小さな桃源郷 【月夜譚No.367】
桃の香りがする。それにつられて顔を上げると、水彩絵の具を刷いたような透明感のある青空が目に映った。
最近はついていないことばかりで、気持ちが落ち込んでいた。折角の休日だが特に予定はなく、先ほどまで家にいたのだが妙に暗いことしか考えられなくて、気晴らしに散歩に出た。
外の風に当たれば少しは気分が楽になるかと思ったが、ついつい下ばかりを見てしまっていて、今ようやっと視界が広がった。気持ちはまだ晴れないが、桃の匂いに思考が逸れる。
これは何処から香ってくるのだろう。辺りを見回すが、普段の住宅地の風景しかない。道なりに歩を進め、いつもは曲がらない角を曲がってみた。
そこから少し行った先に、小規模な果樹園があるのを見つけた。数本植わった木にはピンクに色づいた桃の実が幾つも生っており、風が吹く度に甘い香りが鼻孔を擽る。
こんなところに果樹園なんてあっただろうか。不思議に思いながらも、心地良い香りと風景に頬が緩む。
帰りに桃を買おうと考えながら踵を返した刹那、ふっと視界が自分の家の天井に変わった。ぼんやりとする頭で、今のは夢だったのかと思い至る。
「……桃、食べたかったなぁ」
その日を境に、今までが嘘のように順調な日々が続くようになった。
仕事の帰り、桃の入ったビニール袋を提げて近所を歩いてみたが、あの果樹園はもう何処にもなかった。