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馬車に乗ったときには彼女の心はすでに彼を諦めることを受け入れていた。
諦めると決めてしまうと心は少し楽になった。もうこれで、あの不安定な感情に振り回されずに済む。
座り込み、座席の固い感触を感じながら背もたれに身体を預ける。彼のことを考えるのはやめて、婚約者のことを考えようと思った。目は、閉じると彼のことを思い出しそうで閉じなかった。
しかし、彼女は目を閉じなかったせいで、道を歩く彼を見つけてしまった。
どうやら彼女の家に向かっているらしい。彼女が乗る馬車はもう走り出している。
彼はほんの少し来るのが遅かった。ほんの少し早ければ、彼女はまだ家にいて、彼を喜んで迎えただろう。そのことを思うと、彼女の彼を諦めると決めた心が彼女を裏切りそうになる。
彼女は強く目をつぶった。彼が馬車に乗った彼女に気づかないように祈りながら。
しかし今日の彼女はとことん運がないらしい。彼は馬車の中の彼女に気づいた。彼女は御者から声をかけられた。
「知り合いだから止めてくれと言っていますが、どうします?」
彼女は彼を横目で見た。彼は彼女をじっと見つめていた。しばし視線が絡まったが、彼女がすぐに目を外した。
「止めなくていいわ」
「本当にいいんで?」
「ええ、行ってちょうだい」
御者が馬にムチをふるうと馬車はスピードを上げた。
彼は彼女が拒んだことに気づき、呆然と道に立ち尽くしていた。しかし彼女から目は離さなかった。彼女は彼を見なかった。
彼女は彼を見ることなく、声もなく泣いていた。
彼女が強情でなければ、彼が来てくれたことを素直に喜んで、馬車から下りて走り寄っただろう。しかし彼女は一度決めたことを滅多なことでは覆せない強情者だった。
「本当によかったんですかい?」
御者が二度目の問いを彼女に与えた。
「ええ、ええ、これでよかったのよ」
涙声の彼女の答えは本心だった。会って話してしまえば、彼女は彼を諦められなくなる。そしてまた、彼との年の差からくる自己嫌悪に陥り、苦しむ日々がやってくるのだ。
そうなってしまった後のことを考えると、不安と嫉妬にさいなまれ自分以外の女のことを見ないでくれと叫ぶ自分の姿が、彼女には見えるようだった。年上のプライドも何もかも捨ててすがって彼を困らせるのだ。
彼との付き合いを続けているうちにそんな日は遠からず来るだろう。彼女はそんなことは許せなかった。
婚約者と幸せになれるかもしれないわ。
彼女はそう思って、まだ涙の止まらない自分を慰めた。結婚が目的の結婚。それは少女の頃に憧れた、愛する相手との永遠の約束とは違うものだけれど、それで幸せになれないとは限らないのだ。
幸せになろう、と彼女は思った。目いっぱい、彼に見せつけるくらい、幸せになってみせる、と。
馬車が婚約者と約束をしている料理屋の前に止まった。チップをはずみ、馬車から降りて店に入る。
予約された席には相手はいない。まだ相手は来ていないようだった。
彼女は席につくと、婚約者のことを考えた。これが相手との初めて会う席になる。初めてなのに二人きり、というのはどうかと思うけれど、双方ともに結婚が目的の付き合いなのだから、そういうこともありなのだろうと彼女は思った。
彼女は婚約者の名前を思い出そうとして、失敗した。そのころの彼女はまだ彼が時間内に訪ねてきてくれることを信じて疑わなかったので、まともに聞いていなかったのだ。ありきたりすぎて記憶に残らなかった名前を思い出そうとすることは、彼女の気を紛らわすのに丁度よかった。
「すみません、遅れてしまって」
彼女の後方から声がかかった。待ち人が来たらしい。彼女は立ち上がり無造作に後ろを向いて最高の笑顔で初対面の婚約者に挨拶をしようとした、その姿勢で固まってしまった。
「ブローチ、私があげたものですね、とてもよく似合う」
相手は平然としている。
「なんで、あなたが・・・・?」
そこには、彼が立っていた。
「なぜって、あなたと約束していたからです」
「私は私の婚約者と約束をしていたのよ」
「私があなたの婚約者ですから」
「でも、名前が・・・・」
「手紙はミドルネームのほうでやりとりしてましたからファーストネームをご存じなかったんですね。ちゃんと私の名前ですよ。それより、座りませんか?」
