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語りえぬもの

 雨音が図書館の静寂を満たす中、物部は姿勢を正し、塩地に視線を戻した。彼の声には、静かな確信とわずかな苛立いらだちが混じっていた。

「塩地さん、僕が科学を信じていることと、宗教の信仰を同列に並べられるのは納得がいかない。宗教というものは、構造自体が非常に大きな問題を抱えていると思うのですよ」

 物部は言葉を切り、テーブルの科学雑誌に手を置いた。まるでそこに自らの信念の根拠があるかのように。

「科学は少なくとも、観測や実験によって実証され、再現可能なこと以外を真実であるとして語ったりはしません。ですが宗教は、神や死後の世界のような、絶対に誰も観測しようがない形而上けいじじょうの概念を持ち出し、これについて教祖や経典が語ったことを真実であるとして、無批判に鵜呑うのみにする。観測不可能なことについて語っているわけですから、語られた内容が間違っていると立証はできませんが、合っているという根拠も全く存在しないわけです。ヴィトゲンシュタインもこう言っています『語りえぬものについては沈黙しなければならない』」

 彼は言葉に力を込め、続けた。

「たしかに科学は人間の心を語りません。だが根拠があり、信用できる。常に批判的な態度で自己を検証し続け、一歩一歩確実に前進している。そして美しい。真理の探究とはかくあるべきものです」

 塩地は物部の言葉をじっと聞き、目を閉じて一呼吸置いた。彼女の手は聖書の上にあり、指先がページの端をそっとでていた。やがて、静かだが力強い声で応じた。

「物部さん、ヴィトゲンシュタインの言葉は、私にも響きます。確かに、語りえないものについて沈黙することは、時に賢明かもしれません。でも、沈黙がいつも正しいとは限りません。人間は、観測できないものにこそ、生きる意味を見出すことがあります。愛、希望、赦し――これらは科学の実験で測れますか?  それでも、私たちはそれらが本物だと感じ、人生を豊かにしてくれることを知っています」

 彼女は物部の目を見つめ、言葉を続けた。

「あなたが科学の美しさを語るように、私にとって信仰は美しいのです。神の存在は、証明できないかもしれません。でも、証明できないからといって、それが無意味だとは思いません。聖書の言葉や、祈りの中で感じる平安は、私にとっての実在です。科学が一歩一歩進むように、信仰もまた、個人の心の中で一歩一歩深まっていくものなのです」

 物部は眉をひそめ、反論を口にしようとしたが、塩地は手を挙げて言葉をさえぎった。

「物部さん、科学が批判的であることは素晴らしい。でも、宗教もまた、自己批判の歴史を持っています。キリスト教の中でも、改革や対話を通じて、信仰は進化してきたんです。あなたが『無批判』と言うのは、すべての信者を一括りにする偏見ではないでしょうか?  私たちは、神を信じることで、むしろ自分自身を厳しく見つめ直すのです」

 物部は口元に微かな笑みを浮かべ、椅子の背にもたれた。

「塩地さん、あなたの言葉は詩的だ。でも、詩が真理を保証するわけじゃない。科学は詩ではない。事実を積み重ね、世界を説明する。あなたの言う『平安』は、個人の心の中では本物かもしれない。だが、それが普遍的な真理だと言える根拠は?」

 塩地は微笑み、窓の外の雨に目をやった。

「根拠、ですか。科学は根拠を求めますが、信仰は信頼を求めます。どちらも人間の心が求めるもの――真理への渇望――を満たそうとしている。だからこそ、イエス様の死後から現代まですたれずに続く普遍性があった。その点で、私たちにはわかり合える部分もあるのではないでしょうか?」

 雨音が強く響き、部屋に沈黙が落ちた。物部は塩地の言葉を反芻はんすうするように、静かに科学雑誌のページをめくった。

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