第六話 パンデモニウム 応接室
我が輩は重苦しい気分を吐き出すようにはあ、とため息をついた。億劫な気分である。
なにが億劫かというと、ここ魔界の首都パンデモニウムにおいて、面倒な来賓を接待せねばならないからであった。
この分霊もすっかり接待役が板についてしまった。下界を気ままに楽しむためだけに作った分霊であったが、どうしてこうなったのやら。
我が輩は窓から外を見た。光が一切差し込まない暗闇の中、頻繁に雷鳴が轟く。
ここは魔界、昼も夜もなく、常に分厚い雲に覆われた常闇の世界。そんな中、魔界の首都であるここら一帯だけが街灯に照らされて光っている。万魔殿とも称される宮殿、パンデモニウムを中心に広がるここは悪魔の街であった。
「よォ、アスモデウス。元気そうじゃねェか」
応接室の立派な扉を開けると、そこには黒めの短髪を逆立てるようにセットした若い男がソファに足を投げ出してくつろいでいた。
少し浅黒い肌に彫りの深い顔。白人でも黒人でも東アジアでもない、典型的なアラブ系の顔立ちである。ネックレスをした胸元が見えるようにはだけたシャツ、それにラフだけど仕立てのいいズボンと革靴。クラブで騒いでそうなチャラいイケメンにしか見えない。
「先に始めさせてもらってるぜ。このビール、結構うめェじゃねえか。ちと香りが足らんがな」
「我が輩はぐいぐい飲めるさっぱり系が好きでな。次は香りが豊かなものを用意させよう、バアル」
このチャラい男の名前はバアルという。我が輩が接待すると表現した通り、力のある神であった。
ウガリット神話といって、ヨーロッパとアフリカの間、現代で言うところのパレスチナあたりで古代に信仰されていた、嵐と慈雨を司る神である。
「お、これは結構イケるじゃねェか。こっちのが俺はいいな。子羊のローストとよく合う」
手づかみで子羊の骨付き肉を食いちぎりながらバアルが飲んでいるのはエビスであった。コクと苦みがあり、風味が豊かなビールである。肉類との相性は良かろう。
ちなみに我が輩は身体がカラッカラに乾いているところにビールを流し込むのが好きなので、飲み口が軽いオリオンかハートランドあたりが好きだ。バドワイザーもいいな。
複雑で芳醇な味わいを持つビールしか認めないという食通気取りがたまにいるが、我が輩に言わせればただのバカである。
どのビールにも特徴がある、自分の好きなビールを場に合わせて飲めばいいのだ。
「でェ? いつキリスト教のクソ信者どもを皆殺しにするんだ? アスモデウスよォ」
突然出てきた物騒な物言いに、我が輩は内心でため息をついた。こいつの接待が面倒な理由はこれである。こいつはヤハウェの熱心なアンチであり、それも過激派なのだ。
ヤハウェを信じるユダヤ、キリスト、イスラム教の信者がすべて息絶えればいいと本気で願っている。
「最近よォ、また例のゲームだとかでずいぶん信仰を増やしたんだってな? そろそろデカい奇跡も使えるだろ。なに、難しいこっちゃねェよ、白人同士で今戦争やってんだろうが。ちっと片方の大統領に奇跡を使って『魔を差さして』よう、核のボタンをポチっとさせりゃあ、あとは報復で核の応酬だ。俺らがそれ以上手を出さなくとも勝手に殺し合ってくれる。万々歳だろォ?」
「そうも行かんよ。核戦争になったらヤハウェの信教圏以外にも飛び火する。バアルも知っての通り、我が輩は最近日本が気に入っているのでな、この地が戦火にまみれるのは――」
「それでいいじゃねェか、アスモデウス。何を腑抜けてるんだ?」
我が輩の言葉をさえぎって、バアルはぎらりと鋭い目つきでこちらを睨む。
「あいつらに大打撃を与えるチャンスなんだ、多少の被害が出てもしょうがねェだろうが。あちらは大打撃、こっちは被害軽微、一気に信仰バランスを盛り返せるかもしれねえ。何よりあのクソ信者どもが大勢死ぬってんなら是非はねェ。そうだろう? なァ、それとも――」
あいつらを根絶やしにしようって誓い合ったのは嘘だったのかよ、アスモデウス。
じっと我が輩を見つめるバアルの目は、本気であった。今日こそは適当な返事で煙にまかれないぞと、そう訴えていた。
「嘘じゃあないさ、我が友バアル。我が輩とて、ヤハウェの信徒など一人残らずいなくなれば良いと思っている」
これは本音であった。正当なる復讐であると、我が輩もバアルも信じていて、ありし日にそう誓い合った。
そもそも、宗教の伝播とは、一種の戦争である。バアルはかつて、ウガリット神話における最高神の息子であった。嵐と慈雨を司るということは、それすなわち豊穣を与え、畏怖される神でもあるということだ。
