江戸の宵や恋吹雪
一、大名小名在江戸の交替相定むところなり。毎年夏四月中、参勤をいたすべし。 「寛永 武家諸法度より」
江戸の春は人の出入りが多くなる。特に武家屋敷のあたりは毎日のように、国に帰る行列、江戸に入る行列で普段は物静かな通りも、華やかな忙しさに満ち溢れていた。丁度今も、小じんまりとした大名行列が、下屋敷の方へ到着した所である。ここは江戸の大名屋敷の中でも静かな場所にあり、まわりも小振りな大名屋敷で占められている。その行列が駕籠を降ろした屋敷は、まわりから桜屋敷と呼ばれていた。この時期、屋敷の塀の向こうから溢れるように桜の花が咲き乱れ、通る人が思わずため息をつくほどの美しさである。駕籠が下ろされると、馬に乗っていた羽織袴の男が、すぐに駕籠の前に進んだ。
「殿、到着いたしました」
温和な物腰と顔つきだが、その知性に溢れた目元の様子から、ただの家臣ではないことが分かる。彼は栗原桂介と言う者で、この藩主の側近である。
「江戸か・・・。なつかしいな」
駕籠から出るなり、屋敷を見上げて立ち止まった。黒の羽織袴に、髪は総髪の髷を立てている。これが藩主の北原鷹月である。まだ若くはあるが、家臣を従えたその姿は、一国を背負うものとしての威厳を充分備えていた。鷹月が懐かしんでいると、その後ろの駕籠の方からびっくりしたような声が飛んできた。
「まあ、みごとな桜」
侍女の手を借りて駕籠から出てきた奥方の凛は、桜を見上げてうっとりとしていた。片外しに結った髪に花をかたどった簪が美しく揺れている。凛は上品に笑顔をつくると鷹月に言った。
「噂には聞いていましたが、これほど美しいとは思っておりませんでした」
「気に入り良かった。奥の方にもっと良い場所があるから、後で案内いたそう」
鷹月はそう言って笑顔を向ける。凛もはい、と静かに言うと、こぼれ落ちそうな笑顔で頷い
た。知性溢れる側近、器量も充分で気品に溢れた藩主、優しく美しい奥方様と、北原の家臣一同自慢に思う三人なのである。
夜闇の中、武家屋敷の通りに女が一人、姿を現した。頭には頭巾を被り、注意深く辺りを見まわしている。手には風呂敷包みをしっかりと抱いて、小走りに北原の屋敷の裏口に近づくと、もう一度辺りを見回して中に消えた。それから屋敷に入った女は、ある部屋の前に来ると、頭巾を取って中に声を掛けた。
「ただいま戻りました」
「お入りなさい」
中からの声に、女は襖を開けた。中にいたのは凛である。凛は少し不安そうな声で聞く。
「小春、どうだった?」
小春と呼ばれたその女は、一つため息をついてから風呂敷包みを差し出した。
「夜遅く無理を言って頂いてまいりました」
凛はにっこり笑って、それを受け取った。そして急いで広げて、嬉しそうに手を叩いた。
「きゃ-、そうそう、これよ。めじろ屋のおせんべい!うわあ、おいしそう」
一枚取ってバリバリ食べはじめる。
「おいし-い。さすが母様お勧めのおせんべいだわ」
「お方様、どうして夜にこっそり買って来なければいけないんです?」
凛は次のおせんべいに手を伸ばしながら、それに答える。
「だってここだと門番まで私とか鷹月の顔知ってるでしょ。もし小春がどっか出掛けて、おせんべい持って帰ってきたら、絶対私が頼んだって分かっちゃうじゃない」
小春は呆れたの通り越して、笑いだした。これが家臣自慢の北原のお方様の本当の姿である。
「はい、小春も食べなさいよ」
小春は凛の身の回りの世話をしている侍女で、小柄で童顔の控えめな女の子である。小春の良いところは、桂介の様にうるさく言わない所で、鷹月よりも随分気儘なお城生活を送っていた。凛はこれ以上幸せな事はないと言うような顔で、お茶を片手にせんべいをほうばっている。
「お方様。いくら夜だからといっても、もっとお行儀良く・・・」
「おせんべい食べるのにお行儀良くしてどうするのよ」
もっともである。その時、足音が近づいて断りもなく襖が開いた。
「おっ、せんべいだ」
着流し姿の鷹月である。風呂上がりらしく髪を下で軽く結んでいる。せんべいを見つけると軽く笑顔を作って部屋に入ってきた。
「もしかしてめじろ屋のせんべいか?」
「そうよ。鷹月よく知ってるわね」
「昔父上から江戸の土産で頂いたがあったんだ」
「へえ、結構庶民的な方だったのね」
小春がお茶を差し出すと、せんべいを取ってお茶を片手に食べはじめた。夫婦そろって同じ姿で食べなくても・・・と小春は苦笑した。
しばらく三人は無言で食べていた。
「ねえ」
「ん?」
「何か用だったんじゃないの?」
夫が妻の所に来るのに理由も何もないだろうが、入ってきた時の表情がただ妻を尋ねてきただけではない事に凛は気がついていたのだ。
「ああ、そうだ。桂介を知らないか?」
「桂介?そういえば今日は見てないわ。いないの?」
鷹月の眉が眉間に寄った。どうやらただ桂介が見当たらないだけではないようである。
「小春も知らないわよね?」
そう言って凛は小春に振る。途端に小春は真っ赤になった。
「ど、どうして私に聞くんですか。知りません」
小春はムキになって答えると、お辞儀をして部屋を出て行く。凛は面白そうに笑った。
「凛?なにニヤニヤしてるんだ?」
凛はしょうがないわねと言いたげに、眉をつり上げた。
「もう、鷹月は女心が分かんないんだから。小春は桂介の事が好きなのよ」
「へえ、そうなんだ」
あまりにも気のない返事に、不満そうに口を尖らした凛だが、鷹月がここへ来た理由を思い出して聞き返した。
「桂介。見当たらないの?」
鷹月は立ち上がって、出てきた襖に手をかけた。
「きっと行き違いになってるだけだ。あいつも、オレに代わって何かと走り回ってるからな。きっとそのうち会えるさ」
そう言って廊下に出る間際に、凛におどけた笑顔を向ける。凛もそうねという様に、明るく笑顔を返すしかなかった。
「桂介・・・。いないのか?」
これで今日桂介の部屋を覗くのは三度目だ。三度目も桂介はいない。いないどころか、桂介の荷物は屋敷に移った時に運び込まれたままの状態で置かれているのだ。この部屋で人が暮らしているという感じが一切しないのである。ただ、桂介の刀や普段着の着物類はない。鷹月の胸に不安が走った。いくら鷹月でも公務で忙しいから会えないと分かっていれば、心配などしない。この部屋の様子、そして屋敷内でいくら探しても桂介がいないという家臣の訴えを聞き及んだからだ。
「まさか桂介の奴・・・」
それから二十日が過ぎても、桂介の姿は屋敷の中に見られなかった。
静かな昼時である。屋敷に出入りの商人も一服しているのか、ぱったりと姿を見せなくなっていた。春の心地よいそよ風が、ゆるやかに小道の間を吹き抜け、桜の花びらがふらりと舞っている。と、突然塀の向こうから大小の刀が飛んで出てきた。それから塀の屋根に手が掛けられ、「よっ」と言う掛け声とともに、鷹月が塀の上に姿を現した、注意深く辺りを見回し、勢いをつけて飛び下りる。が、先に投げた自分の刀の上に乗ってしまい思いっきりすっ転げてしまった。
「・・・ってえ」
尻餅をついて腰を押さえる鷹月のその姿は、ざんばらの前髪に総髪を高く結って、木綿の着物にしわしわの袴と言う、いつぞやを思い出す出で立ちである。一国の主になっても、この癖は一向に抜けそうにもなかった。そんな事をしている内に、物音を聞きつけた門番が駆けつけて来た。
「おい、何をしておる!」
「やばい!」
ここは城とは違って門番でも鷹月の顔を知っている。とっさに鷹月は門番とは反対の方向を向くと、刀を掴んで一目散に駆け出して行ったのだった。
江戸の町には異常な程に人が溢れている。寺院の門前には、行商人達が芸をして見せたり、口上を述べていたりと、今日は祭りかと思う程の賑わいである。道には人がぎっしり詰まって、すれ違う肩がぶつからないように歩くのがやっとである。これほどの賑わいと人込みは初めての鷹月は、物珍しそうに売り物を見て、ぶつかりそうな人を避けながら、江戸と言う町を肌で感じていた。
「これじゃ、桂介を捜す所じゃないな・・・」
やっと人込みを抜けて一息と深くため息をついた時、ドンと思いっきり人とぶつかってしまった。
「いってぇな。気をつけろ!」
と男は捨て台詞を吐いて、足早に去ろうとした。しかしその男の手が、去り間際に懐の物を掠め取った事に気がつかなかった鷹月ではない。
「気をつけてるぜ」
鷹月は近くの芸人が使っていた太鼓のバチを取ると、その男の足元に目掛けて、投げつけた。バチは見事男の足の間に入り、男は足を絡ませて転んだ。鷹月は大股にその男に寄り袖を探ると、鷹月のもの以外にも二つ財布が出てきた。
「だ、だんな。ほんの出来心。勘弁してくだせえよ」
「出来心でもな。三回やってたら立派なスリなんだよ」
財布でスリの頭を思いっきり殴る。思わぬ捕り物劇に周りで見ていた人達から拍手がおきた。取り合えず鷹月は照れながらペコリと頭を下る。たまたま騒ぎを聞きつけた近くの番所の人がスリを連れて行き、鷹月はやっと人の目から開放された。
「へえ、旦那もやるときゃやるんだな」
人の目が品物に戻った頃を見計らって、一人の男が鷹月の肩ごしに話しかけた。知り合いの様な口ぶりに振り返って見たが、知らない男だった。細面で色白の遊び人風の若者である。
「それにどうしたんです?腰のものなんざ差して。もしかして、どっかの屋敷に士官しようてんじゃねえですよね」
慣れ慣れしく喋って来るが、この男を知らない鷹月は何も言えずに、顔を見返すばかりである。
「ま、あんないい家にあれだけの稼ぎでは住めねえもんな・・・・・じゃ、おいらはこれで。あっ、集まりは明日でって事、内職で忘れないようにしてくださいよ。斗希の旦那」
男は歯切れ良く言って、鷹月の肩をポンッと叩いて去って行った。歯切れの悪いのは鷹月である。
「トキ?・・・・トキ。どっかで聞いたことあるな。どこだったかな・・・。あれ?」
その時目の前を、よく似た姉妹が通って行った。鷹月は、見とれた様にそれを目で追う。
「・・・・・ああっ!思い出した!」
そう叫んだかと思うと、直ぐに踵を返し、さっき去って行った男の後を追って行ったのである。
表通りから一、二本入った堀ばたの通りを、一人の浪人が歩いていた。栗原桂介である。屋敷の誰にも行き先を告げずに出て行った桂介は、鷹月が藩主になる以前城下で暮らしていた時と同じ様に、着流しで刀を差さず書物を抱えた姿で、どこかへ向かっているようである。堀沿いに歩いて旗本御家人級の屋敷が立ち並ぶ通りを抜け、ある古い屋敷に入って行く。
「こんにちは」
変わらない温和な声で玄関に呼びかける。しばらくするとまだ十四、五ぐらいの女の子が迎えに出た。
「こんにちは栗原先生。今旦那様はお出かけになってますけど、お部屋の方は気兼ねなく使ってくださいって言っておいて下さいって」
「そうですか、では気兼ねなく部屋を使わせてもらいましょう」
桂介は穏やかな笑顔を返すと、少女と一緒にいつものように奥に続く廊下を進んで行く。
中庭の廊下まで来ると、何やら甲高い声が聞こえてきた。桂介の顔が自然と笑顔になる。目的の部屋の前に立ち、一つ気合を入れると、歯切れ良く障子を開けた。いままでザワついていた空気が一瞬止まる。その後桂介は、もっと大きな歓声に囲まれたのだった。
「あっ、桂介先生」
「おそいよ-」
「もう、あきた-」
思い思いの事を言う子供達に笑顔で返して部屋の真ん中に進んだ。
「ごめんごめん、ちょっと用があってね。さっ、始めよう」
桂介は浪人をしていた時と同じ、手習い小屋の仕事をしていた。しかし江戸に来て二か月あまりで、こうも都合良く適職が見つかるとは思えない。それにこの屋敷は一体・・・
「桂介さん」
もうすぐ勉強の方も終わると言う頃、部屋の障子がカラリと開いて、一人の若い男が顔を覗かせた。この屋敷の主である。白地の裾に紺一色で模様の入った着物を、袷を少し下げて粋に着流し、頭は髷を結わず肩ほどの長さで切り揃えてある。品のある笑顔を浮かべているその顔は、よく知る誰かに似ている様に思う。
「斗希様」
桂介は軽くだが丁寧に頭を下げた。斗希と呼ばれた男は、子供達の様子をにこやかに見回しながら言う。
「大分子供達が増えましたね。お一人で大変になったら言って下さい。私も手伝いますから」
「いえ、場所を使わさせていただいているだけでも、ご迷惑をおかけしているんです。大丈夫です、向こうではこれの倍の子供を見ていましたから」
男はそうですか、と頷いた。それから軽く息を吐くと、少し言いにくそうに口を開く。
「あの、桂介さん」
「はい」
「これが終わったら、私の部屋に来てくれませんか?お話があります」
「はい、承知いたしました」
斗希は何のためらいもない桂介の返事に、少し苦笑いのような物を浮かべて部屋を後にした。
子供達が帰り、その元気な名残を後片付けし終えた頃には、外はもう薄暗くなっていた。すべての作業を終えた桂介は、ふぅっと一息ついた後、主人の部屋に向かう。
「斗希様、栗原です」
「どうぞ、入ってください」
「失礼いたします」
何も知らずに障子を開けた桂介は、その中にいた斗希と一緒にした人物を見て一瞬声を詰まらせた。
「わ・・・若様」
男の横で気まずそうに見上げた鷹月は、ぎこちない挨拶をする。
「よぉ、久しぶりだな」
「どうしたんですか、どうしてこんな所にいるんですかもしかして、また黙って抜け出して来たんじゃないでしょうね?」
驚いてはいたが、まったくいつもの調子で桂介はまくし立てる。少しムッとした鷹月は、ぶっきらぼうに返した。
「お前人の事言える立場か」
嫌な沈黙が流れる。
「・・・若様。どうしてここが分かったんですか?」
「お前を探しに町に出たら、たまたまオレを斗希月と見間違えた奴がいたんだ。で、そいつを捕まえて問い詰めたら、ここを教えた。もしかしたら、桂介もこいつの事を知ってたんじゃないかと思って来てみたんだよ」
「はあ、しかしそういうのは教えたというより、脅したというような・・・」
言いにくそうな桂介が斗希月を見て同意を求める。斗希月は鷹月から見えないように顔をそむけると声を殺して笑い始めた。
「二重にびっくりしたよ。斗希月がまさか江戸にいるとは思わなかったし、桂介が家出するとも思わなかったしな」
「申し訳ございません。若様に何も言わず、屋敷を出てしまって・・・」
鷹月だって桂介がただ出て行ったとは思っていない。しかし親友と思っていた自分に何の相談もなしに出て行った事に裏切られた気がして、気分を悪くしていたのである。
「ま、いろいろ聞きたい事はあるんだが・・・。そうだな、まず斗希月が江戸にいるって事は初めから知ってたのか?」
屋敷の主人で斗希と呼ばれているこの男は、北原斗希月と言い鷹月の腹違いの弟に当たる人物なのである。斗希月の母の朱鷺の方は、父月影が遠駆の途中に寄った家臣の家で見初めた娘だった。正室で鷹月の母であるお紫の方とは妹程度に歳が近かったからか二人はとても仲が良かった。だから鷹月と斗希月も小さい頃はずっと一緒に育ったのだ。しかし、政平達の母であるお政の方はそんな朱鷺の方を気に入らず、何かにつけて嫌っていた。それだけならまだ良かったがそれに付け込んで、ある藩士が権力を狙い、朱鷺の方に罠を仕掛けたのである。結局、混乱を避ける為朱鷺の方は城を追われ、斗希月と共に北原の家系から名を消したのであった。
「権力争いに巻き込まれた朱鷺の方様達を国外に逃がしたのが、我が父でした。月影様は、朱鷺の方様達が国にいてはまた争いに巻き込まれると考え、父にお二人の事を託されたのです。父が残した書の中に、江戸のある屋敷に二人がいる、いざと言う時は私がお二人をお守りするようにと記してあったのです」
今まで事の成り行きを黙って見ていた斗希月が口を開く。
