ハルキ。
なんとか描写を抑えたり、削除したりしましたが大丈夫かなあ···どうか、修正が入りませんように(笑)
私は名前で大体、男に見られてしまう。
もっと女子らしい名前が良かったのにどうして両親はこんな名前を付けたのだろうか。
とはいえ、そういう名前だからか私は可愛い女の子とは程遠い容姿に育ってしまった。
そこら辺は私の努力が足りなかったのかもしれないのだけれど――――
「ハルキ」
後ろから自分を呼ぶ声に集中を切られた。
喫茶店の窓際の席に座ってアイスコーヒーを飲みながら通りを見ていた私。
「澄子さん」
コートに細かい雪を乗せて、待ち人はやって来た。
「あなた、この寒いのにアイスコーヒーなんて飲んでいるの?」
寒い外から暖かい店内に入って来た彼女は、頬に赤みをさしながら隣にやってきた。
「店内は暖かいよ」
今の季節は冬だけど、今日は冷たい飲み物が飲みたかったのだ。
「注文してくるから見ていて」
澄子さんは脱いだコートとカバンを置くとレジに向かう、店内はまだ混み始めていない。
冬は陽が暮れるのが早いけれど、まだ暗くはなく人々は時折吹き付ける風と粉雪にコートやダウンの襟を立てて私の前を通り過ぎている。
都会は雪と言ってもちらつく程度で、あまり積もらない。
時々、ドカッと降る時もあるけれどまだその気配は感じなかった。
喫茶店で飲み物を片手にボーっとするのが私のストレス解消法。
人々をウォッチするのは楽しいし、なかなか面白い。
そういえば澄子さんもウォッチ対象だったんだっけ、と思い出す。
道を挟んで喫茶店があった、両方とも2階に。
机とイスの設置は違っていたけれど、澄子さんはいつも窓側の定位置に座っていて私もいつも同じ席に座って窓から景色や人を眺めていた。
距離はさほど近くも無く、遠くも無い。
私もじっと澄子さんを見ていたわけではないから大丈夫かと思っていたけど、あとで気づいていたと聞かされた時は恥ずかしかった。
「お待たせ」
人の居なかった左側に澄子さんが座って、空間の密度が濃くなったような気がする。
「こう寒い日はホットに限るでしょ」
ココアのいい香りが私に届く。
甘ったるい香り。
「それ、嫌味?」
「まさか。でも、この寒いのに冷たいものは飲みたくないわ」
「お腹弱いしね」
「それ、いらない情報」
カップを持つ手で、私の頬に拳を軽く当てる。
季節に限った事ではないけれど、彼女はアイスと付くものは滅多に飲まない。
あの暑く、蒸す夏でもホットを好んで飲む。
まあ、体質的に弱いというのであれば仕方がないのだろうけれどあえて私は理由を聞いたことはなかった。
「お疲れさま」
私は休暇で、澄子さんは仕事帰り。
「また、ウォッチングなのねえ」
苦笑しながらチビチビとココアを飲む。
「本を読むより楽しいから」
「私は飲みながら本を読む方が好きだけどね」
時間の使い方は千差万別、私も澄子さんも違う。
「あなた、ハルキって名前なのに」
「名前は関係ないよ、某作家とは」
男と間違われるのと同様によく言われる。
本はあまり読まない、すぐに眠くなってしまうから相性は良くなかった。
「・・・私たちってどこが合ったのかしら」
他人と付き合う為には趣味は大事。
「私は本を読まないけど、別のところで惹かれ合っていると思うよ」
「それはどこ?」
「―――澄子さんは私と別れたいの?」
さっきから彼女の言葉にそんな感じを受けるけど私は別れるつもりは全く無い。
直して欲しいところは少しあるけど、彼女のことは好きだ。
「どうして?」
「だってさ、急に私たちってどこが合ったのかしら?とか聞いてくるから」
窓側の座席は少し寒いせいか、人があまり居ないのでこんな話をしても構わなかった。
「ふと、疑問に思っただけ」
「私は感覚的なものとしか――――・・・」
1年くらいウォッチして澄子さんの事が気になりだした。
ワンフロア上で仕事をしているのになぜ、わざわざ向かいの喫茶店へ行ってお茶をするのか分からなかったからだ。
歩いて外に出て、空気をすったりして気分転換をしているのか。
一時でも会社から離れたかったからなのか。
その興味が“恋”に段々変化していった。
報われない想いだとは分かっていたので胸に秘めたままでいようと思っていたのだけれどある日、ばったりエレベータで顔を合わせる。
乗っているのは2人だけ。
遠目から見ているのと、狭い空間の近距離で見るのは大違い。
心臓がドキドキと早鐘のように打つ、呼吸を乱さないようにすることが精一杯だった。
会社は違うし、滅多に顔も合わせない私たちだったから声を掛けるのもあり得なかった。
なのに――――
「ハルキって男の人の名前ね」
声を掛けて来たのだ、澄子さんが。
私はびっくりしてすぐには返事が出来なかった。
「あ・・・はい・・・」
数秒後にやっと喘ぐように言えた、緊張しながら。
箱が動く時間が長く感じる。
「私、澄子。 高杉澄子ね」
私の方を向いて自己紹介をしてきた。
「え・・・っ」
いきなりのことに私は混乱する。
自分が恋募っている本人が真横に居て、話しかけてきている上に自己紹介してくれているのだ。
なぜ私に声を掛けるのか。
同じビルで働いているからとは思えない、顔だって見たことはあるけど話したことなどないのだ。
「あなた、ここのビルの喫茶店の窓際でいつもぼーっとしているでしょう?」
「えっ」
その言葉に一気に身体が熱くなった。
見られていたのか。
いや・・・私から見えているのだから彼女からも見えているのは当然だろう―――と考える余裕も無い、いきなりのことで動揺してしまう。
「ふふふ、また会えるといいわね」
チン。
エレベータが7Fで止まった。
「ここで降りるのでしょう、ハルキさん?」
カゴが止まって、扉が開いても動けない私を身かねて彼女は笑いながら締まりそうな扉を手で押さえてくれながら言った。
「あ、ありがとうございます」
頭の中は真っ白になっているので自分が今、話していることも分からない状態。
かろうじて、礼は述べられたと思う。
今は、早くここから離れたいという思いが強い。
彼女に近づくことが出来たというのにその幸運から逃れたいと思うのは皮肉なことだった。
それからしばらく、接点はなかった。
しかし、日課となっている喫茶店からのウォッチではいつもの席に座っている彼女を見ることが出来た。
私が見ていることは分かっているだろうにそれでも他の席には移らない。
けれど、彼女は私が見ていることを知りながらも私の方に視線を向けることはなかった。
良く分からない――――
さすがに凝視することはなかったけれど(気持ち悪い思いをさせたくない)彼女のことをウォッチしながらその行動に理由を見つけられないままでいた。
「お待たせしましたアイスコーヒーとホットケーキです」
ウエイトレスが待ちに待ったものを運んで来る。
私は今日、残業で糖分を取るために喫茶店に来た。
18時を過ぎたオフィス街は暗く、所々でビルの窓に明かりが灯る光景が見られ始める。
最低でも21時までは帰れないか・・・
本日、お昼過ぎにシステムバグが見つかって技術系の人間が残って解決に当たり、交代で休憩を取っている状況。
世間的に働き方を改める昨今、うちの会社はそれに追随はせず残業、休日出勤は結構ある。
ただ、休みが取りやすいかということより給料はいいので私は離職せずにこの会社に留まっている。
蜂蜜をたっぷりとホットケーキにかけて、ナイフとフォークを使って一口サイズに切った。
口に入れる前から美味しいと分かる。
ここのところ、働き過ぎて糖分不足により集中力が切れていたから嬉しい。
ぱくり。
ン―――――!
