73 王太子
ヤクタが名乗った「客分」という立場は、曖昧な言葉ではあるが、“この家で衣食住の世話になっているが、家来ではない。だからこの家の主人の立場を代弁するものではないし、主人も客分の命や立場を保証しない。しかし客分は一宿一飯の恩を自分の命で返す気概を常に持ち歩いている”という独特のヤクザ的な思想で動く者のことだ。
いわば近寄りたくない種類の、権力者にとっては“人間”のジャンルにも含めないような者だが、この王太子だという人物は、笑って親しく話しかけてきた。非常に高ポイントなので、せめてアイシャとケンカにならないように、シーリンの顔も立ててやりつつ、親切にしてやろうとヤクタは思っている。
シーリンのパパへの一宿一飯の恩はその後で。その辺、ヤクタの地は賊であってプロの侠客とは異なる。あと、カタギ気取りのときもあるが、どうしても基本の発想があちら側なのが、なかなかもってどう仕様もない。
*
「ヤクタ、大丈夫だった?」
「殿下、殿下、ようこそおいでくださいました…」
「別に、野次馬してただけさ。オマエもまた、なかなか化けたもんだ。」
「朝から騒がせたな、カーレン男爵。今日はお忍びなのでな、かしこまる必要はないぞ。」
「アイちゃん、いまはちょっと黙っててくれないかな。」
「キミがアイシャ嬢か。いや、此度は彼女に会いに来たのだ。ウム、普通にしていてくれ。」
玄関での出迎えからにぎやかなことになったが、さまざまのやり取りを経て、オトナの挨拶は後ほどとなり、王太子と、背中に足跡をつけた武官のハーフェイズ、問題のべフラン、そしてアイシャ、シーリン、ヤクタが一室に会している。
「まずは僕から挨拶させていただこう。余が、あぁ、この場では、“僕”で通させてもらう。僕がアスラン=イスカンダル・ファールス。この国の第1王子だ。
武神姫アイシャというのはキミだったね。弟の窮地を救ってくれたこと、感謝している。政治や派閥争いでは部下同士でのいざこざが発生していることもあるが、あれも愛する弟だ。このとおり、頭を下げさせてもらうよ。」
第3王子サディクは軍中や戦場のことでもあって、常にしゃちほこばって重々しく振る舞いたがり、肩に力の入った様子だったが、その兄は声も高く、軽やかな雰囲気を身にまとって、むしろ、その方が大物の印象を周囲に強く与える。
思わぬ展開で、機先を制されるように礼を言われたアイシャは慌てふためいて、シーリンに救いを求める。
が、シーリンのほうがもっと慌てて硬直しているのを見て、ハーフェイズが苦虫を噛み潰すような表情を、ベフランがすねてそっぽを向いているのを見て、ヤクタが笑っている口元を手で隠しているのは見ずに、とにかく急いで口を開く。
「ああ、大丈夫です、結構です。こちらこそサッちゃん、弟様にはお世話になりまして、えーっと、」
勢いよく、もっと低く頭を下げようとして机へゴチン!と額をぶつけた。慌てていたため、幸いにも武神流秘技・牢割り頭突きにはならず、高級な机を破損せずに済んだが、めまいを起こしてその場にへたり込む。
眼の前が真っ暗になっている所に、助け舟が割り込んできた。
「私、カーラン家の次女、シーリンと申します。私も危地を王家と牛神様のみ恵みによりお救いいただきました。篤い感謝と、変わらぬ絶対の忠誠を改めてお誓いいたします。どうか、お手をお上げください。」
*
「そうか。キミも、今は固くなることはないさ。シーリン嬢、キミも不思議な体験をしたそうだね。ヤクタくんに聞いたよ。
その辺を聞きたくて、押しかけてきたんだ。まずは、アイシャ嬢から聞こうか。なんでも、このべフランが珍しくも紳士にあるまじき振る舞いをしたらしいから、その処分についても話し合おう。」
おお、本当に話がわかる人だ。涙目で、赤くなった額を抑えつつアイシャは起き上がり、アスラン王子と目を合わす。
「ときに、サディクから書き付けを預かっていないかい?」
「ヒェッ!」
アレのことか。多分アレのことだろう。絶対に失くすな、と言われて肌身離さず持っている、革袋に入った『おうちのかたへ』の置き手紙を懐から取り出し、第1王子に差し出す。
「真っ赤になって震えながらお手紙を手渡ししてるのって、恋文みたいだね♡」
「他人宛なのにな。まぁ、顔は似てるか?」
許さない、自分を妻に迎えたいと書いてある手紙をその兄に読ませる羞恥プレイに悶えている気持ちを全部知りながら横でせせら笑う仲間たち。
しかも今、スカート丈が短い。上は貴人を迎える用の高級スタイルが間に合ったが、下はまだだった。王子と武人は先にヤクタを見ているのでいまさら反応はしないが、それはそれで自分だけ勘違いして恥じらっているかのようで腹立たしい。スカート丈もこの2人の発案だ。ヤクタはともかくシーリン、どうやって売ってやろうか。真っ赤な、子供じみたふくれっ面で昏い思念をめぐらす。
その機会は、予想外に早く訪れた。
手紙を渡され、ニヤつきを隠そうともせず読み終えたアスラン王子、実に嬉しそうに隣のハーフェイズにも読ませる。渡された武人は眉間のシワをますます深くするしかめっ面だが、王子はその顔も面白くてたまらないように声を上げて笑い、続けて言う。
「なるほど。さまざまのこと、承知した。あの、“女なんて下らん”が口癖のようだったサディクが、良い出会いをしたようだ。べた惚れじゃないか。アイシャ嬢、キミはどうだ、いや、僕に言わなくてもいい、本人に言ってやってくれ。
家庭的には実に喜ばしいことだ。政治的には、数十人の血が流れるだろうが、家庭が優先だな。それはいいのだが、キミがそんなに強いという一点だけが理解できていない。
申し訳ないことだが、一手、このハーフェイズと手合わせして、その力を見せてくれないか。」