「ところで鷹月。お前が捕まえたって言う男にどんな聞き方したんだ?オレの知ってるその男なら、聞いたとか脅したからと言ってそう簡単に口を開く奴ではないんだが・・・」
「ん?ああ、初めは何を聞いても早口で訳の分からない事を怒鳴ってたんだよ。しょうがねぇから、刀を喉に突きつけて〔言わないと首きるぞ〕って刀を引くマネをしたら、慌ててこの場所を喋ったんだ」
斗希月と桂介は顔を突き合わせた。
「やる事が大げさなのは・・・子供の時からまったく変わってないんだな・・・」
斗希月は幼少の事を思い出したのか、愉快そうに笑う。
「おい笑い事じゃないぞ。そもそもお前が江戸なんかにいるから、桂介がそれを頼って家出したんだ」
「そんなムチャクチャな。まるでオレが手引きしたみたいじゃないか。言わせてもらうがな、オレも桂介さんの家出の理由は知らないんだぜ」
途端に鷹月は真顔になった。それに追い打ちを掛けるように斗希月が言う。
「それに良くは知らないが、桂介さんには桂介さんの生活があるらしいぞ」
鷹月は俯いて聞いていた桂介に、苛立った声をぶっつけた。
「お前一体、江戸で何をやってるんだ?」
しばらく無言の時が流れた。鷹月は桂介が口を開くのをじっと待っている。このまま何も聞かずに別れたら、もう二人の友情は二度と戻らない様に思った。どうして何も言ってくれないのか。黙っている桂介に怒りを感じつつ鷹月は膝に置いた手を思いっきり握りしめて、いいたい事を我慢していた。桂介から口を開いてくれるまで・・・。
「分かりました。ご案内いたします」
決心したように深々と頭を下げる桂介に、鷹月と斗希月はホッとしたような不安なようなと言う顔で見合わせたのだった。
江戸の表通りから一本路地に入ると、そこは一段と庶民の生活に近くなる。小さな店が狭い幅で何件も並び、町人達で賑わいを見せている。そしてさらにその間の路地を入ると、そこは裏長屋と呼ばれる住居があった。二件の間の道は狭く日が当たらないので、土は常に湿気を帯びている。雨が降ると水が溜まるので、どぶ板と言う板が道の歩く所に並んでいた。
「お前、長屋好きだな」
案内された鷹月は、昔桂介の所に居候していた頃を思い出して懐かしく眺めていた。といっても、北原の城下の長屋の方が断然住みやすいだろう。丁度他の家の住人たちも仕事を終えて帰ってきた所で桂介に親しそうに話掛けてきた。桂介も親しげにそれに答える。もうここでも自分の知らない桂介の姿があるのだと、鷹月は少し胸が痛んだ。
「ここが私の住んでいる所です」
そう言って一つの戸の前で止まった。なぜか障子にほんのりと明かりが映っている。しかし桂介は戸を開けるのをためらい、なかなか中に入ろうとしない。二人は不信に思って桂介を眺めていると、ちょっと俯いてそれから決心したように戸を開けた。
「ただいま。今帰った」
「ただいま・・・?」
桂介が家の中に掛けた意外な言葉に、鷹月は眉をしかめた。しかしもっと意外だったのは、その言葉に返事が返ってきた事である。
「お帰りなさいませ。今日はお早いお帰りですね」
その声の主は、優しげな声でそう言って、戸口に降りてきた。桂介は照れたように笑ってから、体を戸口から少しずらした。
「へえ・・・」
と言ったまま、鷹月と斗希月は立ち尽くしてしまった。歳は二十六ぐらいだろうか。桂介に似た落ちついた雰囲気に、優雅な物腰を持つ女だった。肌は白く切れ長の目眉も鼻も見事な程に均整の取れた、すごい美人なのである。ただ少し幸せ薄そうな雰囲気が気になった。
「まあ、お客様でしたか。さ、どうぞ何もありませんがすぐお支度いたします」
桂介も二人に頷いて、中へ促す。斗希月はぎくしゃくしている鷹月の肩を押しながら、中へ入って行った。桂介が言葉を掛けると、その女性はにっこり笑って頷く。穏やかで落ちついた雰囲気の桂介と並ぶとまさに大人の恋人どうしという感じで、誰の目から見てもお似合いの二人だ。
「これは雪と申します。その・・・私の連れ合いです」
「夫がいつもお世話になっております」
放心状態の鷹月を放っておいて、斗希月が笑顔で言葉をかけた。
「そういう事でしたか。いや、それはおめでとうございます。いつ一緒になられたのですか?」
「はい、まだそれほど・・・十五日ぐらい、かな」
という事は屋敷はから姿を消して少ししてからと言う事になる。何か言う時は必ず二人は顔を見合わせ、本当に好き合っているんだな、と鷹月はちょっとうれしい気分になって来た。
「こちらは仕事でお世話になっている斗希さん。こちらはその・・・・兄上様の鷹月さん」
はっきり紹介しない所を見ると、桂介は自分が北原家の重臣であると言うことは、雪には秘密のようである。
「どうやって見つけたんだよ。こんな綺麗な人」
「まあ、綺麗だなんて。とんでもございません」
「いやいや、雪さんに比べたら、うちのなんてブスだ」
「いいんですか、そんなにはっきり言っちゃって」
「いないからいいんだよ」
と言いつつ振り返ってしまう鷹月であった。斗希月はそんな鷹月を姿を見、桂介と雪と顔を見合すと思わす吹き出して笑ってしまった。それから二人は、この夫婦から夕飯を御馳走になった。二人ともこれほど飲んだことはない、と言うぐらい飲んだ。ささやかなものではあったが、何よりも桂介と雪の心遣いが身に沁みた夜になったのだった。
「雪は遊女だったんです」
ふらふらになった鷹月を送って行くと言って、外に出た桂介は、ぽつりとそう言った。
「遊女・・・ですか」
まったく潰れてしまった鷹月を抱えていた斗希月は、月明かりに隠れてさり気なさを装った。
「もともと雪は北原の城下で育ち、母上の友人の娘でした。下級の武士の生まれでしたが、将来はお城へ上がるのではと噂されたほどの綺麗な子だったんです。しかし雪の父上が盗賊と組んで盗みを働いたと言うことで、父上は切腹、お家は断絶。母上殿は誰にも迷惑をかけたくないと言って、雪を連れて藩を出たのです。それから消息の方は途絶えていたのですが、つい最近、江戸詰めの若者から雪を吉原で見かけたと教えられました」
桂介はそういいながら、思い出すのも辛いと言った表情をした。
-遊廓に足を踏み入れた桂介は、目眩を覚えた。狭い通りには遊びに来た男と、引き込みの女たちが入り乱れて雑音のような賑やかさである。顔見の格子を覗く男の裾を、中から伸びた白粉まみれの手が何本も掠っている。足を踏み入れた桂介も例外ではなく。少し放心している間に、置屋の引き込みが近づいてきて、とんとんと調子良く喋りながら、桂介を店の中へ誘い込もうとしていた。
「いや、私は客では・・・」
暖簾を潜らされてから、慌ててそう言ったが、後から入ってきた客の声に被さってしまう。
「女将、雪藤を頼みたいんだがね」
「ああ、あの子はやめときなよ。最近客の評判が悪いからねぇ」
「そりゃまたどうして。廓の見世を見てきたが、あれほどの美形はなかなかいないよ」
「さぁてね。よく来る伝馬町の医者にいわせりゃ、気がふれてるって事だけどね。何を言ってもああやって一つの所を見てるだけ。何考えているんだか、私には分からないよ」
桂介はその二人の目線の先を何気なく追った。雪だった。見世の後ろの方に背を丸めて、俯いている。その目は何も見てはいない。
「雪さん・・・雪さんか」
桂介はかすれた声で雪の名を呼んだ。ゆっくりと持ち上げられた生気のない顔。しばらく虚ろな目でその声と姿を探していたが、桂介の姿を見つけた途端、頬に赤みが戻り、その口許はしっかりと桂介の名を刻んでいた。-
「それからすぐに、女将に雪の身請料を聞きました。四十両だと言うので、すぐに都合をつけて身請けしたんです」
「四十両をですか?よくそんな大金を都合できましたね」
「雪のお母上が残した遺産が二十両、私の持ち金が十五両、あとの五両は刀を質に入れて作ったんです」
びっくりしたのは斗希月である。すっかり酔いつぶれて二人の肩にぶら下がっている鷹月が今の言葉を聞いていなかったか心配したが、意識のなさそうな様子に安心した。
「桂介さん。刀を売るっていう事がどう言う事か分かってるんですか?あなた武士を捨てるつもりですか?」
斗希月の問い詰める言葉にも、桂介は笑顔だった。それも優しく、幸せそうな笑顔である。
「雪の顔を見た時、あいつの為なら武士を捨ててもいいと・・・。あれも無一文になった私について来てくれると言いました。二人でいられたら、地位も名誉もいりません」
「・・・・それでは、北原を捨てる、と・・・」
そこで初めて桂介は顔を曇らせた。一瞬鷹月の頭に目を落とし、寂しげに言う。
「申し訳ありません・・・」
それから何と声を掛けていいか迷っているうちに、斗希月の屋敷にたどり着いた。玄関に入って二人が手を緩めると、鷹月の体は思いっきり床に転がった。あわてて覗き込むが、静かに寝息を立てて寝ている様子に、ほっとため息をつく。
「あなたが去って一番こたえるのは、鷹月だと思いますよ」
桂介はただ困ったように笑うと、二人に頭を下げて帰って行った。
桂介の姿が見えなくなる頃、斗希月は深くため息をついて、転がっている鷹月に声を掛けた。
「行ったぞ」
その声を聞くなり、寝ていたと思われた鷹月がむっくりと起き上がった。泥酔の様子もなく、厳しい表情で宙を見つめているのは、今までの桂介の話を聞いていた証拠である。
「桂介さんが厳しい事を言うたびに、お前の体が強張るのが分かったぞ」
「まともに聞ける話じゃなかったからな。無理に加わらないようにしてたんだ」
とはいえ足元のおぼつかない鷹月は、斗希月に支えられながら奥の広間に入って行った。鷹月を部屋に置き、斗希月は部屋を出た。鷹月は桂介の話を思い返しながら、なぜ桂介が北原を捨てなければいけなかったのか必死で考えて見た。たとえ女郎であったとしても桂介が彼女を妻に迎えたいと言って、反対する者などいない事は分かっているはずである。それに雪は元は藩の人間である。藩の・・・。鷹月ははっとした。彼女は藩のせいで、あんな人生を送ることになってしまったのだ。だから、桂介は藩を捨てたのか・・・。そこまで考えた所で、斗希月が部屋に戻ってきた。徳利と呑い飲みを手に、鷹月に笑顔を見せている。鷹月は気が付いた、ここにも同じ境遇の人間がいた事を。斗希月は酒を鷹月の前に置くと、深刻な声で聞いた。
「鷹月本当にいいのか?桂介さん本気で、あの雪さんと江戸に住むつもりだ」
鷹月は複雑な思いで斗希月を見つめた。鷹月の思いなどまったく気がつかない斗希月は、その問いの答えを待っていた、。溜息一つついた後の鷹月のその声は意外に割り切った様な響きを持っていた。
「あいつがそうしたいと言うなら、オレは何も言えないさ。桂介には桂介の人生があるんだ。同じ父親を持つオレとお前の人生が違う様にな」
斗希月は鷹月の答えに眉を寄せながらも、酒を勧めた。鷹月はふっ切った様に口端を上げると、受けた酒を一気にあおった。
「それに、あんなに嬉しそうな桂介の顔、初めて見た。気儘に城下暮らしをしていた所に押しかけて行って、オレが家督を継ぐからと、無理言って城に上がらして。いろいろ迷惑も苦労も掛けたし、このままオレの側近でいたら幸せになれっこないもんな。オレなんかがとやかく言えた義理じゃない」
「そうか・・・」
斗希月も酒を一気にあおった。桂介がいなくなったら、藩の運営は自分一人の肩に乗し掛かって来る。今までよりきつくはなるが、親友として彼が幸せになるのだったら、頑張れるはずだ。と、鷹月は自分に言い聞かせた。
「よし、今夜は飲むぞ。もちろん斗希月も付き合うよな」
「おいおい、屋敷に戻らなくていいのか?朝から黙って出て来たんだろ。家臣や奥方が心配してるぞきっと」
「凛なんか心配するもんか。オレが屋敷を抜け出したと知ったら、自分も抜け出して来るだろうよ」
「ははは。まさかぁ」
本気にしない斗希月。そのまさかな人物なのだと言う事を斗希月はまだ知らなかった。鷹月は斗希月の空いたぐい飲みに酒を注ぎながら、改めて懐かしい弟の顔を眺めた。
「しかし・・・・。本当に久しぶりだな。まさか生きたお前にもう一度会えるとは思っても見なかったよ」
「オレだってそうさ。あの時母上と城を出た時からもう二度と父上や鷹月には会えないだろうって泣いてたんだから」
斗希月は、鷹月が人をからかった時に見せるおどけた笑顔と同じ笑顔を見せた。
「え-、お前泣いてたの?」
「ああ、泣いてた。父上やお紫の母上にも政平の兄上にも会えないって分かった時も、何度も泣いたよ」
ちゃかそうと思った鷹月だったが、あっさりさっぱり言い放つ斗希月に、少し面食らって言葉が出なかった。
「みっともないと思うだろ?そう思うのはお前が武士である証拠だ。武士は人前で感情を見せるものではない、って昔はオレもそう思っていたし、平気で感情を表に出す者を見下していたこともある。しかし、ここに来てよく分かったんだ。町人は毎日を全力で生きている。その日の食べ物にありつく為、女房子供を食わせる為、その体一つで必死に働いている。毎日を一生懸命だからこそその人生で起きる別れにも、出会いにも感情をさらけ出して全力でぶつかれるんだよ。人前で泣く事は恥じゃない。それだけそれに対して一生懸命だったからこそ泣くことができるんだと、オレは思う。・・・・はは、悪いなんか説教ぽくなっちゃったな」
斗希月もまた武士を捨てた張本人。今の話で鷹月は斗希月の胸の内が分かった気がした。それにこの親子を藩から追い出したのも武士なのだ。不快感を持つのも仕方のない事である。鷹月はあいまいな表情で、首を振る事しかできなかった。
「ところで鷹月は、立派に北原を継いだんだな」
「いや、実は。オレも一度北原を捨てようとした事があったんだ」
斗希月が意外そうな顔で鷹月を見た。
「父上が亡き後、幼かったオレの代わりに北原を取り仕切ったのが政平の兄上だった。兄上は父上が遺言に記した通りに、オレが一人前になるのを待って、家を渡そうとしてくれた。しかし父上の後の藩を立派に守り、豊かな国にして行ったのは兄上だ。藩の内外でももちろん北原の当主として認められてたしな。遺言なんかに左右されず、当主として相応しい者がこのまま藩を継ぐべきだと思って、家を出たんだ」
斗希月は杯を口許にあてながら、鷹月の顔を見つめたまま次の言葉を待っている。
「だけど、オレが北原失脚を企む奴の手に落ちた時。オレと凛を助け出すため、兄上はわざわざ敵の中に飛び込み・・・深手を負ってしまったんだ。その時気がついたああ、結局オレは兄上にずっとこうやって守られていたんだよなって。偉そうに兄上の為に家督を譲るなんて、結局上っ面だけのことで。本当に兄上の為を思うならさっさと家督を継いで、父上の遺言から開放させてあげれば良かったんだよ。それで城に戻って、今までの分を今度はオレが兄上に答えるつもりで、今日までに至っているというわけだ」
話している自分に照れたのか、鷹月はおどけた調子で話を締めた。しかし斗希月はその話を真面目に受け止めていた。
「鷹月らしい・・・。思った通り、全然変わっていないよ、お前。でもまぁ、結局それがお前の選んだ道である訳だ」
グッと杯を傾け酒を流し込み一つため息をついた後、斗希月は一瞬寂しそうな表情をした。しかし、そういう微妙な感情に気がつく鷹月ではない。上機嫌で斗希月に酒を勧める。
「そうだ、今日若い町人に声を掛けられたぜ。どうやらお前と間違えたらしいけど、集まりは明日・・・とか言ってたぞ」
杯を口許まで持って行った所で、手が止まった。斗希月の目が素早く鷹月の顔を掠め、床に落ちた。こういう不穏な態度には鷹月はすぐに気がつく。鷹月はその動揺ぶりに、驚くよりも不安を感じた。
「お前・・・いったい江戸で何してんだ?」
