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それが、彼女が十七、彼が十一の冬の日の出来事だ。
彼女のほうから会いに行こうにも、彼のフルネームすらろくに知らなかったのだから叶うはずもなく、散歩に出るたびに彼の姿を探しても見つけられたことはなかった。
せめて謝りたかったのに、それすらもあの人は許さなかった。
彼女はそっと目を開けた。
彼も必死だったのだと今となっては彼女にも分かるが、そのころはただ嫌われたのではないかという不安ばかりが先立ち、相手の心情を客観的に考える余裕もなかった。
そんな日が数ヶ月続き、彼女がこの恋を諦めたほうがいいのかもしれないと思うようになった頃、彼女に初めての縁談が舞い込んだ。
相手は二十五の男だった。
十七ではまだ時期的には早いから、そんなに急いで決める必要もないと周囲からはいわれていたが、彼女は前向きに考えると答えた。
彼のことを忘れてしまいたかったのだ。
最初から年の差は歴然としていた。これが男女が逆だったなら、まだ格好もついただろうに。彼女のほうが彼よりも六年も早く生まれてしまったのがそもそもの失敗だったのだ。縁がなかったのだと諦めてしまえるなら、そちらのほうがいい。
彼女はそう思った。その考えの中に、年下が相手なんて、と思う気持ちがなかったといえば、嘘になる。彼女の虚栄心は傲慢だった。初めての恋に対してでさえ、その態度を崩さないほどに。
そのときの彼女は、恋を自分で追いかけるつもりもなかったのだ。
彼の想いに応えてやるのならともかく、自分から彼に想いを告げるなどとは思いもしなかった。秘められた熱情をプライドで押さえつけて彼女は彼を諦める選択をしたのだ。
相手の男性と結婚を前提とした付き合いが始まり、しばらくして彼女の誕生日が訪れた。
婚約者にもらった高価なブローチを胸に抱き、家に帰った彼女を迎えたのは、プレゼントの箱だった。
親類や友人からのものはすでにもらっている。では、これはだれからのものか、と使用人に尋ねたところ、聞き覚えのない男性の名前を告げられた。
誰かしらといぶかしみながら、これが私に一目ぼれでもした殿方からだったら送り返さなければならないことを考えた。
添えられたカードを覗くと、そこには誕生日を祝う言葉。そしてついでのような一言。
「ごめんなさい」
彼女は急いで箱を開けた。
中からあふれたのはドライフラワー。
今の季節には咲かない野の花。一度、好きだと言ったことがあった。花束にするにはあまりに些細な花は、箱にこれでもかというくらい大量に詰めてあった。
その花が好きだと話した相手はたった一人しかいない。六つ年下の彼。十二歳の小さな頭で、精一杯考えたのだろう。
お金はかからないけれど、これだけの量を作るのに、彼はどれだけの苦労を注いだだろう。それを思うと彼女の目からは涙が出た。
しかしこの素敵な贈り物は、異性からのもの。婚約者のいる彼女が持ち続けてはならないものだった。
だが、どうして捨てられるだろう。想いが詰まっているこの箱、高価なブローチよりもよほど価値の高い箱を。
彼女には捨てられなかった。
だから、彼女は婚約を解消した。
箱には花に埋もれたもう一枚のメッセージカードが隠れていた。
「好きです」
たった一言書かれたカード。それだけで、彼女が決断するには十分だった。
その後、彼女は彼にお礼の手紙を書いた。そこから文通が始まった。そして、毎年の誕生日プレゼントのやり取りも。
毎年、彼はプレゼントを手ずからもってきて彼女に渡したが、彼女はけして直接渡さなかった。
彼女はいつも自分で心を込めて選びメッセージカードに一晩悩みながらも、それに自分の名前をつけることはなく、使者に名を告げさせることもしない。
彼はいつもプレゼントにあのドライフラワーを添えて渡す。メッセージカードには告白の言葉。しかし彼自身が直接告白することはなく、彼が彼女の前に現れるのは、そのプレゼントを渡すためだけだった。
プライドの高い彼女が自分から会いに行こうとなどできるはずもない。
つまり、二人が会うのは毎年一度、彼女の誕生日だけだった。
二人の関係はけして恋人同士というようなものではなかった。彼女がやり取りする文章の中でさえ、自分の想いを形にすることをためらったせいだ。
六つも年下の相手なんて笑いものになるばかりと思ったし、彼女は自分がそのような屈辱に耐えられないことを知っていた。
彼女のプライドは、彼女が落ちた恋ですら沈めきれないほどに高かった。恋情を抱くだけでも敗北感に近いものを感じている彼女が、自分から、しかも年下に、乞われもせずに想いを口にするなど論外だったのだ。
