名前を呼ぶ声
午後三時。スマホの画面に、また誰かの「リア充」が流れてくる。
私、田所恵、二十七歳。安アパートの四畳半で、派遣の在宅入力作業をしている。時給千円。月収は十二万円。
画面の中では、大学の同期が結婚式を挙げている。別の友達は、海外旅行の写真を上げている。みんな、キラキラしている。
私は、ここにいる。
誰にも会わず、誰とも話さず、ただキーボードを叩く。
ベランダの植木鉢。百円ショップで買ったポトス。毎日水をやる。それだけが、私の日課だった。
夕方、コンビニで買ったおにぎりを食べる。味はしない。いや、味はあるんだろうけど、感じない。
テレビをつける。ニュース。知らない誰かの幸福と、知らない誰かの不幸。
私は、どちらでもない。
存在しているけど、生きていない。
呼吸はしているけど、誰にも名前を呼ばれない。
スマホを見る。最後に誰かと会話したのは、いつだろう。
二週間前。コンビニの店員に「袋いりますか」と聞かれて、「はい」と答えた。
それが、最後だ。
窓の外、夕暮れ。誰かの帰宅する足音。誰かの笑い声。
私の部屋には、何もない。
ただ、明日がくるのを、待っている。
何かが変わることを、待っている。
でも、何も変わらない。
十二月のある夜、コンビニの帰り道。
ゴミ捨て場で、段ボール箱が鳴いていた。
中を見ると、小さな犬。まだ子犬。茶色い毛並み。濡れて、震えている。
目が合った。
犬は、私を見つめている。助けてとも言わない。ただ、見ている。
私も、見つめ返す。
この犬も、私と同じだ。
誰にも必要とされず、ここにいる。
「アパート、ペット禁止なんだ」
犬に言い訳する。馬鹿みたいだ。
でも、足が動かない。
この犬を置いていったら、明日の朝、冷たくなっているだろう。
それは、私自身の未来を見ているようで、耐えられなかった。
抱き上げた。小さい。軽い。でも、確かに温かい。
生きている。
部屋に連れ帰った。タオルで拭く。カップラーメンの残り汁を皿に入れて、差し出す。
犬は、がつがつと食べた。
「明日、保健所に連れて行く」
自分に言い聞かせる。これは一時的な措置だ。私には、犬を飼う資格もない。
でも、犬は、私の膝の上で眠った。
小さな寝息。規則正しい呼吸。
久しぶりに、部屋に私以外の生命があった。
三日が過ぎた。
犬は、まだいた。
朝起きると、尻尾を振って迎えてくれる。水をやりに行くと、ついてくる。パソコンに向かうと、足元で寝ている。
ある夜。
犬を見つめながら、思った。
「名前、つけようか」
犬が、顔を上げた。
でも、名前をつけたら、もう手放せなくなる。
それは、分かっている。
名前は、契約だ。
この犬を「それ」ではなく、「あなた」にする行為。
そして、私も「誰か」ではなく、「わたし」になる。
「マメ」
小さくて、茶色いから。豆みたいだから。
「マメ。お前、マメな」
犬——マメが、ワンと鳴いた。
その瞬間、世界が変わった。
マメは、もう「犬」じゃない。
世界中にいる無数の犬の中の一匹じゃない。
「マメ」という、たった一匹。
そして、マメにとって、私も「誰か」じゃない。
マメは、私の匂いを覚えた。私の声を覚えた。私の手を覚えた。
世界中の誰でもない。
私だけを、認識している。
私は、マメにとって、唯一無二の存在になった。
そして、マメは、私にとって、唯一無二の存在になった。
代わりはいない。
他の誰でもない。
この犬は、マメだ。
そして、私は、マメの飼い主だ。
初めて、私は「私」になった。
一週間後、大家が訪ねてきた。
「田所さん、犬の鳴き声、聞こえるんですけど」
心臓が止まりそうになった。
マメは、押し入れに隠した。でも、すぐにクーンと鳴いた。
「すみません。すぐに処分します」
「処分って」
「保健所に」
大家は、眉をひそめた。
「その犬、見せてもらえますか」
押し入れを開けた。マメが、尻尾を振っている。
大家は、しゃがんで、マメを見つめた。
「可愛いですね」
「はい」
「田所さん。本当は、手放したくないんでしょう」
その言葉で、堰が切れた。
涙が溢れた。
