雨音の対話
薄暗い図書館の奥、書架に囲まれた小さな部屋で、カトリック信徒の『塩地アンナ』と科学者の『物部進』が向かい合っていた。テーブルの上には開かれた聖書と、科学雑誌の最新号が無造作に置かれている。窓の外では雨が静かに降り、室内に重い空気を漂わせていた。
塩地は穏やかな声で、しかし強い信念を込めて口を開いた。
「人は何かのために生きることで幸福を感じるものです。その何かが真理や愛であれば、なおよい。神の愛は、私たちにその道を示してくれるのです」
物部は眼鏡を軽く押し上げ、冷静な視線を塩地に向けた。
「塩地さん、宗教が語る『真理』は、本当に真理と言えるのでしょうか? もし宗教が本物の真理を握っているなら、なぜ世界中で、時代を超えて、同じことを語らないのですか? キリスト教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教……それぞれが異なる『真理』を掲げ、同じ宗教の中でも宗派が分かれて争う。この矛盾こそ、ミレトスで自然哲学が生まれ、科学が芽吹いた理由ですよ」
塩地の瞳に一瞬、鋭い光が宿った。彼女は身を乗り出し、言葉に熱を込めた。
「物部さん、真理が一つである必要はありますか? 神の愛は、人の心に異なる形で響くもの。文化や歴史が違えば、その表現も変わる。それでも、愛と赦しを求める心は普遍的です。科学は物質を解明しますが、心の渇きを癒せますか?」
物部は小さく笑い、指でテーブルの科学雑誌を軽く叩いた。
「心の渇き、ですか。美しい言葉ですね。でも塩地さん、科学は心を癒すための道具ではありません。科学は徹底的に人間の主観を排除し、客観的な事実を追求する。宗教が『真理』と呼ぶものは、しばしば主観や信仰に依存します。対して、科学は観察と検証を繰り返し、どの時代、どの場所、どの民族の誰が見ても同じ結論に至る。りんごをいつ、どこで、誰が落とそうと、必ず万有引力の法則に従って落ちるんです。それがミレトスの哲学者たちが始めたことの意義です。彼らは神話の矛盾に耐えきれず、自然そのものに答えを求めた」
塩地は深く息を吐き、静かに反論した。
「科学が事実を明らかにするのは素晴らしい。でも、事実だけで人は生きていけるのでしょうか? 愛や希望、意味といったものは、検証可能なデータでは測れません。神の存在は、科学の枠組みを超えたところにあるのです」
物部は塩地の目を真っ直ぐ見返して言った。
「その『枠組みを超えたもの』が、なぜこれほど多くの対立を生むのか。塩地さん、もし神が本当に唯一の真理なら、なぜその真理は人類を一つにしない? 科学は不完全ですが、少なくとも誰もが共有可能な事実を積み上げてきた。宗教の歴史は、対立と分裂の歴史でもあるじゃないですか」
塩地は微笑み、聖書にそっと手を置いた。
「物部さん、対立があるのは人間の弱さゆえです。神の真理は完全でも、人がそれを完全には理解できない。だからこそ、信仰は旅なんです。科学もまた、完全な答えにたどり着いていないでしょう? それでも、あなたは科学を信じる。なぜなら、それがあなたにとっての『意味』だから」
物部は言葉に詰まり、初めて視線を逸らした。雨音だけが、二人の間に静かに響いていた。