第三話 和牛一頭買い 炭火焼肉 艶
「こちらです。個室を取ってありますので、ゆっくりくつろげるかと」
「まあまあ、何から何まですみません、アスモデウスさん」
「アスモデウスさん、今日はお世話になります」
「いえいえ、大したことではありません。それに、私も楽しみにしていました。ここのロースが美味しいんですよ」
さて、見てわかる通り今日の我が輩は一人ではない。一組の夫婦を接待しているのである。
その接待相手というのが冥府の神ハデス氏と、その妻で冥府の女王であるペルセポネ女史である。とても有名で力のある神々だ。
ゼウス、ポセイドンと並ぶギリシャ三神の一人であり、死を司る神であるハデス氏がこんなところに本体で降臨したらあっという間に小さな地獄ができてしまうので、もちろんお二人とも力を落とした分霊でのご招待である。
「下界へ来るのも久しぶりで。変な格好ではないかと心配ですわ」
「日頃からハデスさんがのろけている通りのお美しさです。とてもお似合いですよ」
「やだあなたったらー!」
照れて夫であるハデス氏の肩をぱしーんと叩くペルセポネ女史は、宵闇色のイブニングドレスが実によく合っていた。
現代日本に合わせて露出も装飾も控えめではあるが、袖から伸びる白く透き通るような腕ひとつ取っても彼女の美しさを隠しきれていない。うっかりハデス氏が攫ってきて妻にしちゃうのもわかるというものである。
「ははは、本当のことさ、ペルセポネ。けれど、いつまでも店の前に立っているというのもね。さ、入ろう?」
対するハデス氏といえば、タキシードよりは幾分か崩したジャケットを羽織り、どこかの実業家のように見える。
仲良く腕を組んでイチャつきながら店内へと歩を進める二人はとても仲睦まじい夫婦のようであったが、この二人というのが実は長いこと不仲であった。
まあ、結婚した経緯を考えればそりゃそうだよなって話ではある。女性関係のやらかしっぷりに定評のあるゼウス氏と比べたらまだマシだとは思うが、それでもまともな神経をしていたら一目惚れされたからって突然攫われて妻にさせられたらいい気はしまい。
で、各神話の最高権力者に近い存在としてうちのルシファー閣下とハデス氏は面識があったのだが、そのハデス氏から妻との不仲を相談された結果、閣下が「お前、やれ」と家庭板案件を丸投げしてきたという経緯で我が輩とお二人は知り合った。
確かに色欲を司る悪魔である我が輩の得意分野ではあるが、また仕事増やしてくれやがってと内心閣下に恨み言を吐いたのは懐かしい思い出である。
ちなみに我が輩が提示した解決方法は、ひたすら妻を褒めまくれ、である。
女性の扱いに慣れていないハデス氏に無理やり攫われてきたにも関わらず、一応は状況を受け入れて妻になったペルセポネ女史は、根っこのところでは結構純朴というか、すれていないところがあると我が輩は感じたので、今日も美しいねとかお前が美しすぎたから攫ってしまったんだとかお前は私を照らす月のようだとかひたすら事あるごとに言えと指示したところ、夫の熱意にほだされた冥府の女王と全自動で妻に愛を囁く死の神が爆誕した。
夫婦円満になったことでハデス氏からはその時のことをひどく感謝され、こうしてときおり食事などを一緒する交流が続いているのである。
「では、お二人のおかげで口の中が甘ったるいので、乾杯」
「ははは、アスモデウスさんに言ってもらえるなら光栄だ。乾杯」
我が輩とハデス氏はビールで。ペルセポネ女史はあまり酒を嗜まないようなのでモスコミュールでそれぞれ乾杯した。
見たところ、ちゃんとウォッカに生のライムで作ってあるようなので、舌に合わないと不興を買うことはないだろう。安い店でカクテルを頼むとたまに変なものが出てくるからなあ。
「お、来た来た。この角切りロースが美味しいんですよ」
さて、我が輩もビールを飲んでがっつり焼肉臨戦態勢である。接待とはいえせっかくの焼肉、楽しまなくてどうするというのだ。
さりげなく二、三切れほどこちらで焼いてみせ、後はハデス氏が手ずからトングを持って肉を焼くように誘導する。我が輩がすべて焼肉奉行をやってしまっては妻の手前ハデス氏の格好が付くまい。
ちなみに一皿目の定番である牛タンを頼まなかったのは、彼らに馴染みがないかもしれないと思ったからだ。最近でこそ海外でも高級食材として認知されてきたが、下処理前のタンはなかなかグロいので獣とディープキスするなんて、と敬遠する人もいる。
「ほら、ペルセポネ。これなんか食べごろだ」
「ありがと、あなた。――まあ、とっても美味しいわ、これ!」
