組織の追跡から逃げる女の子の話
データ整理していたら見つけたので、貼っておきます。
外の人間がいうにはここの空気は汚いらしい。荒れ山のスラム、と呼ばれているここは建物の隙間にはゴミが山のように積まれているし、ため池の水だってヘドロまみれで濁っている。
でも誰がなんと言おうと、それはあたしたちにとって貴重な資源だ。ゴミの中には、たまに寝床を作るのにちょうどいいタオルが混ざっていることもあるし、ため池の水は貴重な飲水になる。あたしは毎朝毎朝、ここで水を汲み上げようと手を伸ばすもん。
あたしはここで生まれて、ここで必死に生きている。
「追手が来たっ! 西へ走って!」
お姉ちゃんの鋭い声が荒れ山のスラム中に響き渡った。
それを聞いたあたしは必死に走る、走る、走る。
あたしたちを追いかけている男は、銀色に光る、捕縛用の特殊な道具を手に持ち、息を切らしながら後を追いかけてくる。
「待て! 逃げるな!」
特殊な訓練を受けてあたしたちを捕獲しようと企む男と女ーー組織の人間たちは週末になるとこの荒れ山に足を踏み入れ、あたしたちの身柄を拘束しようとしてくる。
あたしは腐ってもスラム(ここ)育ちだし、飯の奪い合いの後、そのまま獲物を持ち去ることも日常茶飯事だから、素早さには自信があった。だけど手練れが多い組織の人間は最も容易くあたしたちの仲間を捕まえていく。
「捕まえたぞ! 車に積み込め!」
「ぎゃあああああ!」
昨日まで一緒に肩を寄せ合って生きてきた仲間の切り裂くような叫び声が聞こえた。
今日は何人捕まってしまったんだろう。あたしは溢れそうになる涙を腕で拭って、その場から立ち去る。捕まったみんなは二度とここには帰って来ないだろう。
そう言うあたしも一度あの組織に捕まりかけたことがある。組織の人間達が用意した大きな檻に入れられてしまったのだ。その時は運よく、檻の扉の動きが悪かったみたいで隙を見て逃げることができたけれど、完全にあたしはその音がトラウマになっている。金属がぶつかり合う音を聞くだけで、ぞくりと背筋が凍る。
なんのために組織の人間があたしたちを捉えているかなんて、脳みそがちっちゃいあたしにはわからない。
どうしてあたしはただ必死に毎日を生きているだけなのに、こんな奴らに追いかけられなくちゃいけないんだろう。考えるだけで、踏み荒らされた心の中はぐちゃぐちゃになる。
あたしなんか悪いことしたかな? 組織の人間にとってはここにあたしたちがいるってこと自体が悪なのかな。
誰かに蔑ろにされてもあたしはこの世界で生きていたい。生き抜くためだったらなんでもやってやる。
あたしの親はあたしを産んでからすぐに死んでしまったらしい。ここで昔から暮らしている大人たちはそう話していた。
だけども幸運なことにあたしはひとりぼっちではない。産まれた時からあたしには同じお母さんから産まれた、お姉ちゃんがいる。甘ったれなあたしとは違って、お姉ちゃんは勇敢な人だ。以前、組織につかまりかけた仲間を助けるために、組織の人間の腕に噛み付いたこともある。天涯孤独を免れたあたしたちは身を寄せ合って寒さや飢えを凌いで暮らしていた。
荒れ山のスラムに食事なんてものは用意されていない。当たり前だけど、食べ物は自分で狩ってくるしかないのだ。お金があればお店で買ったりもできるんだろうけど、お金もないし、そもそもどうやってものを買うのかもあたしはあんまり理解できてない。
これはあたしがバカってことじゃなくて、スラムに住む子達みんなそうだから仕方がないことなのだ。あたしたちは、そういう運命のもとに産まれたーーただそれが事実として転がっているってだけだ。
「お姉ちゃん、今日はどこまで狩りに行く?」
「うーん、裏山の方は? 昨日は行ってないし」
