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第二話 よろづ海鮮 浜や

「あー、疲れた」


 我が輩の体感時間で言うと、数日ぶりにこの分霊を起動した。ここのところ悪魔的謀略が忙しく、ろくに休みが取れない日々が続いていたのである。

 

 この際なので我が輩の立場を簡単に説明しておくと、我が輩の出身宗教であるユダヤ教は、業界最大手のキリスト教の前身となった宗教である。

 これらの宗教が崇める神はどちらもヤハウェというやつで、他にもイスラム教の神ことアッラーというのもこのヤハウェである。

 ものすごーく雑にくくると、旧約聖書がユダヤ教の時代、新約聖書がキリスト教の時代と考えてもらってよいのだが、我が輩は主にこの旧約聖書に登場する悪魔であり、紀元前の時代から神ことヤハウェと我々悪魔というものは対立している。


 で、この神や天使たちと戦っている我々悪魔のてっぺんにあたる人物として魔王サタンと呼ばれるルシファーがいる。

 蛇になってかの有名なアダムとイヴを誘惑した悪魔であるのだが、このルシファーというのがとてつもない力を持っていて、魔界にいる全悪魔の中で一番強くてエラい。


 我が輩はというと、力の差が大きいからルシファーにほぼ従属しているけれども表向きは同格の悪魔であるという、言葉にすると何ともややこしい状態になっている。

 本能寺の変で倒れる前の絶頂期にいる織田信長と徳川家康ぐらいの力関係ぐらいといえばいいだろうか。そんなわけで、最強ではないけれど我が輩は悪魔的にはけっこう偉い。


 まあ下手に立場があるので、誰かの尻拭いに奔走させられたりするわけだが。特にルシファー閣下は突発的に変なことをやりだすので油断ができない。

 例えば先日などは、いまどき信仰を集めるなら女体化ぐらいはしないとならぬとか言い出して女性体の分霊を作り始めたわけだが、あまりのファッションセンスに見ていられなくなって色欲を司る権能を持っている我が輩が全力アドバイスする羽目になったりした。

 諸君がもし美麗な女性体の閣下をお見かけすることがあれば、その陰で奔走した我が輩の尽力をくみ取って頂けると幸いである。

 なおいくらガワが良くても中身は閣下なので言動までは保証しない。


「はいよ、生おまちどお。はいこちらも生、おまちどおさんね」


 鉢巻をした店主が手ずから入れてくれた生ビールが目の前にごとりと置かれる。

 

 カウンター席に案内された我が輩の目の前には、鮮魚が並べられたガラスのショーケース。

 今日の我が輩の憩いの地は、海鮮居酒屋である。


 今の我が輩は悪魔的業務で疲れたこともあり、しこたま飲む気であった。最初こそ愛するビールで始めるものの、店こそアタリであれば日本酒を飲みまくってやろうと思っていたのだ。


 結論から言うと、この店はほぼ間違いなく良い店であろう。


 職人気質が垣間見える大将の包丁さばきは堂に入ったもので、カウンター六席にテーブル席が四つほどの狭い店内はまだ夕方の五時を回ったばかりだというのに半分ほども埋まっている。

 どの客席もピカピカに磨き上げられており、お通しで出されたあさりなんて冷え物ではなく、出汁で軽く煮た後に三つ葉を添えた小皿で出てくるという具合で、万事に大将の心遣いが匂い立つ非常にいい店であった。これからの飲みにも気合が入るというものである。


 何はともあれ、生ビール。ここ数日、お疲れ、我が輩。

 別に一気飲みしようと思っていたわけではないのだが、喉にビールを流し込みはじめたら止め時が見つからなかった。もう一口、もうひと飲み、そう思っているうちにみるみるジョッキの中身は空になっていく。

 やっぱりこれだ、これである。金色の幸せが喉を通り抜けるたびに、脳内のストレスが弾け飛んでいくのがわかる。我が輩はいま、幸せ。


『はぁ――……』 

 

 ジョッキをテーブルに置きながら一息つく我が輩であったが、ん? と違和感に首をひねる。

 数日間の苦労が溶けだしたような渾身の脱力系吐息だった自信があるが、それがどうもハモっていたような気がするのだ。そういえばジョッキをテーブルに置く音もごとんごとんと二つあったような気がする。


『……』


 ふと横を見れば、我が輩と同じように空になったジョッキを握りしめた若い女性と目が合った。

 いや二千五百歳は軽く超えている我が輩と比べたら誰だって若いのだが、サラリーマン風の擬態をしているこの肉体と比べても明らかに若い。女性の化粧なぞ我が輩には通じないが、肌年齢を見る限り成人しているかどうかといったところであろう。


「……ふふっ」


 そんなことを思っていたら笑われた。まあ確かに滑稽な図ではあろう。いい年をしているように見えるサラリーマンと、カジュアルな私服で一人飲みに来ている若い女性の二人がカウンターに腰かけて同じタイミングで一気飲みの解放感に浸っているのだから。


