなことを聞く」


「あの方の指摘が、私の不具合の原因であるならば。……理解しなければ、任務に支障が出ます」


「……必要ない」


即答。


「ですが」


「お前が知る必要はない」


遮るように。


ユーシュエンの瞳が、わずかに揺れる。


「……理解できなければ、偽装もできません」


ほんの一歩、踏み込む。


「恋人とは何ですか。……私の装いがそれを想起させるというのなら、私はその役割を演じるべきなのですか」


「……演じるだと?」


声が、低く沈む。


「はい。任務の完遂に必要であれば――」


「やめろ」


短く、被せるように。

言葉が途切れる。


「……それ以上、言うな」


怒鳴ってはいない。

だが、その一言で空気が固まった。


「……なぜでしょうか」


「それは、任務じゃない」


即答だった。

ユーシュエンの呼吸が、わずかに乱れる。


「……では、何ですか」


沈黙。


ホンユーの喉が、かすかに上下する。


だが、言葉は出ない。


「……お前が考える必要はない」


突き放すようでいて、どこか揺れている声。

視線は、ユーシュエンの顔を避けたまま、定まらない。


「……承知いたしました」


ユーシュエンは、それ以上踏み込まなかった。

一歩だけ、後ろへ下がる。


「……では、考えません」


静かに視線を落とす。

その指先が、わずかに自分の衣を握る。


「ただ、理解できずとも、現象は発生しております」


「……何の話だ」


「……先ほどから、指先の温度が安定せず、脈動も一定ではありません」


言葉を選ぶように、わずかに間が空く。


「……放置しても、よろしいのでしょうか」


胸元に手を当てる。


呼吸が、ほんの少し浅い。


「……このままでは、正しい距離が――分からなくなります」


言葉が、途中でほどける。


ユーシュエンは、自分の肩を抱くようにして、わずかに身を竦めた。


「……あなたの隣に立っていても、よろしいのですか」


問いというより、確かめるような声。

崩れかけた足場に、そっと重心を置くような。


沈黙。


ホンユーは、答えられなかった。

肯定も、否定も。


しばらくして、ようやく絞り出す。


「……そのままでいろと言ったはずだ」


かすかに掠れた声。


「……はい」


ユーシュエンは、それだけを返した。

それ以上、何も問わなかった。


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