今日もあたしはお姉ちゃんと一緒に狩りに向かう。あたしの基本的な食料は虫とかカエルとか、その辺の草とか。そんなものばっかりだ。
狩りの仕方はスラムに長いこと住んでる長老のジイやバアに教えてもらった。音を立てずにそろりと近づいて、一気に仕留めるのがコツだ。
いいとこの嬢ちゃんから見りゃそんなもん食べるのか、って目えまんまるにされそうだけど、あたしたちの食料はこれしかない。美味しいとか、美味しくないとかは二の次で、とりあえず腹が膨れることが優先だ。生き残るために必要な栄養を探して体に取り込むために咀嚼する。大体毎日、その繰り返し。変わったことなんか、なんも起こらない。
あたしは生まれた時っからこればっかり食べてるから、逆に他の食べ物の味を知らない。外の奴らはうまいもん食ってるのかもしれないけど。
「街の奴らはどんなものを食べてるんだろう」
お天道様が空の真ん中に光るまっ昼間、狩りの合間にぽつりと呟くと、ちょうどあたしの隣を横切ろうとしていた、長老のジイがこちらに振り向いた。長老のジイはもう見た目はヨボヨボのじいちゃんだけど、狩りの腕は確かだ。もう長い間ずっとこのスラムに住んでいるらしい。
「お前さんは街の食べ物に興味があるんかい?」
あたしはゆっくりと頷く。それを見たジイは表情を曇らせた。
「街の食べ物は恐ろしいものだよ」
「ジイは街の食べ物を食べたことがあるの⁉︎」
あたしは目を丸くした。
話を聞くと長老のジイは昔、親切な街の人間に飯を奢ってもらったことがあるらしい。
「街の人間がわしなんかに飯を奢ってくれるなんて信じられない出来事だったが、ふと目についた浮浪者のわしのことを不憫に思ったんだろうな。自分の食料を店で買った時に、わしの分まで買ってきてくれたんだあ。あれは本当に美味しかったよお。一生忘れられねえな」
いいなあ、めちゃくちゃラッキーじゃん。あたしもそんなラッキーにいつかありつきたい。そんなことを思いながらキラキラした視線を向けて、話を聞いた。
「えー! じゃあ、あたしもいつかそれを食べたいなあ」
無邪気にあたしがそういうと、長老のジイは苦しげに目を瞑り、ゆっくりと首を横に振った。
「あれの味を知らない方が幸せかもしれないよ」
「どうして?」
「わしはなあ。あれを一度食べてから、あれのことばっかり考えちまうんだ。もう一度、もう一度でいいから食べたいと思って今でも夢に見て、あの親切な街の人間がここへ来ないかと手ぐすね引いて待ったんだ。だけども悲しいが、その人間はあの一度以来、二度とここには来なかった。きっとわしに優しくしたのは気まぐれだったんだよ」
その絞り出したようなしゃがれた声は本当に本当に苦しそうだった。あたしはジイの気持ちになって想像してみる。せっかく頑張って狩ってきたバッタを口に含んでも、以前もらった、たった一食の食事の味が頭をよぎってしまう。昨日まで最高の食事だったはずなのに美味しく感じない。その後、どんなものを食べてもおいしかった思い出の味が頭を離れないなんて。そんなのまるで呪いみたいじゃないか。
それはどんなに苦しいことなんだろう。
「ジイは……。辛いね」
あたしはぽつりとこぼすように言った。
「その辛さがわかるお前さんは優しい子だよお」
ジイは慈しみがこもった笑顔で、あたしの頭を撫でてくれたけど、ジイの心中を思うと複雑な気分になってしまう。
いつもの寝ぐらへの帰り道、あたしはジイの話を頭の中で反芻させながら歩いた。
あたしもジイみたいに知らなければよかったのに、知ってしまった、という経験が一度だけある。
もう一回り小さくて、いろんなことに興味があった頃、あたしはスラムを抜け出して街に出てみたことがあるのだ。