「えっと、お疲れ様です?」


「これはご丁寧に。お疲れ様です」


 会釈をされたのでぺこりとお辞儀を返しておく。いや待てその歳で一気飲みの解放感知ってるのは早くないかとか本当に成人してるのかとか、そのあたりのツッコミが内心で渦巻くが口には出すまい。大将が良しとしていればそれでよかろう。

 飲み屋で客の素性を詮索するほど野暮なものはない。

 

「大将、生おかわり」


「あ、んじゃ私もください」


 あいよ、と小気味いい返事を聞きながら、それにしても日本はいい国だ、と思う。

 女性の一人飲みが成立する国なんて世界中を見回してもそうはない。治安が良く、飲酒行為そのものに大らかという、のんべえにとってはまさに天国のような国だ。

 やーいヤハウェ、お前んとこの天国、夜にお酒買えないんだってなー。 


 全知全能の神に心の中で中指を立てつつ、酒のアテを探して店内をぐるりと見渡す。

 この店はドリンクと定番ものだけがメニューになっていて、季節ものや本日のおすすめなんかは壁に貼りだしているようだ。

 定番メニューからも無論いくつか頼むつもりである、例えば我が輩の好物の白子ポン酢とか。が、やはりこういう店に来ると、本日のおすすめといった日替わりの品を外すことはできまい。


 む、あれとかいいんじゃないか。目ぼしい品を見つけ、とりあえず注文をすべく片手を上げようとすると、同じタイミングで二つ隣に座った例の女性が「すいま……」とやはり手を上げるところだった。思いっきりまた目が合った。

 慌てて手を引っ込め、二人してどうぞどうぞと譲り合う。コントか。埒があかないので、店主に目配せして順番を譲る。


「はいよ、お嬢さんから。ご注文は?」


「ありがとうございます。それじゃ出汁巻き卵と、カサゴのお刺身ください」 


 いいところを突いてくるではないか、と思わず我が輩はうなった。カサゴは我が輩も頼もうと思っていた品であった。 

 流通量の多いブリやタイなどと違い、カサゴが刺身で食べられる店はそう多くない。注文をかぶせに行ったと思われたくはないが、食い逃したくはない一品であるから、我が輩も続けて頼まざるを得ない。


「こっちにもカサゴと、白子ポン酢一つ」


 勇気を出して注文すると、大将はどこかバツの悪そうな顔をした。


「申し訳ないんですが、数を仕入れられなかったもんでカサゴは今ので終いなんですよ」


 ジーザス。我が輩は思わず天を仰いだ。二つ隣の女性とはいえば、あちらも両手で口を覆ってやっば……みたいな顔をしている。

 そりゃそうだ。カサゴを食い逃すことになったのは残念だが、それどころではない。

 あちらさんからしてみれば自分が注文したせいですぐ近くの席にいる我が輩がカサゴを食い逃すことになるわけで、別にあちらが悪いわけでは一切ないけれども、気まずさといったらこの上なかろう。席がなまじ近い上に会釈を交わした仲であるので、知らんぷりできないのがなお悪い。

 

 我が輩とて逆の立場であったら、よっしゃー我が輩が先に頼んだんだし味わって食べるもんねーみたいな気分にはなれぬ。

 メシを食うときに他人様に気を使いながら食って美味いわけがないし、先方にそんな思いをさせたくないので気にせず食ってもらっていいのだが、まあ気になるであろうなあ。

 誰が悪いというか、強いていえばタイミングが悪い。悪魔的なタイミングの悪さである。


「あ、あああの私は結構ですんでそちらで!」


「ああいえいえ、お気遣いなく。是非そちらで」


 接客業的に歓迎できない事態が起きてしまったせいか、口をヘの字にして苦い顔をした大将が見守る中、しばらくどうぞどうぞと繰り返す。

 やがて、おずおずとであるが、二つ隣の若い女性はぽつりと言った。


「ええと、じゃあシェアするってのはどうでしょう?」


 ふむ、と我が輩は納得する。なるほど、合理的である。

 我が輩としては一人でゆっくり飲みたい派であるので、必要がなければ誰かに話しかけたりはしないのであるが、今回のケースにおいては丸く場を収めるためには最善の解決法と言えよう。


「では、お言葉に甘えまして」


 折り目正しく辞儀をしておく。今の我が輩は本体ではないので、話のきっかけが出来たことをこれ幸いとばかりに距離を詰めたりはしない。

 色欲を司る悪魔としては女性を誘惑するのは本職であるのだが、何が悲しくてオフの日にまで仕事をせにゃならんのか。

 せっかくゆっくり飲食を楽しむ気分のときにナンパまがいの馴れ馴れしい会話を仕掛けられてはあちらさんもうんざりであろう。色恋と食欲は両立しないのだ。


「へー……ほー……」


 カサゴを待つ間にふと横を見れば、例の若い女性――小娘と仮称することにする――はずいぶんと真剣な面持ちで大将の手さばきを眺めている。

 確かに見てくれの変わった魚ではあるが、いま切り付けているのはすでに仕込みが終わっている半身のサクだ。刺身を切っているだけであるというのに、そこに興味を示すとはなかなかシブいではないか。


