155 グリゴリィと、うだうだアイシャちゃん
「グリゴリィさん…?」
かすれた、力のない声が闇の中から漏れた。
いつもの、元気があふれて吹き出ているような声色からは考えられない、小さく震える、今にも消えてしまいそうな音だ。
ヤクタは「ワカンネ」とうつむき加減に首を振っている。
戸惑う少年に向かって、闇の中から手が伸びてきて、さわれ、と誘うようにニギニギと動く。
白い、小さな手。細く、短い指。まるで、小さな子供の手だ。
移動中の対話で何度か手を繋いでいたが、キビキビとよく動く印象のなかでこんなに非力に見えたことがグリゴリィにはなかった。
彼にとって、アイシャは敵だ。彼女との戦いによって、少年の今までの人生は完全に蹉跌。未来の望みはほぼ絶たれた。敵といってもただの敵ではない、怨敵といってもいい。
しかし、その彼女の、無邪気な笑みをたたえた澄んだ大きな瞳をまっすぐに向けて来られると憎しみを持ち続けることは難しい。
そもそも、忌むべき侵略者の手先となって他国に不幸をばらまきに来た後ろめたさを思えば、こちらが怒ることこそ道理に外れている。
それでも、皮肉な思いが胸を刺すことがある。学園時代、同級生からよく「お前は、顔がいいからな!」と嫉みをぶつけられ、そんなことを言われてもしょうがないじゃないか、とふてくされていたものだ。
だが、アイシャを見ていると、憎みきれないときや、大人の男たちにチヤホヤされているのを見て、「顔がいいからな!」と、つい口をつきそうになる。
もちろん、恥ずべき八つ当たりの感情だ。奇妙なことだが、むしろ、このことはグリゴリィにとってアイシャに同志的な親しみを抱かせる原因になった。
その、か細い小さな手が震えている。
いたましい。そう感じた少年の心に写っているものは故郷に残してきた婚約者だったかも知れないが、思わず駆け寄ってその手を手にとる。
「わたしは、死んだら地獄に落ちるよ。」
不吉な言葉が耳に入って、ハッとした意識に映像が流れてきた。
夜の森で、男は眉間に刺さった棒を寄り目で見ながら見当違いの夢を見ながら息絶えた。霧のなか、男はすべてを諦めた穏やかな顔で倒れた。路地裏で、男はいやらしい笑みを浮かべたまま自分が死ぬことに気づきもしなかった。
華麗な天幕の地下で、待ち伏せていた剣士は病の妻の幸運を願った。燃えさかる戦場で、兵士は母の名を最後まで呼びきれなかった。船の上、炎に包まれた兵士はこの世のすべてを呪った。
秘書官に刺し貫かれたメレイ総司令は「迷惑をかける」と最期に詫びた。
そして、偶然に与えられた力を振るって無軌道に他人を傷つける少年の、怒りに満ちた顔。
……これはひどい。少年は、自分の手の中の小さい手をいたわるようになでる。
こんな運命を押し付けられていい人間には見えなかった。蝶よ花よと、平和に笑顔のなかで生きていく、そんな人生をあげられなかったものか。なにせ、顔がいいからな。
つい、皮肉な言葉が顔を出してしまうほどには少年も辛い人生を送っている。
不遇感。挫折感。そういうものに支配された半生だった。客観的には、人も羨む人生に見えるかも知れないが、どう感じるかは人それぞれだ。
故郷は、侵略者に征服された国だ。政治家は精いっぱいに上手くやったらしいが、あらゆるものが不足していた。いちばん足りなかったものは、幸福だ。幸福を感じることに必要なものは、誇りだ。征服された国の民には、それが欠けている。
魔導騎士学園で三位の成績は誇れるものではなかった。ニ位までは内勤の座を勝ち取れるが、三位以下は侵略者の手先となって東奔西走する消耗品。
現に、戦時で繰り上げ卒業を余儀なくされて4年、同期で生き残っているのは三位の自分と六位、七位の3人のみ。快進撃を続ける帝国の栄光の陰ですり潰される部品であることを強いられているのだ。
「特段、貴女が地獄に落ちなければならないほどの何事かがあるとは思えません。この国の神が、そう仰るのですか。」
いくぶんかの義憤を込めて、いつもよりすこし強い調子でグリゴリィが問う。
「神様はわたしの弱さをせせら笑ってると思う。自分自身が、辛くて、もう無理。
オーク族だから、人じゃないから大丈夫って自分に言い聞かせてきたけれど、そんなワケないこともわかってたし。もう戦いたくない。殺したくないし、殺されたくない。」
アイシャとグリゴリィの間には手を繋いだ“気”を通しての会話で意思が通じているが、普通にアイシャは声に出してもいるので同室しているヤクタにやゲンコツちゃんにも話は聞こえている。が、映像の記憶は共有されていない。
その2人にとっては、仕事の大詰めのいちばん肝心なところで何かにビビって突然ワケのわからない逃げに入っているようにしか見えないのだろう、イライラ、ピリピリムードがヤバい。
危険な雰囲気を察知して、少年は話題をそらす。
「私は、囚われの身で妙なことだが、貴女には感謝もしている。
命を助けてもらっているのはもちろん、魔法の我々が知らない使い方を見せてもらっているのもありがたいし、いろいろなことを考えるまとまった時間もずっと得られなかったものだ。
…そんなこともあるから、地獄とか呪いとかを気にするのは後回しにしていいのではないだろうか。
……もし、また辛くなったら、私ができる間なら、いつでも話を聞くから…。」
不器用な呼びかけに応えて、ベッドの隙間の闇が少し大きく開いて、熱っぽい声が響いた。
「ちゅー、して。
してくれたら、なんでも言うこと聞いてあげる。」