小さなあたしにとって荒れ山のスラムは自分にとっての全てだった。でも、ある時思ったんだ。組織の人間は外からやってくるんだから、外もあるはずだって。
荒れ山のスラムの外にはどんな世界が広がっているんだろう。そんなちょっとした好奇心からの行動だった。
スラムを一歩出ると街は驚くほど整頓されていた。ここには家を、ここには店をって決められているみたいに建物が配置されていて、びっくりするほど綺麗だった。なんでもごちゃごちゃのスラムとの違いに、あたしは目をまんまるにすることしかできない。
道はどこまでもまっすぐだし、砂利道なんてなくてきちんと整備されている。
ゴミなんかどこにも落ちていないし、スラムにはありがちな、ものが腐ったような匂いもせず、空気が透き通っているように感じる。
すごい、これが街。
キョロキョロしながら歩いていると、視線を感じた。
「やだー、見て。きたなーい」
知らない女の人があたしを指さして、クスクスと笑っている。そんなにあたしって汚いのかな。
そりゃ、ちっちゃい頃から食べるものもなかったから、自分で狩りをせざるをえないせいで手は傷だらけだし、体だって洗ったこともない。街の人から見るとあたしって汚いのかもしれない。
そんな街の景観に汚いあたしは相容れないのだろう。あたしだけ変に浮いてるっていうのは嫌でも肌でわかるもん。
それを感じ取った途端、居心地が悪くなったあたしは人目につきたくなくて、街の奥へ奥へと進んでいく。
大通りから一本道を曲がると、閑静な住宅街が広がっていた。人通りはなく視線がないことに安心しながらポテポテと歩いていると、誰かの声が聞こえた。
柔らかく、高めの声。あ、これは女の子の声だ。
この街に住んでいる子はどんな暮らしをしているんだろう。耳を澄ませれば、その女の子がどこにいるかはわかる。もう少し先に進んだところ……あ、あの家だ。
声が聞こえてきた家を見つけ出したあたしは、興味本位で中を覗き込む。
その女の子はきちんと家を持っていて、家族と一緒に暮らしていた。
家族にすり寄って甘える姿のなんと無防備なことか。あたしはその様子を見て声を失った。
「ねえ、お腹が空いたよお! ごはん、ちょーだい!」
「もう! さっき食べたのにしょうがない子ねえ」
甘く、優しさだけに包まれた空間。あの女の子は当たり前のようにご飯をもらえているだろうし、家族に甘えることだって許されるのだろう。あたしが欲しくても、得られなかったものをその女の子は当たり前のように享受していた。
渇望、と言うものはこうやって生まれるのか。あたしは幼いながらにそれを理解した。同時に絶望というものも知ることになった。
生まれた場所が少し違うだけで、こんなに暮らしが、人生が違うなんて、ずるい。
あの子は当たり前のように得られている明日の保証があたしにはない。
スラムに戻っても、あんなあったかそうで、美味しいものが用意されていて、安心して寝られる環境なんてない。
こんな気持ちになるなら、街の様子なんて知らなければ良かった。あたしは下唇を噛み締めながらとぼとぼと荒れ山のスラムに帰っていった。今でもあの日の惨めさは忘れられない。
最近、荒れ山のスラムは人が多くなってきた。ここは秋と春になると子供が生まれ、人口過密気味になるのだ。スラム内で恋人を作り、出産をする奴もいれば、外の街から捨てられてここにくる子供もいる。最近、狩りに出かけると、まだ乳離れもしていないような子供を見ることも多くなってきた。しかしその子供たちがみんな等しく大人になれるわけではない。
大概、子供は飢え死ぬ。あたしにもお姉ちゃん以外に兄弟がいたけど、みんな死んでしまった。
悲しいけど仕方がない。この世界は弱肉強食で、力がないやつと運がない奴は死んでしまうのが常なんだから。