「へい、お造りおまち」


「あ、ここに置いてください」


 我が輩と小娘の間の空席にカサゴの刺身が乗った皿が置かれる。瑠璃色の中皿に大根づまが敷かれ、大葉で彩られたカサゴの白身が輝いている。季節のあしらいに紫芽をほんの少し、薬味はレモンと桜に飾り切りされた人参の上にわさびが乗っている。


 やはり職人が作った料理は目に楽しく美しい。

 切り方、盛り方にも個性が出るから、刺身一つとっても俺はこういう人間なんですよと大将に自己紹介されたような気分になる。それもまた、味わいだ。


「すいません、食べる前に写メ撮らせて頂いても?」


 小娘が言ってきたので、どうぞどうぞと撮影を待つ。

 時を移さず食うのが客の礼儀であると思うからぱしゃぱしゃと料理を撮る行為を我が輩は嫌っているが、これだけ美しいお造りであるなら写メの一枚も撮りたくもなろう。許すぞ小娘。


「お待たせしました。いただきましょうか」


 手際よく撮影を終わらせ、お互いの席の中間にあるカサゴの刺身に二人して箸を伸ばす。我が輩ちょっとわさび付けちゃお。

 控えめに醤油を付けて口に放り込むと、薄めに切られたとは思えないカサゴの弾力がたまらない。

年中美味しい魚ではあるが、大ぶりな個体なのか脂のノリがよく、上品な白身の中に少し甘みがあって素晴らしい一品であった。

 わさびが鼻につんと抜ける余韻が残っているうちにビールを流し込めば、我が輩大満足である。


「歯ごたえすごっ。おいしいですねー、これ」


 譲り合いながらうめぇうめぇと二人して食べていると、カサゴはあっという間になくなってしまった。名残惜しいがおかわりもできない以上、これもまた一期一会であろう。  


「やっぱりちゃんとした人が作ったやつだとツマもおいしいですねー」


 うんうん頷きながら小娘は大葉で大根づまを巻いて食べている。いやほんとに通だなお前。

 刺し身だけ食ってツマを食わない輩が多い中、ずいぶん好感が持てるやつである。

 我が輩も機械でカットされたチェーン店のツマは残したりするが、職人がかつら剝きから作ったツマは歯触りが良いのだ。


「大将、熱燗で」


 いよいよ白子ポン酢が供されたので、日本酒に切り替えることにする。我が輩はこの組み合わせが大好物である。


「もみじおろしにネギを乗っけてっと」


 人によっては苦手であろうタラの白子。それをひょいぱくと放り込めば、口の中で弾けてクリーミーな中身が流れ出てくる。

 丁寧に下処理されているであろうそれに臭みはまったくなく、珍味と呼ぶべき美味さがたまらない。ここにお猪口に注いだ熱燗をきゅっと呷れば――我が輩は幸せであった。表情こそ真顔であるものの、内心はアヘ顔一歩手前である。

 ああ美味い。マジで美味い。我が輩ほんとこれが好き。


「大将、カサゴの会計こっちにつけといて」


 しばらくの間好きに飲み食いしていたら、小娘が席を立ったので野暮用を済ませておく。

 道理としては年上のこちらが持つべきであろうが、せっかく飲みまくっていい気分だというのにまたいえいえ私がなどとやり取りをするのは面倒である。あいよ、と大将が返事をしてから間もなく小娘が帰ってきた。


「こいつは、店からの気持ちです」


 ふと、大将が我が輩と小娘に小さな碗を差し出してきた。蓋を取って中を覗き込めば、海の香りのする湯気がほわっと広がる中、ネギだけが上品に浮かんでいた。


「カサゴのアラで取った潮汁です。濾してあるんで身や骨は入ってませんが」


「いいの大将?」


「やったー!」


 カサゴは身も美味いが、頭からとてもいい出汁が取れる。注文がブッキングした件への詫びであろう。

 なんとも小粋なサービスではないかと一口啜ってみれば、実にいい出汁で沁みいるようだ。


 我が輩も小娘も結構出来上がっていたので、当初の心の距離などどこへやら。

 これマジ美味い、ねー美味しいですよねーなどとぺらぺら喋りながら飲み食いすれば実に楽しい。


 カサゴもそうであったが、人との出会いも一期一会。たまには人と喋りながら飲み食いするのも悪くないと思いながら、我が輩は潮汁を啜るのであった。

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