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名前を呼ぶ声

作者: 雨音トキ
掲載日:2026/02/21

午後三時。スマホの画面に、また誰かの「リア充」が流れてくる。


私、田所恵、二十七歳。安アパートの四畳半で、派遣の在宅入力作業をしている。時給千円。月収は十二万円。


画面の中では、大学の同期が結婚式を挙げている。別の友達は、海外旅行の写真を上げている。みんな、キラキラしている。


私は、ここにいる。


誰にも会わず、誰とも話さず、ただキーボードを叩く。


ベランダの植木鉢。百円ショップで買ったポトス。毎日水をやる。それだけが、私の日課だった。


夕方、コンビニで買ったおにぎりを食べる。味はしない。いや、味はあるんだろうけど、感じない。


テレビをつける。ニュース。知らない誰かの幸福と、知らない誰かの不幸。


私は、どちらでもない。


存在しているけど、生きていない。


呼吸はしているけど、誰にも名前を呼ばれない。


スマホを見る。最後に誰かと会話したのは、いつだろう。


二週間前。コンビニの店員に「袋いりますか」と聞かれて、「はい」と答えた。


それが、最後だ。


窓の外、夕暮れ。誰かの帰宅する足音。誰かの笑い声。


私の部屋には、何もない。


ただ、明日がくるのを、待っている。


何かが変わることを、待っている。


でも、何も変わらない。


十二月のある夜、コンビニの帰り道。


ゴミ捨て場で、段ボール箱が鳴いていた。


中を見ると、小さな犬。まだ子犬。茶色い毛並み。濡れて、震えている。


目が合った。


犬は、私を見つめている。助けてとも言わない。ただ、見ている。


私も、見つめ返す。


この犬も、私と同じだ。


誰にも必要とされず、ここにいる。


「アパート、ペット禁止なんだ」


犬に言い訳する。馬鹿みたいだ。


でも、足が動かない。


この犬を置いていったら、明日の朝、冷たくなっているだろう。


それは、私自身の未来を見ているようで、耐えられなかった。


抱き上げた。小さい。軽い。でも、確かに温かい。


生きている。


部屋に連れ帰った。タオルで拭く。カップラーメンの残り汁を皿に入れて、差し出す。


犬は、がつがつと食べた。


「明日、保健所に連れて行く」


自分に言い聞かせる。これは一時的な措置だ。私には、犬を飼う資格もない。


でも、犬は、私の膝の上で眠った。


小さな寝息。規則正しい呼吸。


久しぶりに、部屋に私以外の生命があった。


三日が過ぎた。


犬は、まだいた。


朝起きると、尻尾を振って迎えてくれる。水をやりに行くと、ついてくる。パソコンに向かうと、足元で寝ている。


ある夜。


犬を見つめながら、思った。


「名前、つけようか」


犬が、顔を上げた。


でも、名前をつけたら、もう手放せなくなる。


それは、分かっている。


名前は、契約だ。


この犬を「それ」ではなく、「あなた」にする行為。


そして、私も「誰か」ではなく、「わたし」になる。


「マメ」


小さくて、茶色いから。豆みたいだから。


「マメ。お前、マメな」


犬——マメが、ワンと鳴いた。


その瞬間、世界が変わった。


マメは、もう「犬」じゃない。


世界中にいる無数の犬の中の一匹じゃない。


「マメ」という、たった一匹。


そして、マメにとって、私も「誰か」じゃない。


マメは、私の匂いを覚えた。私の声を覚えた。私の手を覚えた。


世界中の誰でもない。


私だけを、認識している。


私は、マメにとって、唯一無二の存在になった。


そして、マメは、私にとって、唯一無二の存在になった。


代わりはいない。


他の誰でもない。


この犬は、マメだ。


そして、私は、マメの飼い主だ。


初めて、私は「私」になった。


一週間後、大家が訪ねてきた。


「田所さん、犬の鳴き声、聞こえるんですけど」


心臓が止まりそうになった。


マメは、押し入れに隠した。でも、すぐにクーンと鳴いた。


「すみません。すぐに処分します」


「処分って」


「保健所に」


大家は、眉をひそめた。


「その犬、見せてもらえますか」


押し入れを開けた。マメが、尻尾を振っている。


大家は、しゃがんで、マメを見つめた。


「可愛いですね」


「はい」


「田所さん。本当は、手放したくないんでしょう」


その言葉で、堰が切れた。


涙が溢れた。