無事にハデス氏が焼肉という文化に適応したのを見届けて、我が輩も一切れ角切りロースをいただくことにする。
名前の通り、普通の平たい薄切りではなく、この店はロースを四角くカットして提供している。噛み応えがあるのかと思いきや、カットの仕方に技術があるのか、それとも部位を選んでいるのか、想像よりもずっと柔らかく食べごたえがあると評判の人気メニューだ。
うっすら焦げ目がついた角切りロースをタレに付けて口に放り込めば、炭火で余分な脂を落とされた柔らかい肉。噛み締めながら、最近ご無沙汰だったことで高まっていた焼肉欲が満たされていくのを感じる。ロースうめえ。
「お次は、ハラミなんていかがでしょう。牛の横隔膜で、海外だとスカートステーキなんて呼ばれている部位です。くくりとしては内臓なんですが、言われるまでそうとはわからないほどで、日本では大変人気があります」
「まあ、楽しみだわ」
にこにこご機嫌なペルセポネ女史のおかげでハデス氏も上機嫌で、我が輩はほっと一息である。
下界に来るのは久々だとは言っていたものの、ギリシャ神話で最高神に近い彼らともなれば三ツ星レストランで出てくるような肉料理も飽きるほど食べているだろうし、どうせなら目先を変えてハデス氏が焼いてペルセポネ女史が食べるというアトラクション要素が受ければいいなと庶民向けの焼肉屋にして正解だった。
庶民向けとは言ったものの、店員がすべて焼いてくれるような焼肉店ではないというだけで、個室だし店構えは新しくて綺麗だし出てくる肉は確かだしでけっしてお安い店ではない。
とはいえ、いい肉を炭火で焼いてタレで食べる、この美味しさは万人に受けるだろうと思っていたので自信はあった。
ちなみにだが、飲んだくれるのが好きな我が輩が一人でこの店に来ることは多分ない。
我が輩の好きな店は、何一つ気兼ねすることなく一人焼肉ができるホルモン焼肉みたいなところである。ひたすらハラミと辛味噌ダレのトロホルモンでライスを食べてビールを飲む。
我が輩は焼肉には絶対に米が要る派である。
「最近、副業の景気はどうです? アスモデウスさん」
おっと、来たぞ、と我が輩は内心で接待モードに戻る。以前、この分霊では悪魔的な仕事をしないと言ったな。あれは嘘だ。悲しいことに接待をするにあたってこの分霊が一番適任だったのである。
そして、軽いジャブのような会話に見えて、各神話の最高神クラスとのやり取りとなると、言外にいくつもの意味が込められていたりして気を抜けない。
接待であることには間違いないので、彼らもそう深入りした話はしてこないだろうけど。
「悪くありません。最近発表した、悪魔を題材にしたソーシャルゲームが男性層に受けていまして、現実世界のアイドルにハマっていた層がいくらか流れてきたこともあって出だしは好調です。信仰をほとんど失い、消えるのを待つばかりだった悪魔で、少し持ち直した者もいます」
「それは何よりです。配下の者たちが力を失っていくのは見ていられませんから」
ハデス氏がどこか遠い目をする。
悪魔、のみならず神やら天使やらといった超常的な存在というものは、生きていくのに人間からの信仰を必要とする。これは必ずしも崇拝している必要はなく、そういった存在がいると信じられていればいい。
例えば我が輩を例にあげると、全世界で圧倒的多数の信者がいるユダヤ、キリスト、イスラムといったヤハウェを信じる宗教の中においてバイブルである聖書に名前が載っているので、それはイコール我が輩の存在を信じている人間が非常に多くいるということになる。
なので我が輩は悪魔のみならず神々を含めたくくりの中でも力が強い方だ。
所属が大会社というのはそれだけで強いものなのである。
逆にマニアックな神話の、しかも主神級でない零細の精霊や神になると、誰も興味を示さないからどんどん人々に忘れられて力を失っていく。そしてやがて、そんな存在がいたことすらなかったことになってしまう。これが我々悪魔や神にとっての死だ。
それを避けるべく、我が輩たち悪魔は自分たちの存在をアピールするのに躍起になっている。女体化したイラストでソシャゲを作るのもその一環だ。
「お二人こそ、例の台は大ヒットしたではないですか。その後はいかがですか?」
「あれですか。正直に言うととても助かっています。少年漫画がブームになって信仰を大きく回復したのも、かなり昔のことでしたから」
例の台、というのは平たく言えばギャンブルの機械である。ここ最近、ゼウス、ハーデス、ポセイドンなどといったギリシャ神話の神々をモチーフにした台がヒットしたため、彼らのみならず一緒に出演したペルセポネ女史を含めて大きく力を得たのだ。