さすがに声に出すのはマズいので、一人で悦に浸る。
美味しい!
目をつぶって天を仰いでしまう。
大袈裟だけど、求めていた美味しさだし、求めていた糖分なのだ。
ナイフを持つ手が止まらない、あっという間に食べ進む。
途中まで来て、物足りなさを感じた私はメニューに手を伸ばす。
追加で甘いものが欲しい・・・
身体が要求しているのだから、摂取しても問題無いだろう。
太ることよりも、仕事で倒れることの方がはるかに問題。
ホットケーキ以外を頼もうと考えたけれど、他の甘味には何故かそそられない。
「すみません、ホットケーキをもう一つ下さい」
私はウエイトレスを捉まえるとホットケーキを頼んだ。
彼女も慣れているのだろう、営業スマイルでわかりましたと言うと厨房に戻って行く。
これを食べたらもうひと仕事をして帰りだな、少し満たされたのでアイスコーヒーを飲みながら窓の外を見る。
道向かいの喫茶店にも人は入っていた。
私みたいな残業する人たちが腹を満たすために入っているのだろうか。
いつもの席に彼女の姿は見当たらない。
定時を過ぎているし、きっと帰ってしまったのだろう。
残念に思いながら私は頼んだホットケーキが来るのを待った。
『ハルキ、先返っていいよ』
予定よりかなりかかりそうになって、先輩の一人が私に言った。
能力が劣っていて足手まといというわけではなく、女性だからという事らしい。
私は別に気にしないが、会社は気にするらしく女性は23時以降残業をさせるなと現場に通達を出しているようだった。
せっかくなので先に上がらせてもらうことにした、こういう時は少し得だなと思う。
男女平等で甘えていいのかな?と思うものの、嬉しいので甘えさせてもらおう。
その代わり、別なことで何かフォローできればいい。
机の上を片づけ、残っている先輩方に挨拶をしてオフィスを出る。
更衣室に寄って着替えなければならない、定時以降の遅い時間という事で廊下は省エネで必要最低限度の明かりしかない。
日中は明るすぎるくらいの廊下が今はひっそりと静まり返り、さらに奥の方は薄気味悪く見える。
幽霊は見たことがないし、怪談話は信じない方だけれどこれはさすがに肩をすぼめて更衣室まで歩いてしまう。
その更衣室にすら嘘かまことか、怪談話があるから困る。
よく遅く帰る私だけれど今だ幽霊には会ったことはない、会おうとも思わないけれど。
いや、会いたくもない(苦笑)
「はあ―――」
ひとりなので上の階から呼び寄せたエレベーターのかごを待つ間に大きくため息をひとつ。
極度の疲労はないが、甘いものを摂取しても疲れは溜まっているらしい。
早く帰れて良かったのかもしれない。
チン。
カゴが到着したので、疲れていた私は惰性でエレベーターに乗り込む。
ひとりだと思っていたのでまったく注意していなかった。
「お疲れさまね、今までお仕事?」
ふいに声を掛けられてびっくりした。
身体が飛び上がるほどに。
声も上げていたと思う。
「・・・もしかして私に気づかなかったの?」
私の姿を見つつ、苦笑しながら高杉さんは言った。
「なっ、なっ、な・・・っ」
びっくりして声にもならない。
疲れて油断していたのは仕方がないとしても、我ながら酷い反応だと思う。
驚き過ぎて声にならないのだ。
心臓がバクバク言っている、初めて声を掛けられた時よりも激しい。
「―――何で居るんですか」
「残業よ、あなたもでしょ?」
「た・・・高杉さんもこんなに遅くなるような仕事をしているんですか?」
入っている会社は知っているし、どんなことをしているのかも知っているけれど細部までは知らない。
彼女がどの部署に居ることも。
「滅多に無いけど、今日はたまたまね」
静かな音を立ててエレベータは降下してゆく。
この、静寂が苦痛に感じる。
彼女と話したのはこれで2回目、喫茶店での彼女を盗み見ているのを知られているだけにバツが悪い。
「ねえ、あなた。夕飯は食べた?」
彼女は壁に寄りかかって聞いてきた。
私はまだ驚きから平常心を取り戻しておらず、動揺したままでいるのですぐに返事ができない。
「こんな時間でしょ? お腹が空いているの、私」
「は、ぁ―――」
なんとも気の抜けた返事だと自分でも思う。
「あなたさえ良かったら、この後遅い夕飯でもどう?」
と、きた。
びっくりしている上にさらにびっくりした。
「私、ですか?」
聞き返してしまう。
想いを寄せている彼女に誘われたのだから、ハイと返事をすればいいのに動揺し過ぎて私はそんな事をしてしまった。
「あなたしか居ないでしょ、ここには」
呆れたように言われる。
「で、すよね・・・」
嬉しいのだけれど、気持ちがふわふわしている。
「お腹空いてない? それとも今すぐに帰りたい?」
余程、お腹が空いているようで畳み掛けられた。
「い、行きます。お腹空いています!」
まさかの事態に疲れなど、どこかに飛んで行ってしまった。
好きな人に食事誘われたのだ、行かないでどうする!