彼に促されて彼女が座り、彼も向かいに座った。彼女は婚約者の名前を告げられたときに、そういえば姓が彼と同じだという印象を抱いたことを思い出していた。
彼女にはそれ以上のことは考えられなかった。まさか相手が彼だとは思っていなかったから、頭の中は混乱の極致に達している。対する彼はメニューを広げて考え込んでいた。
「貴女の分も私が選んでもいいですか?」
「・・・・ええ」
料理など何でもよかった。問題は、これから彼女はどうするべきなのかだ。
料理を食べ終え、皿も下げられた後、彼と彼女の間には沈黙が残った。食事の間はなんとか彼が話していたのだがネタが尽きてしまったらしく、彼も黙っている。
彼女は食事の時間中考えて、ようやっと出したこれからどうするかについての結論を口に出した。
「この縁談はなかったことに」
彼女はこの期に及んでも強情さを崩さなかった。彼のことを諦めると決め涙まで流したのだから彼女はそれを貫くことが正しいと思ったのだ。この縁談をければ、ろくなものが残らないからといって、全くなくなるわけでもない。彼以外の相手なら誰でもいいとさえ今の彼女は考えていた。
「・・・・私が何か気に触ることをしましたか?」
「そういう問題じゃないわ」
「じゃあ、どういう問題なんですか?」
彼女の心情は複雑すぎて、言葉にするのは難しかった。
「私が若いからですか?」
「それもあるわ」
彼は黙って俯いてしまった。彼女は彼に恋をした日のことを思い出した。あの日の彼もうつむいていた。ただ、今日の彼はあの日のように泣きそうな顔はしていなかった。
彼は顔を上げた。
「まだ、足りませんか」
「何の話?」
「私は十年、あなただけを想い続けました。それでも足りないと、あなたは言うのですか。だとすれば、私はあと何年待てばいいのです?」
彼女は自分の顔が赤くなっているのを自覚した。彼の口から直接告白の言葉を聞いたのは九年ぶりだったのだから無理もない。
彼女が彼の真摯さに弱いことは彼女自身自覚している。彼女は彼を受け入れようとし始める心と、頑として受け入れることを拒む理性とを身体の中で密かに戦わせていた。
「あなたが不安に思っていることは知っています。私とあなたの年の差を気にしているということも。素直じゃないあなたがいつだって私と会うときには気のない振りをしているということも、全て」
彼女は身体を微かに震わせた。身体の震えは一瞬でも、指先の震えは止まらない。その指先で口元を覆う。震えは目元にまで伝染した。
「確かに私はまだ学生で、二十になったばかりで、頼りないことは重々承知です。でも、今までもさんざん待ったんです」
彼は胸元から小箱を取り出した。
そしてそのふたを開け、彼女の目の前に差し出す。彼の手も、また、震えていた。
小箱の中には飾り気のないリングが箱の中に光っていた。添えてあるのはあの花のドライフラワー。
「結婚してくれませんか」
彼女は両手で顔全体を覆った。
「愛しています」
「・・・・・どうして」
彼女の震えはとうとう声にまで達した。
「どうして、あなたは、私なんかを、ずっと・・・・」
「そんな言い方をしないでください。私にしてみればいつだってあなたは憧れだった」
「結婚して、幻滅するのがオチだわ」
「そんな心配をする可愛いところを時々見せてくれるところも魅力的だと思っています」
彼女の頬を一粒の水滴が零れ落ちた。
「私と、結婚してくれませんか?」
「・・・・答えは分かっているのでしょう。私がそうとしか答えられないことも」
「それでも、あなたの口から聞きたいのです。言ってくれなければ、私は不安でたまらない」
彼女は、こんな自信ありげにふるまっている彼にも不安があったのかと意外に思う。
勇気を出して顔を覆っていた両手を取り払い、彼と彼女はまっすぐ見詰めあう。
彼女は彼から小箱を受け取った。
「喜んで。私も・・・・愛しているわ」
彼はその言葉を聞いた途端、顔を真っ赤に染めた。
彼女の目の前には先ほどまでの大人びた様子の青年も、出会った頃のようにひたむきな瞳で見つめてくる少年もいない。
ただ、真っ赤な顔をして告白に動揺して目線もまともに彼女にあわせられない、
一人の男がいるばかり。