第五章:境界を越えて
アナ共和国の首都を離れる夜、私は長距離列車の窓に映る自分の顔を見つめていた。第一章で研究室の姿見に映っていた、あの「目立たない、どこにでもいる学者」の顔だ [会話]。だが、今、窓の外を流れていく夜景の暗さと、車内の青白い光に照らされたその表情には、自分でも驚くほどの険しさが混じっていた。
私は、ついに「日常」の外側へと踏み出したのだ。
列車の行き先は、かつて「自由詩人」たちが集ったとされる地方都市、旧名「緑の境界」だ [5, 会話]。首都の図書館という、管理され、監視された「知の安全圏」での調査はもう終わった。私はそこで、「国物語の構築」が新連邦憲章第7条に抵触するという、制度の明確な拒絶をその身で受けた。
「物語は統治の敵」。
連邦の初代議長が遺したその言葉を反芻する。私が今向かっている場所は、その「敵」がかつて息づいていた場所であり、今もなお「消された記憶」の残響が、制度の網の目をかいくぐって漂っているかもしれない場所だ。
列車が地方への境界線を越える際、車内にはアナウンスが流れた。 「これより非集中管理区域に入ります。通信の暗号化強度が変更されます。各自、連邦市民ガイドラインを再確認してください」
物理的な境界線の通過。それは、比較歴史叙述学者としての私が、理論の世界から実践の、あるいは危険な冒険の世界へと完全に移行した瞬間だった。
手元の携帯端末には、ノモスで愛猫を撫でながら眺めていた、あの「奇妙な断片」が表示されている。ここから先は、この断片と、自由詩人たちが遺したであろう「知恵」だけが私の頼りだ。
「制度の再起動トリガー」。
物語を紡ぐという行為が、本当にこの強大な連邦という制度を揺るがす力を持っているのか。窓に映る私は、小さく頷いた。私は単なる記録者ではない。この旅は、消された物語を再構築し、制度が恐れるその力を解き放つためのものだ。
夜の闇を切り裂いて進む列車の振動が、私の鼓動と重なる。恐怖はない。あるのは、自分が真実に近づいているという、震えるような気づきの興奮だけだった。
私はコーヒーの最後の一口を飲み干し、まだ見ぬ「緑の境界」に向けて、静かに目を閉じた。もう引き返すことはできない。私は第一の関門を突破し、物語が禁じられた世界の深淵へと、自ら進んで堕ちていくのだ。




