アンジャベル
その日、男の元に一本の電話が届いた。電話の主は男の父親であり、受け取った妻女が旦那である男に渡す。時刻は午後九時を回っていた。
「どうした?」「ああ…えっと…話がある」
いつになく歯切れの悪い父親の言葉。真面目に聞いてくれと言われ、男はリビングの椅子に体を預けた。
「母さんが実家に帰るって言うんだ」
父親の話によれば、男の母親は少し前から実家に帰りたがり始め、荷物をまとめていると言う。男はもうすぐお盆なのだからと答えたが、父親は渋く唸り否定を返した。そういうことじゃあ、ないんだ。
「『早く帰らなくちゃ』とか、『私はあそこに死にに行く』、『あの子が待ってる…』とか、言うんだ」
母親は普段、性格からして曖昧な言い回しをしない。喧嘩をしたわけでもなし、様子が変なのだと男は理解した。
「じゃあ、俺も一緒に行くよ。そういう電話だろ?」
父親が頷いた。そして、できれば男の妻女も一緒に行ってほしいと続ける。
随分昔に聞いた話によれば、妻の実家には『人が引き寄せられる』という謂れがある。自分とてそのようなことは信じたくないが、あの様子を見ていると尋常ではない…。
「だから、一緒に連れてけって?まあ確かに、そういうことには強いけど…」
男の妻女は勘の鋭い女だった。今も受話器を抱えて困惑している男の表情と台詞から、ある程度の事態を察したようだ。もちろん、任せて!という顔で男を見て、頷いている。近頃体調を崩しがちな妻女だったが、旅行に出れば気も紛れるかと男は頷き返した。
「行けるっぽい。じゃあ、母さんに替わって」
電話の相手が母親に替わる。話している限りでは別段不審な点はなく、いつもの通りであるように思うが…。
「でもいきなりだよね。実家に帰るなんて」
「あの子が待ってるから」
間髪入れず、流れるように母親は理由を述べた。あの子とは一体誰なのか。男には検討もつかない。詳細を問おうとした男の声は発されずじまいだった。じゃあ向こうには連絡しておくからという母親の声で、通話が終わってしまう。
様々な懸念、疑問が湧き上がる中、ともかく男は自身の妻女とともに、母親の実家へ向かうことになったのである。
それなりに舗装された一本道を自動車が走っていた。運転するのは男。助手席には暇潰しに地図を見ている妻女がいた。木々の間を抜けながら思い出すのは、前日の父親とのやり取り。
「え、母さん出ちゃったの?」
「そうなんだよ。お前の車で行くって言ってたのに、急にもう行かなきゃって言い出して…」
男の母親は、息子の迎えを待たずに独りで電車に乗り、実家に帰ったというのだ。確かに独りで行動するというところもあるにはあるが、約束は守る人だった。こんな風に何も告げずに行くのはおかしい。やはり「何か」があるのか…という男の思考を晴らしたのは、妻女の声だった。
「着いたよ。ほら、綺麗だね」
道が拓けた先には花畑が広がっていた。赤、白、桃色、淡い紫…。黄色、あれはよく見る夏の花か。車の中にまで迫る甘い香りに、思わず男は息を飲んだ。綺麗だけど、ちょっと寂しいね。傍らで妻女が荷物を持つ。男の目には、奥に佇む一軒の民家がまるで花に守られているように見えていた。
男と母親のやり取りはいくらかの言葉を交わしてすぐ終わった。母親の方は、そんな約束した覚えがないとの一点張り。自分はずっと電車で来るつもりだったと言う。ともかく落ち合えたのだからよいかと、男は妻女とともに通された部屋で安堵の溜息をついた。しかしそれも束の間、二人に呼び声がかかる。
「ちょっとね、話しておきたいことがあるんだけど…」
声をかけたのは、この家を管理しているという家政婦であった。母親と同年代くらいかと男は見定め、頷き、立ち上がって廊下を進む。妻女も後に続いた。
「祖母も母も、この家で働いてたんだよ。今はたまに寄る程度だけど。この時期は泊まるようにしてるんだ」
なぜか、という理由は言わなかった。これ以上は訊かないでくれ。そんな言葉尻に男は適当な相槌を返した。
親族が集まって何やら話している声を背に、男と妻女は一室に通される。質の良い座布団に腰を下ろし、出されたお茶を啜った。
目の前の卓に広げられたのは一冊のアルバム。色が褪せ、ところどころに修復した跡が見られた。かなり年季が入ったものらしい。
「もう随分前の話なんだけどね。この家に、男の子がいたんだよ」
