204 回復の聖女 3
その夜の間には、もう馴染み深い実家に帰ってカチカチでペラペラだけれど心の底から安心できるベッドに横たわることができた。
「あれ以上居座ったって厄介ごとが降り掛かってくるだけだよ。逃げるときは一目散。いい判断だぜ。」
「さよう、さよう。ただ、逃げたというのは人聞きが悪い。留まる義理もないのだから、去った、とだけ言うべきですな。」
ジュニアがいつものちゃらんぽらんぶりでフォローしてくれるのはありがたくも普通だけれど、爺やまで同調してくれるのはちょっとびっくりだ。
ラナちゃんが半泣きで引き止めるのを振り切って「今度はラナちゃんがお家に遊びにおいでよ」なんて無理目のことを言って出てきたのが、わたしの小さな胸を痛めているのを気遣ってくれたのだろうか。
ただ、「眠いからお家に帰ります」と言った時のお役人さんの、こめかみをピクピクさせた愛想笑いが印象に残っていた。
「伯爵のスピーチの時に豪快に寝てたよな、アイシャちゃん!」なんてジュニアが言ってたけれど、眠りこけはしなかったはずだ、濡れ衣だ。
ヤクタは式典の間からどこかに行っちゃって帰ってこない。つくづく、自由な人だ。悪党相手を買って出てくれているのはいいけれど、どっちかというと離れ離れになってるより、何もしていなくても斜め後ろでニヤニヤしててくれている方が嬉しい。
ジュニアは、勝手についてきてるんだから役にたってほしいんだけれどね。この男も、案外油断ならない。
「なぁアイシャちゃん、あの元?町長さん、「もし万一のことあらば、ヤーンスは聖下の手足と思し召せ」なんて言ってたけど、どうよ?」
どうよって、なによ。ひょっとして、それも反乱のほのめかし?え、この国、反乱が流行ってんの?
「流行ってはいないよ、ありがたいことに、まだ。でも、国の支配者層ってのは、アイシャちゃんが思ったみたいに“あっちの国に呑まれてもいいや”なんて民衆に思われちゃ失格なんよ。
キミが思うようなことは王様の下の領主連中も同じように思ってるからね。トップは頼りないと思われたら終わりなのさ。
宰相は賢いからまだいいが、ヤツが留守にしてる間の王都の政治家連中がサディク殿下とキミをどう利用しようとしてどんなバカをしでかすか、想像もつかんぜ。
反乱したくなきゃ、気をつけろよ。」
なんと、ジュニアのくせに賢そうなことを言う。でも、結局「気をつけろよ」しか言ってないよね。
それより、彼には問い詰めねばならないことがある。
「気はつけるけれど。ジュニアはどうするのさ。一生ついてこられても困るよ。確かにヤクタはいい女だけれど、浮気してないで正妻のもとに帰ってあげなよぅ。」
「なっ、ナスリーンは関係ないだろ!」
「関係しかないでしょ!」
問い詰めたら、走って逃げちゃった。あちらも、前途ほど遠し。わたしも、彼も、どうしたものだか。
*
明くる朝、すっかり日は昇っているけれどもまだ早い時間のうちに爺やに起こされた。珍しい、いったいなぁに。
「町人たちが治療の技を聞きつけたのか、我も我もと押しかけてきております。姫様のお知り合いやもしれぬと思うと叩き出すのも如何かと……」
「あー、しょうがないね。身だしなみだけ整えて行くから、ちょっと待たせておいて。」
ヤクタもジュニアもいないので、朝から爺やが大忙しだ。わたしは姫様なので騒がず、慌てない。そういうのは得意だ。と、いうことにしている。
やって来た患者さんたちは、知り合いもいれば知らない人もいる。最初に並んでいた人は市場の八百屋のニマおっちゃん。特に親しい人と言っていい。彼が、そのお父さんだという痩せた老人を担いできた。
「アイシャちゃん、本当に、こんなこと頼めるのかい? 礼なら、なんとかするからさ……」
おっちゃんとお爺さん、彼らを次の患者さんたちと物見高い人が囲んで、奇跡を今や遅しと待ち構えている。
ニマおっちゃんには子供の頃から野菜を沢山おまけしてもらってきたからお礼なんかは必要ない。でも、全員の面倒は見きれない。どうしたものだろう。やっぱりお金か? うーん。
「まぁ、とりあえず診せてください。ご病気ですか、お怪我?」
骨折や食中毒に手間取ったのも今は昔、半神になったわたしなら何でもできるはず。そう思っていた時期がわたしにもありました。
ひと目、お爺さんを見て、冷や汗が吹き出す。
「寿命です。」
思わず、声に出てしまった。
たちまち、ざわめきが沸き起こる。おっちゃんも、お爺ちゃんも顔色が真っ青だ。落ち着いて、ね。
「死にたくない……死にたくない!」
ひと声叫んで、お爺さんは息絶えてしまった。それは、さすがにマズい。あわてて駆け寄り、彼の手を握って命をつなぐ。
「なにか、心残りがあるのですか? 奥さんが~とか、お孫さんが~とか。」
「無いよ。つれあいは憎たらしいし、伜の嫁は冷たいし、孫は見込みなしのクソガキさぁ。んでもな、死にたくはねぇ!死にたくねぇんだよぅ。」
困る。繋ぎ止めてはいるけれども、いまも彼の体は死んでいっている。誰だって、死ぬときは死ぬんだ。
「おちついて。心を安らげて、神様に委ねましょうよ。」
「治せねぇってのかこのクソヤブ!俺を殺すのか!あぁ、昔ッからテメぇは男に色目を使う以外ナンにもできねぇメスガ」「オヤジ!ナニ言ってんだ、いい加減にしろ!」
ニマおっちゃんがお爺さんを引き剥がして、暴れようとするのを抑える…までもなく、凄まじい形相でお爺さんは息を引き取った。
周囲は気まずい沈黙に包まれている。当然だ、治りに来て死にたい人などいない。来た人のほとんどはもう腰を浮かして、帰る準備をしてる。
わたしだって、ショックだ。
「男に色目って、わたし、そんなイメージだったの?」