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偶然と希望の間(はざま)で  作者: ジン・ケンジ


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選択のパラドックス

 降り続く強い雨による湿気の匂いと、図書館の建物の匂い、書架の古い本の匂いが混ざり合い、部屋は独特な香りで満たされている。

 塩地の言葉が途切れた後、二人はしばし言葉を交わさずに黙考した。雨音だけが一定のリズムを刻み、部屋の空気がふたりの思考をより深い領域へといざなう。やがてその空気を攪拌かくはんするかのように、物部がゆっくりと口を開いた。

「……たしかに、世界には宗教によってしか救われない層が一定数いるのはわかります。ですが、それはあくまでも他に方法がない場合の最終手段であって、信仰によって幸福を得ようとすること自体を肯定はできない」

 彼は眼鏡の位置を直しながら、視線を塩地に向ける。

「幸福などというものは主観的なものですから、これは何のデータもない僕個人の信念なのですけどね。信仰で幸福を得ようとすることはメリットよりデメリットのほうが大きいと思っています。塩地さんも大なり小なり、信仰によるデメリットを感じたことはあるのではないですか?」

 その言葉に、塩地はしばし聖書に視線を落として考え込んだ。やがて、物部の目を見て彼女は語り始める。

「ブレーズ・パスカルの提唱した『パスカルの賭け』というものがあります。彼は言いました。『神を信じるか信じないかは賭けだ。もし神が存在すれば、信じることで永遠の幸福を得られる。存在しなければ、何も失わない』私にとって、信仰はそんな賭け以上のもの。神の愛を信じることで、毎日の生活に意味と希望が生まれるんです。デメリットのほうが大きいなんて、とんでもないことです」

 物部は苦笑し、テーブルに肘をついた。

「僕は大学で勉強ぎらいな学生たちによくこう言ってるんですよ。『君たちが勉強しなければならない理由は、人生の選択肢を増やすためだ。豊かさというものは、突き詰めて言えば選択肢の多さだ』とね」

 言葉を区切ると、彼は手を軽く振って強調した。

「塩地さん。信仰が人を救う、失うものは何もないとおっしゃいますが、信仰は選択肢をせばめるんですよ。『神の意志』や『教義』に従うことで自由な人生の選択肢は減り、物事を多角的な視点で分析することなく、何でもかんでも神に結びつけるようになってしまう。例えば、医学的治療よりも祈りを優先する人間がいるように、信仰はときに合理的な選択肢を排除する」

 塩地はじっと物部の言葉に耳を傾けたあと、静かに口を開いた。

「たしかに、医学的治療を拒んで祈りに頼る人がいるのは否定できません。でも、それは信仰そのものというよりも、信仰の誤った理解や指導の結果だと思います。本来、カトリックでもプロテスタントでも『医療を受けるな』などという教えはありません。病気になったら医者にかかるようにと勧めます」

 彼女は徐々に言葉に力を込めていく。

「それに、祈りは医学の代わりではなく、医学を補うものなんです。治療を受けながら、心の支えとして祈る。祈りが直接病気を治すわけではなくても、祈ることで患者や家族の心が落ち着き、治療への前向きさや回復力につながることがあります。信仰は合理的な選択肢を排除するものではなく、合理的な選択を支える力になることもあるんです」

 塩地はここで一呼吸置き、さらに続けた。

「選択肢の多さが豊かさであるとのことですが、選択肢の多さがいつも自由や幸福を意味するとは限りません。むしろ、選択肢が多すぎると、人は不安にさいなまれることもあります。バリー・シュワルツは、選択肢が多ければ多いほど人は不幸を感じやすくなり、満足度が下がるという『選択のパラドックス』を提唱していますし、サルトルの『自由の刑』の話もあります。私の人生も、信仰がなければそんな不安に押しつぶされていたと思います」

 彼女の言葉を受け、物部は間を置かずに反論した。

「あなたが言う『不安』は、信仰に頼らずとも、学問──特に科学を修めることである程度は乗り越えられるんですよ」

 彼はテーブルの端に身を乗り出し、少し語気を強めて続けた。

「僕に言わせれば、過剰な不安というものは無知や分析力不足が原因だ。科学の知識と思考法を身につければ、今までぼんやりとしか見えていなかった世界が、まるでカメラの解像度を上げたかのようにくっきりと見えるようになる。曖昧なものを排除していけば、考えるべきことだけにリソースを割け、考える必要のないことは考えずに済む。不安が無駄に増大することもない」

 塩地は首を振って応じた。彼女の声は穏やかだが、確固とした信念に支えられていた。

「物部さん、科学の知識や思考法は素晴らしい。でも、不安はデータや論理だけでは癒せないこともあります。科学の知識や分析だけではどうにもならない、大きな壁にぶつかる機会も人生にはあります。選択肢が多すぎる世界で、私は迷い、打ちのめされ、立ち止まっていました。そんなとき、聖書を開くことで迷いの中に一本の道が見え、祈りの言葉が私を支えてくれたんです。信仰がなかったら、人生の試練を乗り越えることはとてもできなかった。信仰は私に、どんなときも『愛と希望を選ぶ』という道を示してくれたんです。もし信仰がなかったら、幸福に生きられたとは思えません」

 物部はしばし沈黙し、机に置かれた科学雑誌のページを指先でなぞった。

「……塩地さん。あなたが信仰によって救われたという話は理解できます。けれど、それは『あなた自身』の物語に過ぎないのではありませんか? 普遍的に全ての人間に当てはまるとは限らない。だが、科学の知識や思考法を身につけた人間がよりよく生きられるということは、かなりの確度をもって言える」

 塩地は静かに頷いた。

「その通りです。信仰を持たない人に信仰を押し付けるつもりはありません。けれど、人には向き不向きがあります。全ての人が科学的な知識や思考法を身につけることができるわけではありませんし、効果が表れるまでに時間も労力もかかります。今まさに救いを求めている人に寄り添ってくれるのは、やはり信仰です」

 物部が即座に言葉を返す。

「それでも、です。でき得る限り科学的な知識や思考法は身につけるべきだし、苦境にいるのなら、祈るよりその苦しみを解決する努力をするべきだ。それに科学以外の学問でもいい、芸術でもいい、仕事でもいい、スポーツでもいい、人付き合いでもいい、信仰と別のことで幸福を得られるのなら、そうしたほうがよほど有意義だ」

 物部はここで言葉を切り、窓の外の雨に目をやった。塩地は聖書を見つめ、静かな祈りのような表情を浮かべた。物部は科学雑誌のページをめくり、その音が部屋に小さく響いた。

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