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窓の外を見て、ため息一つ。彼女の憂い顔が美しいといったのは誰だったか。
誰だったにしろ、その彼女が好きで憂い顔でいるわけではないことは確かだ。
今日も来ない、と、小さくつぶやき、そう言ってしまった自分を嫌悪するように彼女は眉をしかめた。
うまれつき強情で、男を待っているという今の状況を甘受できないほどにプライドも高い彼女は、しかし、好きでそのような性格をしているわけではなかった。直そうと思っても、直らないものは直らないのだ。
そして彼女は眉をしかめてしまった自分をまた嫌悪するように、しかめかたをひどくする。
こんなのだから、あの人も愛想を尽かしてしまったのよ。
ふう、とため息をついて、思い切るように彼女は窓から目をはなした。
しかし、その眉はまだしかめられたまま。ふと、彼女は想い人との過去を思う。
「あの子」ではなく「あの人」と彼の人を呼ぶようになったときが彼女の恋の始まりであったろう。
彼女の想い人は六も年下の男だった。
出会いは彼女が十六のとき、そして彼が十のとき。場所はバザールが開かれている広場。その端では旅のサーカスが芸を披露していた。
サーカスは小さな一座でテントも何もなく、誰もが見て面白いと思ったならばピエロの持つ箱に金を入れた。
彼女はその日、日除けの傘を差して、サーカスの目を見張るような離れ業をじっと見つめていた。
「さあって、お次は我が一座のヒロイン、マリーとこの国で二番目に強いとの呼び声の高い剣士カルロスの剣舞だよ。もちろん剣はこのとおりよく切れる代物だ」
そう言って、口上を述べている男は剣士らしき男から剣を取り上げ、手に持ったリンゴを切って見せた。彼女はその口上、動作を余すことなく今も覚えている。
「舞姫と彼女の美しさに目がくらんだ盗賊の攻防を我らが歌姫の美しい詩吟の調べによせてとくとごらんあれ」
そうして始まった剣舞。手に汗握る展開にそれが作られたものだと知っていても、目を離すことができない。舞姫が剣士の一振りをかわすたび、その衣が美しくたなびく。
その刹那に彩られた美しさに、ほうと感嘆の声をあげれば、次の見せ場がやってきて、興奮は尽きることがない。
すっかり舞台の虜となった彼女が、年頃の娘にあろうことか、思わず周囲のざわめきとあわせて声を出していたことに気付き、はっとしたのは舞台が終わってしまってからのこと。
しまった、誰にも見られていないといいけれど、と、周囲を見回して、
目が合ったのが、彼だった。
十六の娘から見て、十の少年はほんの子ども。どうやら見られたのはこの子にだけらしいと気付き、そのことに安堵して、笑顔で誤魔化して何事もなかったように立ち去ろうとした、
彼女を引き止めたのは彼だった。
「好きになりました」
そう彼は彼女に言ったのだった。
昔を懐かしむようじゃおしまいよ。
それが彼女の祖母の口癖だった。
おしまい・・・・そうよね、おしまいだわ。でも・・・いいじゃない、少しくらい昔の幸せに浸ったって。どうせ、もう二度と取り戻すことなどできない幸福なのだから。
彼女は安楽椅子の背にもたれかかって目を閉じる。
その日の次の日から、彼女は彼とよく会うようになった。
「おはようございます! いいお天気ですね」
彼はいつでも楽しそうに笑顔を浮かべ、頬を紅潮させていた。
「ええ、そうね、いいお天気」
「あのっ、好きです!!」
往来であろうと文脈に関係がなかろうと彼はかまわずにその思いの丈を思いっきりぶつけてきた。
しかしその頃、近くの落ち着いた年上の紳士に心傾けていた彼女に、そんな彼の必死の告白は何の意味も持たなかった。
「ありがとう」
大人ぶって微笑んでそう返しはしたけれど、内心では早く小さな少年との会話を終わらせることしか考えていなかったまだ幼かった昔の彼女。
今の彼女は、どれほど昔の彼女をうらやみ、過去に戻れたならばと悔いていることだろう。
そのうちに彼と彼女のことは噂になった。毎日のような告白劇には見物人までつく始末で、いい加減彼女は六も年下の彼をうっとうしく思い始めた。
ある日、彼女に憧れの紳士と会話するチャンスが与えられた。
「こんにちは」
緊張して上ずった声。たったそれだけの言葉でも、発するのにどれだけの勇気を要したことか。
「ああ、こんにちは。・・・・もしかして君、噂の子かい。ほら、ちっちゃい子に言い寄られてるっていう・・・・」
はい、と恥じ入るように小声で応じながら、彼女は憧れの人が自分を知っていてくれたことに感動し、そして初めて彼の存在に感謝した。
紳士は彼女が頷いたのを確認したうえで続ける。
「いくらちいさくたって人を恋しく思う気持ちは一人前なものだよ。ちゃんと考えて答えてあげなさい。いつまでも待たされては彼がかわいそうだ」
語尾から感じられる憧れの紳士からの子ども扱いと、言葉の裏側に隠された彼を応援する気持ちを感じとった彼女はうちのめされた。そして同時にこれまでに無いほど年下の彼をうっとうしく思ったのだった。
彼女が彼に対して辛くあたるようになったのはその日からだ。
毎日の告白は負担にしか感じられなくなり、少しは好意をもって受け入れていられたのが嫌悪しか感じなくなる。
「好きです」
その言葉が純粋な好意からのものと知っていても、聞くたびに彼女の苛立ちは募る。
ありがとうなんて、社交辞令でも言えたものじゃなく、口から否定の言葉がでないようにするので精一杯だった。
そのことに彼はすぐに気づいたが、理由がわからず戸惑った表情をしながら、それでも彼女に思いを告げるのをやめなかった。やめられなかった。
好きな人をいじめるほど大切なものを分かっていないわけではなく、ただ小さな体からあふれ出る感情を向ける方向を彼女以外に知らなかっただけなのだ。
彼は思いを告げ続けた。
彼女は思いを拒み続けた。
そんなある日だった。
彼がいつになく緊張した面持ちをして彼女に問いかけた。
「迷惑ですか?」
「え?」
突然の問いかけに、なんのことかと彼女は首を傾げた。
「僕の気持ちは迷惑ですか?」
そんなことを言い出したきっかけも分からぬまま、しかし迷惑と思っているのも事実だったので、彼女は小さく肯定した。
「・・・ええ」
その時の彼の顔を、今でも彼女ははっきりとまなうらに描くことができる。
今にも泣き出しそうな顔で、しかし絶対に泣くまいと必死でこらえて、いつもまっすぐ彼女を見ている視線を地面に落として。
その顔を見て、彼女の心臓はきしんだ。
「ごめんなさい」
彼女の心臓が悲鳴をあげる。
「ごめんなさい・・・もう、しません」
彼は走り去った。
彼女は胸の痛みからか、はらりと涙を落とし、立ち尽くすばかりだった。
彼女はこのとき恋をしたのだ。
彼の涙をこらえる顔に、
真摯だった視線に、
思いを告げる唇に。
紳士のときとは比べ物にならない、深い恋に彼女は落ちた。
それがすでに遅すぎたことなのだと後悔したのはすぐだった。
彼は言葉のとおり、二度と出会い頭に告白をしてくることはなかった。それどころか、彼と彼女は顔をあわせることもなくなった。
二人が頻繁に顔をあわせていたのは、彼の努力のおかげだったのだと、彼女は改めて知った。