駅のベンチ
お題があると書きやすいですね
とある田舎の駅。
木造駅舎のホームには、錆びたベンチがポツン、とひとつ設置されている。
有名な飲料メーカーのロゴが印字されているが、そのロゴも何十年も前に変更された昔のもの。
それはこのベンチが大昔に設置されて以来、雨風吹かれながら長い年月を過ごした古爺であることを証明している。
利用者がほとんどいない駅で、ベンチだけは何十年も目の前を通過する電車を眺めてきたと考えると趣のある話である。
朝早くからそのベンチに座るのは、ほとんどいない人間の利用者がひとり、女子高生の森本ハルである。
ハルは、田舎町で育ち、廃校寸前の中学校を卒業した。そして、今年から高校へ進学し、この駅を利用するようになった。
2時間に一本しかこの駅に電車は通過しない。
始発を逃せば、遅刻は確定。ゆえにハルは眠い目を擦りながら、コートを着込んで家を出て、あと10分後に通る電車をベンチに座りながら待っていた。
季節は冬で、天気は曇り。分厚い雲は朝日を殺し、真っ暗な世界を作り出した。
ハルの身は凍え、また心もかなり冷え切っていた。
真っ暗で冷たいこの世界で陽気にいろというのが無理な話である。
朝から陰鬱な内容の文庫本読みながら、彼女は陰気に時を待っていた。
小説内で、男が溺死した。
肺に水が入り、悶え苦しむ様子が3ページに渡り続いた末の凄惨な死であった。
強烈な水のイメージは、ハルに尿意を催させる。
電車が来るまであと5分。急いで駅舎内の汚いトイレに駆け込めば、なんとか間に合う。
ハルは文庫本を閉じて鞄に入れ、立ち上がろうとする。
しかし。
「…………?」
ハルは立ち上がろうとした。意思はたしかに脳内から全身へ命令を伝えさせたはずである。
しかし、ハルのからだは微動だにしなかった。
まるで、からだが凍ったかのよう。だが、ハルが視線を落としても、足は氷漬けになどなっていない。
指先は動く。
手元の鞄からスマホを取り出し、ライトで体の周囲を照らすが、スカートや靴がなにかに引っかかっている様子はない。
しばらく探った結果、どうやら尻ががっちりとベンチに固定されているようである。
壊死したかのように、尻には感覚が残っていない。まさか、ここが凍ってベンチにひっついたとでもいうのか?
不可思議な現象に、最初ハルは好奇心が勝った。
しかし、現実を咀嚼していくほどに、それは単なる恐怖に変わる。
真っ暗な、寂れた駅で、ひとり、動けない。
助けを呼ぼうにも、誰も来ない。
誰にも気づかれず……そう、このベンチのうえで、人々に忘れ去られてしまう。
私は、ここで動けないまま死ぬ……?
そんなことはさすがにあり得ないと、強く否定できるほど、いまのハルに気持ちは残ってなかった。
雲行きが悪くなり、風と雪が強くなってきた。
雪の結晶たちはハルをちらりと見たあとに、無視して地面に落下する。
『お前など、誰も見ていない』
風はハルの耳元を通り過ぎて囁く。
『お前は、ここから動けない』
真っ暗な雲が重々しくハルに告げる。
『お前は、独りだ』
「……!!!」
ハルは幻聴を振り払い、体をうねらせる。しかし、どんなに暴れようと、ハルのからだがベンチから離れることはない。
あっという間にハルの心は崩れてゆく。もともと心身のバランスが整っていないなかでの、アクシデントである。
(このままでは、吹雪のなか、凍え死ぬ……!いやだ!死にたくない…!)
ハルが半狂乱になったのはおかしなことではない。
ハルを襲う幻覚はさらに酷くなる。
ベンチが大きな口を開けて、ハルを噛み砕く。
動けないまま、ベンチに喰われるハル。
細腕では抵抗できない。なすすべもなく、骨は切断され、血飛沫は舞い、胃液は逆流する。
悲鳴が四方八方から飛び交うなか、鮮明にその一言は聞こえた。
『にがさない』
…………,
…………。
…………。
プシューと、気の抜けた音が鳴る。
ハッとしてハルが顔をあげると、目の前の扉が閉まって、そのまま、カタンコトンと電車が去っていった。
去る電車の窓から見えた、車内の客たちは無気力無表情で、ハルがホームに座っていたことに気づいたものは誰もいなかったようである。
「……夢?」
ハルは脂汗をかいていた。
マフラー周りはかなり蒸れて、ビショビショであった。
「…………」
恐る恐る立ち上がると、ベンチからは簡単に腰が離れた。半膝で茫然と立ち尽くすハル。
「夜更かししすぎたかな……どうしよう……もう遅刻だよ……」
ため息をつくハル。天気はひどい吹雪になっており、学校に連絡すると今日は休校に決定したと返信された
結局、その日ハルは吹雪のなか、家に帰った。
そして、家に帰ってテレビをつけると、突風による電車の脱線事故のニュースが流れていた。
ハルはこたつに入ってすぐ寝たので、ニュースを最後まで聞かなかった。
脱線した電車が、自分が乗り過ごした便だとハルが知ったのは、その日の夕飯の席であった。
そのころには、尻の冷たさはもう消えていたという。