なんとか気持ちをもち直した私はそう答える。
「よろしい。最初からそう言えばいいのよ、苦手なものは無いわよね?」
彼女の言いなりだけど気にはならない、むしろ私としては引っ張ってもらう方が性に合っている。
歳は幾つなのだろう、という疑問はあった。
年齢でひとは見た目では判断付かない事のほうが多い、私もそうで若く見られることが多かった。
私より年上か、同い年か―――年下・・・は無い気がする。
会社を出て、まだ人の気配が漂う繁華街の方に向かって二人で歩いた。
連れていかれたのは細いビルの6階、何となく普通のお店ではなさそうな雰囲気がビルの入り口から漂う。
こんな場所に出入りするような人では無さそうなのに、と思いながら彼女に付いて行く。
エレベータも3人乗れば一杯で、かなり使い込まれているようだった。
「よ、よく来るんですか?」
つい、どもってしまう。
まだ、緊張しているらしい。
「そうね、落ち着くし料理が美味しいから」
落ち着く―――・・・
雑多な場所が落ち着く、というのは変わった人なのだろうか。
私はよほど酷いお店でなければ問題無い。
酷いお店とは、劣悪で不衛生な店内とあまりにも客を客とも思っていない店主・店員が居る店だ。
高杉さんが不衛生なお店に連れて行くようなタイプには見えないので、ビルの外見だけなのだろうと思うことにした。
本当にそうかもしれないし(苦笑)
エレベータの扉が開くとすぐ目の前に木の扉が現れる。
「ここよ、入り口は狭いけど奥に長いから窮屈ではないわ」
ここまで私の方を振り返らなかった彼女が振り向いて言う。
「はい」
足を踏み入れると本当に奥に長いお店だった、全てがカウンターで横並びにお客さんが座っている。
「澄子さん、いらっしゃい」
店主らしい人が彼女の名前を呼んだ。
常連らしい。
「新規を勧誘して来たわ、マスター」
「ははは、ビルの外観からして入りずらい雰囲気があって新しいお客さんが来ないから助かるよ」
私は彼女に促され、奥の空いている席に座る。
「ここは手前から来た順に座るの、詰めてもいいけど人が少ない場合は1個開けるくらいは許されるわ」
「そういうルールが・・・」
私は頷いた。
「新規はなかなか来ないけど、常連がたくさんいるから日や時間によっては入れない時があるのよ」
椅子の数は思っていた以上にある、それよりも驚いたのはカウンターの長さだ。
通常の2倍以上ある。
けれど、新鮮でもあった。
「いつもので?」
マスターが聞く。
「そう、いつもので。彼女も食べられないものは無いって言っていたから同じのでいいわ」
「でも、聞いた方がいいんじゃなのかな?」
笑いながらマスターが言う。
何でもテキパキと決めてしまうのは彼女の性格らしく私はメニューも渡されていない。
まあ、初めてくるお店だし高杉さんにすすめられる物でも良かった。
「あなた、オムライスは嫌い?」
「大丈夫です」
嫌いではなく、むしろ好きな部類だ。
「ですって」
「はいはい、オムライスセット2つね」
マスターがそう言うと、カウンターの向こうに居た店員2人が返事をする。
3人でこの店をやっているらしい。
横長だから横に動けばいいのでそんなに移動の労力は使わないか。
―――さっきから料理のいい香りがする。
色々な料理が混ざり合ったような感じ。
グうううう
匂いに釣られてお腹が鳴ってしまった。
恥ずかしさに顔を赤くしたけど、彼女は笑わない。
「みんな、そうなるの。私もそうだったから笑わないわ」
出されたおしぼりで手を拭きながら言う。
「匂いでお腹を刺激してくるからここの料理は侮れないのよ」
「でも、珍しいねえ澄子さんが人を連れてくるなんて。いつも食事は一人でいいって言っているのに」
マスター。
私も独り飯がほとんど、時々可哀想―などと言われることがあるけれどそんなことは大きなお世話と言いたい。
むしろ、一人で食べられないという人間の方が憐れみを誘う。
側に居る身近な人が居なくなったらどうするのだろうか、あり得なくもない将来だろうに。
「この子がね、あんまりお腹が空いていそうな顔をしていたからよ」
私は彼女の顔を見る。
それは違うぞ、と。
けれど、そんな私の微かな抵抗は無視された。
「マスター、ビールを頂戴」
私の視線を無視してビールを頼む。
「はいよ、お連れさんは?」
マスターが気を利かせてくれ、聞いてくれる。
まあ、聞かれたところでビールなどというものは飲めないのでウーロン茶になるのだけれど。
「ウーロン茶でお願いします・・・アルコールは飲めないので」
「あなた、飲めないの?」
意外そうに言う。
皆が皆、飲めるというわけではないと思う。
TVでCMがガンガン流れているけれどあれは飲めない者にとっては苦痛でしかない。
「ええ、体質的に飲めなくて―――」
一回飲まされて病院送りになった過去があるのでそれ以降はすすめられても飲まないようにしていた。
「損しているわね、こんな美味しいものが飲めないなんて」
「ビールが飲めなくても楽しく過ごせていますから」
少しカチンときた。
飲めないのは体質で、私のせいではない。
そういう風に言われるのは心外だし、いくら好きな高杉さんが言うことでも・・・だ。
「怒った?」
「怒っていません」
少し、ムッとしただけ。
「私の周りは、底なしの酒好きばかりだから飲めない人は珍しいの」
「高杉さんも飲む方なんですね」
何となく分かる気がした。
「今、大酒飲みって思ったでしょ、あなた」
カウンター越しに渡されたジョッキを受け取りながら言う。
「・・・少し」
「遠慮しなくてもいいのよ、私は率直に意見を言う人が好きなの」
気を悪くするどころかまだ飲んでいないのに明るく笑う。
「それより―――本当にどうして食事に誘ってくれたんですか?」
お腹が空いていそうな顔をしていた、というにはリアリティが無い。
自分のお腹が空いていて、たまたまエレベータで会った私をその時の気分で連れてきたという方が納得できる。
「そういう気分だったのよ」
やっぱり。
直感的に行動する、深く考えないタイプだ。
とはいっても、頭の悪いバカではない。
でなければあんな有名な会社に入れるわけがなかった。
「誘わない方が良かったかしら?」
「いっ、いえ!」
そこは否定する。
声を掛けられたのですら嬉しいのに、その上食事まで一緒に出来ているのだ、誘われない方が良かったわけがない。
「私もあなたとは話したかったのでタイミングが良かったわ」
「話し、ですか?」
「そう、この間・・・といってももうかなり前だけど」
「あの時もエレベーターでしたね」
「まあ、そこくらいしか接点が無いわけだし」
グイッとビールを煽る、豪快に。
「私を見ていることがバレたのに、まだ続けているわね」
そう言われて油断して緩んでいた心臓がドクンと動く。
私を非難している様子はないので心を痛めることはないかと少しホッとする。
「・・・そういう、高杉さんこそ席を移動しませんよね」
私に見られているのを知ってもそのままの席で過ごす彼女が良く分からなかった。
「人に合わせるのは好きじゃないの、自分のしたいようにするわ」
「高杉さんが嫌ならもうしません」
口からすらっと言葉が出て来た。
自分でも意外だった。
「私を観察しているの?」
「高杉さんだけじゃないですよ、全体的にです」
「私のこと、自意識過剰と思っている?」
「まさか、そうは思いません」
オムライスがいい匂いをさせて、目の前に置かれた。
何やら懐かしい感じのオムライスである、見た目からして美味しそうな感じがする。
「来たわね、まずは食べちゃいましょ」
高杉さんは話しを一時的に切った。
目の前に涎が垂れそうなくらい美味しそうなものがあるのだ、美味しい時を逃す手はない。
「はい、頂きます」
程よく、お腹が空いてきているのを私は感じていた。
やっぱり、ここに連れて来てもらってよかったと思う。
一口食べるとほっぺたが落ちるくらい美味しい。
懐かしい感じでありながら今まで食べたことの無い味だった。
食べ物に感動するということが久しくなかったこの私が感動に声を上げたのだからよほど美味しかったのだろう。
「来て良かったでしょ」
「はい」
付属の鶏がらスープも絶品。
美味いラーメンの如く、最後の一滴まで飲み干してしまう。
最近は仕事が忙しく、お店できっちり食べることが無かった。
食べ終わって、少しまったりしたあとに高杉さんは不意に聞いて来た。
「ねえ、あなた。私のことが好きなの?」
びくん、と身体がビクつき、心臓が跳ねあがる。
私は前を向いたまま、顔を彼女の方に向けることが出来ない。
ど、どう言ったらいいのか――――正直に言うのがいいのか、いいえっ、と否定するのがいいのか。
高杉さんがどういう人なのかは、まだ分かっていないのだ。
エレベータで出会って、数回顔を合わせて、話しただけの間柄だし『はい』と頷くべきなのか。
「・・・・・・・」
返事をどうしようか答えあぐねていると、高杉さんがツン、と私の頬を指で突いた。
「どうなの?」
酔っては・・・いないようだと感じる、酔ってクダを巻くような人ではないと思うのだ。
お酒は強そうだし。
「え・・・っと」
どうする? どうしたらいい?
