205 後片付け
重たい空気が満ちている。おっちゃんは平謝りしながらお爺ちゃんの体を抱えて去っていった。
さて。と顔を上げると、押し寄せてきたはずの患者さんたちがビクッと一歩ずつ下がる。本当に失敬だ。けれど、1人が決死の面持ちで立ち上がった。
布屋のおばちゃん。昔の怪我で左手の動きが不自由らしい。知ってる。古い馴染だ。そういうのなら問題ない。さっそく、治しちゃおう。
切れて変なふうに固まった筋をほぐして、ほどいてキレイにつなげ、しっかり補強する。おばちゃんは痛みこそ無くても異様な感触に阿鼻叫喚の悲鳴を上げてもがくので、爺やに抑えてもらう。
結果、すっかり子供時代のように動くようになって感激、感謝してくれた。
じゃあ、次。いない? そう。いないなら、これで終わり! お家から出てってね!
*
考えてみれば、タダ働きになっちゃった。代金を考えてなかったわたしも悪いけれど、みんなもちょっとヒドいよね。
そもそもこの町では聖女を尊敬する文化が薄いので、近所の役立たずで有名なガキが玉の輿に乗れたくらいのイメージなんだろう。そのラッキーに参加してあげている!なんて気持ちさえ透けて見える。みんな、悪い人じゃないんだけれど、田舎の人って自分と他人の線引きが曖昧なんだよね。
なんだか、せっかくのお家までも落ち着かなくなってきた。仕方ない、任務の地・イルビースに行っちゃおうか。これ以上まったりしていても、シーリンちゃんを待たせる事になっちゃう。そうだ、それはいけないことだ。かわいそうだ。
そうだそれがいい、ヤクタが帰ってきたらそうしよう。
心を決めて、さあ、それなら昼食の準備をしようと思ったら食材がない。買ってこなくちゃ。でも、いま、市場に行くの?自分で? ちょっと無理。
って思ってたら、ちょうどヤクタとジュニアが帰ってきた。どこに行ってたの。って聞いたら、酒場の詩人と雷獣ヤクタの伝説の詩歌を作ってたのだとか。
さわりの部分を聞かせてやンよ、って自分で歌って、それがまた腹立つことにカッコいい出来。
まあ、これが完成したならばこの町に寄った甲斐があるというものだろう。ラナちゃんをがっかりさせるかもしれないけれど、なるべく早く出発しよう。
「オゥ、行こうぜ。昼飯は買ってきてやってるし、晩飯は森で鹿か何か狩って喰おうぜ。」
すごい、それがいい。行こう、行こう。
そういうことになった。
今回の実家滞在はもともと一時的なものの予定だったので、出発の準備はすぐにできる。
家の鍵は、また隣のおばちゃんに預かってもらおうとしたけれど「もう、アイシャちゃんが持っておおきよ」と言われては、それは確かにそうなので、自分で持つことに。ちょっとよくわからない寂寥感がある。
馬ちゃんたちは近所の空いた馬小屋を利用させてもらっていた。爺やがテキパキと準備をこなしてくれる。
町に入った朝とは服装が質素になっているだけの違いで、町の反対側から三たび、領都イルビースを目指して出発だ。
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夏の昼下がり。乾いた熱風がわずかに草の香りを運んで、軽い夏服の裾を揺らす。
山は遥か遠く、地はなだらかな起伏のままどこまでも広がっていて、真っすぐ伸びる街道がやがて森の側を抜けて、陽炎に揺れながら空に溶けていくまでが遠望できる。
アイシャが手習い時代に聞いた話では、森が広がらずに草原ばかりの地形は、そもそも大地の力が森になれるくらいには無いらしいということだ。
先日の戦場など東の方の荒れ地は、かつて無理に畑にしようとして耕し、結果、石ころと砂ばかりの大地になった後に地面に塩が吹き、遂には一帯に栄えた古代帝国が滅びた跡なのだとか。現在、軍備が必要な西の方でも、生産力を上げるため羊飼いを増やし、やっぱり荒れ地にしてしまったらしい。
東フィロンタ領の方では草原を回復しようと手を打っていたのに、戦争で全部ダメになっちゃったとシーリンが憤っていた。あの戦場の荒れ地具合は目を覆わんばかりだとアイシャも怒る。
そうだ、マイ神力があるなら、アレをなんとかするのも元・超☆聖女の仕事としてアリかもしれない。やはり草原はいい。荒れ地は人の心も荒ませる。
考えるだけなら、アイシャの将来への展望は無限の可能性をもってどこまでも膨らむ。
足元に伸びる一本の街道を、最初は父に手を引かれてトボトボと歩いた。次はヤクタとシーリンを連れて身軽に、今回はいまの一行でそれぞれ馬や戦車に乗って道を急ぐ。
「姫様、せっかくですから乗馬の訓練をなさっては?」
「もうちょっと涼しくなったらね。」
「それ、なんだかんだ言って一生やらないやつじゃん。」
馬が蹄の音を鳴らし、車輪が軽快に回り、人は他愛もない会話を交わす。森が近づいてきた頃、時ならぬ雷鳴のような轟音が響いた。
「うっしゃ、ウサギ一羽、ゲーット!」
「あーっ、ヤクタ、それいいな、銃か。俺にも使わせてよ。」
「もう火薬がねぇ。いまのが最後の一発だ。弾は2つ残ってるのに、おかしいな。」
無邪気なもんだ、と、言うことを聞かない子供が遊ぶのを呆れる母のような顔で軽いため息をつくアイシャだが、どう考えても役に立っているのはヤクタの方で、無邪気にぼんやりしているのがアイシャだ。
「そういえば、ヤクタさ、鹿を狩るっていってたけど、銃が弾切れなら、弓矢はあンの?」
「ない! 見つけさえすりゃ、アイシャが走って捕まえるから大丈夫!」
「ひでぇ、人間じゃねぇ。」
ヤクタとジュニアが繰り広げる愚にもつかない無駄話に「ちょっと、あんたたち!」と咎めるような口調で混ざりに行く聖女だが、具体的にどう咎めたものか語彙が見つからないため、いまいち締まらない。
結局この日は、周辺を熟知するヤクタの案内で森の中の池のそばに野営地を定め、夜を明かすことになった。