しかし時間が経つにつれ、その考えは変化していく。
年に一度だけ会うようになって、もう九年になる。
少年が青年へ近づき年々魅力的な大人へと変化していくのに対して、彼女は年々少女の輝きを失い肌も張りをなくしていく。
以前は彼が彼女につりあわなかったのが、徐々に彼女が彼につりあわなくなっていく。そして年に一度しか会えない関係がさらに彼女を臆病にさせた。
六つも年下の相手への不満やプライドはすでにほとんどない。逆に六つも年上の自分に対する劣等感が彼女をさいなんだ。
告白など、できるはずもなかった。
臆病な心は、彼女に様々な不安を提示する。
十年も愛を返しもしない人を愛し続けられるものだろうか。
年に一度だけ会う人よりも、毎日会える人のほうがいいのではないか。
最近手紙の返事が遅いのは、本当に大学が忙しいからなのだろうか。
今はまだよくとも、これから付き合いを重ねるうちに美しさを失っていく自分に愛想をつかされるのではないか。
すでにもう愛想が尽きて、プレゼントはただ惰性で贈ってくれているのではないか。
年増の女をからかっているだけではないのか。
その不安は毎年誕生日が近づくと増長し、誕生日がくれば少しの間なりを潜めた。
彼女が頑ななのも大きな問題だった。昔に気まずさからそっけない態度をとってしまったそのままの態度でしか彼に接することができない。笑顔を見せたのもこれまでに幾度あっただろうか。これではどれだけ愛していたとしても愛が薄れて当然だ。
十年は長い。
味の好みが変われば、人の好みも変わる。
そして、人を想うことは労力のいることだ。それが返される保証もないものなら特に。
彼には年齢以外これといった問題もないのに、彼女には彼を想うことに不安ばかりを見つけ出す。対する彼女は問題ばかりである。彼はさぞかし彼女を想うことに労力を使うだろう。
彼女でさえ何度も彼をあきらめようと思ったのだ。彼が彼女を諦めようと思い、実際に諦めないと、どうして言えるだろう。
事実、今日が彼女の誕生日であるというのに、いつも訪れる時間を過ぎても彼は現れない。
もしかしたら今年こそ来ないのかもしれない。
彼女は安楽椅子から立ち上がり、机の引き出しを開けた。中には彼とやりとりした手紙と毎年のカードが大切にしまってある。中からカードを取り出して一枚一枚眺めた。何度も何度も見た彼女には、どれをいつもらったのかも簡単に見分けることができる。
年々上手くなっていく字。けれど毎年綴られる言葉は同じ。
「好きです」
愛しい言葉、愛しい筆跡、愛しい年下の彼。
想いながら筆跡を指で辿る。
部屋のドアをせわしなくノックする音が聞こえる。
彼女はこれから新しい婚約者との食事に行かなければならなかった。昨日決まったことで、今日が顔合わせの日。歳から考えて、後はない。これが彼女にとって最後の結婚のチャンスだった。
強情な彼女がしつこく彼を想い続けて、九年。その間出た結婚話はほとんどが彼女に一蹴されて終わっている。しかし今回は親に泣きつかれたのだ。恩ある人からの紹介で断れないし、それにこれを逃したらろくでもない縁談しか残らない、と。
そこで彼女は考えた。
このまま彼との付き合いを続けるべきか、それとも思い切って結婚をしてしまうか。
彼女は強情であったから付き合いを続けるほうを選びたかった。しかしこれから彼との仲が上手くいく保証があるだろうか。彼女が素直になるまで、彼は待っていてくれるだろうか。そもそも今の時点で自分を好いていてくれるのだろうか。
そして結婚ができなかったとして、独りで老いて死んでいくことが、自分に耐えられるだろうか。
彼女は強情で臆病で寂しがりやだった。
だから彼女は婚約者を受け入れる決断をした。それでも諦めきれずに、誕生日の今日、彼が来るのをギリギリまで待った。彼が来てくれたら、婚約は断ることを決めていた。そして彼に今度こそ想いを告げようと。
しかし彼は来なかった。
「お嬢様、準備はできていますか? 馬車が待っていますから、お早めにおいでになってください」
「ええ、わかったわ」
彼女はドアへ向かった。胸にしているブローチは彼からの贈り物だった。ひょんなきっかけで婚約者だった人からもらったブローチを気に入っていると手紙に書いたら、次の誕生日の時に彼が贈ってくれた。嫉妬してくれたようで嬉しくて、大切に大切にしまいこんで、今まで一度もつけたことがなかったもの。
これをつけていくのは彼女の彼を諦めることに対するささやかな抵抗だった。
今日あの人と会えていたなら、あの人はこのブローチに気づいてくれただろうか。