答えに窮する、焦って自分の中でぐるぐる考えてしまう。
「そ・・・の・・・っ」
ああ、自分の性格が恨めしい。
こういう時にきっぱり言い切れない私の性格が―――
「いじめないであげなよ、澄子さん」
そこへ助け船が。
マスターが他の人へ料理を運びつつ、絶妙なタイミングで。
「えー、聞いただけよ?いじめてないわ」
ツンツン。
頬をこんな風に突つかれるのは子供の頃以来である、他人に。
可愛い子供ならいざ知らず・・・。
「私、あなたのこといじめているのかしら?」
いじめては・・・いない。
意地の悪いことはしていているとは思う。
何とか首を振って、いじめていないという返事をする。
「はっきりしない人は嫌いよ、どうなの? 私が好かれていると感じているのは間違いなのかしら?」
ドン。
机が叩かれる。
はっきり答えろというように。
「う・・・・」
私は下から覗き込むのように高杉さんに見られて反った。
逃げ道がない、現実的にも。(カウンターは細いし、思うように動けない)
しかし、よく考えろ自分。
これはチャンスだ。
好きかと聞かれているのだ、脈が無いわけではない・・・はず。
それに本人も言っているように、私に好かれていると感じていることは分かっているらしいし。
「す・・・好きです」
言えたけれど恥ずかしくて声が小さい。
「聞こえないけど?」
耳に手を当て、もっとよく聞こえるように言えと催促される。
「えぇ―――・・・ここで、ですか?」
これだけでも顔が熱くなって、ゆでだこのように沸騰しそうなのに。
「あら、あなたの私を好きって感情はそんなものなの?」
ふふん、と意地悪く笑って私を煽る高杉さん。
「・・・勘弁してくださいよ、高杉さん」
皆、見ない振りしてくれているけど私がこれ以上は耐えられない。
「意気地が無いのね、まったく最近の若者は」
そうため息を付きながら言うとマスターに支払いを頼んだ。
さっと、一気に身体が冷える。
呆れられたのだろうか。
「あなたは出さなくていいわ、今日は私が誘ったのだから」
「でも―――」
「私のこと、次までにはきちんとと言えるようにして来たら考えてあげる、じゃあね」
高杉さんは私の分の支払いもさっさと済ませると店を出て行ってしまった。
相変わらず、あの喫茶店のいつもの席に高杉さんは座っている。
私のことは気づいているだろうに視線は絶対に合わせない。
意地なのか、私のことを待っているのか。
2週間前、夕飯を食べに連れていかれたお店での帰り際、言われたことをずっと考えていた。
あれはやっぱり、脈ありなのだろうな・・・と。
しかし、はっきり“好き”と言わないと高杉さんは考えないとも言った。
すごく嬉しい反面、そこをクリアしないと前に進めないのは辛い。
ただ、好きだと言えばいい。
でも、それが難しい――――
今日も頼んだサンドイッチを食べながらため息をつく。
おかげで仕事も手に付かない。
いつも考えるのは仕事のことではなく、高杉さんのこと。
これではいかん、と思うもののすぐに脳裏に浮かんでしまうのだ。
せっかく、少し彼女に近づいたというのに前より酷い状況になってしまった。
決心をつけて、玉砕覚悟で行くしかないんだよなあ―――
分かっているんだけど、高杉さんの前に出るとその言葉を言う勇気がしぼんでしまう。
「よ。」
肩を叩かれた。
一つ下の階に入っている会社のひとで、見知っているひと。
「勝倉さん」
「サンドイッチを食べながら溜息かよ、食べる時は食べることに集中した方がいいぞ」
勝手に前の席に座る。
大概の知り合いの男性は私に遠慮がない、私のことを女性とは思っていないのだろうか。
まあ、この見た目じゃあ女扱いするのも困るかとも思う。
気にしてないけど。
「色々考えることが多くて」
「食べてからにしとけよ」
勝倉さんは、2段ハンバーガーをかぶりとかぶりつく。
「勝倉さんは悩みなさそうですよね」
いつもはこの喫茶店に来ている女性社員や、ウェイトレスを軽めに口説いている。
今日は周りに誰も居ないから、暇つぶしに私のところに来たのだろう。
「―――お前、俺のこと能天気野郎だと思っているのか?」
「まあ・・・半分ほど」
チャラい姿を見ているので。
「俺はあえて、場を楽しくしているんだ。ウェイトレスだって注文とって、ありがとうございましたって言ってレジ打ちだけじゃつまらないだろ?」
「勝倉さんが邪魔している気もしないですけど」
ゴホン。
ひとつ咳をする勝倉さん。
分かってはいるんだ、邪魔しているっていうことは(笑)。
「世の中、楽しく、いい気分で生きた方がいいだろ?」
「まあ、出来ればそうですね」
出来れば、だけど。
「悶々としてため息を付いているよりさ、腹くくって、えいやっ!って乗り越えてしまった方がいいぞ。やらずに後悔するよりはずっと精神的にいい」
「・・・まともなことも言うんですね、勝倉さん」
「お前より何年長く生きていると思ってんだよ? 人生経験はお前より多い、アドバイスだって出来るくらいだ」
「付き合った人って何人くらいなんですか?」
思いついたので聞いてみる。
「はあ?」
「人生経験豊富なら、聞いてみたいですけど」
10人以上だな、と想像する。
学生時代からだと勝倉さんタイプはかなりモテる方だと思った。
「お前がため息をついているのは恋の悩みかよ」
「・・・違いますよ」
鋭い・・・(汗)
ふふん、と意地悪そうな表情で覗き込んで来る。
ひとで遊ぼうという気が満々である。
「そうだな、お前の想像している通り付き合った女は多いぞ」
「想像していませんよ」
「嘘つけ、顔に出ているぞ。そうだな――50人以上は居るな」
50人、予想以上・・・
「モテたんですねぇ」
「おうよ、付き合った女へのフォローはばっちりだったからな」
「でも、付き合ったのは50人なんですよね」
「・・・そこはツッコむなよ、気が合う、合わないがあるだろ?」
モテて付き合うのはいいとして、長く続かないのはやはり二人の間に何かあるからだ。
だから別れてしまう。
女性と付き合うのが趣味というのなら、付き合う人が変わるのが分かるのだが。
「考えていても現状のままなんだからとにかく打開した方がいいぞ、身体にも悪いしな」
ズズッとコーラを一気に飲み干す。
「男なんて星の数ほどいるんだからな」