よく考えてみれば、さっきの男も町人にしては身のこなしが凡人ではなかった気がする。軽そうに振る舞っていたが、視線にもスキがなかった。
「ああ・・・友達だよ」
「・・・なぁ、ダテに藩主やってる訳じゃないんだぜ。あの男はただの町人じゃない事をオレが見抜けないと思うか?もう一度聞く、江戸で何してんだ?」
斗希月はしばらく鷹月の顔をじっと見つめた。その顔つきは、今まで穏やかに話していた弟のその顔とはまったく違う、事と次第によっては鷹月に刃を向けるかもしれない凄みを含んでいた。しかし、突然ふっと視線を和らげると1つ溜息をつき、鷹月から視線をはずした。
「まいったね、お前は子供の頃からそうだ。人の表情の裏を読んだり、ちょっとしたしぐさを見抜いたりするのが得意だったな・・・」
「斗希月!」
いらだつ鷹月を静かに片手でなだめる。鷹月も斗希月を睨みながら、酒を口に流し込むと、斗希月が次に口を開くのを待った。
「こんな噂があるのを知っているか?大明神の御本堂の中に恨み辛みのこもった金を納めると、自分に代わってそれを晴らしてくれる、というものだ」
「恨み辛みのこもった金?」
「このご時世は、武士の権力は絶対だ。どんなに頑張っても、町人は所詮町人で、女は所詮女で・・・。弱い立場の者は慎ましく生きていくしかない。悪い奴らってのは、そういう慎ましく生きている人々を食い物にし、自分の道楽の為に殺したりする。しかし、それでも人々は何の抵抗も出来ないで、泣き寝入りだ。そのやりきれない思いを、金にたくすのさ」
話を聞きながら飲んでいた酒を、鷹月は口許で止めた。そして、斗希月の顔をじっと見つめた。斗希月は挑むような薄笑いを浮かべている。しばらくして、鷹月は斗希月から視線を外すと、その何もないがらんとした部屋を見渡した。そしてフッと表情を緩めると、口許まで持って来ていた酒をぐっと仰ぎ、斗希月に笑いかけた。
「それがお前の選んだ道って訳だ・・・・・」
大名の中でも参勤交代を行わず、江戸定府つまり江戸に定住する者がいる。幕府の要職についている大名達である。江戸に長く暮らしていれば、それなりに江戸の町との係わりも深くなると言うものだ。とある幕府重臣の屋敷内でも、江戸に溺れた男がその怒りを爆発させていた。
「どういう事なのだ!あれほど手放すなと申し付けておいたであろう!」
足元にひれ伏している年増の女に、その若い武士は怒りあらわに睨み付けた。その女とは、雪のいた置屋の女将お松である。お松は恐る恐る顔を上げ必死に弁解し始めた。
「も、申し訳ございません。まさか四十両という金を一度に持ってくる者がいるとは思いませんでしたので・・・」
「雪藤には客を取らせぬよう申し付けたであろう!」
「はい、ですから雪藤は病気という事にして客は取らせておりませんでした。しかしその方はお遊びにならずに、いきなり来て雪を身請けした次第でして・・・」
必死で弁解するお松に、幾分怒りも和らいだのか、その武士は落ち着いた声でお松に訪ねる。
「その男、武士であったのか?」
「はい。浅黄裏のようでございましたが、立ち振る舞いからかなりの身分のお方ではないかと思われます」
「ふん、雪藤め。田舎侍などの元へ行って何になるというのだ。あれほどオレが見請けしてやると言っておったのに・・・」
再び若い武士は苛立ち、その辺にあった物を手当たり次第に蹴散らす。ひれ伏しているお松は、その怒りをただただやり過ごすように、震えながら畳に張り付いていた。
「槌谷はおるか!」
「はっ」
その声に即座に人影が廊下で頭を垂れる。
「雪藤の奴を草の根分けて探し出し、ここへ連れて参れ!」
「しかし若殿、雪藤には見請けした者がございます」
若い武士は、馬鹿にするように槌谷を見下す。
「そんな者、始末すればよかろう」
「・・・はっ、仰せのとおりにございます」
槌谷はさっそく側に控えていた若い武士達に声をかけると外へ出て行った。その背中を見ながら雪の事を思い出すのか、若い武士はいよいよ高まる怒りに、今度は手に掴んだ物を障子に向かって投げつけたのである。
次の日、桂介が斗希月の家に来て見ると、奥の部屋は酒の臭いが残っており、徳利やぐい飲みが散らばる中に、二人が思うままの姿で転がって寝ていた。
「お二人共、おはようございます!」
ほとんど同時に飛び起きた二人は、その声の主を確認すると迷惑そうに眉を寄せ、また突っ伏した。
「なんだ桂介か・・・。大声出すなよ」
「若様、まさかお屋敷に戻られなかった訳ではないですよね?」
疑いの眼差しに、鷹月はべーっと舌を出して見せる。斗希月は桂介に向かって両手を合わせ、ごめんなさいと告げた。
「若様!あなたは・・・・・」
ついいつもの調子で小言を言おうとして、桂介はもう自分が藩の人間ではない事を思い出し、口をつぐんだ。三人の間に気まずい沈黙が流れる。
「あの・・・、では私は勉強部屋に参ります」
斗希月に一礼した後、そっぽを向いている鷹月にちらりと視線を走らせ、桂介は出て行った。斗希月はそんな桂介と鷹月を見て、まだどちらもケジメがついていないのだなと思い、視線を落とした。
「あの・・・ごめんくださいませ」
女の来客のようだ。玄関近くの廊下にいた桂介が、応対に出た。
「はい、なんでしょうか?」
訪ねて来た女性は、俯いたきり顔を上げもしなければ、用件を言おうともしない。桂介は不思議に思い、もう一度訪ねる。
「あの・・・」
「・・・こちらのお屋敷で、手習いをしていると聞いて参りましたが」
「はい、確かにやっております」
玄関に座った桂介が、女の顔を覗き込もうとした時、女の方もゆっくりと顔を上げた。二人はお互いの顔を見て、しばし唖然とする。
「こ・・・小春さん」
「栗原様・・・」
小春には玄関に来て応対した声を聞いた瞬間、すぐに桂介だと分かっていた。決心したように顔を上げ、そのずっと会いたかった人物の顔を見た途端言葉がでなかったのだ。やっと上ずった声でそう言った後、小春はくるりと背を向け玄関を出ると、外にむかって大声を出した。
「奥方様!おられました!」
桂介の背中に、冷たい物が一気に流れ落ちた。小春が呼ぶ奥方様と言ったら、人の多い江戸の中でも一人しかいない。何年ぶりかに聞く軽快な草履の音が近づいたかと思ったら、これも懐かしい町人の娘姿の凛が、怖い顔で突進して来る。
「やっぱりね、言ったでしょ?桂介を探すなら、手習い小屋を回るのが手っ取り早いって」
小春は俯いたまま頷く。俯きながらちらりと桂介の方を見てみると、桂介も凛が次に何をするのか察しがついたらしく、こわばった顔でしきりに中の方を気にしていた。
「で?桂介がここにいるって事は・・・・」
そう言いながら草履を脱ぎ捨て、桂介の脇をすり抜けて奥の部屋に入って行く。そして襖が半開きになっている部屋を見つけると、大きく息を吸い込みながら勢いよくその襖を開け放った。
「鷹月!」
「うわっ!凛!・・・お前なんでここにいるんだよ!」
激しい頭痛でうだうだしていた鷹月だったが、その声を聞いた途端一気に酔いも吹っ飛んで、思わず正座をしてしまった。部屋の隅で目を丸くしてそんな凛の姿を見つめていた斗希月だったが、怒りに怒りまくった凛には、鷹月以外の人間などまったく目に入らないようだ。
「ここにいるじゃないわよ!あなたがいなくなったって屋敷中大騒ぎなんだから。江戸ではお城の様に庇ってくれる人いないのよ。義兄上様がご苦労なさったのも頷けるわ。桂介も桂介なら鷹月も鷹月よ。まったくどうしてこう、家出癖が抜けないのかしら!」
「お前だって、そんな格好してこんなところで・・・・」
「おあいにく様、私はちゃんと鷹月を引っ張って帰ってくるって、みんなに約束して出てきたの」
凛の剣幕にたじたじになる鷹月、桂介は巻き添えを食らわないように部屋の外から半分だけ顔を覗かせている。しばらく唖然と凛と鷹月のやり取りを見ていた斗希月がクスクス笑い出した。そこでやっと凛は斗希月の存在に気が付き、この若い美青年の方を向く。
「あ・・・えーっと」
他人に失態を見られた恥ずかしさというより、凛の声には別の迷いの様な響きが感じられた。
「鷹月・・・?この方・・・北原の?」
鷹月と斗希月は真顔で顔を見合わせ、鷹月が凛に聞く。
「オレ達、似てるか?」
もちろん凛は斗希月の事など知るはずもない。その凛が斗希月を見て言い当てたのだ。町で鷹月が斗希月に間違えられた事もある。事態を飲み込めずにいる凛に、後ろで様子を見ていた桂介が囁いた。
「凛さん。こちらは北原斗希月様と申され、若様とは腹違いの弟君です」
「まぁ、それは。大変ご無礼を致しました。わたくし、凛と申します」
やっと事情が分かった所で、凛は丁寧に斗希月に挨拶した。
「いえ、奥方様。私はすでに北原を出た者、お気遣い無用です」
やっと平穏な空気が流れ、全員が部屋の中に腰を落ち着ける。こう言われると、本当に気を使わないのが凛である。にっこり笑って座り直し、まじまじと二人の顔を見比べた。
「一瞬間違えたかと、ひやっとしました。でも・・・よく見るとやっぱり違うわ。斗希月様の方が、気品のあるお顔立ちをしておられます」
厭味のつもりで言ったのに、鷹月はその答えに笑い出した。
「ほらやっぱりな。子供の頃も客人の前に二人が出ると、みんなお前の事を嫡男だと思い込んでいた事がよくあっただろう?やっぱりお前には城主の素質があるんだよ」
「鷹月、それはいいっこなしだろ」
本気とも冗談とも取れない鷹月の言い方に、斗希月も笑顔で受け答える。凛は、二人が自然にじゃれ合う姿を目の当たりにし、本当に兄弟なのだなとようやく実感してきた。こんな姿は兄の政平や、桂介にさえ見せた事もないからだ。ずっと後ろに控えていた小春は、なぜか落ち着かない様子である。桂介がいるからとかそういう事ではないらしい。斗希月の方をちらりと見ては、わざと目を合わさないようにしている。小春は北原の藩に来る前は江戸にいたのだが、どうやら斗希月の事を知っている様だ。斗希月の方も時折小春の方を見ていた。しかしそんな事に、他の誰かが気が付くはずはない。しばらくすると、玄関でかわいい声が響いた。
「先生、こんにちは!」
子供達を迎えに桂介は、中座を願い出て部屋を出て行った。しばらくすると、桂介が子供達を迎える声と、子供達が桂介にいろいろ話を聞かせている声が聞こえる。そんな声を聞きながら、凛はなんだか懐かしい気持ちでいっぱいになった。何も知らずに桂介の長屋に居候していた時、そして桂介の寺子屋の仕事を手伝って、おやつを作ったり、子供達と一緒に遊んだりしていた事など、城に上がる前の楽しい生活を思い出す。
(お城・・・?)
凛は鷹月を探しに来た目的をはっと思い出した。
「そうよ、こんな所でゆっくりしてる場合じゃないのよ。早朝に御老中加藤晴信様の御家中の方がお出でになり、正午に屋敷にお立ちよりになるって言ってきたそうよ。お願いだから戻って!」
そういう事なら戻らない訳にはいかないな、と鷹月は頷くと大きく溜息をつき、腰を上げた。凛はその辺に転がっていた刀を取り上げると両手に乗せ、鷹月に差し出す。鷹月はそれを受け取って腰に差す。それから凛に一言二言何かいいつける。凛はそれに素直に頷いていた。何だかんだ言っても、結構仲のいい夫婦である。
「桂介にも戻るように伝えないと・・・」
「いや、あいつはいい」
「え?でも」
「訳は後で話す。行こう」
子供の声のする部屋の方を気にしている凛の肩を押して、鷹月は玄関へ出た。先に出て玄関で待っていた小春は二人為に草履を揃える。玄関まで見送りにきた斗希月は、小春と目が合うと少し微笑んで会釈した。それに小春もまた一瞬だけ笑みを見せ、会釈程度に頭を下げる。二人が支度を終え玄関を出ようとした時、急に鷹月は立ち止まり斗希月を見据えた。その顔には今までの和んだ表情はなく、真剣な眼差しを向けている。どうしたのかと、斗希月が戸惑いながら鷹月を見ていると、鷹月は真面目にこう言った。
「斗希月、もう一度北原に戻らないか?」
「鷹月・・・」
「お前が無事だという事を知れば、兄上もきっとお喜びになるぞ。それにお前にはオレにはない徳がある。もう北原にはお前を追い詰めるような輩はいないし、お前がいてくれればオレも心強い、それに・・・」
斗希月は、だんだん熱望するように喋りだす鷹月の腕を抑えた。そして静かに笑いながら言う。
「鷹月、昨日話した事をもう忘れたのか?お前にはお前の選んだ生き方があり、オレにはオレの選んだ生き方がある。それがそんな道であろうとも、オレは後悔していないんだ」
それでもと言った表情をする鷹月。何も言わないが鷹月の申し出には絶対応じないと言った斗希月の態度。鷹月はこの答えにどうすればいいのか考えるように俯いた。そして、顔を上げた時には、あきらめたような吹っ切ったような笑顔があった。
「そうだな・・・。お前の言う通りだ。オレらしくない事言って、まったく恥ずかしいぜ」
「まだ江戸には長く居るんだろう?オレはいつでもここにいるから、また訪ねて来ればいいさ。今度はちゃんと屋敷に断ってな」
二人はそっくりな笑顔で笑い合う。
「桂介の事・・・頼むぞ」
「ああ、分かってる」
そして鷹月達は、屋敷へと戻って行ったのだった。
「・・・で、鷹月は桂介の出奔を認めたの?」
老中加藤晴信との挨拶が終わったその夜。鷹月は桂介の事を凛に話した。予想通り、話の間中凛は目を見開いたまま鷹月相槌も入れず聞き入っていた。話が終わってもしばらく放心していた凛だったが、やっとゆっくりと口を開いてこう言ったのだった。鷹月は勤めて問題はなにもないと言った顔で頷いて見せる。
「桂介の奴も随分悩んだに違いないんだ。あいつの性格上、今更オレがとやかく言っても聞き入れる訳ないさ」
「でも、桂介がいなくなって・・・・さみしくない?」
痛い所をついて来る。二人の事をよく知っている凛のこの言葉には、いろんな意味が含められている気がした。凛が北原の藩に入って初めて会った時から、三人はずっと一緒だったのである。桂介も鷹月もいて当たり前の存在になって来ていたし、いい事も悪い事も気分が良いか悪いかも分かり合っていたはずだったのだ。それが桂介は突然いなくなって、そして自分たちの知らない生活を始めていた。何の相談もなしに・・・だ。この言葉は、凛自身も自分に問い掛けたものだったに違いない。そんな凛の気持ちは鷹月も痛いほど分かる。確かに心細いし、さみしいだろう。しかし、鷹月にはどうしても桂介に強く言えない理由があったのだ。
「あのな、小さい頃は、オレと斗希月は城内でも浮いた存在だったんだ。オレは父上の正室の子供、斗希月は城下でも評判だった美女の子供という事で、何かと大人達も遠慮がちで遠巻きにしてた。剣術をしても遊びをしても、目に見えるような負け方をするし、誰一人として本気で相手にしてくれようとはしなかったよ。オレが斗希月と仲よくなったのは、年が近いからだけじゃないんだ。あいつとじゃないと対等に遊べなかったからなんだ。そこへ家老の息子で、オレ達の遊び役として桂介が城へ来たんだ。城へやって来た桂介はオレ達を対等に扱ってくれたよ。わがまま放題だったオレ達を本気で怒鳴るし、こっちがいろいろ辛い事があって泣きたい時は、いつもまっさきに受け入れてくれた。藩主になり主従関係にはなったものの、オレは結局今のいままで桂介に頭が上がらなかったんだ。その桂介が、自分の事でオレに本気で頭を下げたんだぜ・・・・・・何も言い返せなかった」
そう言って俯く鷹月を見て、凛は鷹月の気持ちが何となく分かったような気がした。鷹月は凛よりもっと以前に桂介との付き合いがある。鷹月は桂介を大切に思っているからこそ、幸せになってほしいのだ。それは凛も同じ事だった。凛は納得したように鷹月の手を取って頷く。それから、一つ大きく溜息をついた。
