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戦争と科学

 雨には風が混じり、図書館の窓を叩く雨音が室内に響き始めた。物部は手にした科学雑誌のページをりながら、塩地と視線を合わせずに言った。

「塩地さん。僕も正直、芸術で本当に感動できるのは人類の中の少数派だとは思ってますよ。だが宗教は根拠のない『真理』を押し付け、戦争や対立を生んできた。十字軍も、パレスチナ問題も、北アイルランド問題も、インドとパキスタンの対立も、ロヒンギャ問題も、宗教を理由にしたテロも、全てその産物じゃないですか。芸術や科学は、そんな争いを引き起こしたりはしない」

 塩地は静かに息を吐き、聖書に置いた手をそっと握りしめた。彼女の瞳には穏やかな光が宿りつつ、言葉には鋭さが滲んだ。

「物部さん、宗教が対立を生んだことは否定しません。人間の弱さが、信仰を誤った方向に導くこともある。でも、芸術や科学を無垢だと考えるのは、ちょっと都合が良すぎませんか?」

 物部が科学雑誌から視線を上げた。その視線は塩地と火花を散らすように交錯する。塩地は落ち着いた声で続けた。

「芸術がいつも無害であるとは限りません。戦争をあおるプロパガンダに使われたり、憎しみを広めることもある。ナチスの映画や戦時のポスターだって、芸術の形を借りていました。芸術も宗教と同じように人の心を動かし、ときには分断を生むんです」

 物部が科学雑誌をテーブルに置き、口を開いた。

「塩地さん、たしかにプロパガンダは芸術の名を借りるかもしれない。でも、それはごく一部の例外に過ぎないし、そもそも芸術の本質じゃない。芸術はフィクションで、自由な解釈を許す。作品は完成したそのときから作者の手を離れ、観る人間が何を感じるかにゆだねられる。プロパガンダは、特定のイデオロギーを受け手に押しつけるから芸術をゆがめるんだ。宗教も『これが真理だ』と主張し、信じない人間を排除してきた。聖戦や異端審問だって、そういう信念から生まれる。芸術はそんな強制をしない。作品に触れて、ただ心が動く──それが芸術の力だ。科学と同じで、押しつけがなく、個人の自由を尊重する」

 塩地は物部の言葉を静かに聞き、ゆっくりとうなずく。そして聖書に置いた手を再びそっと握りしめると、決意を込めたように口を開いた。

「なるほど、芸術に関しては物部さんのおっしゃる通りなのかもしれません。ですが科学のほうはどうでしょうか?」

 塩地は物部の目を真っ直ぐ見据え、続ける。

「科学技術の進歩は、戦争の死者数を増やし、より悲惨なものにしてきました。第一次世界大戦でそれまでの戦争よりもはるかに多くの命が失われたのは、機関銃や高性能の爆薬、戦車、毒ガス兵器など、科学がもたらした新兵器の登場が大きな要因です。第二次世界大戦では、科学技術による生産力の向上で戦車、航空機、弾薬が大量に生産され、戦闘の規模や民間人への被害が拡大しました。そして──」

 塩地は言葉を切り、呼吸を整える。

「核物理学の進歩により原子爆弾が開発され、一九四五年の八月六日と九日に広島と長崎へ投下されました。一瞬で数十万人の民間人を含む死傷者を出し、被曝による長期的な健康被害も引き起こしました。あれは宗教ではなく、科学者の知識と技術が作り上げたものです。科学も人間が関わる以上、軍事研究への投資といった資金提供や政治的圧力に影響され、完全に中立的ではありません。科学が戦争に手を貸した歴史を、どうやって無視できるんですか?」

 物部の顔に一瞬、明らかな動揺が走った。彼は眼鏡を押し上げ、声を低くして反論した。

「塩地さん、それは科学の濫用らんようであって、科学そのものの問題じゃない。原爆を作ったオッペンハイマーは、戦争を終わらせようとしたんです。科学は客観的事実の積み重ねであって、そこには善悪や美醜びしゅうのような人間の主観的な意味は本来存在しない。あくまでも科学は道具であり、どう使うかは人間の選択の問題です。宗教は、そもそも『神の意志』という根拠のない信念で人々を扇動する。それが戦争を直接生むんですよ」

 塩地は首を振って応じた。彼女の声には、静かな力強さが宿っていた。

「物部さん、科学が道具だとしても、その道具がどれほどの破壊をもたらしたか。宗教もまた、人間の手で誤用され多くの争いを生んでいます。それらは我々人類が深く(いまし)めとするべき歴史です。でも、だからといって、信仰そのものを否定するのは、科学そのものを否定するのと同じくらい一方的です。日本では実感しにくいかもしれませんが、海外の教会では、戦争で傷ついた人々が祈りの中で癒やされ、希望を取り戻しています。私もNPOの活動で実際に紛争地域へ行き、支援に参加したことがありますし、それが戦争について深く考え、学ぶきっかけになりました。他にも教会が慈善活動を行なったり、コミュニティ形成に貢献したり、キング牧師のような偉大な人物の後押しをしたり、信仰は平和を作り出すこともできるんです」

 物部は腕を組み、窓の外の雨に目をやった。しばらく沈黙が続き、彼は小さく息を吐いた。

「たしかに……宗教がどうかはまだ断言できかねますが、科学そのものを否定するのが一方的なのは間違いありませんよ」

 物部はテーブルの科学雑誌に手を置き、続ける。

「もし科学がなければ、今の人口八〇億人の世界は存在しない。化学肥料や品種改良、機械化された農具がなく、ノーフォーク農法を始めとする十八世紀の農業革命も経ていない原始的な農業では、収穫量は現代の十分の一以下、一〇億人すらやしなえない。抗生物質やワクチンがなければ、黒死病ペストや結核や天然痘が猛威を振るい、家族や社会のつながりは崩壊、大陸規模で感染と恐怖を拡大させ、人口の一割から三割が死ぬ。それらの要因がなくとも、科学的な産科医療や新生児のケアがない場合、乳幼児の約三人に一人は五歳まで生きられない。科学的な外科手術や診断の技術がなければ、平均寿命はせいぜい三十歳程度だ。船舶や鉄道のような運送手段や冷蔵技術がなければ、食料を都市に運べず、飢餓きがが頻発する。整備された上下水道や電力がなければ、都市の数億人はコレラや貧困で消える。……科学技術が戦争で多くの人間の命を奪ったのは事実だ。でもそれ以上に多くの人々の命を救い、苦しみをやわらげてもいるんです」

 物部が言葉を切り、部屋に沈黙が訪れた。風が再び吹き、窓を叩く雨音が大きくなる。議論の熱が増す室内の空気にその音は不思議に溶け合っていた。

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