そう言うと私より遅く席についたのに、勝倉さんの方が早く立って行った。
“女性”も星の数ほどいますけどね―――
やっぱり、決心して行くしかないか。
私も勝倉さんに15分ばかり遅れて席を立った。
高杉さんと会う時はいつも偶然で、待ち伏せすることはなかった。
いつも彼女が使用する喫茶店には入ったことは無い、わざわざ道を挟んだビルに行ってお茶をする必要性を感じないからだ。
疲れるし。
とはいえ、決まった時間に彼女と会えるのはあの場所くらいなので意を決し、喫茶店に向かった。
「いらっしゃいませ」
こちらの喫茶店は男性ウェイターだ。
私は待ち合わせと言い、高杉さんのいつも座っている席に向かった。
一応、ここに居ることは確認してから来ているのですぐに見つかる。
「高杉さん」
私はテーブルの上にノートを広げて何か書いている彼女に声を掛けた。
「――――私に会いに来るのに随分とかかったのね」
顔を上げ、微笑しながら私を見た。
「色々と葛藤があったので・・・座っていいですか?」
「ええ、どうぞ」
着席を促されると同時にウェイターがやって来て注文を取っていく。
「お邪魔でしたか?」
「大丈夫、少し休憩」
ぱたん、とノートを閉じる。
少し、間があって高杉さんが言う。
「で、どうなの?」
簡潔過ぎて清々しいくらい(苦笑)。
今は周囲に誰も居ない、言うなら今しかない。
多分、一生に一度くらいで心臓がバクバクしていると思う。
「私は――・・・高杉さんのことが好きですっ」
居酒屋の時よりは大きいはずだ、腹に力を入れて声に出している。
「私と付き合ってもらえませんでしょうか」
付き合って下さい、ではなく―――なぜか敬語になってしまった。
言い切ったので自分でも顔が真っ赤であることが自覚できる。
背中にも汗をかいているし、手だって・・・。
「―――まあまあね」
高杉さんはテーブルに片肘をついて、手の甲にに顎を乗せたまま私を見る。
「ご・・合格ですか・・・?」
彼女の物言いに、私は自信が無い。
「80点」
何点が合格ラインなのだろうか・・・
「それって・・・不合格?」
試験なら、ギリギリという感じなのだろうけれど。
「ギリギリよ、あと1P下がったらOUTだったわね」
ピン。
「痛いっ」
前のめりになったら、高杉さんにデコピンをされた。
かなり痛くて、容赦ない。
「あなた、なかなか来てくれないから待ちくたびれたわ。今のはその罰」
「す、みませんでした・・・」
やっぱり待っていてくれたらしい、少し浮かばれる。
「私もねあなたのこと、好きよ」
「えっ」
「あなたが私を見ていたのは知っていたけど、私があなたを見ていたことは知らないでしょう?」
「えっ?!」
にっこり笑って高杉さんが言う。
「ここの席からじゃなくて、ビルでの話」
ビル?勤めている会社が入っている同じビル?
「エレベータで居合わせたのは偶然だと思った?」
えっと・・・話が思いがけなくて思考が追い付かない。
「ふふふ、私もあなたのことが気になっていたのよ。意地悪しちゃったけど両想いなの」
意地悪な笑みで言う。
「はあ―――もう――――」
私はテーブルに突っ伏す。
告白というミッションをクリアした安ど感もあるのだろうけれど、まさかの両想いな上に少し遊ばれていたという―――力が抜けた。
「ごめんね」
ぽんぽん、と頭を軽く叩かれる。
「・・・いつからなんですか」
「なにが?」
「高杉さんが私を好きって認識したのは―――」
「そうねえ、確か・・・」
肘をくずして、椅子の背もたれにもたれながら考える。
「はじめからよ」
「はじめから?」
「そう、あなたがあのビルに入っている会社に派遣されてからね。他社の子だけと面白い子だとは思っていたけど・・・それが恋に変わるのは本当に些細なことなのね」
そのシチュエーションが知りたいと思った。
でも、高杉さんは教えてくれないかもしれない(もったいぶって)。
「もう今日は仕事が手に付きそうもないです・・・」
疲れたし、なによりも気持ちの方が臨界点を越えてしまった。
「ふふふ、なら一緒に早退しましょうか」
「えっ」
「折角、私たち間が今までよりぐっと近づいたのだから色々と話さない? 前に行ったお店で」
「高杉さん―――」
「ね?」
一気に傾倒するような表情で言われ、私はさらに彼女のことを好きになってしまう。
「・・・それ、反則ですから」
ぼそりと言う。
彼女に聞こえないように。
「え、なに?」
「何でもありません、でも、早退には賛成です」
今日は本当に仕事にならないと思う。
告白し切ったことによる安堵と、告白を受け入れてくれたという嬉しさと興奮で。
「じゃ、善は急げね、会社の前で待ち合わせましょ」
「はい」
あっという間に私と高杉さんの早退が決まったのだった。
あれから何年経ったのか。
私は契約社員だったのが、社員になって少し昇格した。
相変わらず、澄子さんの仕事は今も分からない(笑)。
でも、分からなくても、知らなくてもいい。
仕事以外のことは大体、知っているから―――
「飲み終えたやつ、捨ててくる」
私はトレイの上に私と澄子さんが飲み終わった紙のカップを乗せた。
「ありがと、外に出ているわね、ハルキ」
ぽん、と肩を叩かれる。
待ち合わせの後は、買い物に行く予定。
澄子さんが出張らしく、2週間も。
しかも、LA。
一体どういう仕事をしたらLAなんて行けるのだろう、私なんて旅行以外では行けないだろうし。
2週間も顔を合わせないことについては寂しいとは思わない。
連絡手段は発達しているから、遠く離れていても液晶越しだけれど話すことが出来る。
「ピローは買わないと」
「わざわざ?」
澄子さんは私の腕を取って一緒に歩く。
こういう時は女性であるということは良かったと思う、男同士ではさすがに腕は組めない。
「わざわざよ、こういう楽しみがあるから出張も楽しいわ」
「荷物になりますよ」
「ハルキは現実的ね、もっと楽しんだらどう? 私との買い物なのよ? デートよ、デート」
「デートは楽しみますけどね、私の意見はあくまで私の意見ですから無視していいです」
「あら、恋人の意見は聞いた方がいいんでしょ?」
私の意見なんてほどんと聞いたことないのに、澄子さん(苦笑)。
「出来ないことは言わない方がいいですよ、澄子さん」
「まあ、言ってみただけ」
言いたかっただけか。