「でも・・・・小春にはなんて言おうかしら・・・・」
鷹月を見上げる。鷹月はぎくっとすると、慌てて立ち上がった。
「そういうのは、お前に任せるよ。じゃオレは・・・」
「ずるいじゃない!私が言わなきゃいけないの?」
「お前の侍女だろ、侍女の面倒ぐらい自分で見ろよな。頼むぞ」
おたおたと襖を開けた鷹月は、近くに小春がいなかったか見渡し、なぜか音を立てないように気をつけながら部屋を後にした。その姿を目で追いながら、思わず苦笑した凛だったが、さて小春にはどう切り出そうかと考え初めたら、途端に胃が痛くなって来てしまった。
幾つ月か経ったある日の事である。
「まぁ、あなた。これは?」
すっかり夫婦らしくなった桂介と雪は、二人で江戸の町を楽しんでいた。茶店に入って一服している時に、桂介が雪に何か差し出して来たのである。雪は顔いっぱいに驚きを表して、慶介を見つめた。
「斗希月様が、お給金を多く下さったんだよ。お断り申し上げたんだが、これは雪へと申されてね。だからそのお金で買ったんだ」
雪はうれしそうに笑い頷くとそれを受け取り、包んである布を広げた。
「・・・・綺麗ね」
出てきたのは塗りに彫金を施した手鏡である。鷹月同様あまりこういう事が得意ではない桂介は、それを本当に気に入ってくれるのか、心配そうに雪の顔を覗き込んでいる。ため息のような感嘆の声を漏らししばらく贈り物を眺めていた雪だったが、鏡から顔を上げると、その涼しげな目を細めて笑いかけた。
「それじゃ、私も何かお礼をしないとね」
そう言って、二人の間に置いてあった団子を取ると、桂介の口許に持って行く。
「おいおい、人前で・・・・」
「お嫌ですか?私はぜんぜん構いません」
雪の笑顔に負けて、桂介は周りを見ながらその団子にかぶりつく。面白そうに笑いながら、残りの団子を自分の口に運んだ。少しおどけながら自分を見つめる雪の様子に、桂介も思わず笑顔を見せる。こんな気持ちは久しぶりだった。何だかんだと言って、事あるごとに鷹月や凛の事を考えていた。江戸の町も雪との生活も不自由どころか、有り余るぐらい満たされ、幸せである。しかし、自分自身にどこか許せないものを感じていたのだ。信頼してくれていた人を裏切ってしまったと言う負い目なのだろうか。最近になってやっと、それが薄らいできたように思う。素直に幸せと思えるようになった。そしてこうやって心から雪と笑い合っている自分を見て、改めて気が付いた気がしたのだった。
「はい、あなたもう一つどーぞ」
そう言ってまた雪が、団子を差し出して来た。そんな楽しいひと時を過ごしている若夫婦を通る者はほほえましく思い、見て見ぬふりをしている。しかし、その茶店の斜め向かいの路地から突き刺さるような視線を雪に送っている武士がいる事に、二人は気づくはずもなかったのだった。
「きゃぁ!」
突然、雪の背後で叫び声が上がり、その直後雪も驚いて声を上げた。茶を運んでいた女が、客の足に躓き転んだ拍子にお盆の上の茶が飛び、雪の着物に掛かってしまったのである。
「も、申し訳ありません!」
茶は雪の肩から腕にかけて濡れている。熱い湯がじわりじわりとしみ込んで、雪は顔をしかめた。
「このままでは火傷をしてしまいますから、どうぞお召し替えください。すぐに奥にお着物を用意しますので」
飛んで出てきた主人が、手ぬぐいでふき取りながら、雪を奥へ上がるように促した。
「あ、いえ。大丈夫ですから」
桂介はそう言って手を上げた雪の腕が赤くなっているのを見逃さなかった。
「雪、着物を買えた方が良さそうだ。お言葉に甘えて、着替えさせていただこう」
桂介の言葉に素直に頷く。雪が店の奥へ行ってしまうと、主人は桂介に平謝りしながら、菓子と茶を出してきた。久しぶりに出かけた先でとんだ事になり、桂介は小さく溜息をつく。気を取り直して茶を口に運びながら、目の前を往来していく女性達の姿を眺めた。雪と同年代の女性のよそ行きの美しい着物を見ながら、いい機会だから後で雪に着物を作ってやろう、と心に決める桂介であった。
奥の導かれた部屋に入った雪は、主人が用意してくれたと思われる着物に目を止めた。この店の家族の者の着物だろうか、しかし正絹薄緑地の友禅染めの見事な着物である。もしかしたら、気を利かせて上等な着物を貸してくれたのだろう。そう思うと申し訳ない気がしてきた。しかし、熱湯を被った着物を早く脱ぎたい気持ちから、その着物を着る事にしたのである。
「ふーん、さすが若殿様のお見立てだけはあるね」
突然背後から聞き覚えのある女の声がして、雪は驚いて振り返った。
「女将さん・・・」
腕組みをして舐めるように見ているのは、置屋の女将お松である。なぜこの人がここにいるのか、若殿とはどういう事なのか。疑問ばかりが押し寄せてきて、雪はこの状況を把握できないでいた。
「分かっておるのだろう?その着物は、若殿がお前の為に仕立てた物だぞ」
お松の後ろから、笠を被った武士が入って来る。笠を少しあげて雪に顔を見せたその男にも見覚えがある。若殿・・・加藤秀春にいつも付き添っていた武士だ。
「あんたを手放しちまったら、若殿に叱られちまってね」
まるで悪いのは雪だと言った態度である。槌谷が雪に近づくと、雪は自分が入ってきた襖の所へ後ずさり、襖に手を掛けた。しかし襖をいくら動かしても開かない。ここで初めてこれが罠であった事に気が付いたのである。
「若殿はお前を身請けする気だったのだ。それをどこの馬の骨とも分からぬ男の元へ行くとは・・・。それでも若殿はお前を見捨ず、探し出して連れ戻せとおおせだ。ありがたく思うのだな」
槌谷は雪の腕と体を掴み抵抗を封じる。
「離してください!私はもう・・・私は栗原桂介の妻なんです!あなたっ!!」
「安心おし。証文と金はあんたの亭主に返しておくよ。・・・もっとも、本人が使えるかどうかは分からないけどねぇ」
必死で抵抗していた雪だったが、そのお松の言葉に息を呑んだ。刹那、槌谷はその当身を食らわせる。お松の思わせぶりな薄笑いを見ながら、薄れゆく意識の中で雪は必死に桂介を呼び続けた。槌谷は崩れ落ちた雪の体を受け抱き上げると、淡々と仕事をこなすように無表情で裏へ通じる木戸を開け出て行く。お松はその槌谷の姿を見送った後、後始末をする為、また家の中に入って行った。
桂介はいつまでたっても出てこない雪に何かあったのか、と不安になって来た。
「おい」
声を掛けながら、なんだか目の回るような、胃の焼けるような気分が桂介を襲う。が、雪の事だけを考えていた桂介はそんな事に気を巡らせている暇はない。と、呼びかけた声で男が出てきた。
「・・・主人か?」
「へい、そうですが」
その男は先ほど雪を奥へ通した者とはまったくの別人だった。良く見渡すと、粗相をしたあの女もいつの間にか姿を消している。桂介は何かを考えるより先に奥へと駆け込んだ。少ない部屋をすべて見るが、雪の姿がない。主人が何事かと桂介の後ろから怒鳴る。しかしその声などまったく耳には入らず、今度は店の外へと飛び出した。
往来を見渡す。先ほどと変わらない人の流れが桂介を取り囲む。それでも必死に辺りを見回していた時、店に近い路地から駕籠が出てくるのが目に入った。地味ではあるがその駕籠が大名の江戸内用の駕籠である事はすぐに分かる。そんな駕籠がなぜこんな路地から・・・。不信に思ってその駕籠を見つめていると、揺れる駕籠の隙間からポトリと何かが落ちるのが見えた。遠目ではあったが、桂介はそれが何であるか即座に分かった。
「その駕籠、待て!」
その駕籠の前まで来ると、行く手を阻むように桂介は立ちふさがった。駕籠を取り巻く数人の武士が厳しい視線を桂介に向ける。
「下がれ!このお駕籠、ご老中加藤晴信様のものであると知った上での狼藉か!」
その名を聞いて動揺しなかったといえば嘘になる。老中だろうが将軍だろうが、今の桂介には関係ない事であるが、加藤晴信といえば鷹月の父上北原月影の友人だったお方である。まだ桂介が幼い頃、月影と晴信が二人で飲んでいるのを見た事がある。遥か昔の思い出であるが、その頃の晴信は、月影に引けを取らない立派な御仁だった事を覚えている。それを思い出し、多少躊躇した。しかし、桂介には簡単に引けない訳があるのだ。
「そのお駕籠のお方を拝謁したい。無礼は重々承知の上、しかしその駕籠の中のお方がそれがしの心当たりの御仁とお身請けした次第にて。もし見当違いであれば、この場で腹を切ってもよい!」
武士達はこの時この男がただの浪人ではない事に気が付いた。粗末な身なりに刀も差していない風貌に見くびっていたが、今のこの一言には自分達のような下級武士には逆らいがたい威圧感があったのだ。威勢良く言い放った武士も一瞬たじろいていたが、無理に凄んでみせる。
「こ、こちらも役目ゆえ、このような所で駕籠を開ける訳にはゆかん。もしどうしてもと申されるのであれば、屋敷までついてこられよ」
しかし、桂介にはその言葉の最後は届いてはいなかった。急に地面が回りだし、微かに感じていた胃の焼けるような気分が、今体中を覆い尽くしていた。息が苦しくなり心の臓が痛いほど脈を打っている。この騒動を遠巻きに見守っていた人々は、今胸を抑えて地面に倒れこんだ浪人に不安そうな声を上げた。駕籠の武士達は、そんな桂介の様子にほっとしたような笑みを浮かべ、桂介の脇をすり抜けると早急に姿を消した。
激しく波打つ胸の痛みをこらえ、桂介は何とか地面から顔を上げる。とはいっても体は痺れ意識もかすんで来ている。ただ、道の上に落ちているそれだけは、しっかりと桂介の目に映っていた。桂介の震える手がそれに伸びて行く。
「ゆ・・・・ゆき・・・」
つい先ほど雪の笑顔を映していたその手鏡は、今は桂介の土に汚れた虚ろな顔を映し出していた。ああ、もう自分は死ぬのか・・・・。そんな思いが過ぎった後、桂介の意識は深い闇へ吸い込まれていく。人々の心配する声や野次馬達の無責任なささやき声が、どんどん小さくなって行く。そして、すべての音が遠いどこかへ行ってしまう直前、聞き覚えの誰かの声で、こう叫ぶのが聞こえて来た。
「どなたかお水を!お願いでございます、この方を北原鷹月様のお屋敷まで運ぶのを手伝ってくださいませんか。お願いでございます!」
凛はこれまでいろいろな鷹月を見てきたつもりでいたが、こんな状態なのは初めてである。用事で出ていた小春が慌しく戻ってきて、凛が出てみると、数人の町人達がぐったりとした桂介を運び込んで来る所であった。とりあえず桂介を部屋の中へ寝かせるように支度をさせたものの、どうしていいのか分からず、凛はただおろおろするばかりである。しかし、小春がてきぱきと動き回り、医者を呼んで薬を飲ませると、次第に桂介の顔に色が戻り呼吸が整ってきたのである。その様子を見て、凛もやっと落ち着き、侍女に鷹月に知らせるように言った。それから半時も立たないうちに、大きな足音が廊下に響き、部屋の側でふいに止まると障子が勢い良く開け放たれた。部屋の中の全員の視線がそちらへ集まったが、見なくても誰が来たのかすぐに分かる。案の定鷹月であったが、見た者すべてが視線を外せなくなったのは、その鷹月の様子に次の行動が読めなかったからだ。優雅な切れ長の目は釣り上がり、何か言おうとして半開きになった口は震え言葉が出ない。指先も震え、もし女であれば当に崩れ落ちているだろうという状態だ。
「桂介は・・・」
掠れた声でそれだけ言い、寝ている桂介の枕元に大股で近づくと、桂介の肩ほどでゆっくりと膝をついた。
「桂介、おい!何があったんだ。桂介!」
桂介の肩に手を掛け揺さぶろうとしていたのを、医者があわてて押さえた。
「大丈夫よ、先生が心配ないって。小春がしっかりしててくれたから」
凛は鷹月の肩を抱きながら、宥めるように言い顔を覗き込む。その言葉と温もりに、少し落ち着きを取り戻すと、ぺたりと腰を落ち着けた。
鷹月はどうしても動揺を隠す事ができなかった。桂介が瀕死で凛のいる奥に運ばれ、今医者の手当てを受けている、と伝えられた時、目の前が真っ暗になった。藩を捨てると言った時も、妻がいると紹介された時も、驚きはしたがこれ程ではない。死ぬかもしれない・・・そう思った瞬間、その後自分が何を言って何をしたのか覚えておらず、気が付いたら白い顔の桂介を見つめ、凛が自分を抱きしめてくれていた。やっと我に返った時、ふと以前政平が自分に向かって言った言葉が頭を過ぎった。
『命だけは落とさぬように』
今にして思えば、この言葉は藩の為ではなく、後に残された悲しむ者の為にと言う気持ちが込められていたのだな、と今更ながらに気がついた。桂介は信頼できる家臣である前に、幼なじみであり親友であり、そして兄でもあった・・・。
落ち着きを取り戻した様に見えた鷹月が、今度は桂介を見つめて動こうとしない。凛や医者がなんと声を掛けても無反応で、まるで魂がないかの様にただ桂介の側に佇み続けていたのだった。
吉原遊郭に足を踏み入れると、巷の殺伐とした様子とはまったく別の世界であった。葺屋町に遊びに来ている男達は武士が多い。特に浅黄裏と呼ばれる参勤交代などで江戸に出てきた地方の武士達は、自分が馬鹿にされているもの知らずに、大見世の籬をしきりと覗いている。女達の甘い誘いの声に、男達はふらりふらりと店の中へ入って行くのである。
「ふぅん、あの美人の遊女身請けされたのか」
遊女の膝に気持ちよく頭を預けているのは、以前鷹月に声をかけた目の切れ上がった遊び人の男である。馴染みの遊女の膝枕で、別の遊女の話題などご法度である。そう言った途端、スッと女の膝が外れ、男の頭は畳に落ちた。
「いってぇ」
「何さ、孝太郎さん久々にやってきたと思ったら雪藤の話ばっかり」
つんと横を向く遊女の膝に手を掛け、こちらに向ける。
「違うんだよ。実はな、おいらのご主人様が、雪藤にご執心だったんだよ。しばらく江戸を離れて戻ってきて見たら、雪藤がいねぇ。だからと言って雪藤以外の女とは遊びたくねぇから、どうしたか聞いといてくれって、小遣いくれたんだよ」
そう言って、遊女の膝元にポンっと一両をなげてやる。目を色を輝かせてその小判を手に取ると、気を良くしてまた孝太郎に抱きついた。
「一両も小遣いくれるなんて、よっぽど雪藤の事が忘れられないのねぇ。身請けしたのは若い御浪人だって話よ。でもねぇ・・・それで良かったんだか」
「ん・・・?どういうこった?」
遊女は孝太郎に顔を近づけると、声をひそめて言う。
「雪藤は、廓でも指折りの美人だったからご執心だった旦那は数知れず。その中でも、御老中加藤晴信様のご嫡男秀春様が雪藤にぞっこんだったのよ」
「へぇ!御老中の息子がか?身請けする気だったのか?」
「しょっちゅう言ってたらしいわよ。でも、さすがに父親の財布からくすね取るには大金みたいで、目処は立ってなかったようだけど」
孝太郎はふぅんと納得したように頷いた。遊女は気を取り直して孝太郎に甘い笑顔を見せると、一両片手に猫撫で声を出す。
「ねぇ。今日はこれで存分に遊んで行くんでしょー?」
にやりと微笑んでその笑顔に答えるが、手はその一両に伸びている。
「おいらも久々にぱーっと遊びてぇんだけどさ、ご主人様が暮七までには戻るようにって釘差されてるんだよ」
それを聞いて遊女は思いっきり孝太郎の背中を叩いて不機嫌な顔をした。
「暮七つだって?もうすぐじゃない。だったらそのご主人様ってのもここに連れてくれば?雪藤が居なくなったって分かったら、遊ぶ気にもなんれるんじゃない?孝太郎さんに一両もくれるお人なら野暮じゃないでしょ?」
孝太郎はそれもそうだな、と頷くがすぐに難しい顔をする。
「うん・・・しかしな。ご主人様ってのは女なんだよな」