「手放したくないです。マメは、私の全てなんです」
声が震える。
「スマホを見るたび、みんなキラキラしてて。私だけ、取り残されてて。誰にも必要とされてなくて」
言葉が止まらなくなった。
「でも、マメがいたら、朝起きる理由ができた。帰る理由ができた。名前を呼ぶと、振り向いてくれる。私を見てくれる。私を必要としてくれる」
大家は、黙って聞いていた。
「マメを失ったら、私、また元に戻っちゃう。誰でもない存在に」
大家が、ハンカチを差し出した。
「分かりました。三ヶ月だけ、待ってあげます。その間に、ペット可の物件を探してください」
「本当ですか?」
「私も昔、犬を飼ってたから。あの子がいなかったら、生きていけなかった時期があった」
翌日から、物件探しを始めた。
ペット可。家賃、五万円以下。
条件に合う場所は少ない。でも、諦めない。
マメのために。
いや、私のために。
その日々の中で、気づいた。
朝、マメに餌をやる時。
マメが「待て」を覚えて、目をキラキラさせる時。
散歩で、マメが初めて公園の芝生を走り回った時。
夜、マメが私の隣で寝息を立てる時。
これが、幸せだと。
スマホの中のキラキラした世界じゃない。
誰かの結婚式でも、海外旅行でもない。
この、小さな四畳半で。
マメの温もりを感じながら。
ポトスに水をやりながら。
「おはよう、マメ」と声をかけながら。
これが、私の幸せだと。
失いかけて、初めて分かった。
私は、ずっと、何かが足りないと思っていた。
でも、足りないものなんて、なかった。
必要なものは、もうここにあった。
二ヶ月後、物件が見つかった。
家賃四万八千円。ペット可。六畳一間。
引っ越しの日。
荷物は少ない。段ボール三箱。マメのケージ。ポトスの鉢。
新しい部屋に入る。
窓が大きい。光が入る。
「マメ、ここが新しい家だよ」
マメが、部屋を駆け回る。
ポトスを窓際に置く。葉が、以前より増えている気がする。
その夜、マメと一緒に床に座る。
スマホを開く。
大学の同期の投稿。また誰かの「リア充」。
でも、今は、何も感じない。
羨ましくもない。
だって、私には、私の世界がある。
マメが、膝の上に乗ってくる。
「マメ」
名前を呼ぶ。
マメが、私を見上げる。
世界中で、この名前に反応するのは、このマメだけ。
世界中で、このマメにとって特別なのは、私だけ。
私は、もう「誰でもない存在」じゃない。
マメにとっての、唯一無二の存在。
それは、どんな社会的地位よりも、どんな肩書きよりも、価値がある。
翌朝。
マメと散歩に出る。
公園で、他の犬の飼い主さんに話しかけられた。
「可愛いですね。何歳ですか?」
「三ヶ月です」
「名前は?」
「マメです」
「いい名前ですね」
久しぶりの、人との会話。
そして、気づいた。
私は、もう一人じゃない。
マメを通じて、世界と繋がっている。
帰り道、コンビニに寄る。
「いらっしゃいませ」
店員の声。
「ありがとうございます」
私も、声を出す。
以前なら、黙って会計を済ませていた。
でも、今は、感謝を言える。
なぜなら、私には、守るべきものがあるから。
マメという、かけがえのない存在。
そして、マメに必要とされる、私という存在。
夜。
マメが、私の隣で眠っている。
小さな寝息。温かい体温。
「ありがとう、マメ」
私を救ってくれて。
私に名前をくれて。
私を「私」にしてくれて。
これは、願望じゃない。
信仰心に近い、何かだ。
この小さな命を、守り続けること。
それが、私の生きる意味になった。
窓の外、夜空に星が瞬いている。
ポトスの葉が、月明かりに照らされている。
私は、もう待っていない。
明日を、作っている。
マメと一緒に。
世界は何も変わっていない。
私は相変わらず、安アパートに住む、派遣社員だ。
でも、私の世界は、完全に変わった。
誰にも名前を呼ばれなかった私が、今は、毎日名前を呼んでいる。
「マメ」と。
そして、マメも、私を必要としている。
それだけで、私は、誰よりも豊かだ。
無償で与えてくれた、この愛に。
感謝を込めて、生きていく。




