151 マフディ
朝、1人の少年がサディク軍の陣地の柵を無造作に乗り越えて数歩を過ぎ、どっかりと座り込んで一言、叫んだ。
「アイシャという女を連れてこい!」
鎧兜も身に着けない粗末な平服姿で、剣ももたない丸腰。体つきは中肉中背ながら、戦士たちの中ではひ弱にさえ見える。
顔立ちは整っているように見えるが、汚れていて印象はみすぼらしい。
陣中では下っ端の歩卒に至るまで、アイシャの名を噂に聞かない者はいない。だから、というわけではないが、薄汚い小僧が呼びつけられる女性ではないことも誰もが知っている。
いつの間に迷い込んだ頭がアレなガキだ、さっさと追い出せ。
2人の兵士が左右から、座ったままの少年の肩をつかんで、引き起こそうとした。そして、座ったままの力任せな反撃を受け、宙に舞う。
「ま、まさか、狂戦士!」
理解を越えた光景に、ま新しいトラウマが刺激される。
「マフディが、アイシャを呼んでいる!そう伝えろ! 皆殺しにするぞ!」
狂戦士マフディの一喝に、兵たちが慌てて走り出す。やがて、彼1人が遠巻きに包囲されるなか、1人の大男が現れ、少年の前にずかりと座る。
「某が、聖女アイシャ様率いる十字軍の軍団長を務める、ハーフェイズである。
姫聖女様はお休み中であるため、言い遺すことがあれば、某が聞いておこう。」
「…? 俺は、お前たちの言葉があまり得意ではない。俺が言いたいことは、伝わっているか?」
「伝わっているとも。アイシャ様から、お主は以前、すれちがった程度の知り合いだとは聞いている。それくらいで何故会わせてもらえると思ったか、阿呆。某が退治てくれよう。」
話が通じないわけではないが、噛み合わないということは珍しくもなく、よくある。
この場合、昨夜暴れそこねたハーフェイズに端から対話の意志が欠けていることがひとつの問題だが、マフディ少年のアプローチも普通に良くない。
*
少年にはまだ何か思うことがあるのか、渋々、言葉をつむぐ。
「あの女は、たった1人で“百万のメレイ”をアテもなく訪ねてきて、悠然と目的を果たした。
卑怯卑劣だったが、恐るべき強者のみがなせるふるまいだったことは間違いない。ならば、俺も1人で訪ねる。」
アイシャのことを話すと見て、ハーフェイズも今更ながらに話を聞く体制に入る。
「メレイは1人のアイシャに会ったが、アイシャは1人のマフディに会えないというのか?」
「…そういう割には、昨日は大暴れして違う女を追い回したそうじゃないか?」
「アイシャが居るとは思っていなかったからだ。我が神には[戦うべき相手を見つけて戦え]としか告げられていない。アレも、無関係な女ではなかっただろう。」
マフディは言い訳がましく口をとがらせて話すが、関係者・ハーフェイズとしては衆人の前で続けたくない話だ。若干あわてて、話題をそらす。
「そうか、某もカムラン神より託宣を受けていてな。邪神の使徒を倒せと。どうだ、お主の戦う相手には不足かね。」
“天剣”が、闘気を充足させていく。取り囲んで注視している兵たちが固唾を呑んで見守る。生ける伝説と、昨日の悪夢が地べたに胡座をかいて向かい合いながら、一触即発の空気を周囲に満たす。
が、少年はその“気”を受け止めず、周囲に散らしてしまう。
「あんたの相手をしても、俺に得るものがないな。」
「…と、いうと?」
「昨夜までは、言われるまま戦っていた。だがな。
アイシャは、美しい顔をしているだろう。俺も、美しい顔をしている。年齢も近い。
お似合いだろう。あいつは、我が神が俺のために選んだ女だ。」
「痴――れ者がッ! 素っ首刎ね落としてくれる、そこになおれ!」
叫び声を上げながら、“天剣”必殺の横薙ぎの一閃が走る。
正確には、「痴」と発すると同時の剣撃だ。
この時、アイシャはようやく寝床からミルクスープに口をつけて、案外おいしかったから時間をかけていただこうと思っていた。
*
人間の目には決して捉えきれない速度の斬撃が、座ったままの狂戦士の首に吸い込まれる。
が、剣は振り切られず、半ばで静止した。
マフディの肩とアゴでガッチリと剣が挟み込まれ、太くもない首の筋肉が鋼の鎧のように受け止めている。それだけならば体重の問題で少年は吹き飛ばされていただろうが、あぐらのヒザを踏ん張って、地面をえぐりながらその場で耐えている。
もともと、容易ならぬ敵手であると見ていたハーフェイズは驚かず、ためらわず、即座に次の一撃を放つ。
右手に封じられた剣を持ちながら、左手に剣の鞘を持ち替え、敵の脳天に打ちつける。叫び声としては、このときに「がッ」と発している。
狂戦士マフディとて余裕はない。正面の巨漢からも、性質は異なるが神力のようなものを感じた。この男なら昨日の自分と同じくらいの働きはやってのけるだろう、と思う。抱いている感情の何割かは、恐怖と名が付く種類のものだ。
厄介なことになった、アイシャと対する前に消耗は最低限に抑えたい。少年は内心の焦りを隠して、皮肉な笑みを保つ。
マフディは鞘の打撃を額で受けつつ、剣先を肩とアゴで挟んだまま、立ち上がりざまに横へブンと振る。
予想外の方向に異常な力で振り回されたハーフェイズはいったん剣を手放し、振られた方へ自ら跳躍して距離を取る。
そのまま、近くにいた兵士から剣を借りて、切っ先を突きつけながら「素っ首~」以降を発言。この間、やはり常人には追いきれない速度でのやりとりだ。
“天剣”の名が示す大業物の名剣は今、少年の手の中にある。
空間が歪んで見えるほどの濃密な何かを周囲に充満させて睨みあう時間は長く続かず、再び剣撃の音が兵士たちの耳を打った。