遊郭の門を出た所の路地に、見覚えのある女がしきりと門の中を覗いて佇んでいた。孝太郎が頬を押さえながら、その女の所へ向かってくる。目の前にやって来た孝太郎に、女はその顔を見て驚いたように聞いた。
「どうしたの?その頬?」
「うっかり小春の事を口にしちまったんだよ」
粋で通っている男の頬に、くっきり指の跡がついているサマに、思わず小春は吹き出した。
「おっ、やっと小春らしくなったな。訪ねて来た時は、今からあだ討ちにでも行くのかってほど、怖ぇ面してたぜ」
しのびずきに纏めた髪に黒塗の簪を一本差し、梅色地に縞の太物、素足に下駄履きと言った姿の小春は、北原にいる時とはまるで別人である。粋な江戸っ子風で孝太郎と一緒にいてもまったく違和感がない。
「それで、分かった?」
孝太郎は馴染みの遊女から聞き出した、雪の事を話して聞かせた。
「御老中加藤様のご嫡男が?」
そういえば、と思った。小春が桂介を見つけた時は、桂介はすでに倒れ込んでいて野次馬が周りを取り囲んでいた。桂介の事をお願いしている時、周りの声で「加藤」という名前が出ていたような気がする。
「どうなんだよ、これでいいのか?」
「・・・・多分、ありがとう」
にっこり笑い返した小春に満足そうに頷いた孝太郎だったが、さて次はと言わんばかりに体を寄せて来た。
「何よ?」
「それにしてもよぉ、本当に懐かしいな。おめぇが江戸からいなくなって何年だ?」
「さぁ、どのくらいかしら」
「久々に会ったってのに、これで終わりかよ。なぁ、一晩ぐらいおいらと遊ばねぇ?」
「バカ言ってんじゃないわよ。ご奉公先に用があって出かけるって言ってあるんだから、それに今私が戻らなかったら、お方様に要らぬ心配を掛けるわ」
「奉公先を変わってその国許へ行ったって聞いたけど。お前の事だ、なんか企んでるんだろ?」
最後の言葉を言い終えるか言い終えないか、小春の一撃が孝太郎の頬に飛んできた。両頬真っ赤になった孝太郎はあまりの痛さに声を出ず、頬を押さえてかがみこむ。
「いい?私はすっぱり足を洗ったの。今のご奉公先に向かってまたそんな口利いたら、今度は顔をお多福みたいにしてやるわよ」
「分かった分かった、おいらが悪かったよ。おー、いってぇ。今日は女にゃ係わらねぇ方が身の為だな」
顔をくしゃくしゃにして深くため息をつく孝太郎を見て、小春に笑顔が戻った。ふふっとかわいらしく笑うと、それは孝太郎の知っているいつもの小春である。
「しかし、まぁ・・・・。おめぇが元気そうで何よりだ。江戸を離れるって聞いたときにゃ、何かあったんじゃねぇかって、亜京の旦那と心配してたんだぜ」
なつかしい名前を聞いて、小春はまた微笑んだ。
「今は今までで一番幸なの。あのお方達の為なら、私・・・何でもして差し上げられるわ」
一言一言かみ締めるように言った小春の顔は、言葉とは裏腹に少し寂しげな様子が伺えた。その様子を孝太郎は見逃さなかったが、何か聞いてはいけないような気がして、あえて気がつかないふりをする事にしたのだった。
数日過ぎたある日、北原の中屋敷に斗希月が訪ねて来た。門番に取り次ぎを頼もうとしたら、顔を見るなりその場にひれ伏し、門を通したのである。自ら出迎えてくれた凛に、斗希月は照れくさそうにその話を聞かせた。すると今まで何となく沈んでいたような凛の頬が少し緩んだ。
「やはり、殿に似ておられるのですよ」
「そうなのでしょうかね」
結髪にせず肩ほどで切りそろえた頭に、なるべく武家を思わせない着物を選んだつもりだが・・・。と斗希月は唸った。そこで前置きが途切れると、凛は本題とばかりに斗希月の顔を覗き込んだ。
「・・・桂介の事で?」
さすがに察しのいい奥方である。斗希月は隠さずに頷いた。
「桂介さんは何も言わずに休むような人ではないのに、ここ最近ぱったりとやって来なくなったので、気になり長屋へ行って見たのです。中には誰もいませんでした。そして、土間にこんな物が・・・」
そう言って斗希月は持っていた風呂敷包みを開いた。中の物を来た凛は驚いて息を呑む。
「これは・・・」
「察する所、桂介さんが払った雪さんの身請け料ではないでしょうか。返して来たのですね」
風呂敷の中には黄金に光る一両小判が四十枚ほどあった。
「お二人に何かあったと思い、鷹月に相談しようと来た次第なんです」
しばらく口許を押さえ険しい顔をしていた凛だったが、「実は・・・」と切り出し今桂介が屋敷に居る事、何者かに毒を盛られ瀕死で運ばれて来た事などを話して聞かせた。斗希月は事がかなり深刻だったという事を初めて知った。
「そうでしたか・・・。という事は、目的は金銭ではなく、雪さんを奪う事だったのですね。けじめをつける為か、雪さんと桂介さんとの仲をきっぱり裂く為に、身請け料を返してきたのでしょう。このお金の事は、しばらく桂介さんには内緒にしておいた方がよさそうだな」
斗希月の論を聞くうちに、凛の頭の中でその時の様子が浮かんでくる。桂介の見たもの、まだ見ぬ雪さんの安否。気が付くと凛は涙目になっていた。そんな様子を斗希月は見て見ぬふりをする。
「でも、良かったわ。斗希月様は落ち着いてらして」
「は?」
桂介の寝ている部屋へ向かう間に、凛はそう言って深く溜息をついた。
「お医者様は大丈夫だって言ってるのに、殿・・・鷹月ったら・・・・」
深く溜息をついて、ある部屋の前で止まった。ゆっくりと襖を開けると、中では男の声と女の声で、誰かを説き伏せているようである。不思議に思って凛の顔を見る。凛は頷いて襖を開けた。中を覗くと、床に伏している桂介の傍らに、鷹月が座り込んでいた。
「公務が終わるとああして、桂介の側で心配そうに座っているんです。食事も取らず寝もせず・・・」
「ずっと・・・ですか?」
ずっとというのは、一体どれぐらいなのだろう。凛のあきらめた様な表情からして、結構長いのだろうという事は伺える。
「お医者様は桂介より、鷹月の事を心配してる始末なんです」
そこで凛は斗希月の耳元に顔を寄せ、悪戯っぽく笑った顔を片手で覆い隠しながら言う。
「私が死にそうになった時でも、あんなに心配してくれるのかしら」
斗希月は思わず凛の顔を見た。一見やっかみの様にも聞こえるが、凛のサッパリとした顔からは何か強くて暖かいものが感じられる。鷹月は何だかんだ言っていたが結局この奥方には頭が上がらないのだろうなと察した。実際、その通りである。
「鷹月は、いい奥方をもらいましたね」
きょとんとしている凛に笑いかけると、斗希月は部屋の中へ入っていた。侍女がしきりと鷹月食事を勧めていたが、斗希月が入って来たのを見ると、あわてて部屋の隅に移った。医者も何を言っても答えない鷹月に、やれやれと溜息をついている。斗希月は何も言わず静かに鷹月の横に座ると、桂介の様態を伺った。その顔には血の気があり、今にも目を覚ましそうな様子である。とりあえずほっとする。そして鷹月の方を向いて、斗希月は眉を顰めてしまった。間近で見る兄の顔色は青白く、目の下には隈がはっていた。
「鷹月・・・?」
凛が言う通り、確かにこちらの方が病人の様である。鷹月は目を離したら桂介が死んでしまうのではないかと思っているのか、片時も目を離そうとはしない。きゅっと引き結ばれた口許は、まるで幼い子が泣くのを我慢している様である。小さい頃の鷹月は、負けん気が強いくせに泣き虫で、でも人前では唇を噛んで必死に堪えていた。斗希月は変わっていない鷹月の様子に、思わず失笑してしまった。
「斗希月か」
その声に鷹月が反応した。今まで何を言っても答えなかった鷹月が不意に何事もなかったように口を開いた為、後ろにいた三人は、不意打ちをくらったような安堵ような声を上げた。鷹月はいたって普通の表情と声で、斗希月に話し掛ける。
「お前が北原の屋敷の敷居をまたぐ日が来るなんてな。誰かが知らせたのか?」
「その事なんだが、部屋を変えないか?」
鷹月はさぐるように斗希月の顔を眺めたが、軽く頷き承諾すると、ゆっくりと立ち上がった。そして凛、侍女、医者の顔を見て、桂介の事を託すと、斗希月を連れ立って部屋を変えたのだった。
鷹月は目の前に置かれた四十枚の小判を触りながら押し黙っていた。斗希月も鷹月が口を開くのを静かに待っている。
「・・・じゃ、お前は雪さんはどっかの色狂いに買い戻されたって言いたいのか?」
ゆっくり頷く。鷹月はどうしたらいいのか必死で考えているように眉を寄せた。
「証文もある所を見ると、雪さんのいた置屋も一枚かんでるんだろう。しかし、置屋は身請けされた遊女を強引に買い戻したりはしない。売れる内に金にしておいた方がいいだろうからな。あんな強引な事をする所を見ると、きっと力のある何者かが係わっているはずだ」
力のある何者か・・・。鷹月はそれが武士であると言う事を確信した。
「とにかく、オレの友人であの界隈に詳しい奴がいるから、そいつに雪さんの周りの事を聞き出してもらおう」
その頼りになる言葉に、鷹月から不安が少し和らいでいく。改めて斗希月がいてくれて良かったと感じた。と、そこへ襖の向こうからおずおずと言葉を掛けて来た。
「あのー、鷹月、いい?」
「どうした?」
鷹月が声を掛けるとそろそろと襖が開き、凛の心配そうな顔が二人の目に飛び込んで来た。
「桂介に何かあったのか?」
この顔を見て真っ先に浮かぶのは、まずこの事だろう。しかし、凛は首を横に振った。
「桂介じゃないの。・・・小春が」
「小春?・・・・さん」
そう聞き返したのは斗希月である。さて、斗希月がどうして小春の名前を知っているのか。普段なら疑問に思うだろうが、疲れ切っていた二人は気にもしなかった。
「あなたずっとぼけっとしてたから言い出せなかったんだけど。昨日からいないのよ。桂介の事でなにかあったのかしら・・・」
ここで初めて、鷹月は凛の不安そうな様子に気が付いた。小春は侍女ではあるが凛にとっては、北原に嫁いできて初めてできた女友達である。女どうしでしかできないような、お互いの事も語り合っていたににがいない。不意に鷹月は以前凛から聞いた事を思い出した。
「そういえば、小春は桂介が好きだったって、お前言ってたよな?」
「そうなのか!?」
そうなのよ・・・と言いかけた凛の声は、斗希月の驚いた声にかき消させてしまった。逆にその声に鷹月の方がびっくりし、斗希月を見返した。しかし、小春の事を心配する凛には斗希月の反応などどうでもいいらしい。桂介が運ばれて来た時は見せなかった涙が、凛の目に溢れて来ていた。
「もしかして・・・桂介の後を追って・・・・う・・う・・・うう」
「ばか!桂介は大丈夫だって、お前が言ったんだろう?・・・大丈夫だ、小春はそんな無茶をするような子じゃない」
凛の動揺を見て、鷹月はいつもの調子を取り戻していた。そして、凛が落ち着くのを待った後、斗希月の方へ視線を戻した。斗希月は険しい顔をしてあらぬ方向を見つめている。その様子にますます疑念を募らせた。
「斗希月・・・お前小春を知っているのか?」
はっと我に返った斗希月は、何が?という表情を作り、鷹月と向き合った。
「いや、ちょっと別の事を考えてたんだ・・・・。小春さんの事は・・・さっき、凛さんから聞いてな」
混乱している凛にはその所のが聞けない。鷹月はしぶしぶ納得をするしかなかった。が、その件が落着したやいなや、斗希月は突然立ち上がり、鷹月に背を向ける。
「オレ、用事を思い出した。失礼するよ」
「おい、話の続きは・・・」
「何か分かったら、また知らせるから。じゃあな」
そう言って、斗希月は屋敷を後にしてしまったのだった。
「小春?実はおいらもその話で来たんですよ」
訪ねようと思っていた相手が先に自分の家に来ていた。縁側で寝ていた孝太郎を見つけた斗希月は早々家の中へ引っ張り込むと、小春に会ったかどうか問い正した。すると孝太郎は面食らった顔をしてこう答えたのである。孝太郎は、小春が突然訪ねて来て遊郭で雪という遊女の話を聞いて来てほしいと頼まれ、自分はその通りにして聞き出した事を伝えた、という話を斗希月にした。
「旦那も小春に会ったんで?」
「・・・んん、ああ」
孝太郎は小春の様子を思い出しながら、ちょっと訝しげな顔をした。
「まぁ、小春がそんな事を頼んで来るってぇのは、前もよく使われていた身としちゃぁ何とも思わねぇんだが・・・・あの時の顔がどうも引っかかって忘れられねぇんだよな」
「なんだよ?」
「いやね、最後にあいつ[あの方達の為なら、私何でもして差し上げるわ]って言った時に・・・。こう寂しそうな顔してたんですよ、旦那どう思います?」
斗希月は小春がどんな気持ちで、何をしようとしているのかはっきりと分かった。加藤の屋敷へ潜り込み雪を助け出すつもりなのだ。実は小春は忍びの生まれで、父の仕事を手伝う為に江戸へ出てきたのである。父親が死に、忍びの仕事と手が切れた後、小春は自分達の仲間になった。実際大名屋敷に入り込み内情を探っていた事もあるから、小春にとってやれない事ではないはずだ。しかし、小春が北原の藩へ行く事となり、斗希月の元へ足を洗うと言いに来た時、小春はすっきりとしか顔で「もう二度と忍びには戻らない」と言ったのである。それをもう一度、思いを寄せる男の妻を救い出す為にその誓いを破ろうと言うのだ。小春は、そういう娘である。
「孝太郎、手を貸せ」
「えっ?」
「何としても小春を止めるぞ」
ぽんっと背中を一つ叩かれれば、孝太郎は理由を聞かずとも即言いつけ通りに動く。長い付き合いの当たり前の動作だった。
「多分加藤様のお屋敷に行ったに違いない」
「でもよ、そんなのどうやって探すんだ?屋敷の中にいちゃ分かんねぇだろうし、第一中屋敷下屋敷どっちかも分かんねぇよ」
「女の扱いはお前得意だろ。お互い得意技で探せばいいんだよ」
「あっそか、じゃオレは下屋敷に行ってみるぜ」
ちゃらちゃらしているようで孝太郎はなかな骨のあるいい男である。斗希月は駆け出していく背中を逞しく思いながら、自分は中屋敷へと向かって行った。
加藤の屋敷に小春の姿があった。小袖にたすき掛け、雑巾と桶を持って廊下へ現れる。うっすらと汗をにじませた額に手の甲を滑らせると、雑巾で床を研き始めた。一見、まじめに仕事をこなす下女にしか見えない。しかし、小春の目と耳は常に近くの部屋の様子をさぐり、側を通る人物の方へ向けられていた。その姿は、鷹月や凛には見せられない忍びの物腰であった。廊下を掃除していると、向こうの方から人の声と足音が聞こえて来た。小春は、すぐに庭に下りると、その場に平伏した。
「あの女の強情さには、まったく手を焼くわ。ここへ来てから1度も口を利かぬ」
「若殿があれだけの物をお与えになられているというのに、恩知らずな女でございます」
秀春はその通りだというような笑いを漏らしていた。廊下の角を曲がった所で、秀春は庭で平伏している小春気がつく。その姿を見つけた秀春の足がぴたりと止まり、視線はじっと小春の上に注がれた。その気配を察した小春は、地面を見ながらその事態に唇を噛む。
「ん・・・?その方」
秀春は庭に下り小春に近づいた。小春の目の前が陰になり、次の瞬間顎に手を掛けられ強引に引き上げられた。
「何かご無礼を?」
小春はおどおどした様子で控えめに言い、目を伏せた。
「その方・・・下屋敷におったであろう?」
覚えられていた・・・。小春の背中に冷たい物が流れ落ちる。緊張を逆に利用して震えを隠さず、働きの悪い下女を努めて演じる。
「は・・・はい。実はあちらで粗相をしてしまい・・・・。こちらへ参りました」
秀春はしばらく小春の様子を眺め回していたが、愉快そうに笑うとその手を放した。
「ははは、そうであったか。今度何か仕出かした時は私に言うがよい。良きに計らってやるぞ」
