挿話 ユースフ
少しだけ先のタイミングのお話から。
ギイィッ…… ギイィッ……
木材がきしむ音がする。体が揺れている。ここはどこだろう、薄暗い。
目の前にあるのは、よく知っているテーブル。自分は、お父ちゃんの膝の上だ。
振り返ると、近くにお父ちゃんのおどけた笑顔。ちょっとお酒が入っているのか、すこし眠そうな、幸せそうな顔。
夢かな。夢でもいいや、ひさしぶりのお父ちゃん、いつものお家。安心だ。品悪くズリズリと深く腰掛けなおし、父のみぞおち辺りに頭を乗せる。
テーブルの上には蝋燭の火、お酒の瓶と素焼きのコップ、皿にはアイシャが切って並べる“料理”をしたおつまみが少し。夕食後にも一働きした父が寝る前に軽く呑んで、わたしもおつまみをひと切れご相伴に預かる、この時間はお気に入りだった。
ギイィッ……。
お父ちゃんが椅子を傾けて揺らす。
「お父ちゃん、イスが壊れるよ。もぅ。前もそれで腰を打って、2日寝込んだでしょ!」
――そうだ、そんなこともあったっけ。懐かしいなぁ。
「そうだ、アイシャ、こんな話を知ってるか。商売とは! 売り手のためになり、買い手のためになり、それが世の中のためにもなる。これが昔ながらのヤーンス商人の、商売の心得だ。」
――言ってたね、そんなことも。話をそらされたようだけれども、こちらも本気で怒ったとか、心配してたわけじゃないから、乗ってあげよう。
「でも最近じゃあ王都の商人が、売り手が勝つ、買い手も勝つ、両者勝つのが本当の商売だ、って言い始めてね。世の中のことが抜けてる。それで結構没義道なことも平気でやってるんだ。
…まぁ現実は、ヤーンス商人だって平気で無茶をやるもんだがねぇ。遠くの国で戦争が始まったそうだから、みんな気持ちに余裕がないのかもな。」
――酔っぱらいオジサン、時勢を語る。
「こういうスローガンは面白いもんで、本当の姿はそうじゃないからこそ、そう言葉にするんだ。本当は商売相手には損をさせて自分が得をしたい、世の中のことなんて知ったこっちゃない。でも立派な言葉を言わなきゃいけないときに、つい本音の裏が出てしまう。
…王都の商人が世の中のことまで言わないのは、最近の商売はスマートだから昔ほどには極端にあこぎな真似ができなくて、やかましく言う必要がなくなったからかもしれないね。」
――ホントにそんなこと言って大丈夫? 誰かの悪口になってない?
「父ちゃんがアイシャに片付けなさいっていう時、部屋は散らかってるだろう? 部屋がキレイなら最初から“片付けろ”なんて“言葉”が家の中に無いはずだよ。」
――お、お父ちゃんだって散らかすし!
「都合のいい立派な言葉には気をつけなさい。ってことさ。もしアイシャが「リッチな、いい暮らしをさせてあげるよ」って誰か男に言われたとしても、ただの親切なワケがない、裏があるんだ。」
――ああ、メレイさんの世界帝国の話とかね。アレも考えてみれば、自分の使命感のためにわたしを使い潰したいとしか言ってなかったわね。わたしが使命感に同調できたり、お金が欲しかったりだったら友達になれたかもだけど。
「外国の教えでね。女は、子供の頃は親に従いなさい。大人になったら夫に、老人になったら大人になった我が子に従いなさい。っていう言葉があるんだ。」
――けしからんですね。
「言葉の裏だよ。こんなスローガンがあるってことは、実際はその国の女の人は従ってないんだ。
逆に、男は、生まれてから死ぬまで主君に従いなさい、主君の気まぐれで死になさい、っていうのは常識だから、わざわざそういう言葉がない。
つらい男を癒やしてほしい、って思いながら虐げられてる男の姿が、あの言葉から見えないかい?」
――わたしはお父ちゃんに従ってるし、癒やしてると思う!
「ありがとう。本当にアイシャはいい娘だよ。」
――でも、わたしに旦那さんができたとしたら、従うのはイヤだなぁ。今のままでお父ちゃんのお嫁さんじゃダメ?
「…何年も前だったら、そう言われて喜んでいて良かったんだ。さすがに、もうそろそろ心配だよ。そういう、むほん気っていうのかな、反抗心、独立心。アーミナに似たのかなぁ。ほとんど話もできなかったはずなのに、小心で地味に生きたい俺より、年々アイツに似てくる。」
――アーミナ……お母さん? ねぇ、もっとお母さんのお話、聞かせてよ。
「アイシャが大人になったらな。まだ、父ちゃんが立ち直れてないんだ。もう十年も経つのになぁ……
アイシャ、他人に従わないで生きるって、難しいぞ。父ちゃんは問屋さんに従うし、問屋さんは大商店に右往左往させられるし、大商店は貴族に、貴族は王様に、王様はおっかない大貴族やもっと大きい国の王様に従って生きてる。反抗して、従う先を変えることはできるけどね。
本当に誰にも従わないで生きるなら、アレだ。森の奥でどんぐりでも拾って、スローで丁寧な猿のような暮らしをするんだ。どんぐり拾い、得意だからこれで生きてく!って言ってたろ?」
――そんなこと言って!……た…? …言ってた。でも、それ6つか7つくらいのことだよ。ダメダメ、そんなネズミみたいな、ん? ネズミ婆? メレイさん?
――あ、そうだ、夢だった。いや待って、お父ちゃん、お父ちゃん、わたし元気だよ、友達もいて……
*
ギイィッ…… ギイィッ……
暗い部屋に、月の光が差し込んでいる。チャプ、チャプと水の音がする。船の一室だ。波に揺られて、木材が軋む音。体全体が揺られている。
「お父ちゃん……。」
つぶやくと、目元は涙で濡れているけれども胸の奥がほのほのと温かくなって、薄い笑みが浮かぶ。夢でも、良い夢を見られた。死んだって聞かされたけれど、まだ実感はない。ヤーンスのあの家に行けば、お兄ちゃんと一緒におかえりって出迎えてくれる気がする。
そうだ、私は十字軍の聖女さまになって、船に乗って戦場へ向かってるところだった。とにかく、この先でオーク族のこととも、サッちゃんのこととも、決着をつけなきゃ。
そうしたら、胸を張ってちゃんとミラード叔父さんともお話をして、それから、この先どうするか考えよう。わたしはいま思い出したけれど、どんぐり拾いってそんな小さいころに言ってたことをネズミ婆も思い出して、それで、そうしたんだ。あんまり毛嫌いしちゃあ、どんぐりに申し訳ない気もしてきたわね。
(近江商人様にも女大学さんにも他意はありません、この世界の精神性による教えがたまたま似た言葉になったという設定の話です、あしからず (;´Д`) )