138 魔法と人々
とても好ましくて、この人に恋されたいと思っていた男性、グリゴリイさんから故郷に残してきた婚約者の話を聞いている。
いや、考えてみたら当然あるべきことだったんだ。不審なのはマリアムちゃん将軍がそれを知っていてああだったのか、知らなかったってことがあるのかね。
意識してのことではないけれど、わたしはそのマリアムを睨んでいたらしい。気がつくと激しく睨み返されている。
あちらには、こちらの気の会話が通じていないのだろう。仕方ないので、向こうにまで気の範囲を広げて、問い直す。いやぁ、良い技を学んでいるぞ。
[ねぇグリゴリイさん、その、婚約者のアセレチカ?のお話、教えて?]
マリアムちゃんの目と口が大きくあんぐり開く。知らなかったようだ。
そんな様子も横目に見ながら、回答を待ちましょう。
[あの芋娘を選ぶくらいならそこの巫女のほうがマシだ、リゴきゅん、ちゃんと選びな?]
モル子は黙りな。そんなこと言うから好かれないんだぞ。
[申し訳ありません、巫女殿。アセレチカは、貴女の半分も美しくない田舎娘で、ただ人懐っこく私の世話を焼いてくれようとするのがどことなく、巫女殿の雰囲気に似たところがあって……]
[聞こうじゃないですか、もう少しくわしく。]
[ただ、昔、父親に酷く殴られて鼻が曲がって、顎が歪んで、歯が抜けているのが不憫で、魔法で治してやれたらと思ったのが全ての始まりで……]
[え、尊い、待って、マジ推せる。わたし、協力できることある? あなた、それ卑下しちゃダメ!]
「M'għandekx tagħti kas lil nisa boring bħal dawn!」
[そんなしょうむないことに魔法を使うな!]
外野がたぶん同じようなことを叫んでるけれど、わたしはもう下心よりも彼の夢のために味方になることを決めた。
でもごめんなさい、オーク軍に撤退してもらうことがいちばん最優先で、そのためには彼の利用もさせてもらうけれども、次にリゴ✕チカを願わせてもらうね。
「Ma nafx x'ngħid.」
手を振りほどいてグリゴリイさんが何か言ったけれど、よくわからない。敵意的なものは感じなくなったから、今日のお話は良い感じだったと思おう。
*
「はぁ~あぁぁあ~ぅ…」
休憩時間が終わって再び草ちゃんの上座席に戻り、人目が離れると、思わず絞り出すようなため息が漏れる。
「どうしたんスか、ついさっきまで浮かれてたじゃないスか。」
この状況で隣りにいるのは、どこまでその気があるのかわからないけれどもわたしのお世話係を仰せつかっているらしいゲンコツちゃん。隣で、これもオミードさんの馬、青ちゃんに跨っている。
でも、今はわたしが親しく軽口を叩ける気分じゃない。
「考えてみればコレ、失恋かしら。失恋? ということは初恋だったの、あれが? はかなく散った…わたしの初恋……」
「そうなんスか? 恋敵を倒せばいいじゃないスか。」
「ゲンコツちゃんあなた、わたしを何だと思ってるの?」
「立ちふさがる敵を気ままに倒して、欲しい物は何でも手に入れる暴君? …押忍。」
そんなこと言ってて、いつまでもわたしの策が最初のままだと思わない方がいいよ。わたしのなにを見て、そう思ってるんだろう、ヒドイわ。
「力があっても、腕尽くで貪っちゃいけないのよ。って、ハーさんが言ってたし。」
「ハー様のありがたいお教え! もっと、一字一句同じにお願いできますか!」
「忘れたー。」
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行軍が再開されるとアイシャには、やることがなくなる。
ダラダラ私語を垂れ流すこと自体禁止されていて、皆がキリッとしながら歩いているからだ。街道や宿場町では見物客が少なからずいたので納得できたが、今やすれ違うのはトンボやカエルばかり。
それでも、これは訓練の一環なので、超☆聖女以外はだらけた姿を見せられない。怖いハーフェイズ鬼教官がどこかで目を光らせている。
森を突っ切って湿地を越え、断崖の山地を越え、谷川沿いにようやく安定した旅人たちが踏み固めた道に入っている。
吹く風は冷たいくらいだが、空気は湿気が強くて蒸し暑く、快適とはいい難い。
いま、ほとんど働いてもいないのに、地の体力の無さに加えて気力の張りさえなくして疲れ果てたアイシャが、体を馬に預けながらつい悪い想像に身を委ねるのは、前回の別れ際にモルが言った言葉のせいだ。
*
「武神サウレはすぐそばまで来ているぞ。
気をつけろよ。アイツは顕現の条件を厳しく定めたせいで、馬鹿げた塔をつくったエルヤや、気楽に奇跡をおこしてまわったカムランと違って豊富な神力を残しているぞ。」
アイシャが出会った“武神さま”こと武神エルヤ。
シーリン=カーレンが“神の子”となり、その後、厄介事を運んできた武神カムラン。
彼が遺したカムラーン兵術はハーフェイズとゲンコツちゃんも継いでいる。
そして、武神にはならず魔導師として800年、人間といえるかはわからない魔人モルヴァーリド。彼女が執着するグリゴリイは使徒というほど大きな力を受けてはいないが、彼やヤクザの“吉報”ナヴィドらはモルヴァーリドその人から学んで力を得ている。
最後に残った、女戦士サウレ。
十字軍団の中では有能で頼れる男として急速に立場を作りつつある、オミード氏の流派の開祖であるが、その活動は外国が主で、この周辺ではマイナーだ。
その、サウレが武神として接近しているというのだ。
嫌なときに、嫌なふうに巻き込まれちゃうんだろうなぁ。嫌だなぁ。口から漏れる愚痴が、木々の間を吹く湿った弱い風に吹き飛ばされるにも至らずこぼれ落ちていくように思えて、さらにため息をつくアイシャだった。