スピノザの神
雨音は未だに続き、海底のように重い室内の静寂を満たしている。物部は科学雑誌のページをめくる手を止めると、塩地に鋭い視線を向けた。彼の声には、論理の裏に隠れた情熱が滲んでいた。
「塩地さん。心を豊かにしたいなら、文学や音楽みたいな芸術に触れればいいじゃないですか。アインシュタインだって、ヴァイオリンを愛し、モーツァルトに心を奪われた。科学の巨人が芸術に救いを求めたんです。芸術はフィクションをフィクションとして楽しむから健全ですよ。宗教のように、根拠のないことを真実だと信じ込ませようとはしません」
塩地は物部の言葉を静かに聞き、聖書に置いた手をそっと握りしめた。彼女の瞳には穏やかな光が宿り、口元に微かな微笑みが浮かんだ。
「物部さん、アインシュタインが音楽を愛した話は素敵ですね。芸術が心を動かすのは、私も同意します。文学や音楽は、確かに魂を豊かにしてくれます。でも、芸術と信仰は、目指すものが違うのではないでしょうか?」
彼女は一呼吸置き、言葉に力を込めた。
「芸術は美や感情を表現し、私たちに喜びや思索を与えてくれます。でも、信仰はそれ以上のもの――人生の意味や、なぜ私たちが存在するのかという問いへの答えを求めるものです。イエス・キリストの愛は、私に『なぜ生きるのか』を教えてくれる。芸術がその答えをくれることは、少なくとも私にはありません」
物部は眉を上げ、軽く笑った。
「塩地さん、芸術が答えをくれないからこそ、健全なんですよ。文学は物語を、音楽は音を楽しむ。それでいい。宗教は『神の言葉』だとか『永遠の真理』だとか、検証できないものを押し付ける。それが問題なんです。アインシュタインは神を信じなかった。彼は宇宙の法則に美を見出し、科学と芸術で十分だった」
塩地は首を振って応じた。声は穏やかだが、信念に裏打ちされていた。
「物部さん、アインシュタインが神を信じなかったとしても、彼が宇宙に感じた『美』や『調和』は、信仰に近いものだったのではありませんか? 彼は宇宙や自然そのものを神とみなす、スピノザの汎神論に近い立場を持っていました。宇宙の背後にある知性を語ったこともあります。『宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目である』という言葉も残しています」
彼女はしばし呼吸を置き、続けた。
「芸術がフィクションとして美しいのはわかります。でも、信仰はフィクションではなく、私にとっての現実です。神の愛は、私が毎朝目覚める理由であり、試練を乗り越える力なんです。物部さんが芸術を健全だと言うなら、信仰もまた、私の心を健全に保つものです。芸術が自由に解釈されるように、信仰もまた、個人の心で異なる形で響く。それが『押し付け』ではなく、自由な選択だと私は信じています」
物部は塩地の目をしばらく黙って見つめ、それから窓の外の雨に視線をやった。雨音が、議論の熱を静かに包み込んでいた。