そう言って、小春の頬を撫でると笑いながら行ってしまった。姿が見えなくなると、小春は緊張を解きほぐす為、大きく溜息をついた。雪がいる屋敷が分からなかった小春は、先に下屋敷に潜り込んだがいない事が分かり、こちらに移って来たのだ。案の定、使用人達の話から、ここの秀春の住まいに雪が幽閉同然でいる事が分かった。廊下に上がり秀春が戻って来ない事を見ると、小春は襷を取り、その奥へ続く廊下を進もうとした。桂介が北原を捨ててまで愛した女性に会えるという恐い気持ちと光栄な気持ちとが小春の足を進めていた。この廊下を戻ったどこかに雪さんがいるのだ。どんな事をしてでも雪さんを救い出し、そして願わくば加藤秀春をこの手で殺してやりたい。小春の顔に体に染み付いた忍びの冷酷さが戻りつつある瞬間だった。
「あ、いたいた。小春」
突然背後から声を掛けられ、思わず帯びに仕込ませておいた刃物の柄に手を掛けた。しかし、その声の主が女中頭だと分かると、途端に気弱で自信なげなおどおどした態度に切り替えられた。当然不信な行動を咎められると覚悟していたが、女中頭は廊下の向こうをしきりと見ながら心配そうな顔を小春に投げかけているだけである。不思議に思い小春が声を掛けようとした時、その女中頭の後ろから突然斗希月が現れたのである。
「あ・・・斗希月の・・・」
斗希月は小春の姿を見つけると、睨み付ける様にしてつかつかと歩み寄って来た。突然現れた知人に呆気に取られて、立ちつくす事しかできない小春のその腕を掴むと、強引に引っ張った。
「帰るぞ」
事態が飲み込めず戸惑ったものの、雪がもう少しで見つかるという時に出て行く訳にはいかない。小春は、必死で抵抗した。
「は、放してください!私は帰りません!」
「小春!」
「私はご恩が返せればそれで・・・」
二人の騒がしい様子に、次第に人が集まり始めた。と、抵抗の最中、斗希月に腕を押さえ込まれ身動きできなくなった。そして力強く引かれたと思った次の瞬間、小春の体は斗希月にしっかり抱きしめられていたのである。さっぱり訳が分からず、面食らって肩越しに斗希月の顔を見上げる。すると斗希月はその姿勢のまま、小春だけに聞こえるように小声で耳打ちをした。
「雪さんは、もうここにはいないんだ」
「え・・・」
「殿様が今夜ここへお出でになるという事で、つい一時前雪さんは菩提寺へ移されたそうだ」
やっとどういう事なのか分かった。小春の体から緊張と殺気が一気に崩れ落ちて行く。
その様子にほっと息をつき、斗希月は小春を身から引き離した。そして、今度はまわりに聞こえるように声を張り上げる。
「私の借金はあるお方のおかげで全て返せるんだ。お前はもう下働きをする必要はない。さ、戻ってくれるな?」
少し呆然としていた小春だったが、斗希月の芝居に合わせて、あわてて頷いた。
二人の事を寄りの戻った夫婦と思いこんだ屋敷の使用人達は、いい物を見たとでも言うように、小春に優しい言葉を掛けてくれた。こうして二人は無事屋敷から出る事ができたのである。
「斗希月の・・・斗希月様、先ほどの話は本当ですか?」
屋敷の外へ出て木陰に入ると、小春は掴まれていた腕を振り解き、厳しい顔で斗希月を見つめた。
「お前を探して屋敷についたら、たまたま屋敷の裏手で使用人達がその話をしているのを耳にしたんだ」
穏やかに告げ、小春の反応を伺っている。その反応は、その菩提寺にいかにして入り込むか、を思案している様子である。
「小春・・・」
名前を呼ばれて思わず顔を向ける。バカな真似はよせ、と斗希月の目と口調が言っていた。一緒に仕事をしていた時から、この物言わぬ斗希月の威圧は苦手だった。自分の仕えている殿様の弟君だったという事を知った今では、それが生まれゆえの風格であったと納得できる。しかし、見れば見るほど仕えている主人に似ている斗希月の顔は、逆に小春の決心を支えた。
「考さんに聞いたんですね?・・・じゃ、私があの方達の為なら何でもして差し上げるって気持ちの事も聞いておられるのでしょう?」
「小春・・・」
小春はおもむろに背中に手を回すと、帯びの袋に仕込んであった刀を握った。
「私の邪魔をしないで、旦那だって容赦しないわ」
斗希月は深く溜息をつくと、まっすぐ小春を目を見た。上目遣いの無邪気な顔で見つめられ、構えていた小春は肩透かしを食らったようで狼狽した。
「まぁ・・・・色恋の事はオレには分からないが。オレがもし桂介さんでこの事を知ったら、絶対喜ばないぞ。もし、雪さんを助け出したとしても、お前に何かあったら、桂介さんは一生その事を悔いて、傷を背負って生きて行くぞ。お前の好きになった男は、そういう男じゃないのか?」
小春の目から大粒の涙がこぼれる。必死で唇を噛んで我慢しても、だめだった。どうして、斗希月は鷹月に似ているのか。どうして桂介の事をよく知っているのか。大好きなお方様の顔が目の前に浮かぶ。桂介だけではない、鷹月様だって凛様だって一生悲しんでくれるお人だ。小春は北原に来てから、どことなく今までの奉公とは違う居心地のよさを感じでいたが、今分かった気がした。自分は使用人として北原へ迎えられているのではない。
藩の仲間として迎え入れられているのだ。凛は自分に命を張って守ってもらおうとは思っていない。多分、自分が危ない目に遭いそうになった時は、凛が自分を庇うのだろう。それは鷹月にも桂介にも言える事だ。一人命を張った所で、誰も誉めてはくれはしない。小春の顔がだんだん緩み、肩や腕から力が抜けて行く。
「お前江戸を離れる前の日に、オレの所に来てもう二度と忍びの道には戻らないって言ったよな?」
「・・・言いました」
「だからオレは、お前に二度と忍びの顔に戻ってほしくはないんだ。鷹月や凛さんの為にもな」
「旦那・・・」
小春はそのまま俯くと、短刀から手を放した。斗希月はほっとため息をつくと、分かってくれた小春を肩をやさしく一つ叩いたのだった。その時、大通りから孝太郎がこちらへ向かって来るのが目の端に映った。斗希月は手を振って孝太郎を気づかせる。孝太郎はなぜか後ろを気にしながら、二人の所へやって来た。
「旦那・・・・実は、またやっちまって」
申し訳なさそうに後ろをちらりと振り返る。孝太郎に続いて息を切らせてやって来たのは、なんと鷹月であった。
「お前の屋敷に行ったら留守で・・・・探し回っていたら、またこいつがオレを斗希月と間違えて声掛けてきたんだ・・・・。あ、あれ?・・・小春?なんでこんな所に?」
小春が何か言おうと口を開きかけた時、斗希月が代わりに答えた。
「小春さんが見つけたんだ。桂介さんを襲った奴の屋敷をな」
「小春・・・。昨日から居なくなったって凛から聞いてたけど・・・そんな危ない事してたのか!」
やはりそうだった。顔を曇らせ小言口調の鷹月の様子に、小春はそう思った。見つけた事を誉めるより、危ない事をした事を責める。小春はなんだかうれしくなり、わき上がる笑みを隠すようにあわてて頭を下げた。
「も・・・申し訳ございません」
「うん・・・でも、そうか。加藤・・・・加藤だって!?」
あっさり謝られて怒る気を削がれてしまった鷹月は、小春が突き止めたという屋敷の表札に目をやった。そして桂介と同様、馴染みのある人物の屋敷と気がついてびっくりした様子である。斗希月は孝太郎から聞いた事を話し、そして小春が突き止めた事、今の状況を簡潔に伝えた。もちろん、小春が潜入していた事は内緒である。
「そうか・・・・桂介知ってたんだな」
「鷹月?」
そういえばなぜ鷹月は、自分を探していたのか。斗希月は深刻な表情をしている鷹月を覗き込んだ。
「実は、お前が出てってすぐ。桂介が居なくなったんだ」
「え・・・」
桂介はさっきまで、生と死の境をさまよっていたはずなのに。斗希月のみならず小春も信じられないという表情になった。
「殿様、でも栗原様は・・・」
「うん、丁度誰も居ないときに気が付いたらしく、部屋からは着物も消えていたそうだ。多分,雪さんを探しに行ったんだろう。あいつは、連れ去った奴が加藤秀春だって知ってたんだよ」
病み上がりの身で、一体何をしようと言うのか。加藤は幕府の要人であるだけでなく、我が藩にとっても付き合いのある人物である。正面切って飛び込めば、切り捨てられるのが落ちである。聡明な桂介がその事を気に掛けていないはずはない。北原を捨ててまで選んだ江戸での生活、そして雪さんを救う為に自らの命と引き替えにするつもりなのか。どちらにしても、いい結果が得られはしない。鷹月も斗希月もそ
の心情を察すると、やるせない気持ちでいっぱいになった。
「探そう」
斗希月の一声に鷹月も即座に同意した。
「孝太郎、小春さんを北原の屋敷まで送ってくれ」
「あん?」
「いえ、私も・・・」
斗希月はそれ以上言わせないように振り返った。しかし、実際小春の言葉を遮ったのは鷹月であった。
「お前には、凛の側にいてやってほしい」
その一言は、瞬時に重く小春の上にのしかかって来た。そうである、今一番寂しく不安なのは凛なのだ。きっと自分が一晩いなくなってしまった事も、心配しているに違いない。小春は何も言えなくなり黙って頷いた。
「ここには来ていない・・・・。孝太郎、下屋敷の方はどうだった?」
「・・・いや、女中達に片っ端から聞いてみたけど、騒ぎがあったなんて話は聞かなかったぜ」
一体どこへ行ったのか。いつ出ていったかも分からない最中では、見当もつけられない。
「とにかく、寺へ行って見よう。うまくすれば雪さんを救い出せるかも知れないぞ」
「よし、場所はオレが分かる」
二人はすぐに寺へと向かって走り出した。二人を見送った後、早く屋敷に戻りたくなった小春は促すつもりで、孝太郎に向き直った。が、孝太郎は二人の去った方に目を向けたまま、あんぐり口を開けて突っ立っている。
「考さん?」
小春の声に孝太郎は首を回したものの、口をぱくぱくさせてしきりと指で宙を差し示す。
「あ・・・あれ、北原の殿様なのか!?斗希の旦那って北原の殿様の子供だったのか・・・・」
言いたい事は分かるが、違うと思う・・・・。思わず小春は言いたかった。
格子の外を蝶が横切って行った。緩やかな暖かさも、柔らかくゆれる新緑の草木も、雪にとっては何の慰めにもならなかった。屋敷に連れて行かれて数日が過ぎた。何もなかった訳はない。ただ、夫に対して申し訳ない事だけは、必死に避けていた。言う事を聞かない雪に対し、秀春の癇癪はますますひどくなり、家臣や侍女がいらぬとばっちりを受けている。秀春はいつもそうで、廓でも気にいらない事があるとすぐに辺り構わず怒鳴り散らすのだ。雪はほかの人が迷惑にならぬように、大人しく言う事を聞いていた。しかし、今の雪にはそんな気遣いなどする気力もない。いつでもどんな時も考えているのは、桂介の事だけである。この美しい庭の花を見ても、花見に行った時の桂介の笑顔が思い浮かぶ。あの人はどうしているだろうか、きっと自分が居なくなって、探し回っているに違いない。
雪は静かな景色を眺めながら、風の音に愛しい人の声を重ねる。
『雪・・・』
もう一度聞きたくて、雪は体を格子に寄せ、目を閉じた。
「雪!」
はっきりと近くで響く自分の名に、はっとして顔を上げる。庭の木の陰に、桂介がいた。桂介は辺りを慎重に見渡すと、雪のいる格子戸に向かって走ってきた。これは幻を見ているのかと、雪は呆然とその姿を追ったが、格子に掛けていた手に触れられ、そのぬくもりが伝わってきた瞬間、夢ではないと確信した。
「あなた!」
「雪!」
「どうして、ここが・・・」
北原の屋敷を抜け出した桂介は、迷うことなく加藤の屋敷に向かったのである。たまたま屋敷の裏門の方へたどり着き、そして偶然秀春がどこかへ向かう為に駕篭に乗るのを見つけたのである。供も少数のお忍びの様子に、桂介は直感的に何か感じ取り、その後を追うことにしたのである。そして、秀春達の目をかいくぐりながら、寺の中を探し回りここへたどり着いたのであった。
桂介は格子にしがみつく雪の手に手を重ね、無事なその顔をしっかりと見つめた。雪もそれは同じであった。しかし、久しぶりに会った夫は青白く艶のない肌で明らかに痩せていた。その病的な様子に雪は、桂介の身に何が起きたのか不安な気持ちになり、眉間を寄せる。
「あなた・・・?」
「話は後だ、早くここを出よう」
雪は一つ頷くと気力を取り戻し、急いで襖の方へ行きそっと開けてみる。人影がないのを見て取ると、部屋を出て音を立てないように廊下を進み、桂介のいる庭の方へと着実に進んで行った。
「どこへ行く!」
雪が廊下を降り、桂介の腕に触れた瞬間、別の渡り廊下を通りかかった武士に見つかってしまった。その声に、先ほど秀春とやってきた家臣達が飛び出して来た。二人はあっという間に囲まれてしまったのである。
「なんだ、騒々しい」
取り巻きの武士を従えた秀春は、突然の騒ぎに怒りぎみに声を張り上げた。しかし、男と一緒に逃げようとしている雪の姿を見つけると、真顔になり庭へ降りてきた。
「貴様が雪を血迷わせた浪人者か?・・・家中の者が始末したと聞いておったが・・・・ふん、まあよい」
秀春は二人に近づくと交互に見比べ、手にしていた刀の鞘で桂介を叩きつけた。本調子ではない桂介はその一撃で吹っ飛ぶ。そして雪の肩を掴むと、その頬を勢いよく張り飛ばした。
「ばか者めが!このような浪人者などに、このオレが劣るとでもいうのか!」
倒れそうになった雪の肩を掴んで、自分の胸に収める。身動きできない程の強い力で押さえ込まれた雪だったが、必死に抵抗し秀春から逃れようともがく。その間に桂介も他の武士に押さえられてしまった。
「雪!なぜあのような浪人がいいのだ。オレの側にいれば何でも望む物を与えるぞ。ん?」
「放してくださいませ。私はもう遊女ではありません、この身は生涯あの方に捧げる覚悟でございます。たとえ、あなたが無理に私達を引き離したとしても、私は一生あなたの言う事なんて聞かないわ!」
秀春は雪を凄みのある目で睨み付けた。いつもなら、その目を見ただけでおびえる雪であったが、この時ばかりはその目をまともに受け止め、逆に睨み返したのである。秀春は今まで見せた事のない雪の感情に圧倒された。それから、桂介の方をまじまじと見つめる。確かに見た目は落ちぶれ浪人のようであるが、皆が言うようにこの男には何か威圧的なものを感じる。秀春は標的を雪から桂介に変えた。
「その方、どこの家中の者であった?家によっては許してやってもよいぞ」
その言葉に、今度は桂介が怒りを覚えた。妻を目の前で殴られた事より、北原の家を侮辱するその物の言い方に腹を立てたのだ。
「許す?お前のような人を見下す事しか知らぬ者に、許されたいとは思わぬ!切るならさっさと切ればいいだろう」
秀春はじっと桂介を見下げた後、口端を吊り上げて笑った。
「ふん、情けをかけてやろうと思ったのが間違い、か」
そう言って脇差を抜きざま、雪の体を突き放し、下から上に向かってその体に刃を滑らせた。
「雪!」
崩れ落ちる雪を足元に見つめ、秀春は笑っていた。
「オレに逆らうからだ。そんな奴は世の中にはいらぬ。そいつも、好きなようにしてよい」
そう言って秀春は取り巻きを連れて出て行った。残された武士達は、桂介を囲んで刀を振り上げる。雪が切られた事で頭が真っ白になった桂介は、その弱りきった体のどこにあったのかという程の力を出し、押さえていた武士達を振り飛ばした。体勢を崩した武士の手から刀を奪い取り、かかってくる者達を振り払い雪の側へ来た。
「あ・・・あなた」
「雪、大丈夫、大丈夫だからな・・・」
