62 男
襲いかかってくるシーリンちゃんを取り押さえて肩、膝関節と首を極めている間にヤクタに紙をスッと奪われちゃった。
「なお、いずれ…あぁ、ここだ。妃。妃って書いてあるぞ! そうだろうシーリン! どういうことだアイシャ! 責任を取られるようなことをされたのか!」
「むが。きゃー!アイちゃん、王子様のお妃様になるの! きゃー! うぎぎ。」
「ひゃあ! いや、王子様はわたしのことなんて、かわいい顔の猟犬くらいにしか思ってないよ絶対! だって、そんな、“ダンスしませんかお嬢さん”とか、“おもしろい女だな”とか、“あの婚約は破棄する”とか言われてないもの。」
「“かわいい顔”は、猟犬でも譲らねェのな。」
「わたしのアイデンティティだからね。」
「落ち着いてアイちゃん。ぐもっ、落ち着いて、せめて首を放して。」
騙されちゃいけない。王子様、サッちゃんとは友達になったけれど、ロマンティックな視線を感じた記憶はないし。騙されちゃいけない。あんな、偉そうなのに弱くて負けただけで見苦しく落ちこんで敵から景品扱いされるほど軽んじられるザコで、物言いが押し付けがましくて家来をあっさり見捨てて、ボサボサ頭で目の下にクマ作ってるのにいい匂いがして、振る舞いに品があってキレイで、部下に指示を出す姿は案外に凛々しくて、照れちゃったら可愛かったり…そうじゃない、違う違う。あれは何か貴族の間で通じる言い回しに違いない。好きだ・愛してるなんて言われたことないから、言われたらすごく意識しちゃうけれど、まだ言われてないから。騙されちゃいけない。
「ねぇそうでしょうシーリンちゃん!」
「待って落ち着いて首を放して。……ふぅー。省略せずに全部話してごらんなさいな。何が“そうでしょう”なのかわからないわ。」
*
「これが暗号とか上流階級の隠語ってことはないわよ。書いてあるとおり、断られるとは微塵も思ってない求婚だね。すごいよアイちゃん。誰もが憧れるロードピス姫のお話みたいじゃん。何がご不満なの?」
「顔が好みじゃない。あと、弱い。頼りない。」
「………。」
「……。」
「…。」
「まァ、そう言ってしまえば、とんだヘッポコ野郎だな。」
「……幸せの保証がないんじゃ、詐欺かもしれないわね。」
一瞬、沈黙の幕が下りた後、苦笑交じりのフォローを受けるわたし。
「あれだけ偉そうにしてたクセに、一発で負けた上に捕まってたのには笑ったな。」
「そういえば、アイちゃんがパパさん探しに帰るって聞いたときに、ママがいなくなるぅ―みたいな情けない顔してたわね。」
「そ、それは言いすぎだよ! 偉い人には、それなりの、知らないけどなにかがあるんだよ! きっと……わたしも急だったからロマンチックな告白とかも時間がなかったから、次に会ったときにしてくれるよ!」
ヤクタもシーリンも、なぜだか調子に乗って聞くに堪えない酷いことを言い出すので、つい、サッちゃんをかばうようなことを言ってしまったのだけれど、なによ、「ふぅーん」って、そのニヤニヤした顔。べ、別にそんなんじゃないんだからね!
灰被りのお姫様ではないけれど、実際、王子様に見初められたなんて話には否も応もなく心ときめいてしまう。そりゃあ、そうでしょう。好みではなくても整った顔立ちはしておられますし?
でも、求婚云々の前に、少なくとも、恋心をささやきあうような? そんな何かは必要だと思いませんか、シーリンちゃん! ヤクタの考えはどうでもいい!
「結婚って、就職と同じだから条件が7割合うなら即断でやったほうがいいわ。愛は後から育めば十分よ。わたしの結婚話は4割も合わなかったから見送ったけどね。」
思いもかけず、真顔の返答。それでもなァー。まだ早いよ。お父ちゃんにこれ見せたらなんて言っただろう。やっぱり、まだ早いよって言ったんじゃないだろうか。うん。
「わたしには、まだ早いね。」
シーリンちゃんは、手紙をペラリと畳んで巾着に押し込むわたしをお化けに会ったような目で見るけれども、ヤクタは相変わらずヘラヘラと、
「豪儀な話だよな。王子様をキープしておいてプー助みたいなのに色目を使ってるんだから。まったく、惚れるぜ。その生き様に。」
惚れちゃう!? あ、生き様に? わかりにくいね。
あと、プーヤーくんは違うからね。過去の、っていうか未来の因縁だけの話で、ちょっと好ましくは思ったけれどそれだけで、ラブとか結婚の話では全然無いからね! 世の中、何が足を引っ張りに出てくるかわからないっていう勉強にはなったっていっても、二番目様ことジュードのおっちゃんの二番煎じみたいな小ネタだし。…そういえば三番目の人って誰だったんだろう、もう見たことあるのかな。でもなるべく知らないでこの人生を済ませたいな。さすがに、もうネズミ婆の人生とは関わりも無くなったんじゃないだろうか? いろいろ変わったものだよね。
…まあ、いいんだ、そんなことは。
要は、この書付のハンコを見せれば、偉い人たちが便宜を図ってくれるというのでしょう、わたしが偉くなるための。それなら、辺鄙なところでまどろっこしく働いでないで、行きましょうよ、王都。
“太陽の牛神の塔”が輝くという噂の大都会、ファール・ザフルへ。




