178 序
いよいよ、決闘が始まる。
恰好良く決めたゲンコツちゃんにはひとまず場外に下がってもらう。
さっきは、いつも通りゲンコツちゃんと呼ぼうとして“シーリン”の名を広めないといけないことを途中で思い出して、半端に「ゲーリン」と呼んじゃって本気で怒らせちゃった。
相方が気難しくて困るね。
敵方も、騒がしい。
「アイシャお前、その武器は何だ。ふざけてんのか、舐めてんのか。」
「これに着目するとは、お目が高いね。前回刈り取った、大将軍様特製の笞だよ。怖いでしょ。」
表情をなくしてふるふると震えているマフディくんに向かって、髪束の笞“将軍丸”をひと振り。空気を叩き割る破裂音が音高く響いて、沸き起こった風が頬を叩く。
マフディくんは一瞬だけ驚いて、すっ、と狂戦士の顔になる。
こちらにはご納得いただけたようだ、けれども、向こうの遠くで騒いでいる人達がいる。なに、アレ。サウレさん。
[見ての通り、イライーダと、そのお供は北の国の使節どもなのよ。貴女がよりにもよって十字架に神力を、それも女が引っ付けてくるものだから、北の“魚の宗教”国の者が冒瀆だ瀆神だと騒いでるみたい。
それをイライーダが静めようとしていたところをね、貴女がその髪でからかうものだからもう皆で怒り狂って、収集がつかなくなっちゃった。しょうがないワ、始めます!]
あっちもあっちで、何をやってるんだか。放置だ。
相手とわたしとで、武器の先を軽く触れ合わせ、その先をサウレ神と武神が左右から抑える。このあと、合図と共に手が離され、決闘の開始になる、のだそうだ。
息が詰まる無言の時間が長く感じられる。急いでいるらしいのだから実際にはごく僅かな時間なのだろう。
武神さまからのアドバイスでは、よく見ろ、ということだった。
サウレ流オミード氏の言葉では、流派では後の先の守りの技が得意だということで、練習は結局ちょっとしかできなかったけれど、つまり相手をよく見る技なようだ。
さて、まずはどうしようかな。
そう思ったところで、神様の手が離れた。
[はじめ!]
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沈黙が、広がっている。両者、動きがない。
アイシャは、ただ見ている。外から見れば、少女はまだ自分が何をしに来たのかわかっていないのではないか、そんな感想を抱かざるを得ない、無防備とも思える立ち姿だ。
マフディは、戸惑っている。このまま踏み込めばそのまま突き殺せるのではないか。だが、彼は彼女を殺しに来たのではない。
狂戦士が構えている剣は、先日ハーフェイズから強奪した、その名も“天剣”。彼が今まで手にしたいかなる刃物よりも鋭く、勁く、魂が吸い込まれそうなほどに妖しい。
これを、突き込むのか。目の前の少女の顔を見て、剣を見て、今更ながら、本当に今更ながら、気後れを感じざるを得ない。なるほど、笞か。それも、良かったかもな。そう思ったマフディの目から狂的なものが抜け落ちる。
気持ちを立て直そうと、一歩引く少年、の隙を見逃す武神姫ではない。動作の起こりの先の先をとって、更に大きく踏み込み、戦士の意識さえ追いつく前に、笞を振り下ろす。
弾け跳ぶ。革鎧の左肩が、刹那の時間遅れて、空気が、そして戦士の足元の舞台が砕けて、破片が弾け跳ぶ。
「いまのは、ヤクタのぶんのお仕置き。いやぁ、頑丈だね。次はシーリンちゃんをいじめたぶんと、十字軍の仲間を殺したぶんも受けてもらうよ。」
「ハハッ! 舐めてたのは、俺か。スマン、これから全力でやるから、死ぬなよ。」
少年の目に、再び、いやそれ以上の狂気が宿る。
*
観衆の眼前に、地獄の釜の蓋が開いた。
噴き出す炎、沸き立つ稲妻、渦を巻く黒煙。舞台は粉砕されて槍衾のように幾重にも重なる刺々しい姿へ形を変えた。
その合間を縫って、ひらひらと踊るように垣間見える白い影。それを追う黒い影は緑や紫色の炎を身にまとい、まさしく聖と邪の邂逅を思わせる。
直線的に追う狂戦士の姿は、時折、唐突に消えて別の位置から現れ、聖女を執拗に追う。その影の間を蝶のように、燕のように自在に飛び回り、時に逆撃の痛打を加える白い姿。
ファルーサ兵だけでなく、オーク兵さえ、誰もが痛いほど手を握り、血が出るほどに歯を喰いしばり聖女を見守る。その“白”の攻撃が入るたびに、ワッと歓声が響き、それが決め手に届かないことを悟ると失望の嘆きが広がる。
陽は既に高く登り、灼熱が大地を焼く。しかし、それに気を向ける者は誰もいない。
サディクは滝のように流れる汗を拭いもせず、宝剣の柄を握りしめる。もし決闘に不正が見つかれば、即座に全軍突撃を命じる準備はできている。この剣を抜いて一声叫べば。だが、アイシャが「任せた」と言ってほしい、そう囁いた声が耳に残っている。
ただ、己の無力に苛まれながら、知る限りの神の名に祈る。
イライーダにとって、この茶番はとても許せるものではない。
堂々戦うにせよ、ただただ踏みにじるにせよ、儀式など不要。実行あるのみ。そんな彼女がこの事態を認めているのは、屈服に他ならない。サウレと名乗る異教の神。神代の昔であるまいし、軽々出歩いて人の営みに口どころか手を出す存在など、今の時代にあって良いものではない。
聞けば、あれらはこの国の神にまつわる神同士の戦いの余波であるという。であればこそ、この国の中心に座する“太陽の塔”、北の魚の信徒が呼ぶ“糞蝿の山”、それは、破壊せねばならない。この世界は人間のものだ。
頭巾を払い除け、短くなった髪に風を通すと意外なほどの清涼感を感じる。今はただ、傍らにいるべき愛する妹を失ったことだけが哀しい。
あっ、と、敵も味方も、この場の全軍が叫んだ。
聖女が、堕ちる!