それは、大正と昭和にまたがる頃の話である。生まれつき体の弱かった少年は、離れて暮らす実業家の父に倣わず、母と姉と家政婦と、この家で暮らしていた。少年の母は花が大層好きな女だった。朝から日の沈みまで庭に立ち、その成長を愛でる日々を過ごした。甘やかな香りを纏う母の背を見て、子供達は育ったという。
「それがここまでの写真でね。その後が…」
開かれた最後のページには写真が六枚。二段になって貼り付けられていた。どの写真も同じ角度で、花々に埋もれた少年がこちらを見つめている。目深な黒髪。切れ長の目。黒目がちの瞳。古写真ゆえ不鮮明であったが、妻女は花を示して呟いた。
「これ、カーネーションだね」
十四歳になった五月のある日。少年は花を食べ出したそうだ。母がもっとも手塩にかけて育てていた白いカーネーション。その中に倒れ込んだ彼は、さくりと花弁を噛んだ。一枚、また一枚、ほろほろと小さな口に消えていく。紅い舌で転がされ、喉へと流れる…。側にいた母は仰天することもなく、その光景を紙に認め、後世に残したのである。
年に一度、少年は花を食んだ。その度に見受けられる成長とは裏腹に、生気は養分として失われていくように見えた。人ではない、何かへ。母が愛すものへ。少年は花になろうとしていた…。男の頭に突飛な考えがよぎる。
以後、少年は二十歳で永遠の眠りに就いた。その年の写真は残されていなかった。アルバムに載せられた写真は、姉と写る少年のものである。母が撮ったのであろう。幼い顔に見られるはずの無邪気な明るさは枚数を重ねるごとに欠けていた。
最後に、家政婦はこの話を聞かせた理由を男達に話した。この家で生まれたものは一度は家を出る。しかしいずれはしっかりと帰り着き、この家で亡くなるのだと。親族達は少年の存在など知らぬまま生きてきたはずなのに、帰ってきた者は皆、少年の話を持ち出す。まるで昔からの友人であったかのように。
男はあてがわれた部屋に戻り、妻女に感想を投げた。親族達が花を咲かせている話はおそらくあの少年のことだろう。
「なんか…まじで怖い話だったな」
「ずっと寂しいのは、あの子の気持ちなんだね」
妻女が言葉を返した。彼女にはきっと解っているのだと男は悟る。母と遊べなかった少年の思い、花を食べた理由さえも…。窓の外に見えた花は風に揺られていた。ふと、男の思考が思い当たってしまう。ああ、あれは誰が育てているものなのか。どこにいても甘い香りが鼻を突くこの家に、自分達は滞在していていいものなんだろうか…?
翌日。少年の話が尽きることなく、親族達の夕食は大いに盛り上がっていた。だから朝食も大丈夫だろうと男は思い、妻女とともに大部屋に顔を出した。
しかし、その時。部屋にいた最年長の男性が、歩き様にゆっくりと。実にゆっくりと、その場に体を横たえたのである。音もなく。速度を落とした映像のごとく。老人はそっと、溶けるように目を閉じた。
寝たのか?そんな間の抜けた声が聞こえる中、男は老人の側に少年を見た。目深な黒髪。半透明の体。花を食べ始めた頃の、あの時のまま。そして指先に妻女の手が触れ、同じくあの少年を見ているのだと気付く。
少年は老人の手に触れようとしていたが、うまく行かぬと悟ると、悲しそうな顔をして消えた。
親族達によって別の部屋に移された老人が亡くなったと分かってからは、誰も盛り上げる者はなく、部屋が水を打ったように静かになった。そうして次第にしみじみと、親族達は再び少年のことを語り出すのであった。
朝食を食べ終えた男は混乱していた。混乱しているなりに、自分達の部屋で寛ぐ妻女に言葉をぶつけていた。人が一人死んだというのに、誰も帰ろうと言い出さない。このままこの家にいれば死ぬと分かっていて、皆いようとしている。中にはやっと逝けるのかという声まであった。どういうことなんだ、一体。妻女もその疑問に頷き、そうなってしまっているんだろうねと返した。
人々の認識の中でこの家はもう、そうなってしまっているのだった。
翌日。この日は誰も亡くなることがなかった。だが男は戸惑っていた。朝食で、昼食で、顔を合わせる度に母親がふわりふわりと微笑んでくるのだ。勝ち気で物言いが強い普段の母親ではなくなっていた。いや、そもそもここに来た時からそうだったのだろうか。
「行くなよ、母さん」
思わず口をついて出た言葉も、微笑みを止めることさえ叶わなかった。もはや母親は何も言わず、甘い香りに包まれながら窓の向こうの花畑を見ていた。
あてがわれた部屋で夕食を終えた時。妻女が徐に口を開いた。