とはいえ、桂介もすでに気力だけでは持ちこたえられない状態だ。雪を背中に庇いながら多勢とやり合うが、しだいに膝は折れ座り込んだ姿勢で追い詰められて行く。その間も雪の着物には赤い染みがどんどん広がって行く。と、気がそれた一瞬、桂介の手から刀が飛んだ。桂介は観念し、雪に庇うように覆い被さり目を閉じた。耳元で、するどく刀の交わる音がした。桂介が顔を上げると、桂介の肩すれすれの所で刀を受け止めた者がいる。
「桂介、大丈夫か!」
「若様」
鷹月は受け止めた刀を押し返し、よろけた相手に当身を食らわす。その向こうには同じように素手で襲ってくる武士達を投げ飛ばしている斗希月の姿があった。桂介自身、こんなに二人の存在に勇気付けられるとは思っても見なかった事だろう。見慣れたはずの鷹月の戦う姿に、桂介は言い様のない安心感を覚え、安堵の溜息をついた。
「桂介さん、今のうちに外へ!」
斗希月に言われ桂介は素直に頷くと、雪を抱き上げて外へと向かう。鷹月は刀の柄で相手を殴り倒し、斗希月も最後の一人を気絶させる。他に襲ってくるものがいないか確かめ、二人も桂介の後に続いて寺を後にしたのだった。
「あなた・・・・」
「しゃべるな、大丈夫だからな」
先ほどまで桂介が伏していた部屋に運ばれた雪は、桂介の帰りを待っていた凛や医師達によって大慌てで手当てを施された。その甲斐があり、雪は幾分落ち着いたように見える。しかし、医師は部屋を出て外で待っていた鷹月達を見ると、深く苦悩の溜息をついた。
「尽くせる手立てはすべて尽くしましたが・・・・。何しろ出血がひどく、これ以上施しようがございません」
予想していなかった言葉ではなかったが、それでも鷹月は辛そうに眉を寄せた。
「わずかな望みもないのか?それじゃ、桂介があまりにも可哀想だ。何とかならんのか?」
凛が鷹月の背中を触る。医師は何とも答えず、ただ首を横に振った。みんな辛いのだ、それぞれが自分の行動が後一歩及ばなかった事を後悔していた。鷹月はそれ以上医師を責めるのをやめ、部屋の中で雪にかぶさるようにしている桂介の背中を痛ましげに見つめた。
「桂介・・・」
「北原のお殿様は、どちらに?」
覗き込む桂介に向かって、雪は弱々しく微笑みそう言った。
「雪・・・?」
「私が存じなかったとでも思ってたのですか?いくら下級の家柄であったとしても、あなたのお仕えしていたお方のお顔は覚えているわ」
「しかし、お前がいなくなった時は・・・・・」
この言葉が雪に届いていたかは定かではないが、雪はなおも微笑みを浮かべると懐かしそうに目を細めた。
「いつだったか、朱鷺の方様の御用で母上とお城へ上がった事があったの、その時あなたとお二人の若君様は、菊の咲いたお庭で・・・・・・・・楽しそうだったわ」
言葉を止めてしばらく呼吸を整える。桂介は喋らないようにいさめるが、雪は構わず話を続けた。
「あの時あなた、本当に幸せそうなお顔をしていて・・・・ご自分では気づいてないでしょうが、この前お二人をお連れになって会わせてくださった時も・・・・・あなた・・・・幸せそうな顔してたのよ・・・・・」
だんだん息をするような声になって行く。桂介は雪の手を握り締めた。
「雪、頼むからやめてくれ!」
「・・・・私には・・・・・あのお二人からあなたを奪う事なんてできない・・・・・これが私の運命だったのね」
「雪・・・・」
クスクス掠れた声で笑う。桂介はその溶けて消えゆく様子をこうして見ている事しかできない自分に、無力感を覚えた。その力ない手を握り締め、喉まで込み上げる思いに桂介は何も言葉が出てくなくなった。雪は目を閉じたまま、ほとんど聞き取れない声で呟いた。
「この数ヶ月が・・・・一番幸せだった・・・・・ありがとう・・・・・・・・・・・桂介さん・・・・・・・・・・」
それっきり雪は何も言わなくなった、握りしめた手から力を抜くと、その白い手はするりと抵抗なく布団の上に落ちる。白くなってく頬に桂介の叫びと幾粒もの涙が伝った。急いで入ってきた医師が雪の脈を診るが、うなだれると静かに手を放した。凛はこの様子を直視できず、袂で顔を押さえている。入り口まで様子を見に駆け寄った鷹月も、何と声を掛けてよいか迷いながら立ち尽くしていた。
こうして、幸せの薄かった女性は、やっと掴んだ幸せに包まれて、その生涯の幕を下ろしたのである。
雪がいなくなって数日が過ぎた。雪は荼毘にふされ、桂介の手元にいる。桂介はあの日から屋敷の自分の部屋にいるが、まるで生きながらにして魂が抜けたような様子であった。一日中白い布団を眺め、うなだれている。その夜も、明かりの尽きたその部屋で、桂介は月明かりの中まるで置物のように座っていた。そっと部屋に入ってきた鷹月は、声を掛けるのも躊躇われ、黙って桂介の後ろに座り、持っていた風呂敷包みを開く。それは、いつかの四十両の金子だった。
「いつだったか、斗希月に聞いた事がある。あいつの家の裏手にある大明神の御本堂の中に恨み辛みのこもった金を納めると、大明神様が代わりに悪人達を退治してくれるそうだ・・・・・・」
桂介はまったく動こうともしなかった。何も語らぬその背中に、鷹月はなおも声を掛ける。
「いいか、桂介。相手は仮にも老中の息子だ。お前一人で太刀打ちできる相手じゃないんだぞ?」
それでも桂介は微動だにしない。
「オレも斗希月も凛も小春も、お前が雪さんの死を無駄にしないと、信じてるからな」
静かに一言一言を言い聞かせるように言い、鷹月は部屋を出て行った。それからしばらくして、桂介が動いた。部屋にはまだ鷹月の香が残っている。桂介はその香りが凛のものである事に気が付いた。ああ、あのお二人の側にいるんだな・・・。と思い、はっとした。そんな事を改めて思ったのは初めてである。そんなに懐かしく、こんなに安らぐものだったろうか。桂介は目を閉じて、自分はどうすべきなのか考え始めた。その表情は引き結ばれ、北原の家臣だった頃の勘が少しずつ取り戻されて行っているようであった。
蝋燭の明かりが一つだけ。炎は風に揺れる事もなく、その周りに何の気配もない。しかし、その薄明かりの中には、少なくとも三人の人間の陰が映し出されている。
「依頼人は栗原桂介と言う浪人の妻雪。相手は加藤秀春とその家来槌谷仁之介。置屋の女将お松」
小春はそう言いながら、台の上に小判を積んで行った。
「・・・・三十五両か、こりゃえらくはずんだな」
孝太郎がその黄金色の山を数えて、眉を吊り上げる。
「三十五両?」
暗がりの中から、聞き覚えのある声が静かに聞き返した。その問いのような響きに、孝太郎の横にいた浪人が振り返る。
「斗希殿、何か引っかかるのか?」
「五両足りないのよ」
「ん?何でお前がそんな事を知っておるのだ?」
「まぁまぁ、亜京の旦那」
どうやら自分だけ事情を知らないようである。少し不機嫌になり小春に事の次第を聞こうと口を開きかけたが、その一瞬揺れた蝋燭の明かりに浮かび上がった小春の悲しげな表情に気が付くと、言葉を口にする事ができなくなってしまった。
「まぁ、この金は小春にとっても、私にとっても辛い金なんだよ」
斗希月は立ち上がり、蝋燭の方へ寄った。そして小春を呼ぶと真正面に向かい合う。
「本当にいいんだな?」
小春も斗希月の目を見つめ、しっかりと頷いた。
「この仕事が終わったら、私は二度とこの道には戻りません」
「それからもう一つ。殺しには手出しするな、いいな?」
小さくしかし確かに頷いたのを確認すると、斗希月も納得したように頷いた。そして、台の上の小判を十四枚取る。
「おいおい、いくら斗希殿の腕が達つと言っても、そりゃ取りすぎじゃないのか?」
亜京が口を尖らせるのに、にっこり微笑むと、戸口に向かいながらこう言い放った。
「今回の仕事にはもう一人信頼できる男が加わる。半分はそいつの分さ」
斗希月の気配が消えると。今度は小春が七枚取って、別の出口から姿を消す。その後勢い良く立ち上がった孝太郎が金を取り、また違う場所から姿を消す。よっからしょと、と刀を杖代わりにして立ち上がった亜京は残った小判に手を伸ばそうとして、目を止めた。
「こら、孝太郎!お前八枚持っていったな!」
慌てて後を追いかけようとしたが、蝋燭の明かりが残っている事に気が付き、ふっと吹き消した。辺りはまた暗闇と静寂に包まれた。
斗希月がこちらに向かって来る。廊下に響く微かな足音を聞きながら、鷹月は彼の部屋でじっと座って待っていた。しばらくして、斗希月が部屋の中に入って来た。鷹月が桂介に四十両を渡したのは昨日の晩、あれからまる一日が過ぎようとしていた。鷹月がここへ来たのは、斗希月が呼んだからではない。なんとなく、殺気か何かを感じ取ったらしい。鷹月は愛用の刀を手に、屋敷を抜け出してきたのである。襖を開け一瞬足を止めた斗希月も、留守中の訪問者に別段驚いた様子もなく、静かに閉めると上座の床の間に進み、床の一部に手を掛ける。カチリという音がして、板が少し持ち上がった。斗希月はそれを引き上げ、中に手を伸ばした。それは一対の刀で、鷹月の持っている物と同じ柄と鍔だった。
「これが今でも北原と私をつなぐ唯一のものなんだ」
背筋を伸ばし、きちんと座って斗希月を見上げる。刀を手に鷹月の正面へ座った斗希月の顔には、あの穏やかな表情はなく、ますます鷹月に似ていた。斗希月は鷹月の前に七両を置くと、突っぱねるような冷たい口調で語りだした。
「最初に言っておく。前にも言った通り、この金には人の命と思いが抱えきれない程詰まっているんだ。私達はそれを背負って仕事をする。鷹月、お前にはこの重みに耐えられないかもしれないぞ」
見合う二人。静寂の中、その間には二人にしか分からない意思によるやり取りがあるかのようだ。突然鷹月が顔を緩め、挑発したような目で斗希月を見た。
「斗希月、オレを誰だと思ってるんだ?」
その言葉に斗希月も、挑発的な微笑みを返した。お互い前に置かれた小判を取る。そして立ち上がり刀を腰に差し、肩を並べると,暗闇へと姿を消して行ったのだった。
この所、秀春は泥酔と暴力に明け暮れていた。雪をこの手で殺してしまった事への罪悪感と言うよりも、あの日からみんな秀春を恐がり、側へ近づかないばかりか、姿を見せようともしなくなった事への苛立ちである。来る女といえば置屋の女将お松ぐらいなもので、下働きの者も雪の噂を聞き及んで辞めて行ってしまった。今日も屋敷の棟では、側近の槌谷仁之介とお松が酒の相手につき合わされていた。
「雪の奴もバカな女よの」
お松に勧められた酒を荒々しく口に放り込むと、すでにふわりふわりとした様子の秀春は、鼻で笑ってそう言った。
「何者かが二人を助けに入ったそうでございますが、雪の方は多分助からなかったはず。浪人者の方は心配ございますまい。前がどのような身分の者であったとしても所詮浪人は浪人。秀春様に危害が及ぶとは考えられませぬ」
槌谷の淡々とした中にも含み笑いのような響きを残す物の言い方に、この男の心情は容易に理解できる。
「でも、若殿様。雪の事本当によろしゅうございましたの?」
お銚子を傾けて、お松は甘ったるく聞く。注がれた酒をあおると秀春はまた鼻で笑い飛ばした。
「ふん、女一人にこだわった所で何になる。お松の所にも新しい女がまた入るのだろう?女は雪だけではない。まぁ、またオレの目に止まる者も出てくる事であろう」
一斉に笑い声が沸いた。とその時、廊下の方でガチャンと陶器が割れる事がした。槌谷が立ち上がり障子を勢い良く開ける。
「何奴だ!」
廊下では若い娘が必死で割れたお銚子を拾い集めている。
「申し訳ございません、すぐにまたお持ちいたします・・・」
槌谷は訝しげにその様子を見、ゆっくりと娘に近づいた。前かがみになっている娘の肩を掴んで、上を向かせる。
「貴様、話を立ち聞き致したか?」
槌谷の形相に娘は縮こまり、震えながら首を横に振った。
「何事だ?・・・・お前は確か」
若い女の声に、秀春が出てきた。娘の顔が以前庭で会った下女であると分かったらしい。
「はい、小春と申します」
「なぜこのような所におるのだ?」
「はい・・・、何でも人が足らないと言う事で、お殿様にこれを持っていくように言われたのでございます」
秀春に近づかない女中達が、何も知らない小春に仕事を押し付けたのだな、と秀春は思った。
「すぐに片付けて、新しいのをお持ちいたしますので・・・痛!」
槌谷に手を放され、小春はまた慌てて割れた破片を拾った。が、要領が悪くそそっかしい娘のやる事、破片で指を傷つけてしまい、すぐにそこから血が溢れてきた。
「これはいかんな。手当てしてやる、部屋に入れ」
「い、いえ。恐れ多く存じます!」
「よいよい。さ、参れ」
秀春は小春の肩を抱いて立たせる。そして、槌谷に向かって首を振ってニヤリと笑った。槌谷は察すると無表情で頷き、部屋へ戻る。そしてお松を呼んで、外へ出るように促した。二人とすれ違う時、小春は俯いたまま鋭く視線を送る。秀春は誰もいなくなった部屋に小春を入れ、後ろでに障子を閉めた。
「あの・・・若殿様・・・?」
怪我をした指を押さえながら、小春は不安そうに秀春を見る。そのいじらしい様子に、秀春は小春の体に手を回した。狼狽し押さえ込まれる手を逃れながら、部屋の中程に逃げる。
「お許しください、若殿様」
「どうだ、お前をオレの側へ置いてやってもよいぞ?下働きなど、お前のような女には辛かろう」
両肩を捕まれ、秀春の酒くさい息が小春の首に掛かった。
「やめてっ!」
小春は懇親の力を込めて、秀春を突き飛ばした。よろけた拍子に蝋燭が倒れる。一瞬にして辺りは漆黒の闇となったのだった。
部屋を追い出されたお松は、屋敷のどこへ行こうかふらふらと歩き回っていた。やけ酒から一転、あの娘を見るなり目つきが変わった様子から察して、早々に雪の代わりを見つけたようだ。お松としては自分の置屋の遊女ではないのが悔やまれる。いっそあの娘も秀春の怒りを買って殺されてしまえば、また遊女の方に目を向けるだろう、などと考えていた。
「お松さーん」
突然どこからか自分の名前を呼ばれ、お松はヒッと声を上げて飛び上がった。
「だ、誰だい?」
真っ青な顔で、暗い廊下を見渡す。近くの明かりの側に早足で寄っていった。
「冷めてえなぁ、いつもはもっと愛想良く迎えてくれるじゃないか」
そういう声に聞き覚えのある事がわかったお松は、幾分か落ち着きを取り戻した。しかし、誰の声だったかは思い出せない。この屋敷の馴染みの客だろうとふんだお松は、とりあえず愛想のいい声を出してみた。
「あのー、どちらにいらっしゃいますの?」
ゆっくりと襖伝いに移動してゆく。お松の後ろの襖が開いた。しかし周りにばかり気を回していたお松は、それにまったく気がついてない。
「ここさ」
人一人が抜けられる程に開いた暗闇からスッと腕が伸び、お松の首に回すと部屋の中へ引きずり込んだ。声もでないお松に、孝太郎はそっと耳打ちした。
「雪さんがなー、オレの枕元に出て来て女将さんにこれを渡すように言ったんだよ」
そう言って懐から数枚の小判を出すと、お松の目の前に差し出した。お松は雪の名に青ざめ、その小判を震える手で受け取った。
「その金を、私の元まで届けてくださいってな」
孝太郎は、お松の首に回した手に手を添えて、力任せに締め上げた。首の骨がつぶれるような鈍い音と、お松のうめき声が一瞬聞こえ、孝太郎が手を放すとそのまま崩れ落ちて行ったのだった。
詰め所へ戻ろうとした槌谷は、庭の灯篭に何か引っかかっているのを見つけ、足を止めた。ひらりひらりとはためいているものを見つめ、注意深く庭へ降りる。あたりの様子を探りながら、利き腕は刀の柄を掴んでいる。灯篭の側で少し足を止め、そのはためいている物に向かって刀を抜ざま回り込む。引っかかっていたのは手ぬぐいであった。この近くには厠があるので、その手ぬぐいが風で飛んで灯篭に引っかかったのであろう。槌谷がそう思ってふっと気を緩めた瞬間、背中に強い衝撃を感じた。うまく呼吸できず、ぎこちない動きで視線を落とすと自分の腹の辺りから刀の切っ先が見えていた。