「賭博神として祈られるのは予想外でしたがね。これがまあ、熱心な信仰でして」
「ははは。ギャンブル性の高い台でしたからねえ」
こうして我々がにこやかに談笑できているのも、娯楽を通して人間から十分な信仰を得られているからだ。
そして、自分が唯一絶対の神で他の神々の存在を認めないというヤハウェのあり方と彼ら他の宗教の神々は根本的には相容れない。
それゆえに我が輩のようなヤハウェに敵対する悪魔と彼らは手を組める。だから今後も上手くやっていきましょうね、と接待が必要なのである。
「続編はさほど人気はないようですが――」
「あなた、ハラミすっごく柔らかくて美味しかったわよ」
「おっと、次を焼くのを忘れていたよ。すまないね、ペルセポネ」
つんつんと夫の脇腹をつつくペルセポネ女史である。
私的な会談とはいえ主神級同士の、しかも信仰に関わる話に考えなく割って入る方ではない。
肉を焼くことを促すことで、ちょっと踏み込みすぎよ、と夫を制しているのである。よくできた嫁さんであった。
我が輩とて、今すぐヤハウェやその配下の天使たちに正面から立ち向かうつもりはない。それをするには、彼らの力は強すぎる。
今は雌伏のとき。娯楽を通して我々の信仰を増やし、彼らの力を削ぎ、いつか下剋上を成し遂げるのだ。
「カルビ行っちゃいましょうか。脂が強いバラ肉の部位ですので、サンチュというレタスの一種でくるんで食べるとよく合います。味噌を付けてもいけますよ」
全面戦争までは付き合わないけど裏では上手くやっていきましょう、というスタンスの確認は終わった。ならばもう、後は食うだけである。
運ばれてきた特上カルビは見事にサシが入った最高のものである。余分な脂だけの部分を削ってあるのもいい。
焼肉屋は原価が非常に高く、利益率の良くない商売であるので、安い店になると牛脂そのものの部分まで付けたものをカルビですと出してくることがある。
その方が歩留まりといって、元の重さからどれだけ食用に使えるかという目安としては良くなるのだが、当然ただの脂であるから焼いているうちによく燃えて縮んでしまうし、客としては嬉しくない。
綺麗にカットしつつ、出てしまった端材をクッパなどのスープに使うなど、客に不利益がない範囲で少しでも食材を活用するのが焼肉屋の腕の見せ所だったりするのだが、この店は高級店であるからして値段を高くすることですべてまるっと解決している。
そして接待など大事な客と食卓を囲むにはこういう店が必要で、ちゃんと需要に応じて住み分けができているのだ。コスパだけが飲食店の全てではない。
「あなた、カルビも美味しいわ。脂っこいかと思ったけれど、お肉の味がちゃんとするのね」
ペルセポネ女史の言に、そうそうそうなんだよと我が輩は内心で頷く。
思ったよりもいい肉で嬉しい誤算である。
例えばサーロインステーキの霜降りに代表されるように、和牛というものはサシが細かく入っている方が喜ばれる。A5ランク、などという表記を見たことがあると思うが、あの格付けにもサシの入り具合が大きく関わってくるのだ。
我が輩も昔は何も考えず、サシの入ったステーキ肉などを食って柔らかさに満足していたクチであるが、最近になって肉そのものの味も重要だなと考えるようになった。
本当に美味い肉は、肉そのものの味なのか、それとも熟成の仕方がいいのか、例えばカルビなんかを食べてもちゃんと肉本来の芯の味がするのだ。これがないとただの脂っこくて柔らかい肉だなで終わってしまう。
「あなた、私本当にこの組み合わせ好きかも。おうちでもこれできないかしら?」
ペルセポネ女史が食べているのはサンチュで巻いたカルビである。よほどお気に召したのか、味噌をちょこっと付けたりと色々試して破顔なされている。
そして、「これ」と言ったのは焼肉という行為そのもののことであり、ひいては炭火が収納できる吸煙機能つきコンロテーブルがお住まいの宮殿に欲しいと仰せなのであった。
気に入ったからうちでもやろうって発想がすぐ出てくるあたり、セレブである。
「ご存じのニスロクを後日お送りしますよ。彼の配下でしたら良い物を作ってくれるかと思います」
「まあ、嬉しいわ!」
魔界の料理長の名前を出せば、ペルセポネ女史は手を叩いて喜んでくれた。当然ながらハデス氏も妻が楽しんでいてにっこにこである。
お土産がわりに働かされるニスロク氏には少し悪いが、食に関することなので喜んで行ってくれることだろうし、食肉の流通経路にも強いだろう。
彼らは楽しんだ。お土産も持たせた。我が輩も普段口にしないいい肉を食べられてご満悦。三方よし、接待とはかくあるべきだと思う我が輩であった。