開かれた芸術
しばらくの沈黙の後、塩地は物部へ穏やかに微笑み、口を開いた。彼女の声は静かだが、深い確信に支えられていた。
「物部さん、芸術はたしかに素晴らしいものです。シェイクスピアの詩やバッハの音楽は魂を揺り動かします。でも、芸術をそんな風に心から楽しめる人って、実はそれほど多くないと思いませんか?」
物部は眉を上げ、怪訝な表情で塩地を見た。彼女は言葉を続けた。
「文学や音楽に深く感動するには、時間や教育、感性が必要ですよね。忙しく働く人々や、経済的に余裕のない人々、または心の傷を抱えた人々にとって、芸術は遠い存在であることが多い。ピエール・ブルデューの『文化資本』でも、芸術の享受は階級や教育に強く影響を受けるとされています。でも、信仰は違うんです。神の愛は、どんな境遇の人にも開かれている。教会の扉は、誰もがくぐれるんです。芸術からあぶれた人々に、宗教は生きる意味や救いを与えるんです」
物部は落ち着きのない動作で眼鏡を押し上げた。彼の声には、わずかに焦りが混じっていた。
「塩地さん、それはちょっと悲観的すぎませんか? 芸術は誰にでも開かれています。近頃じゃネット配信で誰でも気軽に音楽や映画に触れられるし、他にも小説、詩、漫画、イラスト……いろいろネット上に投稿されてる。我々が今いる無料の図書館だってある。科学だって、知識を共有することで人類全体を高めてきた。宗教が『救い』だと言うなら、なぜその救いが戦争や対立を生んできたんです? 芸術や科学は、少なくともそんな分裂を引き起こさない」
塩地は首を振って応じた。彼女の目は、静かな炎を宿していた。
「物部さん、芸術や科学が多くの人を高めるのは素晴らしい。でも、すべての人がその恩恵に浴せるわけではないんです。ネットは開かれていると言っても、デジタル・ディバイドの問題がありますし、貧困や病、孤独の中で、芸術や科学に触れる余裕のない人々もいます。私の教会には、仕事や家庭で疲れ果てた人、人生に希望を見失った人が集まります。彼らは聖書の言葉や祈りの中で、初めて『自分はここにいていい』と感じるんです。それが信仰の力です。芸術や科学が届かない場所に、信仰は寄り添うんです」
物部は腕を組み、また窓の外の雨に目をやった。
「塩地さん、確かに宗教は心の隙間を埋めるのかもしれない。でも、その『救い』が根拠のない物語に基づくなら、ただの気休めじゃないですか? 科学は事実で、芸術は美で、人を高める。宗教の『救い』は、結局、幻想にすぎない」
塩地は静かに微笑み、穏やかに答えた。
「物部さん。繰り返しになりますが、幻想かどうかは私には関係ありません。信仰は、私や多くの人にとって、生きる力を与えてくれる現実です。芸術が美しい物語を紡ぐように、信仰は希望の物語を紡ぐ。それが、誰かの心を救うなら、十分に本物だと思うんです」
二人の間に沈黙が落ちた。物部は再び科学雑誌を手に取り、ページをめくる音が、静かな室内に小さく響いた。