いつもの狩りのポイントに向かうと見慣れぬ小さな子供が必死に狩りをしていた。
あんな後ろに腰が引けてたら、獲物なんて取れないよ。横をスッと通り抜けて、軽々と獲物をとると、あたしが取った虫を子供はジイっと物欲しげな視線で見ていた。居た堪れなくなって、せっかく取った虫をあたしは地面に置いて、その場を去った。
後ろから久しぶりのご飯だ! と、子供の嬉しげな声が聞こえてきた。そのせいであたしのお腹はペコペコだけど。
譲らなければよかったかな……。でもあの子達なにも食べられなかったら可哀想だし……。
自分の飯も満足に食べられないのに、見知らぬ子供にそれをあげるなんて、偽善もいいところだ。でも、あたしだって周りの大人たちから偽善を受けて育ったんだもの。それを否定する権利なんてあたしにはない。
「ねえ、いいもの持ってきたよ」
お腹が空いたまま、寝ぐらで、ぐでーっと眠りこけていると、お姉ちゃんがそう言って何かガサゴソと音がするものを見せつけてきた。手に握られていたのは白いビニール袋に入った食べ物だった。スラムから自然に湧いてくるはずのない人工物。それを持っていた人間をあたしは以前見たことがあった。
「お姉ちゃん、組織の人間に接触したの⁉︎」
「そ、あいつらも飯食べてる時は無防備になるみたい。後ろから近づいて行ったら、簡単に掠め取れたよ!」
「それで……食べてるもの、盗んできたの?」
「そうそう。美味しそうだよ? ほら!」
な、なんて命知らずな……。お姉ちゃんはえへん! と鼻息荒く自慢げな表情をするけれど、あたしはそれを見て眉を潜めてしまう。
捕まったら命の保証もない相手に近づいて、食べ物を奪うなんて……。あたしだったら、怖くて絶対にできない。ちびっちゃうよ。
お姉ちゃんが持ってきたのは三角形の形をしていて乾いた黒いピラピラがついた、よくわからない食べ物だった。
中を割ってみると、水分のある白いベトベトの穀物らしきものが現れる。
「この周りにある、黒いの食べられるの?」
「ああ。なんかそれは食べられるみたい。でもその周りにある、透明な部分は口に入れても味がしないし、噛みにくいから食べない方がいいかもしれないよ?」
「そ、そうなんだ……」
意を決して口の中にそれを放り込むと、うっ! とくるような独特の塩辛さがあった。たくさん水を飲まないと体を壊しそうだ。
組織のやつら……。こんなの食べててよく平気だなあ。あいつら舌がいかれてるんじゃないの? でもそう言って残しては、次にいつ飯にありつけるかもわからない。味など気にせず、あたしはそれを目一杯喰らった。
いつか街で見たあの子も、おんなじようなものを食べていたのだろうか。いいや、違うだろう。だってあの子は顔も顰めることなく、それはそれは美味しそうに与えられたものを口いっぱいに頬張っていたもの。目尻なんかだらーっとだらしなく下がっちゃってさ。
あたしは多分、死んでもあの子と同じ境遇にはなり得ないんだろうな。
お腹がいっぱいになると眠くなってくる。
ふわあ、とあくびをしてからお姉ちゃんの方をチラリと覗くと、お姉ちゃんも眠いのだろう。目尻を下げて、まどろんだような表情をしている。
「ちょっと、昼寝しよう?」
「そうだね」
一応、警戒のために寝ぐらから首だけ出して当たりを見回してみるが、人影はない。組織の人間は来ていないようだ。今日は人通りも少なく静かで、お日様はポカポカで、あったかくって、最高の昼寝の条件が揃っている。
姉妹二人で身を寄せ合って寝転がると、心がほぐれて、より眠くなってきた。お姉ちゃんの体温の温もりに包まれている時、私は束の間の安心を得ることができるのだ。
しかし、そんな穏やかな生活も長くは続かなかった。
「起きて! 組織の人間がきた!」