「でも、出張が決まったら嫌だなと思っていたけどこういう準備が楽しいわね」
「遊びに行くんじゃないんですよ?」
自分の事じゃないのに私は心配してしまう。
「仕事だけどね、少しでも楽しまないとやってられないわ」
澄子さんの少しの本音。
「ハルキも来てよ」
腕を組みながら私の腕をぶんぶん振る。
「なんで私も行くんですか、だいいち会社が違うでしょうに」
澄子さんが駄々をこねるなんて付き合うまでは分からなかった。
そんな姿を見られて嬉しいけど、少し複雑な気分。
「旅行ならお付き合いしますよ」
ふたりで日帰りとかはあるけど今のところは遠距離の旅行はない。
「まずは出張よね、それが終わったら考えるわ」
そうそう、今日の買い物は出張に必要なものだ。
5分位歩くと百貨店がある、そこの7階が旅行等の用具が売っているフロア。
旅行鞄、キャリーバッグ、ピロー等々、見ているだけで楽しい。
もちろん、澄子さんのテンションが高くて買うのを迷ってしまっている様子を見るのも楽しい。
子供みたいにはしゃいで、実に微笑ましい。
私は澄子さんの隣に居て、意見を述べているだけ。
それだけで嬉しかった。
あっという間に持ちきれないほどの買い物になる。
「買い過ぎじゃない?」
「使わないものは旅行の時に使うのよ」
澄子さんはレジでまとめて貰って、家に送ってもらうようにした。
これで手ぶらで帰ることが出来る。
「荷物は送ったし、さてどうする?」
「どうしましょうか」
買い物の他は考えていなかった、思いのほか早く終わってしまって時間だけが余る。
とはいえ、せっかく会う事になったのだからこのまま別れてしまうのは勿体ない。
「行く?」
澄子さんが身体を寄せてくる。
「どこへ?」
ふん、と顎でその先を示された。
視線と首をそちらの方に向けるとその先には、巨大な建物がある。
「勿体ないですよ」
私は即答。
「刹那的に決めるものじゃありません、計画的に決めるべきかと」
「真面目ねえ」
「ホテルで休みたいなら、うちを提供しますんで。タダですよ?」
「誘い上手ね、ハルキは」
誘い上手って・・・遺憾ながら。
「仕方がないわね、誘われてあげるわ。しばらく、ハルキのマンションに行っていないし」
そう言いながら嬉しそうな顔の澄子さん。
まあ、私も似たような表情はしていると思うけれど。
澄子さんがベッドの縁に座ってブラウスを着はじめている。
泊っていくわけには行かないから帰る用意。
私はというとその仕草を寝ながら見ていた。
スポーツもしていないのに均整の取れた体つきをしている澄子さん、惚れ惚れ見入ってしまう。
「なあに、そんなに見て」
「視線を感じる?」
「ええ、ヒシヒシと。まだ足りないの?」
冗談だろう、笑って言われる。
「正直言うと足りないよ。でも、わがままは言わない」
「いい子ね、ハルキ」
まだ、着替えの途中で私の方に向き直り、身体を屈めて額にキスをくれる。
ボタンが止まっていないブラウスの胸元から収まった二つの柔らかそうな谷間が見えた。
再び性欲を刺激されたけれど、ぐっと我慢する。
「出張から帰って来たら旅行の計画を練りましょ」
「いいね、楽しみ」
手を出さないように両手を頭の後ろに回して枕の間に挟む。
床に落ちているズボンを拾い、それを履くのが見えた。
「あと、ちゃんとご飯食べるのよ? 私が連絡しないと全然食べないんだから」
付き合う前から、私はあまり家では食べなかった。
あまり動かないので身体を動かす食料を糧としないのだ。
でも、澄子さんと付き合うようになってからは朝、昼、晩とちゃんと食べるようになって健康的に太ったと思う。
体調も以前よりいいかもしれない、良い効果だ。
「食べるよ、ちゃんと」
犬や猫みたいに時間になるとメールが入る、キッチリと。
食べないと怒られるのでバレなくても私はきちんと食べるようにしている。
澄子さんはあっという間に、私のマンションに来た格好に戻った。
化粧までバッチリ復旧している(笑)
「じゃ、帰るわ」
「うん」
帰りも私にキスしてくれる。
今度は少し長めに。
私も澄子さんも別れ際は切ないのだ。
「お土産、期待していいわよ」
そう言うと彼女は寝室を出て行った。
会社のトイレは共有だ。
だから、澄子さんとも時々会う。
でも、本当に時々。
フロアごとが違う企業が入っているので、違う会社の人間が廊下を歩いていると目立つ。
その日は何故か、いつも使っている女子トイレが一杯で使えなかった。
我慢もきかなかったので仕方なく、ワンフロワ上の女子トイレを借りることにした。
ふ――
「あ」
「えっ」
何とか間に合って個室から出たら、洗面台のところに澄子さんが居た。
お互いに一瞬、言葉が出ない。
ようやく現状を理解して言葉を吐き出す。
「ハルキが珍しいわね、ここを使うなんて」
「どういう訳かトイレが一杯で、仕方なくここを借りました」
見渡せば人の気配が無い。
「大丈夫? 間に合った?」
いたずらそうに言う。
「間に合いました、ちゃんと」
手を洗う。
「ふふふ、危なくて急いでトイレに駆け込むハルキを想像しちゃった」
「間に合いましたからね」
プンプン。
子供じゃないんだから、漏らしません。
手を拭いていると澄子さんの両腕が横から首に掛けられた。
「澄子さん、ここ公共の場ですよ」
誰が来るかも分からないのに。
「しばらく来ないわ、ちょっとあっちに行かない?」
と、少し大きめの個室を顎で示す。
ビル内でキスはしたことはあるけど、さすがにことに及んだことはなかった。
「・・・ダメですよ、バレますって」
“したい”気持ちは自分にもわかるけど(笑)
「今、したいの」
「ダメです」
きっぱり断る。
バレたらとんでもないことだ、仕事も辞めないといけなくなってしまう。
「ケチね」
「ケチとか関係ないです、公衆道徳の問題です」
「どうしても―――ダメ?」
澄子さんは私の耳たぶを甘噛みし、なおかつ息を吹きかけるように囁いた。
ゾクリ。
さすが、私をその気にさせることを知り尽くしている。
制服で包んだ身体を押し付け、私の耳を責めてきた。
「だ、めって・・・言っているじゃないですか、誰か来たらどうするんです!?」
拒むものの徐々に澄子さんのペースに引きずられてしまう。
「大丈夫だって、ね?」
ズルズル。
首をロックされて私は引きずられる。
あーもー!