「あの子を連れ出してみない?」
一緒に行けばいい。海でも行こう。きっと知らないはずのいろんなところに、連れて行ってあげようよ。妻女が訴えかける。ああそうだ。ずっとこの家にいるのなら、知らないものばかりだろう。海になんて、行ったことがないかもしれない。男は深く頷いて、寝支度を始めた。やはり妻女を連れてきてよかった。彼女がいればきっと帰れる。そう浅はかな安堵を抱きながら…。
滞在して四日目の朝。決まりきっていたことのように、男の目の前で母親が床に伏した。ゆっくりと、ゆっくりと。何かに引き寄せられていた。再び広間がしんと静かになり、男は手を伸ばせば届く距離に少年を見た。
寂しい。寂しい。独りにしないで。お母さん、お父さん。僕を置いて行かないで。強い寂寥が流れ込んできたその時、男と少年は目を合わせた。煢然たる表情。その華奢な手がこちらに伸びてくる…。
「君達はもう帰りなさい」
静寂を貫いた声ではっと我に返った。少年はもう消えていた。親族の内の一人が思い出したように、帰宅を勧め始める。私達は構わない。若い君達だけでもここから去りなさい。そうだそうだと賛同の声が次々に挙がる。母親の状態を確認する間もなく、男と妻女は荷物を渡され、玄関先まで追いやられていた。
車に荷物を積んだ。あの少年を連れて行かなければ。男は涼しい夏の中で咲き誇る花に向けて、声を放った。
「そこにいるんだろ?」
返事はなかった。男は妻女が見守る中、声をかけ続ける。
「俺達と一緒に来ないか。これから海に行くんだ。一緒に行って、見てみないか?」
すっと男が手を伸ばした。ふわりと風に舞う白い花弁。指先が触れ合う感覚。少年が男の手を握り、黒目がちの瞳を細めていた。ぎこちなく口元が弧を描く。
「僕はずっと、ここにいた」
強く、強く手が握られる。目の前にいるのは人ではない。
「ここから出てはいけないと言われていた」
「もういいんだ」
男は訴えかけた。もうこの場所に留まらなくていい。行きたいところに、好きな場所を見つけに行っていいんだと。縛られる理由など、どこにもないのだと。
「お前だって見たいだろ。海とか、電車とか。知らない、見たことがない、いろんなものを」
「…そうだね…」
風が吹く度に、半透明の少年は掻き消えてしまいそうだった。この場所を離れてもいいものか。本当に、いいものなのか。
「いいんだ。寂しいなら、俺達とずっと一緒にいてもいい」
「本当かい?」
幾分声を弾ませた少年の目に光が差す。それならばともに行こう。自動車になんて、僕は初めて乗るんだ…。甘く抜ける花の香りは何かに引き寄せられるように、この土地を離れて行った。
海に向かう道中、一行は様々な話を交わした。少年の名前。生きていた頃の境遇。好きだったもの。
時代が過ぎた今は色々なものが変化したこと。しかし誰も傍にいないことは変わらなかったこと。
「僕、自動車に一度乗ってみたかったんだ」
「こうも景色が動くものなんだね」
少年は終始花の香りを纏っていた。甘やかですっきりとした白い花の香りである。
「怒られるかと思ったんだ」
夕焼けの海を前にして少年が呟いた。それはずっと母に言えずにいた、花を食べた理由。応えようとした男の言葉より早く、白い花が波にさらわれた。
「ありがとう」
少年は消えていた。泣きそうな目元で無理やりに笑みを作った妻女が、これでよかったんだよと頷いた。そうだな。これでよかったんだ。男は物悲しい顔をしながら波に飲まれていく白い花を見送った。
花の香りが遂に途切れた。
その日、家に一本の電話が鳴り響いた。気付いて立ち上がろうとした妻女をやんわりと制し、男が受話器を手に取る。
「父さん?丁度よかった、かけようと思ってたんだ」
電話の主は男の父親だった。時刻は午後九時を回っていた。
「そうか。そっちの具合はどうだ?五月だったか」
「うん。経過は順調。このまま行けば、予定通り来月には産まれるって」
弾んだ男の声に父親もつられ、声が明るくなった。妻女の膨らんだ腹を愛おしそうに眺めて、男の目線は彼女が飾った花へと移る。
「母さんも喜んでるよ。ずっと孫がほしいって言ってたんだから」
「だよな。できれば会ってほしかったけどなあ」
少年が去った涼しい夏に、この先人が死ぬことはないだろう。花畑は見る影もなく荒れ果てたはずだ。男は花を見る度にそう思い込み始める。
花瓶には、甘やかに真白いカーネーションが咲き誇っていた。