あたしはお姉ちゃんの空気が震えるような鋭い声で、やっと目を覚ます。
寝ぐらの隙間からそっと顔を出して表を覗くと、組織の人間がうじゃうじゃいた。
なんで? いつも組織の人間は週末にくるはずじゃなかったの? あたしの体内時計が正しければ今日は水曜日のはずだった。なのに組織の人間はぞろぞろとこちらに歩いてくる。
「ねえ! お姉ちゃん、今日水曜日だよね?」
「しっ! 静かにして! 気づかれる」
あたしたちは息を潜める。
「ちょっと瓦礫下の方、みてくるね。あそこチビたちが何人かいたはずなんだ」
「今出てくの⁉︎ 大丈夫? 危ないよ!」
「大丈夫だって! じゃ、あんたはここにいてね」
そう言って無理やり貼り付けたような笑顔を見せたお姉ちゃんは、寝ぐらをするりと抜け、瓦礫下の方へ走っていった。
大丈夫かな……。なんだか嫌な予感しかしないんだけど!。
その予感は当たることになる。
お姉ちゃんがあたしのそばを離れて十分ほどたった時“ひぎゃー!“とスラム中に響き渡るくらい、大きな叫び声が聞こえた。
恐る恐るそちらの方を覗き込むと、そこには捕らえられたお姉ちゃんがいた。あの、素早くて活発なお姉ちゃんが捉えられたの⁉︎
「お! こいつは珍しい。オッドアイだ」
組織の男はお姉ちゃんの顔を汚い手で鷲掴みにした。男はなぜだかわからないけど、お姉ちゃんの耳を執拗に確認していた。
お姉ちゃんを助けなきゃ! そう思うのに恐怖で体がうまく動かない。
動け、あたしの足。お姉ちゃんのもとに行くんだ……! 緊張と焦りと恐怖が胸の中に渦巻いて、感情が制限できない。なにをするのが正解なのか、考えれば考えるほど分からなくて、気がつくと目からボロボロと涙が溢れていた。せめて声だけでもあげて、長老のジイとか、もっと強い、助けてくれるような大人を呼ばなくちゃ、と思うのに、恐怖からか声もうまくでない。掠れたような空気音が喉をひゅうひゅうと鳴らす。
強い視線をそちらに向けているとお姉ちゃんはあたしの姿に気がついたようだ。男に掴まれたまま、あたしの方を諦めたような光のない視線で見つめる。お姉ちゃんは疲れ切ってしまったのか、暴れて逃れようとする様子すら見せなくなっていた。
大人しいお姉ちゃんの様子に気を良くしたのか、組織の男はお姉ちゃんの顔を撫で回すように見た。
「しかも……、ぐへへ、とってもかわいいじゃないか。店に出したらすぐ人気が出そうだな」
店。その単語に息が止まる。お姉ちゃんに何をさせるつもりだ⁉︎ 可愛い女の子を見世物にして、金を取る商売でもしているのだろうか。なんて卑猥な奴らなんだ!
「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
やっと、喉が言うことを聞くようになり、声を絞り出し物陰からお姉ちゃんを呼ぶ。すると組織の男が、ギョロリとこちらを見た。
「お? まだかわいい子が隠れていたのか?」
「私に構わないで! あなたは逃げて!」
お姉ちゃんが必死に叫ぶ。
「絶対嫌! 絶対嫌だもん! お姉ちゃんがいないとあたし、生きていけない!」
絶対にお姉ちゃんを助ける! あたしはお姉ちゃんを捕まえた男に向かって飛びかかった。あたしは渾身の力で暴れ、殴り、組織の人間の手に噛み付いた。
「っ‼︎」
一瞬、お姉ちゃんを掴んだ腕がゆるむ。屈強な組織の人間も痛みに耐えられなければ、隙を見せるようだ。
このままやればいける! お姉ちゃんを逃がせる! そんな希望を胸を抱いたのも束の間、すぐにお姉ちゃんはまた拘束されてしまった。組織の人間たちはとても長い腕を持っているのだ。
組織の男は、長い腕でそのままあたしの首根っこを掴んでこようとする。