私は澄子さんには限りなく弱いのであった・・・
───トイレでの情事のあと。
定時上がりにスマホを確認すると澄子さんからLINEが入っていた。
〔今日は残業ナシ、うちへ来て〕
ただそれだけ。
でも、拒否権無しの用事。
多分、私と同じことを感じているのだと思う。
感覚的なことなのでなんとなく、という感じにしか表現できない。
とりあえず、速攻帰り支度をして唖然としている周りの諸先輩方を尻目に澄子さんの家に急いだ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
開けられた玄関の前で、大息を付く私。
そして、呆れたように立っているのが澄子さん。
「なにも息を切らせて走って来なくても良かったのに」
ぜえぜえと、呼吸をして苦しい。
いつものようにゆっくりと来るとか、タクシーを使うとかは頭に無かった。
走れば、火照った身体が冷めてくれるかと思ったのだけれど全然冷めてくれない。
「い・・え、大丈夫ですから―――」
会社に入って運動系は全くしていないので体力が落ちている。
慣れないことはするものじゃないな、と思った。
「中に入って、お水でも飲んで少し休みなさい」
「はい―――」
苦しい。
呼吸を整えるのにしばらく時間がかかりそうだった。
どさっ。
行儀が悪いと思いながら私は、リビングの板張りの床に倒れ込んだ。
そうしても私は怒られない、澄子さんのマンションにはもう何度も来たし、泊まったこともある。
「走ったのは久しぶりでしょう?」
澄子さんがペットボトルのお水を持ってきてくれた。
私は顔を上げ、のっそりと起き上がるとそれを受け取る。
「まあ・・・」
苦笑いしか返せない。
「走って来て、体力消耗しちゃったら困るのに」
「大丈夫です、まだ若いですから」
まだ、私は20代半ば。
「そう?」
澄子さんは笑い、お風呂の準備をしに行った。
走って来たので汗だく、さっぱりしたい。
少しばかり待たせてしまうけれど。
ぱたり。
また、横になる。
なんとか呼吸が落ち着いて来た。
水と一緒にタオルもうけとり、汗を拭く。
けれど、身体の奥の熱さは変わらなかった。
ぷすぷすとくすぶっている。
「でも、そんなに急いで来てくれたのは嬉しいわ」
すぐに戻って来た澄子さんが上から見下ろしながら言う。
「澄子さんのせいですから」
「わたしのせいなの?」
「そうですよ、あんな場所であんなことしようと言うから――」
会社のトイレで。
「ふと、思ったの。あの場で突然に思いついたのよ」
と、にっこり。
「ハルキは嫌だったのかしら?」
「嫌だった、とは・・・言いませんけど」
途中から、その気になってしまったし。
最後の方は自分の方から澄子さんを責め立てていたような気がする。
「誰にも見つからなかったんだし、良かったでしょう?」
見つかる、見つからない、の話ではない気がするけれど・・・
「出来ればあんなスリルは味わいたくないです」
「・・・分かった、今後は無茶なことは言わないようにするわ」
肩をすくめると、腰を落とす。
「こんなところに寝転んでいないで、座って頂戴」
「お風呂が出来るまではこの方がいいです、身体も火照って熱いし」
呼吸はしやすくなったけれど、身体の芯はいつまでも熱い。
座ったら、澄子さんが近づいただけで手を出してしまいそうだから。
「ハルキも?」
「やっぱり、澄子さんもですか?」
「やっぱり、って・・・ハルキ」
「何となくです、言っておきますけど自惚れじゃないですから」
私もそう思っているから、澄子さんもそう思っているのだろうという自惚れではない。
「ここなら、誰も来ないし気兼ねなく出来るわ」
そっと頬が撫でられる。
「不完全燃焼だったのかな・・・」
「そんなことないわ、私はちゃんとイけたし、満足できたもの」
「不完全燃焼というよりは、逆に燃料投下されてしまったってことでしょ」
いつもは落ち着くのに、今日に限っては逆に増長されてしまったということらしい。
「お互い、何か変なものでも食べたのかしらね」
「ウナギとか食べていませんよ、私」
精力剤的なものは食べていないハズ。
「ま、いいわ。ここにハルキが居るのだし」
泊っていく? と聞かれた。
「状況により、考えます」
「ハルキ・・・そこはね、“うん”か“はい”と言うべきじゃない?」
ツン、今度は指で突かれる。
抗議のつつきか(笑)
「澄子さんは私に泊っていって欲しいんですか?」
「ええ、そう。なのにハルキは帰るっていうのよね」
ツン、ツン、ツン。
段々、強く突かれる。
「私、ハルキにあまり思われていないのね」
「―――なんでそういうことになるんです? 思っていない訳が無いじゃないですか」
ワザとだとは思いながらもそう言われると反論してしまう。
澄子さんの事を、思っていないわけが無い。
「ほんとに?」
「ほんとに、です。帰るつもりだったのは明日が仕事だからです。休みなら進んで泊るって言いますよ」
自分の頬を突く指を掴んで私は上体を起こした。
「じゃ、帰らないで」
「わかりました」
真面目な表情で言われたので、そう答える。
澄子さんはそんなことを滅多に言わないから珍しい。
遠くでお風呂が出来上がった音声が流れた。
「ハルキ、汗を流してさっぱりしたらいいわ」
澄子さんはその音声の聞こえる方を向き、私に入浴を促した。
何度目の果てなのか。
もう、覚えていない。
私ではなく、澄子さんの。
「大丈夫ですか?」
精魂尽き果てたようにベッドに倒れこんでいる澄子さんに聞いた。
自分でしかけた結果なので心配だ。
「大丈夫よ・・・思いの外、少し激しかっただけ」
顔は上げないまま弱弱しく笑うように言った。
表情が分からないと真意までは分からない、嘘かもしれないし。
「すみません、やり過ぎました」
反省する。
確かにいつになく激しかった気がする。
とはいえ、もっとと求めてきたのは澄子さんだ。
激しくなっても私を止めなかった。
・・・言われなければ止めないのもどうかと思うけれど。
更に反省。
「ハルキが謝る必要はないでしょ」
体勢を変えて私の方を向く澄子さん。
「でも―――」
「もう、いいから―――」
「わっ」
澄子さんが私にのしかかってきて、ベッドに押し倒される。
「私も満足できたし、ハルキもでしょ?」
台風のような嵐が通過して、自分の中にあった熱が今は消滅していた。
「そうですね、溜まっていたものが消えてすっきりしています」
「ふふふ、あれだけ激しくしたらそうなるでしょ」
笑い、身体を押し付けて私の首筋に吸い付く。
肌に触れる唇の感触がこそばゆい。
「バテてなかったんですか?」
ほんの少し前まで動けなかったのに。
「ゆっくり動くくらいはできるの、でもこれくらいまでね」
私に抱きついたまま動かなくなる。
「澄子さん―――」
「なあに」
「好きです」
私は澄子さんの身体をもっと抱き寄せて言った。
「・・・知ってるわよ、いまさら?」
「いまさらですけど、澄子さんのことが好きです」
今この瞬間に抱きしめていると実感して声に出したくなった。
「ま、好きって言葉は何度言われてもいいか」
「言わないと伝わらないですよ、だから私は時々、言います」
「律儀ね、ハルキは」
身じろいで澄子さんは言った。
「はい」
性格だから仕方がない。
「でも、そんなあなたと付き合う事になって良かったと思っているわ」
「わたしもです」
運命の出会いとか、あまり信じていないけど澄子さんとはそうじゃないかと思っている。
少しだけ(笑)
「お互い、最初は遠くから見ていただけなのにね」
「見ているだけじゃ恋愛には発展しません」
