126 敵船上にて
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「…閣下。侵入者が出現したことをご報告いたします。」
静かな薄暗い部屋のなか、若いが、落ち着いた声が響いた。
大型船の中央、無闇に広大な間取りの指揮官室である。
矢玉の侵入を警戒した窓のない頑丈な構造で、朝だというのに暗く、多くの明かりが焚かれ、焚べられた香木の芳香が充満している。
「貴様がそのように慌てるとは珍しいな、グリゴリィ二等魔道官。」
「お戯れを……」
広い室内には現在、閣下と呼ばれた人物とグリゴリィ魔道官、部屋の隅にたたずむ女官の3人しかいない。歴戦の勇者にも原始的な畏れを抱かせるほどの濃い朝霧に包まれ、栄光あるモンホルース戦士たちも今だけは体を休めて次なる戦いに備えている。
こんな時にこそ指揮官ひとりは戦い以外の諸事に心を砕かねばならないのだが、信頼する諜報員は予想外の知らせを持ち込んできた。
「侵入者だと。ファールサの腰抜けにも気骨の士がいるものだな。規模は。」
「4,5人。海上にこの海霧で、いつ、どこから紛れ込んだものか追いきれませぬ。敵の後詰めはあるものと思われます。退避のご準備を。」
「何を、寝言を。570人の兵を引き連れて5人から逃げろとは。仔細を説明せよ。」
「は。4,5人といえど、龍と仔獅子と2,3人の群れならば、戦力差はないものと。船が砕かれては、我らひとたまりもございません。」
「龍、とな。」
龍とは、モンホルースでは神に等しいもの、皇帝の代名詞。だが、この魔道官の故郷の文化では悪魔の化身と考えられていた。微妙な文化の違いが生んだ失言。耳にしたのはこの2人だけだったが、すでに引き返せない状況になってしまったことは魔道官も理解していた。
「面白い。直接会おう、グリゴリィ、案内せよ!」
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「あらら、この先はもう実力行使でしか進めなさそう。」
「望むところですよ。姫様は心配性ですね。」
一方、アイシャたちは駆けつけた敵の近衛兵80人に囲まれていた。
最終確認として、キルス通訳にモンホルース軍かどうか尋ねさせて、それで間違いないという返事をもらった。これでためらう理由はなくなったが、どうもキルス青年、単語レベルならかろうして意思疎通できるレベルで、長文の内容になるとかなり戸惑い、不正確になる。
敵の部隊長らしい男からの「お前たちはどこから来た何者か」の質問を理解して翻訳するまでに、敵30人とのお見合いが80人の包囲になるくらいの時間を要してしまっている。
もっとも、大汗をかいているのはキルスだけで、巨漢3名はニヤニヤと周囲の敵を脅かす手ぶりをして楽しんでいる。オミードなどは実際に油をまいて松明の火を近づけたりして遊んでいるのだが、キルスの頬を突付いているアイシャが部隊長となんとか会話中なので、オーク兵たちは暴発を抑えているようだ。
現在、“大聖女”という単語をどう訳せばいいのか、悩むキルスにアイシャが大笑いしながら茶々を入れている状況で、あまり話が進んでいない。
「こちらは。この国の、えらい女性だ!」「それは女王か。王妃か。王女か。」「王、ちがう。あー、うー…棒の女。登る。塔? 寝る。お祭りの光。神。死刑台。女神! 戦う。」
「わからんな。神官の類か? それが何しに来た。投降が願いか?」「トウ、コウ?」「降参しに来たのか。」
「…姫聖女さま、この男が、嫁入りに来たのかと聞いているようです。」
「あはは。こりゃ、決裂だね。みんな、やっ…て?…ちょっと待ってね。」
アイシャが笑いながら地獄への扉を開こうとした途端、視線と静止を求める意思、焦燥、イケメンのオーラなどが吹き付けてきた。
これは、さっき気配を探ったときに出くわした、気配が見える相手側のひとだ。あのときはビックリして反射的に断ち切ってしまってけれど、今度は向こうから探りに来たわけだ。興味はある、話せたら楽しそう。でも、忙しい時だから、後にしてくれないかな。
その内容だけ、見様見真似で相手の気配を探りながら気持ちを乗せる。これでOK。
「おまたせ! ハーさん、アーラマンちゃん、オミード氏、GO!」
「待ちたまえ!!」
叫びとともに、突然、アイシャの正面の中空に、部隊長に重なって彼を押しのけるように一人の男が現れた。黒いローブをふわりと身にまとっているが、痩身で中性的な雰囲気がなぜだか伝わる青年だ。まだ少年といってもいいかもしれない。
右を見ても左を見てもムキムキ、港町では女子供に至るまで顔面までムキムキの人々に囲まれてきたアイシャには、たったそれだけの要素でも同志として親近感を抱くに足りた。
「きゃあ、あなたが気配の達人ね! 男たちが悪者退治で暴れてるあいだ、ちょっとお話ししませんか !?」
敵側の男たちは、急に現れたこの青少年がよほど偉い身分なのか、一歩ずつ引いて様子を見て、固まっている。味方の男たちは、アイシャの言いように「それはさすがに心外だ」と言わんばかり、もの言いたげなじっとりした視線を少女に注いで、すぐに暴れる気配がない。
「あはは……」
笑ってごまかそうとするアイシャに、少年が話しかける。涼し気な、高めの良い声だ。
「il-lingwa mhix mifhuma.」
「?」
「言葉は、わからないそうですよ。」
うむ、キルス通訳。わかるよ。あなたは役に立つね。