まずい、このままじゃあたしまで捕まってしまいそうだ。助けようとして、捕まるなんて一番よくない。あたしは必死に体をよじって足をばたつかせる。するとなんとか拘束が解ける。その隙に一目散に逃げ出した。
「はあっ! はあっ!」
上がった息はなかなか整わない。苦しい、死ぬほど苦しい。
なんとか逃げ切った。だけど……お姉ちゃんは助けられなかった。
失意の中、地面を見ると涙がぽたりと落ちた。
あたしはひとりぼっちになってしまったのだ。
それから数日間、あたしは死んだように生きた。なんの気力もない。笑い合えるお姉ちゃんはもう隣にはいない。だけど、生きている限り、命を繋がねばならない。
長老のジイや優しい何人かの大人たちは気落ちしたあたしに慰めるような言葉をかけてくれた。だけど、心に空いた穴は一向に塞がらなかった。
ご飯を探し求めて、下を向きながらよろよろと歩いているとゴツンと何かにぶつかる。何? 顔をあげたあたしは、目を見開いて、息をとめた。
「あらあ。探さなくてもあちらから出向いてもらえるなんてラッキー」
「あ……」
あたしがぶつかったのは組織の人間の足だった。やばい、ぼーっとしすぎて何も周り見てなかった! 捕まる、早く逃げなきゃ。あたしは女から視線を離さぬまま、ジリジリと後ろに下がる。しかし、女はあたしに手を伸ばさなかった。
それどころか、余裕を持った笑みでにっこりとこちらを見ていた。
「あたしは追いかけ回したりしない主義なの。疲れちゃうでしょ?」
そう言って女は持っていた細長いビニールの口を開けるとあたしに匂いを嗅がせた。その中にはジュレのような、薄いベージュの液体が入っていた。
「な、なにこれっ!」
匂いを嗅いだ瞬間、くらりと意識が遠のいた。なんていい匂いなの……。あれが食べたい! あれが食べたい!
あまりにも誘惑的なそれはまるで麻薬のようだった。意識を酩酊させ、あたしがトロリとしてきたところで、容赦なく捉えるつもりだろう。なんて卑怯な組織だ。
女はそれを手に持ちながらジリジリとこちらに近づいてくる。あたしは持ちうる理性をフル活動させて、その場から離れようとするが、麻薬のあまりにも芳醇な香りにやられてしまう。気がつくと吸い寄せられ、ビニールの先をぺろぺろと舐めていた。そうした瞬間にあたしは体に手を回され……。まんまと女に捕まってしまったのだ。
カッチンコッチンに固まっていると女はあたしの背中を優しく撫でた。
「あら? あなたまだ若そう。それに……とってもかわいい。」
女はあたしを取り押さえながら、舌舐めずりをした。
組織の人間はあたしを拘束したまま、麻薬を指に塗って、口に入れ込んでくる。おいしい、こんなの食べたことがない。長老のジイが言っていたのはこう言うことだったんだ……。
芳しい匂いに意識が混濁してきた。
抗わねば、抗わねばと思うのに、うまく体が動かない。本能がそれを欲している。
もうだめだ……。あたしは麻薬に心を折られ、白旗をあげた。
「わー、かわいい三毛ちゃんだね!」
「うんうん、なかなかの美人さんだ! この子なら保護猫カフェに入る前に里親さん見つかりそうだね」
そのままあたしは檻に入れられ、組織の人間に連れ去られた。エンジンがつき、車は動き出す。生まれ育った荒れ山のスラムがどんどん、遠くへ離れていくのをあたしは小さい窓から呆然と眺めていた。
ーーあたしこれから、どうなっちゃうんだろう。
今後のことを思うと体がガタガタと震える。
降りた先にお姉ちゃんはいるかな。……いないよね。もう一週間も前のことだもん。最後にもう一度会いたかったなあ。
組織に連れ去られたもの達は一人も戻ってこなかったことを考えると、あたしもどこかへ売り飛ばされるのだろう。明るい未来がちっとも想像できない。
無力なあたしは檻の中で、ただただ“にゃあ“と無くことしかできなかった。
猫ちゃん!