144 狂戦士
「ひえぇぇーっ!」
「お前か! ―― お前だろう! ―― お前だ !! 」
理屈に合わない、意味がわからない。シーリンは本気泣きでわめきながら、カムラン流の華麗なフォームで走る。狂戦士がわき目もふらずそれを追う。
敵陣に命がけで襲撃をかけてきたのなら、敵の総大将の命を最優先で狙うべきだ。そうでなければおかしい。なんで、総大将を歯牙にもかけず無視して、事務員の女を狙うのか。
天幕を飛び越え、後ろ足で逆茂木を追跡者めがけて蹴り飛ばし、森に逃げ込んでひらりと大木に駆け登る。夢中で逃げているので、その行動が普通でないことは意識の外だ。
追跡者は不格好に手間取りながらも、一足で飛ぶように走る速さはシーリンに勝る。あるいは手をついて4本足で走り、獣のように森を駆け上がり、跳び渡る。
樹上から華麗に飛び降りる獲物を追って頭から落下し、一瞬先に地に伏して、周囲の大木をなぎ倒してシーリンの逃げ道を塞ぐ。
追い詰められたかに見えるシーリン。いま、背を向ければたちまちにその背を斬られる未来は確かなものに感じられる。しかし、戦えばどうなるかの未来がわからない。脳裏に浮かぶのは、負傷して痛みにうめく昼のヤクタの姿。怖い。不確かな未来に踏み込めない。
「貴方はだぁれ? なぜ、私を追うの?」
震えを押し殺して、精一杯の勇気で問う。
「我が神が、技をつかう戦士、との戦いを、望んでいる。」
時間稼ぎのための問いだったが、こちらの言葉での返答があった。想像以上に若い、張りのあるいい声だ。そして、その内容はといえば。
「それ、絶対、人違い。その娘、明日来るから。だから、私はもう帰ってもいいでしょ?」
「だとしても、お前も、gwerriera mirakluだ。ここで死なせておく。」
わからないことを言うが早いか、狂戦士が正面から迫ってくる。
よく見れば、力が強くて早いだけで、もし早さが半分なら全然大したことがない。カムラーン流の奥義と、鍛えれば鍛えるだけちゃんと筋肉がつく体質のシーリンなら、本来じゅうぶん対処できるはずの相手だ。
ただ。闘志、血気、名誉欲、そういったギラつくものに欠けるシーリンにはそこだけが怖くて仕方がない。結果、ジタバタと転がりまわってものすごく無様な、情けなく逃げ回る姿を晒している。
100を数える間に泥まみれ、服もカギ裂き・破れだらけの無残な恰好になってしまう。
しかしそこから粘りに粘って、もう時間の経過は両者ともわからなくなったが、月は大きく傾きはじめている。
シーリンは髪をバラバラに振り乱し、体は半裸の有様、震えながらも息は乱れてもいない。一方の狂戦士は肩を大きく揺らしつつ、何らかの苦痛を感じているのか、顔をしかめ、滝のような汗を流す。お互い、まだ有効打はない。
ふっ、と、後方から虹色の光がわき起こり、空を七色に染めた。
「アイちゃん、来たんだぁ! 助けてぇ~!」
特に根拠はないが、ワケの分からない唐突な神秘の起こるところには彼女がいる、はずだ。目の前の戦士が驚いたわずかな隙に、脱兎のごとく光の方に逃げ出すシーリン。
“狂戦士”は無表情に、光と、そちらに向かって走る獲物に目を向ける。
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不意をつかれて逃げられてしまったが、辺りは真昼のように明るい。朝の銃撃で受けた頭の内側のダメージがぶり返し、ひどい頭痛で視界がぼやけているが、ここであの敵を逃がす選択肢はない。足に力を込めて、駆ける。
僅かの間に10歩の距離を稼がれた。しかし、これなら追いつける。踏み出す足が地をえぐり、蹴り出す足が地を割る。10歩の距離は、すぐに9歩、8歩、7歩、6……
ふっ、と、光が消えた。
十字の輝きを目標に据えていた視界が、光を見る前の夜闇よりももっと暗い、真の黒に閉ざされる。
これは、どうしたことか。戸惑いつつも、走る足は止めない。目が見えなくとも、最初に触れた者を斬れば、ヤツのはずだ。
そんな思考に、本能が警告する。危険!
闇の中から飛来するものがある。石ころや矢玉よりは遥かに大きい。丸太や岩ほど重いものではない。人間よりは小さい。…いや、小さい人間、の、ヒザに、アゴが、ひねり割られる!
……。
「おぉー、彼は、知ってるよ、見たことある、確か、あれ、あの時だね。」
兜が弾け飛んで、乾いた空気にさらされて一瞬の自失から覚める。
頭が悪そうな声が響いてきた。この声は、たしかに知っている。
「アイちゃぁん、ありがとぉぅ…殺されるかと思ったぁん…」
「うゎっ、シーリンちゃんお久しぶり、なにその恰好。セクシーじゃん。」
「アタシの上着、貸してやるよ。…あぁ、コイツだコイツ。さ、首を落とそうぜ。」
松明の光が近づいてきた。俺の体はピクリとも動かない。ただ、心臓だけが早鐘を打つように激しく動いている。あと60、鼓動を打つ時間があれば回復できる。諦めてなるものか……
47…46…45…
「イヤよ、なんで武神様の笑かしのためにわたしたちが殺し合いしなきゃいけないのよ。ねぇ、マフディくん。そう、思い出した。マフディ少年だ。」
33…32…31…
「オマエな、十字軍の団員だって何人もコイツに殺されてるんだぞ。オマエはそいつらと面識が薄いだろうが、これはケジメだ。」
6…5…まだだ…
「アー、イシャ……」
「あら、覚えててくれた? 嬉し! じゃあ、彼も縛ろう!」
「死ね!」
辛うじて動いた右手の、肘から先だけで投げつけた剣は、窮地に覚醒するものがあったのか、いままでの数倍の威力を発揮した。回転しながら空気を引き裂き、高熱の光を放つ円盤となってふざけた小娘を引き裂く。
と見えたのは一瞬のこと、その小娘はいつの間にか、投げた剣の柄を両手で握って未だ熱と光を残す刃を眺めている。
「熱っちっ。これ、ホントに技じゃなしに腕力だけで投げてこうなるんだ―。へぇー。」
余裕、どころの話ではなく、そもそも敵と思われていない。屈辱に総身が煮え立つようだ。だが、いま殴りかかって勝てるとも思えず、採るべき選択肢はたった1つ。
「覚えていろ!」
言い捨てて、闇に姿を消す。
神から与えられた力が足りないのか、自分自身の自力が足りないのか。最後に振るった力は、確かに今までとは段違いの神秘的な力が出た。最初からあれで向かい合えれば、違う結果も出るはずだ。
とにかく、このままでは死ねない。アイシャに雪辱する。あのとき見た、彼女の人懐っこい微笑み、白い顔がまぶたに浮かぶ。
神は、俺に、彼女と向き合えというのか。胸に甘い疼きがわき起こり、少年の心を戸惑わせる。
今こそ、本気の本気で望む。覚えていろ。