亜京は冷ややかに睨み付けながら、刀を引き抜く。最後の力を振り絞って槌谷が刀を振り上げ亜京の方へ振り返った。亜京は引き抜いた刀の柄で、振り返った槌谷のみぞおちを突き、構えを崩した所で槌谷の肩にぴたりと置いた。
「おまけだ」
亜京はそう言って、一気に槌谷の肩から刀を引きおろした。
「おーい?小春?どこにおるのだ?」
真っ暗になった部屋の中で、秀春は手探りで小春を探していた。小春はすでに部屋からいないという事など知るはずもない。かなり機嫌のいい秀春は、廓遊びのような気分で這いずりながら手を伸ばし小春の体を探していた。と、何か人肌のような物に触れた気がしてそれを掴んだ。
「おっ?捕まえたぞ」
しゅっと音がして、ほんのり明かりがつく。秀春の前に人影が現れた、しかしそれは探していた女ではない。長い髪を肩ほどに流し、美形ではあるがまぎれもなく男だ。紫の薄絹を身に付け、その様子はこの世のものではないようであった。
「お、お前はなんだ?」
「お迎えに上がりました」
「お迎え?」
明かりを手に持ち立ち上がる斗希月。何が起こっているのは把握はできないが、身の危険を察した秀春は刀を探して後ずさる。
「あの世へお連れするようにと、雪という女より仰せつかって参ったのでございます」
斗希月は懐から小判を取り出すと、秀春の目の前に撒いた。
「何をバカな!おい、狼藉者だ!出あえ!誰もおらぬのか!」
いくら声を上げても、辺りにはむなしく自分の声が響くだけである。
「私欲の為に、人の命を弄ぶような奴はオレは許さん」
誰かにぶつかり秀春は飛びのいた。そこには鷹月が、刀を引き抜いて立っていた。
「ま、待て!オレは老中加藤晴信の嫡男であるぞ、オレが殺されればお父上の立場がなくなるんだ」
刀を振り上げた鷹月の手が戸惑った。言い訳としては勝手ではあるが、確かに理にはかなっている。晴信を良く知っている鷹月にとって、この言葉は手を止めるには十分な意味を持っていた。しかし、その時秀春が刀を探り当てていた事には気が付かなかった。秀春は転がっていた刀の柄を掴みそのまま引き抜いて、鷹月に向かって切りつける。
「痛っ・・・・!」
間合いを失った鷹月の腕を掠る。ひるんだのを見て秀春は余裕の笑みを浮かべ立ち上がろうとした。無表情で立っていた斗希月が刀を光らせたかと思った次の瞬間には、その光は秀春の背中に移っていた。
「お、おのれ・・・・雪などとふざけた・・・・事を・・・」
振り返る事もままならず、秀春は一歩二歩と鷹月の方へ歩みを進めた。
「鷹月!」
斗希月の声に鷹月は頷き、自分に向かって来る秀春の正面を袈裟に切って捨てたのであった。事切れたのを見届け、斗希月は鷹月の側に寄った。
「大丈夫か?」
「ああ、掠っただけだ。まったく情けない。お前が言った通り、オレにはこの重みに耐えられる事はできないようだ」
裂けた着物の袂に手を入れ、一枚小判を取り出してみせる。
「いや、それが普通でオレ達が特異なだけだ。みんな命の尊さを痛いほど知っている連中だからな」
ふっと笑って懐紙で刀を拭いた。その紙を秀春の顔の上に落とす。まるで儀式のように淡々とやってのける斗希月を見て鷹月は、首を振りながら言った。
「お前には負けたよ」
斗希月はただ微笑んでみせただけであった。
しばらくして、加藤秀春は不慮の事故により死んだという話が鷹月達の耳に入ってきた。いろいろな噂もあったが、事実上、事の真相は闇に葬り去られたのである。
それから桂介は鷹月の希望により屋敷へ戻っていた。しかし、公務への復帰は頑なに拒み、鷹月や家臣達が助言を求めても一向に答えようとしない。桂介の辛い心情を察すると、誰もがもう桂介が北原に戻る事はないだろうと思っていた。
参勤交代の国へ帰る日が近づいてきたある日。加藤晴信が訪ねて来る事になった。晴信は前回桂介に会えなかった事を非常に残念がっており、現在北原に桂介がいると知って、今回はぜひ桂介に会いたいと言って来たのである。無論、嫡男の死の真相は晴信は知らぬ事、幼少の頃に出会った馴染みに会っておきたいと思ったのだろう。問題は桂介の方だ。係わりはなかったとしても、晴信は仇の親である。しかし、相手は幕府の重鎮、屋敷内にいると分かっているのに桂介が顔をださないとあれば、当主の面子が丸つぶれだ。桂介もその事はよく承知し、今回だけという約束で晴信の前に北原鷹月側近として顔を出す事を承知したのだった。
鷹月は横に控える桂介の顔をちらりと見る。髷を整え、髭を剃り、羽織袴の姿は以前と変わらない毅然とした栗原桂介だ。加藤の前では立派に側近として勤め上げる事だろう。しかし、これが終わればまた桂介は自室に閉じこもり、藩へ戻る日を静かに待つ。そして戻ったら栗原の屋敷には戻らず、城下の長屋へ行ってしまうつもりなのだ。鷹月にはもうどうする事もできない筋書きである。
「済まぬな、無理を言うて」
加藤晴信が上座へ座りながら気さくに声を掛けた。家臣一同礼をして迎える。
「栗原桂介殿。久しいのう、わしを覚えておるか?」
着座するやいなや、晴信は桂介に向かって懐かしそうに問い掛けた。一瞬鷹月に緊張が走る。しかし桂介は、穏やかな笑顔で晴信を見返し受け答えをした。
「はい、加藤様。お元気そうで何よりにございます」
それから晴信は、桂介との思い出話や北原との思い出、そして参勤交代で藩へ戻る鷹月達へのねぎらいなどを話した。
「いや、今日は二人に会えて本当に良かった。実は聞き及んでいるかもしれぬが、わしの息子がある不運で死んだのだ」
鷹月は一瞬息が止まりそうになったが、悟られぬ前にお悔やみを述べた。晴信はそんな鷹月の様子に気がつかない様子で話を進める。
「わしや家臣達が甘やかしたばかりに・・・・。死におってから次から次へとあやつの悪態が知れての。特に女に関してはまったく節操がなかったようなのだ」
鷹月は頭を下げる振りをして、桂介を伺った。幾分桂介の顔から、笑みが消え膝に置いた手が固く拳を握っている。鷹月は、何とかこの話を打ち切りたかった。
「女子に入れ揚げ、夫から無理やり引き離し・・・・命を奪ったらしい。まったく、知っておったらわしがこの手で手打ちにして、その首を迷惑をかけた夫に献上し、わしもその場であい果てたものを」
「加藤様・・・・」
知っていたのだ。晴信は秀春のしでかした事をすべて知っているのだ。晴信は表情を固くし、じっと桂介を見つめた。
「今でもわしは・・・そうする覚悟はある」
二人はしばし言葉を無くした。晴信が訪ねて来たのも、桂介に会いたいと言ったのも、事の次第を桂介に謝罪し、自らが償うつもりだったからである。もうこれは自分が口を挟む問題ではなかった。そう察した鷹月はこの成り行きを桂介に任せる事にした。少しの沈黙の末、先に目線を外したのは、桂介だった。
「もし今のお言葉を・・・その夫と妻が聞きましたら、多分晴信様を許すと存じます。そしてこう申す事でしょう。・・・このような悲しい事態が二度と江戸の町で起きぬよう、ご尽力くださいますように・・・と」
晴信は震える唇をかみ締め、強く目を閉じた。そしてわずかに桂介に頭を垂れる。桂介は笑顔を作りそれに答えた。
「そうか・・・、桂介殿の言うと通り。わしは償い方を間違えておったのだな」
そう言って鷹月の方を見る。鷹月もその通りだと相槌を打ち、頷いた。
「桂介殿も、これからますます鷹月殿をささえ、また参勤交代の折りに会うのを楽しみにしておりますぞ」
「いえ、加藤様・・・・」
鷹月がそれをごまかそうと口を開いた直後である。
「は、しかと約束いたします」
鷹月はあっけに取られて桂介を見た。その時の表情は至って平然としていた。
晴信を見送った後、後ろに控えていた桂介は、鷹月の名を呼ぶ。振り返った鷹月と家臣達の前に、照れくさそうな笑顔を作った桂介がいた。
「私が再び詰め所へ出入りする事を、お許し願えるでしょうか」
「じゃあな、元気で」
「ああ、お前こそ。政平の兄上や紫の方様にもよろしくお伝えしてくれ」
門の前では、国に帰る支度を整えた家来達が、主君の来るのを待っている。鷹月と凛と斗希月は長い別れを惜しんでいた。
「おれはずっとあの家にいるから、江戸に来た折にはいつでも訪ねてきてくれ。凛さんも」
そう凛に笑いかけた後、斗希月はぐっと鷹月に寄って声を低くした。
「それからあの事は、内緒だからな?」
鷹月は答える代わりに明るく笑って見せ、斗希月の腕を叩いた。
「凛の目からこの土産を隠し通すのは大変だったがな。なんだか小春のお陰で見つからずに済んでるんだ。まぁ、全部偶然なんだが」
鷹月は小春はあの場にいた事を知らない。無論、小春が斗希月達の仲間だったという事にも気が付いてはいなかった。斗希月は苦笑いを返す他ない。
「ちょっと?二人で何こそこそしてるのよ?」
凛が口を尖らせて二人を睨む。
「お方様、どうかもうお駕籠の方へ」
丁度良く小春の困ったような声が凛に届く。凛はしぶしぶ小春声に従った。
「でもな・・・」
「ん?」
二人だけになった時、ふいに真面目な顔をする鷹月に、斗希月はどうしたのかと覗き込んだ。
「たまには、父上や北原の事も思い出してくれよ」
寂しそうに斗希月を見ていた。ひどい仕打ちを受けたが、幼少の頃の自分との思い出など、いい事もあったはずだ。鷹月自身は故郷が好きであった。だから斗希月に忘れ去ってはもらいたくはなかったのだ。斗希月は鷹月の表情からそんな事を読み取った。
「何言ってんだ。北原の事を忘れるなんて・・・。そんな事できるわけないだろう」
そう言って笑った。鷹月もほっとして微笑んだ時、突然斗希月が鷹月の背中に手を回してきた。面食らった鷹月だったが、肩越しに斗希月はこう言った。
「ありがとう。会えて本当によかった」
鷹月は初めて斗希月の本心が分かったような気がした。
「お立―ちー」
行列は静かに江戸の町を抜けていく。小春は前の方にいる桂介の背中を眺めながら歩いていた。桂介の腰には質に出した大小が収まっている。秀春が謎の死を遂げた次の日に、桂介自身が質から出してきたのだ。きっと、秀春達に天罰が下らなかった時は、自らの手で乗り込むつもりだったのであろう。
すっかり以前の調子を取り戻した桂介は、傍目にはあんな壮絶な経験をし、伏せっていた人物には見えない。その事は小春が自分の中の約束を破ってしまった事への慰めになっていた。そして、その桂介の背中に、自分の横にいる奥方に、そして主君に対してもう一度誓う。もう二度と忍びには戻らないと。と、江戸の街中の通りに出た時、小春はある建物の陰に二人の人物がいる事に気が付いた。
孝太郎と亜京である。二人は見物人を装いながら、小春だけに分かるように微笑む。孝太郎はこっそり手を振っていた。この二人とはこれが本当に最後の別れとなると思った小春は思わず涙ぐみそうになった。しかしぐっと飲み込み、何とか笑顔を向けてすばやく頭を下げる。
「しかし、なんだな。小春はもう二度と俺達の前に姿は現さんだろうな」
行列が行ってしまった後、なんだか寂しそうに呟く亜京に、孝太郎は驚いたような顔をしてみせた。
「なんだよ、もしかして旦那、小春の事好きだったの?」
「ばかを言うな!娘のような気がしていたのだ」
それでも孝太郎がにやにやして見ていると、スパッと亜京の刀が孝太郎の首に張り付いた。
「何かいいたげだな?」
「い、いや!ちょっとからかっただけだよ。冗談、冗談だよ」
慌てて笑ってするりと刃物から抜ける。二人はケンカしているというより、じゃれ合いながらその場を後にしたのだった。
行列が江戸のざわめきから抜け出した頃、行列も体勢をくずし、みんなのんびりと進み始めた。
「若様・・・」
町から抜けて一気に脱力感に襲われた鷹月は、駕籠にもたれて休んでいたが、桂介の声にまた身を起こす。
「ずっと考えていたのです。もし、あの時。私が秀春殿に身分を聞かれた時、北原の名を口にしたら、雪は死なずに済んだのですよね」
「桂介・・・・」
「武士を捨ててあいつを幸せになんて、できっこないのでしょうか。所詮身分が物を言う時代なんでしょうか」
こんな弱気な部分を見せるのは、めずらしいというよりも初めてだった。お互い表情は分からないが、鷹月には桂介が今どんな顔をしているのか、手にとるように分かる。鷹月は大きく溜息をつくと、少し声を張り上げていった。
「ばーか。雪さんはな、お前が身分を捨てた事を知った上でついて行く事に決めたんだ。ただの町人としての身分何もないお前とだぜ。もしあの時、北原の名を口にしてみろ、お前もあいつと変わらない人間になってたんだ。そんな事で雪さん喜ぶとでも思うか?」
「いえ・・・・」
「それに、身分を捨てても立派に生きてた奴がいたじゃないか。今の話斗希月が聞いていたら、お前切られてるぞ」
「はは、刀を捨てた斗希月様に切り殺されたら、それは大変ですね」
言ってしまってから、しまったと口を押さえる鷹月。駕籠の中で本当に良かったと思った。
「若様・・・すっかり立派になられましたね。もう私など必要ないのでは?」
「おいおい、まさかお前!」
「冗談です。今度は信じてください」
二人は久しぶりに心から笑い合った。こんなすがすがしい気持ちになったのは久しぶりのような気がする。本当に鷹月の元へ戻って良かった、と桂介は心から思った。これからはもう迷わない、一生をかけ鷹月の為に尽くそう・・・。駕篭の中の藩主に向かって、そっと頭を下げた時だった。
「駕籠を止めろ」
突然の命令に、家臣一同びっくりして足を止めた。
「いかがなされましたか!?」
家来が鷹月の駕籠を開けるやいなや、鷹月は外に出ると側にあった茶店にまっしぐらである。突然目の前に下りてきた殿様にびっくりして平伏す団子屋の主人に、鷹月はこう問いただした。
「団子はあるか?」
「は・・・はい、名物の草餅がございます」
それを聞いた鷹月は、にっこり微笑むと、そそくさと財布を取り出す。唖然と見守る家臣達。すると、うしろにいた凛の駕籠まで開いたのである。
「ちょっと!あなた一人で食べちゃう気じゃないでしょうね?おじさん、団子どのくらいあります?どうせならみんなで食べましょ!」
にこにこ顔の凛に鷹月は手持ちの金を見直し、大きく眉を吊り上げた。そして凛をそっと呼ぶ。いぶかしげに眉間を寄せながら凛が近づくと鷹月は財布の中を広げて見せた。
「何よ百文しかないじゃないのよ。情けない殿様ね」
「お前出してくれ」
「駕籠に乗ってて財布なんで持ってる訳ないでしょ!」
家臣達に背を向け、小声でやり合っている鷹月と凛。その側で事態を察した桂介が深くため息をついた。そして茶店の主人に近づくと、自分の財布から二朱程取り出す。
「これで、全員分足りますか?」
「は、はい!ただ今お持ちいたします」
ばつの悪そうな顔で、鷹月と凛が桂介を見ている。桂介は無表情でそれを受け取ったが、ちょっと肩をすくめて見せたあと、いつものあの穏やかな笑顔を覗かせたのだった。
最初に吹き出したのは小春である。そしてだんだん家臣達にも笑顔が広がって行く。と言うよりも笑うしかないだろう。一年の参勤交代で、この型破りな主君の実態がわかったが、それでも家臣たちには自慢の殿と奥方様に変わりはなかった。
こうして鷹月の初めての参勤交代は終わった訳だが、地方出の彼らには江戸の風は強すぎたようである。その風に命のロウソクが吹いては揺れ、吹いては揺れ、そして消えてしまったのが雪だったのかもしれない。桂介という部屋の中で消えてしまったロウソクは、いつまでも部屋の隅に残り、なくなる事はないのだろうな、と鷹月は思った。
鷹月は、自国のある南の方を眺めると、すべてを吐き出すように、すべてを飲み込むように、大きく深呼吸をしたのだった。