「手放したくないです。マメは、私の全てなんです」


声が震える。


「スマホを見るたび、みんなキラキラしてて。私だけ、取り残されてて。誰にも必要とされてなくて」


言葉が止まらなくなった。


「でも、マメがいたら、朝起きる理由ができた。帰る理由ができた。名前を呼ぶと、振り向いてくれる。私を見てくれる。私を必要としてくれる」


大家は、黙って聞いていた。


「マメを失ったら、私、また元に戻っちゃう。誰でもない存在に」


大家が、ハンカチを差し出した。


「分かりました。三ヶ月だけ、待ってあげます。その間に、ペット可の物件を探してください」


「本当ですか?」


「私も昔、犬を飼ってたから。あの子がいなかったら、生きていけなかった時期があった」


翌日から、物件探しを始めた。


ペット可。家賃、五万円以下。


条件に合う場所は少ない。でも、諦めない。


マメのために。


いや、私のために。


その日々の中で、気づいた。


朝、マメに餌をやる時。


マメが「待て」を覚えて、目をキラキラさせる時。


散歩で、マメが初めて公園の芝生を走り回った時。


夜、マメが私の隣で寝息を立てる時。


これが、幸せだと。


スマホの中のキラキラした世界じゃない。


誰かの結婚式でも、海外旅行でもない。


この、小さな四畳半で。


マメの温もりを感じながら。


ポトスに水をやりながら。


「おはよう、マメ」と声をかけながら。


これが、私の幸せだと。


失いかけて、初めて分かった。


私は、ずっと、何かが足りないと思っていた。


でも、足りないものなんて、なかった。


必要なものは、もうここにあった。


二ヶ月後、物件が見つかった。


家賃四万八千円。ペット可。六畳一間。


引っ越しの日。


荷物は少ない。段ボール三箱。マメのケージ。ポトスの鉢。


新しい部屋に入る。


窓が大きい。光が入る。


「マメ、ここが新しい家だよ」


マメが、部屋を駆け回る。


ポトスを窓際に置く。葉が、以前より増えている気がする。


その夜、マメと一緒に床に座る。


スマホを開く。


大学の同期の投稿。また誰かの「リア充」。


でも、今は、何も感じない。


羨ましくもない。


だって、私には、私の世界がある。


マメが、膝の上に乗ってくる。


「マメ」


名前を呼ぶ。


マメが、私を見上げる。


世界中で、この名前に反応するのは、このマメだけ。


世界中で、このマメにとって特別なのは、私だけ。


私は、もう「誰でもない存在」じゃない。


マメにとっての、唯一無二の存在。


それは、どんな社会的地位よりも、どんな肩書きよりも、価値がある。


翌朝。


マメと散歩に出る。


公園で、他の犬の飼い主さんに話しかけられた。


「可愛いですね。何歳ですか?」


「三ヶ月です」


「名前は?」


「マメです」


「いい名前ですね」


久しぶりの、人との会話。


そして、気づいた。


私は、もう一人じゃない。


マメを通じて、世界と繋がっている。


帰り道、コンビニに寄る。


「いらっしゃいませ」


店員の声。


「ありがとうございます」


私も、声を出す。


以前なら、黙って会計を済ませていた。


でも、今は、感謝を言える。


なぜなら、私には、守るべきものがあるから。


マメという、かけがえのない存在。


そして、マメに必要とされる、私という存在。


夜。


マメが、私の隣で眠っている。


小さな寝息。温かい体温。


「ありがとう、マメ」


私を救ってくれて。


私に名前をくれて。


私を「私」にしてくれて。


これは、願望じゃない。


信仰心に近い、何かだ。


この小さな命を、守り続けること。


それが、私の生きる意味になった。


窓の外、夜空に星が瞬いている。


ポトスの葉が、月明かりに照らされている。


私は、もう待っていない。


明日を、作っている。


マメと一緒に。


世界は何も変わっていない。


私は相変わらず、安アパートに住む、派遣社員だ。


でも、私の世界は、完全に変わった。


誰にも名前を呼ばれなかった私が、今は、毎日名前を呼んでいる。


「マメ」と。


そして、マメも、私を必要としている。


それだけで、私は、誰よりも豊かだ。


無償で与えてくれた、この愛に。


感謝を込めて、生きていく。


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