だが、宗教戦争の過程で、ウガリット神話はユダヤ教、ひいてはキリスト教に敗れ去った。
そして彼らは自分たちの神であるヤハウェを唯一絶対の神だと信じているから、それ以外の宗教の神々を悪魔だとして貶めた。蠅の王ベルゼブブなどと呼び、土着の神々を汚らわしい悪魔だと扱ったのである。ベルとはバアルのことだ。
我が輩とてそうである。色欲を司る悪魔としてキリスト教にて定義されてしまったが、古代において多産は奨励されるべきことであった。
が、我が輩を信仰していた地域がユダヤ、キリスト教で塗り潰されていった結果、多淫を慎むべきだというキリスト教的価値観を押し付けられ、我が輩は悪魔として忌み嫌われることになった。
「自分たちだけ良ければ良いというのが、あいつらの思考であるからな」
我が輩は吐き捨てた。これは事実であり、ヤハウェを信じる宗教はどれも異教徒を認めない。
愛こそがすべてだと綺麗事をのたまいながら、世界で最も侵略戦争を行ってきたのがあいつらだ。
ときには白人至上主義と結びついたキリスト教の布教は、土着の宗教への迫害と原住民への搾取、そして虐殺の歴史でもある。
例えばアメリカ大陸のインディアンは、和平の証にと送られた天然痘の膿が付いた毛布によって疫病を蔓延させられ、虐殺された。卑劣で汚らわしい策略を用いて殺戮を行いながら、「自分たちの土地と宗教が広がってよかったね」とニコニコしてきた人々の末裔が現在のアメリカ人だ。
我が輩だからこそ言うが、日本が第二次世界大戦で原爆を落とされたのは、黄色人種でキリスト教圏ではなかったことが大きいと思っている。あいつらならいっぱい死んでもいいや、と白人たちは考えたのだ。
ともあれ――かつて、我が輩たちはヤハウェの信徒たちに貶められた。
我が輩を信仰してくれた民はもはやいなくなったが、この恨みはヤハウェの信徒が一人たりともいなくなるまで永遠になくならない。
そして、その傲慢な性質ゆえに、彼らは敵を多く作ってきた。
我々は結束し、必ずやいつの日か、かの宗教を滅ぼす。これは我が輩たちの誓いであり、ヤハウェに最も近い天使でありながら彼の在り方に疑問を抱いて離反したルシファー閣下に忠誠を誓う理由である。閣下は、異教徒を慈しむ道を選んだのだ。
「だがね、バアル。我が輩も腹を割って話そうじゃないか。我が輩はもう、民を殺したくないのだ」
彫刻の美しいビアグラスをぐいっと呷りながら、我が輩は調理師学校に通う一人の小娘の姿を思い出していた。
「我が輩が最近、趣味で食べ歩きをしていることを知っているだろう? その日記を付け始めてな」
バアルに、まだ書き始めたばかりのグルメ日記を差し出す。受け取ったバアルは、いかにも興味なさそうな顔でそれを開き、ぱらぱらと流し読みした。
「世の中には、まだ未熟だけれども、料理人を目指す若人がいる。日本だけではなく、世界中にいるだろう。それこそ、ヤハウェの信教圏にも。我が輩はヤハウェを憎む。だが、ヤハウェの信徒を皆殺しにしては、いつか料理人になっていたであろう若者まで死んでしまう。料理人でなくても、音楽家かもしれんし、画家かもしれんし、作家であるかもしれん。その芽を我が輩は摘みたくない。核戦争には賛同できん」
我が輩はバアルの目をまっすぐ見ながら、そう言い切った。
あるいは我々の友誼を終わらせるかもしれない言葉を。
「じゃァ、復讐は諦めるってことか?」
「そうは言っていない。今はいい時代だ、インターネットが広がり、世界中の人間が一瞬にして情報を手に入れることができる。ヤハウェが行ってきた宗教的迫害の数々は、もはや人々の知るところになった。もし、我が輩たちが正しかったなら、自分たち以外を異教徒と断じて攻撃するヤハウェの教えが間違っていたのなら、いつかやつの宗教は滅び、我が輩たちが信仰を取り戻す日が来る。そう信じているのだ。無論、長い長い時間はかかるであろうがな。我が輩は、それでいいと思っている」
しばらく、バアルは考え込むようにページをめくっていた。やがて、飽きたようにそれを我が輩に投げ返した。
「今は、それで誤魔化されておいてやらァ。ニスロクいるんだろ? メシ出しな」
我が輩はほっと安心する。どうやら決定的な亀裂からの対立、およびバアルの暴走は回避されたらしい。我が輩は今世界を救った。
「まあ、確かにな」
言いながらバアルは、ビアグラスを指ではじいた。きんと小気味いい音がした。
「俺の民が捧げてくれたものがたまに懐かしくなるが――あの頃よりゃ、今の方がビールは美味いな」
そう言って、バアルはエビスをぐいっと飲み干すのであった。