213 船旅ふたたび
昼過ぎに出航し、ヴェイン川を下る。予定では明日午後には支流に乗り入れ、アルタリ河に出る。そこから河を上って、以前、十字軍を率いて船出したワシーリ湊、その手前で降ろしてもらう。で、4日かけて王都に入ることになっている。
領都から王都まで馬車の旅なら5日、あの時は半日遅れで5日半かかったことを考えれば、船旅はのんびりに思えてやはり速い。
夕食は適当な港に寄ってじゅうぶんなものをいただくことも出来るが、今回は旅の糧食を買い込んでいた。船員たちには申し訳ないが先を急がせてほしいと頭を下げる可憐な聖女に、むくつけき賊どもは意気高揚と仕事を進める。
味気ない、干し肉を雑に煮た料理とも呼べないスープをすすりながら陽の落ちた暗い船室で、アイシャは雨がポツポツと天井と叩く音を聞いている。
「わぁ、川に入ったとたんに雨だよ。ヤクタ、日頃の行ないが悪いんじゃないの?」
「いや、アタシの行ないが良いはずはないけどさ。アイシャのだって大概だぜ?」
悪天候という、ほぼ運任せで個人の努力でいかんともしがたいテーマでは、普段からのろくでなしたちも誰かしらのせいにしたがるのは人の自然な情だろうか。
「そうさな、行ないが悪いのはシーリン。オマエ、アレがバレないと思っちゃいないだろうな。」
「な、何かしらぁ。とぉんと、心当たりがないわぁ。……どうせ出来ることがないんだから神頼みしましょう。牛神様、カムラン神様、程々で雨を止ませたまえー…」
*
呑気なノリで夜を越し、翌朝は大雨が叩きつける暴力的な轟音で一同は目を覚ます羽目になった。
「おォ、川の流れが速えぇ! どこまでも行っちまえ!」
ヤクタは外で喜んでいるが、ほかの者は顔色を青くして船室で小さくなっている。アイシャはケロリとしたものだが、海の船の深く傾いていくのとは違って、喫水の浅い川船は跳ねる。
おおっと。よろめいて床に手をつく。雨が船室にまで流れ込んでいて、手と寝間着の膝が濡れる。
むぅ。これは、何のせいにしたらいいの。頬を膨らませて周囲を見渡す聖女の耳に、外で喜んでいる耳障りな声が入ってきて、八つ当たりのターゲットが定まった。
この期に及んでも、アイシャは事態を舐めている。海で、嵐で、船が壊れたら死ぬ。でも、川じゃん。向こう岸も遠くないし、大丈夫!
船室の扉を開けた彼女に降り掛かったのは、滝のような大雨。痛い。圧がすごい。そして眼前に広がるのは、濁流の瀑布が水平にほとばしるかのように荒れ狂う川。これは、無理だ!
さらに、一瞬の硬直を狙ったかのように轟く雷鳴。さらにさらに、押し寄せる轟音と船が反り返るほどの衝撃。少女の体は軽々と宙に舞い上げられてしまう。
「…岩場に乗り上げ…!!」「…が落ちた!!」
必死に叫ぶ船員の声が豪雨にかき消されながらも遠くに聞こえる。
足が床から離れたことは把握できている。天地がぐるぐる回っている自覚もある。このままでは、あの激流のなかに放り出されてしまう。だが、この瞬間にも雨が前後左右から叩きつけ、とにかく気を落ち着けるヒマがない。
天の助けか、不意に足首を掴み、ある方向へ引き戻される力が働いた。
なにか叫ぼうと口を開いても、激しい雨が喉を打って発声どころか息ができない。悶えつつ、引っ張ってくれた人の大きな胸に包みこまれる。
「危ないだろうが!!」
「ゲハッ、ヒュー……けふっ、はひゅ……ヤクタ、助かったよ…」
「あンだって!! 聞こえねぇよ!!」
助けたのは八つ当たりを当てるつもりだったヤクタ。わけもなく「ごめんね、ごめんね」と泣きじゃくるアイシャを抱えながらも持て余し気味にしていたその時、異音が嵐の音にも負けず響き渡る。
めきめき、ばりばり、ばきばき。
「船が裂ける!!」「おしまいだ!!」「聖女様!!」
船員たちが身も世もなく嘆く声は、ひとつの糸口をめがけてまとまっていく。
「聖女様、お助けください!!!」
それに対して、まだ現状把握が間に合っておらずぼんやり鈍い視線を向けるアイシャ。先ほど大きく船が跳ねたのは、激流に乗った速さのまま岩に乗り上げたためだが、これが船体に与えたダメージは甚大で、そのまま船は今にも分解しようとしている。
さらなる運命の害意。前方から流木が跳ねて、巨大な丸太の如きそれが空中からアイシャたちに向けて、まるで意思があるかのように襲い来る。
「なんだっていうのよぉー!!」
いきなり理不尽な目にあわされ、急にキレた少女が飛来する流木を素手の片手で跳ね飛ばし、かえすもう片手で光を発する。
大木を跳ね返した衝撃が船には致命傷となり、船体は四方に裂けていこうとする。それらを光の糸が繋ぎ止め、さらに細かい糸が編まれ、包みこまれていく。
船団の船それぞれが光の繭に封じられ、濁流のすこし上を滑るように、転がるように進む。そうして、予定よりずっと早く支流との分岐点の港町に流れ着く。
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ようやく雨が止んだが、川はまだ恐るべき濁流。災害が起こるとしたらこれからかもしれない。川港町の住人は厳しい警戒のさなかだ。
その川の奔流に乗って、ぼんやり光る複数の球体が近づいてくる。
アレはなんだ、と町の人々が危険も忘れ、身を乗り出して光の繭を見守る。
ふと、それは解けるように激流に耐える桟橋の柱に糸を伸ばして、しがみつくように陸地に寄ってきた。
繭に包まれていたのは、痛々しいほどに破損した船。そこから船乗りたちと乗客らしい身なりがいい男女、馬などが、繭を編み直して橋になった道を歩いて上陸してくるが、その多くは陸地に足をつけた時点でへたり込んだ。
なかでも異彩を放つのは、いちばん年若い少女。足腰は立たないらしく大柄な女に抱きかかえられているが、妙にテンション高くピーチクパーチクとヒバリのように絶え間なく喋りっぱなし、仲間をうんざりさせている。そして、ずぶ濡れの寝間着のまま薄く光っている。
とにかく、保護して話を聞こう。重役を呼んでこい。
人々が漂着者を出迎えに走り回り、重苦しかった港町がにわかに活気づいた。