「まあ、そうね。やっぱり行動は必要よね」
私はただ見ているだけだったけど、澄子さんは違った。
エレベータで声を掛けて来てくれて、お店に誘ってくれて(半ば強引に)それから―――
自分だったら行動を起こすことも無かったと思う、ずっと見ているだけの存在だったかもしれない。
「ありがとうございます」
声にしていた。
「なによ、お礼とか」
この状況で私が言うようなことではないから不思議そうに聞いてくる。
「私に声をかけてくれて嬉しかった、きっかけが澄子さんですから」
「―――待てなかったのよ、ハルキが誰かのものになる前にって・・・思ったの」
「それって、私が誰かと付き合っていたらどうしたんですか?」
「そりゃあ―――奪うでしょ」
私は思わず腕の中の澄子さんを見た。
「え――そんなイメージ無いのに」
略奪愛。
まったくそんなイメージが思い浮かばなかった。
「あら、私は欲しいものは必ず自分のものにするわよ。知らなかった?」
いたずらそうな笑みを浮かべている澄子さん。
本気なのか、私をからかったのか。
「・・・冗談よ。でも、あなたには執着したのは確かよ」
「わたしに?」
「そ。どうしても欲しかったの、ハルキが」
―――自分でも自身の存在を重要視していないのに。
はっきりいってどうでもいいことだと思っていた。
毎日、普通に生活して誰かに特に必要とされることは望んでいなかった・・・いや、望んでいたけど諦めていた。
誰も自分を必要としないだろうと。
「どうして・・・」
「どうして? あなたと付き合えたら面白いかなと思ったの、それにハルキは私のタイプなのよ」
腕が私の首に巻かれ、頭を引き寄せられる。
「付き合って、確信したわ。私の直感が間違っていなかったって」
「澄子さん」
「あなたはどう?」
そう思ってくれて嬉しい、嬉しくて自然と頬が緩んでしまう。
「もちろん、私もです」
私は澄子さんの額に、自分のおでこをくっつけて言った。
「・・・キスじゃないの?」
呆れたように言われる。
「キスの方が良かったですか?」
感情のままにしたから何か考えてしたわけではない、でも反論されるとは思ってもみなかった(苦笑)。
この流れはキスでしょ、と。
「澄子さんにキスしたらまた、また始まりそうで」
言い訳かな、と思いながらとっさにそう答える。
「―――確かに、また始まるのはキツイわね」
苦笑しながらも納得してくれたらしい。
「でしょう? 少し休みましょう、ね」
唇のキスはどうしても性的なものを感じてしまう、実際キスをすると性欲が刺激されて身体が自然と動いてしまうのだ。
だから、自分を自制するためにキスがしたくなったら他の場所にキスをする。
私は澄子さんの額にキスをするとすぐに離した。
「もう──ハルキは!」
「えっ、なんですか?」
どういう意味だろうか。
「―――なんでもない、まったく・・・そんな風にされたらもっと好きになっちゃうでしょ!」
そんな風って・・・私には良く分からなかった。
「私は、ハルキのそういうところが好きなの」
笑顔で澄子さんは私にキスをしてきた。
私が意識的に避けたくちびるに。
キスしながら身体を押し付けてくる。
――――困った、彼女が欲しくなる。
「困ります、せっかく落ち着こうとしたのに」
身体がまた熱くなってきた。
「私もよ、それなのにハルキが私を煽るようなことをするから」
そう言いうくせに私のぴったりと身体を寄せてくる。
澄子さんも自分と同じなのだと思う。
「煽ってないです、感情を表現しただけです」
「もう、黙る。言葉なんていらないでしょ」
私と澄子さんの視線が絡む。
「・・・はい、ですね」
今日はゆっくりと休む暇がなさそうだと私は心の中でため息をついたのだった。
澄子さんとはその後も順調に付き合っている。
時々、年齢に似合わないことをされるけれど(苦笑)それもあのひとの私が好きなところだ。
何事もなければその先もずっと続いていく関係だと思う。
私からは澄子さんのことを嫌いになることはないし、他の人に興味が向くこともないと確信している。
だから、私は彼女に飽きられないように頑張らなければならないのだけれど―――
「あら、ハルキ」
エレベータの扉が開いて、澄子さんが入って来た。
かごの中には私の他は誰も居ない。
「今日も上の喫茶店ですか?」
「ええ、少しカフェインを摂取しないとね」
澄子さんはもう、向かいの喫茶店には行かなくなった。
同じビルに入っている、私が行っていた喫茶店に変えたらしい。
こうして私に会う機会が増えるからだと言われた。
「ハルキもどう?」
私を誘ってくる。
「私はトイレに行きたいんですけど」
またしても女子トイレが混んでいたので階を移動してきたのである。
「上で借りればいいでしょ、せっかくここで会えたのに」
つい、と澄子さんの手がさり気なく動いて私の手に触れる。
私はその仕草が愛おしく思えて予定を変更することにした。
「―――しようがないですね、5分だけお付き合いします」
トイレに行ってから(笑)。
仕事場のビル内ではあまり親しくしないようにしていた。
わざわざ周りに余計なことを知らせることでもないだろうし。
「今日はどうする?」
「すみません、今日は残業確定です」
客から重大なクレームが来てその対応に皆で大わらわなのである。
「じゃあ、休憩なんてしている暇はないじゃない。無理には誘わないわ」
手が離れる。
「いいんですよ、澄子さんより重要なことは私にはないんですから」
チン。
エレベータが目的階に着いた。
「頑張って仕事をしているのですから休憩くらい、大目にみてもらいましょう」
扉の前にも誰も居ない。
私は澄子さんの腰を抱き、エスコートをしてエレベータから出る。
「・・・誰も居ない時は大胆よね、ハルキは」
苦笑しながら澄子さんが言う。
少し嬉しそうに見えるのは触れないでおこう。
「それは、私だって普段から澄子さんとイチャつきたいですから」
本心はそれ。
でも、悲しいかなそういうわけにはいかないのが私たちの現状。
「私は普段からそれでもいいと思っているのよ」
「いいんですか? 面倒ですよ?」
色々人の噂とか、好奇の目とか。
私は無視しますけど。
「恥じてはいないもの」
「―――じゃあ、そうしましょう」
「えっ」
エレベータを出て、喫茶店までは廊下を少し直進する。
さすがに人は居るけれどまばらだ。
私はどういう意味かと驚く澄子さんに微笑むと、その身体を引き寄せて顔を近づけるとそのままキスをした。
自分の中で吹っ切れたのだと思う。
隠しているもの、堂々と付き合えないことも、みんな今日までにするという決意。
数秒触れていただけで私は唇を離す。
「ハルキ―――」
数人が私たちのこと見ていたらしく驚いている。
公衆道徳はまずかったかな・・・会社から注意は受けるかもしれない(笑)。
「これで、わたしたちの関係は拡散しますね」
「・・・もう、信じられないわ」
ドン、と胸を軽く叩かれた。
そう言いながら表情は笑っているので私のした行動は、澄子さんも認めてくれているのだろう。
「こんなことをして、会社を辞めさせられたら責任とってもらうから」
澄子さんは身体を私に寄せて来た。
「いいですよ、澄子さん一人くらい扶養できますし」
気分がすっきりした。
最初からこうすればよかったのにずっと悩んでいたのがバカバカしいくらい。
「本当だな~?」
「澄子さんに嘘は言いません」
きっぱりと言い切る。
「―――じゃあ、その時は責任とってもらいましょうか」
私の方を振り向き、澄子さんは見惚れるような笑顔で喫茶店のドアを開けたのだった。