119 ジュニア
「海だぁ―!」「うーみー!」「海だぜぇ―!!」
見渡す限りの青。そして光。茫々とした海原を、何にも遮られることなく風が吹き抜け、海鳥の声を運んでくる。
大地にもうっすらと生命の気配が埋まっているが、海のそれはもっと濃く、常に蠢いていて濃淡の姿を変える。潮風にまで生命の気配が濃い。じっとその息吹を受け止めていると酔いそうなほどだが、体を動かして空気の流れに戯れかかると心の底から自分の命が高揚していることを感じて、大声を出しながら飛び跳ねる。
右隣のゲンコツちゃんも似たような気持ちだろうか。思い詰めたような表情をしていることが多い彼女も、今は目を輝かせて両手を広げ、明けっ広げにあっはっはと笑う。
左隣りの男も、鉛色の長めの髪を風になびかせ、深緋色の目を青一面の世界に見開いている。…誰だっけ?
「ヒドイ! ひどいぜアイシャちゃん! 言ったじゃないか。俺は、ファルナーズ大将軍の息子ファルナーズ・ジュニアだ。ジュニア、って呼んでくれ!ってな!!」
「あぁ、思い出し…てない。ちょっと待って、思い出すから。」
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そう、あれは4日前。時間を戻して回想します。
王都の城門を出るときは、見物客の喧騒とは裏腹に我ら十字軍と衛兵さんは静かに睨み合いながら、ピリピリムードで門をくぐって中央区を離れる。
その後、お別れをする間もなく、いつの間にか後遣隊はいなくなっていた。外郭都市の端っこの方に昔ハーさんが世話をしたハーフェイズ王国とも呼ぶべき街があって、そこでは今でもハーさんの命令は絶対だ。そこに潜伏させてもらって旅の準備の仕上げをするのだと。ハーさん、常識人の顔をしてとんだ危険人物だ。
後遣隊は予想より寄付の物資が集まったから、2,3日予定より早く出発できそうなんだって。
こっから先、ずっとテクテク歩いていくのかと思ったら、まず近くの河港町・ワスーカ湊に移動して、船便を乗り継いで戦地の近くまで移動、それからの歩き旅になる。スムーズな予約ができたのは手際と運が良かったらしい、拍手。その船に乗るためには、50人がやっぱり人数の限界だ。
ワスーカ湊への到着は明日。王都を出るだけで、朝から出発してもすでに日が暮れている。急いで野営の準備にかかるんだけれど、
「どこかの宿に泊まれないの? 人数分けてさぁ。」
「師よ、これは警戒地域の野営の訓練でもあるのです。厳しくやって、1人,2人反抗させて処刑して、全軍の気を引き締める目的もあります。」
「処刑は止めてよ…せめてゴハン抜きとかでお願い。」
ハーさんの声は大きくなくてもよく響くので、漏れ聞こえただけで50人の所帯がピリリと緊張する。たぶん、一番に反抗するとしたらアーラマンちゃんだ。処刑されちゃ困る。
そういうわけで、誰を警戒しているのかはわからないけれども警戒する野営の訓練が始まる。街道から少しだけ離れた小さい丘の森の中に、明らかによく使われている広場があって、そこに陣取って防護柵を築く、お堀代わりの溝を掘る、夕食の準備、トイレ地の設定、などなど。
わたしは見守って、ときどき「イイね!」とか言ってあげるのが仕事だ。
そうやって進みはじめたところで、100人ほどの武装した集団が王都方面から接近してきたと、見張り役の急報がはいる。
「総員、武装して配置につけ!」
ハーさんの号令一下、50人強の急ごしらえの烏合の衆が、精一杯に気を引き締めて、あちらでつまずき、こちらでぶつかりバタバタ走り回っています。立派な軍隊への道のりは遠いなぁ。
配置といっても、正面にハーさん、右にアーラマンちゃん、左にオミード氏。正面が10人、左右が20人ずつの班になって、私とゲンコツちゃん、ロスタム爺やが正面後方に待機。基本的には班長が敵に対処するという単純極まりない作戦。
「50人って結構な人数だと思ってたけれど、こうしてみると頼りないねぇ。」
漂う緊張感にソワソワさせられながら、隣のロスタム爺やにぼやいてみると
「よほどの大会戦でなければ、こんなもんですわ。千人隊の一方面の百人隊があちらこちらで、十人隊単位で夢中で走り回って、息が切れる頃には戦が終わってる。なんてこともザラで。」
それは、ロマンがないね。おや、何か動きがあったようだぞ。
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街道を歩いて来る、篝火を明々と焚く武将集団が足を止めた。その中から、白旗を掲げた騎馬の、夜目にも派手な男が一人、さらに接近してくる。
そのまま、良いほどのところ、というにはかなり遠い位置で、旗を振りながら何か叫んでいるようだ。内容までは野営地まで届いていない。
「ハーさん、わたし、行ってこようか?」
真っ先にじれたのはアイシャ。ゲンコツちゃんに馬を操らせて、優雅にハーフェイズのひとり司令部に詰めかけてきた。
「来る気がないようなら放っておいて良いでしょう。あの男、見覚えがある気がする。覚えていないということは、つまらん男だ。警戒は怠らず、夕食としましょう。」
翌朝。
王都への旅以来、数日ぶりの野宿で熟睡できず薄暗いうちから目を覚ましたアイシャ。
ゲンコツちゃんは豪快な寝相で質の良い睡眠をとっている様子。
ロスタム爺やは“爺や”に指名されて、出陣してからやる気に満ちあふれ、非常に研ぎ澄まされている。今も、アイシャが起き出す気配を2つ隣のテントから察知して、身支度を万全に済ませて付き従う。
「爺、お茶をお願い。」
“爺やがいる暮らし”の夢が叶った嬉しさを隠しきれないまま尊大に微笑みかけておいて、自分は準備ができるまでに見張り台から昨夜の不審者を確認する。
100人の集団は帰ってしまっている。それは昨夜にも確認できた。だが、例の派手男はいまだ悄然と立ち続けている。
爺やからお茶を受け取ったアイシャは、香りと熱さをひとしきり楽しんで、眠気を飛ばしてから行動を開始する。
*
まるで捨てられた子犬のように、男はうなだれている。白旗は持ち疲れて捨てた。問題の陣地が寝静まってからは、馬の上も疲れて、地面に座り込んだ。寝れるほどの度胸はない。
明けの明星が輝きだす頃、野営地の空に一筋の炊煙が上がった。こんな時間から、と驚くとともに、見られているかもしれないと、のっそりと立ち上がる。
そのままさらに放置され、睡魔がひときわ激しく襲いかかってきた頃、カッポリ、カポリと長閑な音を立てて近づいてくる2人乗りの馬に気づく。老人が操る馬に乗った、部屋着の上に聖女服を羽織った少女。
彼女こそ、交渉相手の超聖女・アイシャに違いない! 男は姿勢を正し、なるべく堂々と名乗る。
「アイシャ殿とお見受けした! 俺は、ファルナーズ大将軍の息子ファルナーズ・ジュニアだ。ジュニアと呼んでくれ!」